第5話 エデンの大河を越えよう
「やれやれ。あの娘にも困ったものです」
壁一面が真っ白に染まった巨大な研究室内で,一つの声が響く。
巨大な液晶パネルが室内の一角で鎮座し,細かな情報が表示されている。
それはアルカに関するプログラムであり,彼女の状況を逐一表示するものだった。
そして,その情報を読み取る男が一人。
白衣に身を包み,これまた真っ白な仮面で素顔を覆い隠している。
肌の一切を見せていないが,しわがれた声からは,相当な老齢であることが想像できる。
彼の名はカーゴカルト。
天空の外科医と呼ばれ,ペンタゴンを治める最高統治者だった。
「カーゴカルト様! 急ぎ報告したいことが!」
彼が見守っていた画面から中継が入り,部下の声が届く。
「聞きましょう」
「研究所から逃亡した旧人ですが,地底まで追い詰めた所,新たな旧人を率いて攻勢に回りました! 現在,討伐隊と交戦中です!」
「新たな旧人? 地底に潜んでいたということですか?」
「なんでも,突然地中から現れた古代人とのことで……!」
「ほう,正体は分かりますか?」
「情報によると,塵灰の炎と名乗る男のようです! 我々の身体を焼き飛ばす程に,強烈な炎を操るとか……!」
「塵灰の炎,ですか」
人間を殺しかねない炎を操るイドリースの出現。
部下の声は恐れを抱くように震えていたが,カーゴカルトの様子には一切変化がなかった。
冷静に状況を判断し,新たな指示を与えていく。
「エデンの者達を混乱させないよう,その情報は伏せておきましょう。恐らく彼女達の目的は逃走。下手に手出しをしなければ,危害を加えてくることはありません」
「しかし,侵入を許せば神聖な地が……!」
「汚染物質は消毒すればいいだけです。先に皆の避難を優先するべきでしょう。不老不死となったこの身,最近は命を顧みない無茶な人々が多いですからね。下手に火を付けない方が良い」
「そ,そうですか……」
「ですから,決して深追いはしないように。勝てないと分かれば,直ぐに逃げてください。貴方達はペンタゴンの大切な住人なのですから」
「はっ! 至急,皆に伝えます!」
回線が切断され,元の静寂が訪れる。
アルカの信号を示す心電図から視線を外し,カーゴカルトは真っ白な天井を見上げた。
「塵灰の炎……やはり,こうなりましたか」
意味深な彼の声は研究室内に反響し,徐々に消えていった。
●
洞窟の出口には,待機していた部隊の人間が待ち構えていた。
先程の戦闘音はここまで届いていたらしく,変装したイドリースが単独で対応する。
「さっきの地鳴りは何だ?」
「……脱走した旧人と交戦したんですが,チェインがやり過ぎまして」
「また,アイツか……。能力はあるのに,あの性格は何とかならないものか……」
「結果的に全員が生き埋めになりまして……旧人の生死確認と共に,新たに人手が必要かと」
「なら,俺達で行こう。お前はこの先の大河で穢れを落としてくると良い。それと念のため,研究所に通じている外界の出入り口を監視するよう,他の隊員に伝えておいてくれ」
目元を隠しながら適当に話を合わせ,どうにか切り抜けられたらしい。
イドリース自身に角がないことも幸いして,待機していた人間達は洞窟の中へと潜っていく。
誰も居なくなったことを確認した彼が肩の荷を下ろすと,空間を裂くように銀色の世界が現れ,そこからアルカが顔を出した。
「こっちは何とかやり過ごしたよ」
「す,すみません。あっちの世界にいる間は,こちらで何が起きているのか分からなくて」
「その位は問題ないよ。その力のお蔭で,アイツらをやり過ごせた」
二人は予め,合流する大よその時間を決めていた。
出口に待ち伏せがいることは想定済みだったので,アルカの体力を極力奪わない程度の時間で決着をつけるつもりだった。
差し出されたイドリースの手を取ったアルカが,こちらの世界へ着地する。
短時間ながら,力を使ったことで彼女の息が上がっている。
やはり安易に使えるものではないと,彼は再度理解するのだった。
洞窟を抜けた先,二人の目に飛び込んできたのは眩しい程の日光だった。
晴れた青空と何処までも続く緑の草原,2~3m程ある樹木が所々に並び,広大な平原を思わせる。
家屋らしき建造物は一切見当たらない。
自然だけで生み出された場に,角を持たない人の姿がある。
彼らは不老不死を得た人間なのだろう。
何処かに向かって歩いている者や,腰を下ろし草原で横たわる者が見られる。
「ここが人間の楽園,か。全然屋内には見えないな」
「私も良くは分からないんですが,天井に空の絵を映し出していると,聞いたことがあります」
「空の絵? ということは,あの空もあの日の光も作り物ってことか?」
「多分,ですけど」
「マジか……。未来の技術は,ここまで発達しているんだな……」
イドリースは再度天を見上げたが,日光の温かさも確かに感じ,絵のようには見えない。
千年経った未来の技術は,かつての常識とはかけ離れているようだ。
沸き上がる好奇心を抑えながら,彼はアルカと共に人工の平原を歩き出す。
何処からともなく吹いて来るそよ風を受け,人間達の中を闊歩する。
討伐隊の服で変装しているため,コソコソと動いていては逆に怪しまれる。
寧ろ堂々と歩くことで,二人は周囲の視線をやり過ごしていた。
そしてその途中,ペンタゴンの住人が語る噂話が微かに耳に入って来た。
「逃げ出した旧人,どうなったのかしら?」
「今頃捕まっている筈よ。それにしても,嫌な話よねぇ。他者の肉や草木を摂取しないと生きられないなんて」
「私達と見た目は同じなのに,なんて脆弱で矮小な生き物なのかしら……」
さも当然のように話す内容が常軌を逸していることは,彼以外には分からない。
旧人に対する異様な偏見に,アルカが俯きながら帽子を深く被り直した。
「やっぱり,私がおかしいんでしょうか」
「それはないよ」
「えっ」
「皆,自分の価値観でモノを見ているだけだ。それに流される必要なんてない。アルカは俺の知る,れっきとした人間だ」
「私が,人間?」
「あぁ。だから,気にしても仕方ないさ」
血の通った者が穢れた存在だとは思わない。
自分の考えを大切にし,人間として進み続けるだけだ。
アルカを励ましつつ,イドリースは出口への道のりを探り出す。
「それにしても,研究所は何処にあるんだろう? さっきの連中の話を聞く限り,その何処かに外に通じる出口があるらしいんだ」
「そうなんですか?」
「うん。多分,アルカが閉じ込められていた場所のことを言っているんだろうけど」
「あそこに出口があったんですね……」
「来た道を戻ることになるんだけど,場所は分かる?」
「ええと……それなら,あの大河を超えた先にあります」
アルカが正面の光景を指差す。
その先には,横切るように何処までも続く大きな川があった。
ゆっくりと動く,青く澄み渡る水の色は,千年前の英雄から見ても非常に美しく感じられる。
「あれか。随分大きな川だな」
「エデンの河と呼ばれているみたいです。特に変わりもない普通の川ですけど,向こう岸に行くには,どうしてもここを通らないといけないんです」
「つまり,アルカも通ったってこと?」
「力を使って,裏側から通り抜けました……」
「成程」
「それで,なんですけど……。ここは同じように,私の力を使いませんか……?」
「ん? 今は変装しているんだし,このまま向こう岸に渡る舟に乗れば良いんじゃないか?」
「それが……あの河は……」
彼女は何やら恥ずかしそうに口ごもる。
何か厄介なことでもあるのかと,イドリースは不思議そうに思ったが,その答えは大河に近づくことで直ぐに気付くことになった。
大河の底はそこまで深くなく,近づくと人間達が水浴びをしている光景が見えてくる。
彼らにも水で身体を洗い流す観念はあるようで,数はまばらだが,男女ともに分け隔てなくその身を浸している。
それだけを聞くなら,特に何の問題はないように思えた。
服の類を一切着ていない,という点を除けば。
「こ,これは一体……」
「ここは,人間の人達が穢れを落とす場所なんです。皆,この河で汚れた身体を清める。だから,は……裸で入らないといけないんです……」
「まさかとは思うけど,男女の区分けは」
「ない……です……」
「混浴川かよ……。ここの奴らには,羞恥心ってものがないのか……?」
見る限り人間である彼らが,特にそういった類の感情を抱いているようには見えない。
こうして身体を清めること自体が当然のことなので,羞恥する余地がないのだ。
異性がいようと,裸体を晒すことに何の抵抗もない場所。
アルカがわざわざ能力を使用したのも,これが原因だろう。
二人は互いの顔を見合わせ,双方の意見を確認し合う。
「さ,流石にこのまま入るのは,色々な抵抗があるな……」
「そ,そうですよね!? だから……!」
「あなた達,そこで何をしているの?」
しかし,二人に向かって近づいて来る者が現れる。
エデンの大河で見張りをしている人間の女性のようで,ここの住人に間違いない。
他の者と違い,しっかりと服も着ている。
特にイドリース達の正体を怪しむ様子はないが,代わりに川に入ることを躊躇している点に疑問を感じているようだ。
「見た所,カーゴカルト様に報告をしに行くんでしょう? 早く服を脱いで,身体の穢れを落としなさい」
「いや……しかし……」
「私達の時間は無限だけれど,それで何もかもをゆっくりしていてはいけないの。ほら,服を入れるカゴも渡しておくから」
無理矢理木製のカゴを二つだけ渡される二人。
返す訳にもいかず,どうしたものかと立ち竦む。
カゴを渡した女性は,早く脱げと言わんばかりに遠目から監視している。
今ここで引き返したり,アルカの能力を使ったりすれば,どう足掻いでも怪しまれてしまう。
最早,選択肢は残されていないようだった。
「ここは,腹をくくるしかないのか……」
「ふぇぇ」
「だ,大丈夫だアルカ。角は髪を結んで隠せば,何とかなるはず」
「角だけじゃないですよ……! こんなの,色々と見えちゃいます……!」
「落ち着こう……落ち着くんだ……。ここの連中は,他人の裸を何とも思っていない。俺達が互いに意識しなければ,この窮地,切り抜けられる……!」
数多の戦場を駆けたイドリースにとって,この程度の修羅場で屈したりはしない。
鋼にも足る意志の強さで,僅かな可能性を掴み取るだけだ。
アルカには荷が重いが,真摯な対応を心掛け,どうにか説得を試みる。
「俺がリードする。アルカはついてくるだけでいいから」
「その言い方……いやらしいです……」
「そ,そんなつもりじゃ……ごめん……」
「分かりました……。分かりましたから,川を渡り終えるまではこっちを見ないで下さいね……?」
「その誓い,命に代えても果たそう」
彼女も顔を赤く染めながら,川の中を進む意思を固めた。
互いに背中を合わせ,視線を交わさないままに川越えの準備を整える。
脱いだ服をカゴの中に放り込み,意を決したイドリースは,エデンの大河に足を進めた。
冷水の冷たい感覚が,つま先からせり上がって来る。
何の変哲もない水なのは確かなようで,身体を清めると言っても特殊な液体が流れているわけではないようだ。
身体を洗い流す人間達が,誰も不思議がっていないことを確認し,そのまま川を渡り始める。
自分の衣服を入れたカゴを浮かばせ,共に持っていく。
しかし手を後ろに引かれ,彼は振り返らずに尋ねた。
「なんで俺の手を掴むんだ……?」
「前が,見えないので……」
「そ,そう……。とりあえずゆっくり進むから,そのままついてきて」
「はいぃ」
アルカは川の水を肩まで浸からせて身体を隠し,両目を瞑りながら彼の片手を掴んでいた。
これが今出来る,羞恥心への精一杯の抵抗なのだ。
イドリースも動じることなくその手を引き,誘導する。
互いの気を紛らわせるためにも,少しだけ彼女の生い立ちに触れていく。
「そういえば,アルカはいつからペンタゴンに拉致されたんだ?」
「ずっと,です」
「ずっと?」
「はい。目が覚めた時から,ずっと研究所の白い部屋に閉じ込められていました。それまで私が何処にいたのか,記憶がないんです。なので,外の世界のことも実は何も知らないんです」
「そうだったのか」
「時折運ばれてくる食事以外は,カーゴカルトという人がやって来るだけで……。その人も,別に酷いことはしませんでしたけど,何を話しかけても無関心で……。私のような旧人が差別されている以外の肝心なことは,何も話してくれませんでした」
「カーゴカルト……。わざわざそいつが,君を閉じ込めていた理由が分からないな。何か目的があるのか」
「分かりません。ただ逃げ出した以上,私は命を狙われるだけです……」
アルカの握っていた手が少しだけ震える。
羞恥の感情ではない,恐れからくる動揺だった。
生まれ故郷すら分からず,ただ旧人として差別され続けた彼女の心境は計り知れない。
その変化を理解したイドリースは,彼女の手をゆっくりと握り返した。
「大丈夫。俺は国一つ守り切った英雄だったんだ。アルカの命も,必ず守ってみせる」
「本当,ですか?」
「任せてくれ。人一人の命も守れないで,英雄を名乗っていたつもりはないからね」
「……イドさんは,本当の英雄だったんですね」
「ん? どういうこと?」
「いえ,なんでもありま……」
その言葉に安堵し,アルカが微かに笑ったその時だった。
川の底にあった小さな窪みに足を取られ,彼女が体勢を崩す。
崩した影響でイドリースの腕にも負荷がかかったが,振り返ることもなく手を握り続け,冷静に対処する。
彼女も直ぐに腕にしがみ付いたことで踏み止まり,大事には至らなかった。
ただその直後,イドリースは非常に気まずい感情に襲われる。
腕に伝わる柔らかい感触。
裸のアルカが彼の腕に抱き付いたことで,どうなったかは言うまでもない。
既に彼女は目を見開き,身体を硬直させたまま,耳の先まで赤く染まっていた。
「待ってくれ……! 俺は何も見てない……!」
「あ……あうぅ……」
「ゆっくりだ。ゆっくりと身体を離そう……!」
感情が追い付かず今度は恥ずかしさに震えるアルカを,どうにか誘導し,腕から身体を離させる。
返答はなく,生暖かい水の感触だけが残った。
それから抗いようもなく空気が死んだので,何も話せないまま川を渡り,対岸へ上陸する。
水を拭うための手ぬぐいがカゴの中にあり,イドリースはそれを直ぐにアルカに手渡した。
即行で着替えを終わらせ,改めてその安否を確認する。
彼女も既に着替えは終わっていたが,代わりに手ぬぐいを顔に埋めていた。
「角も触られて……身体にも触れて……全部,知られちゃいました……」
「う……」
「でも,それでもいいです」
「アルカ……?」
「私の命は,イドさんに預けました。それは,私の身体を預けているのと同じ。だから,大丈夫なんですっ」
彼女にも何か心境の変化があったのだろう。
布を顔から離し,確かな気持ちを伝える。
それを聞いた彼は目を丸くした後,真剣な表情でそれに答えた。
「責任は取る。絶対に」
「!?」
「異性にそこまで言われたら黙ってられない。アルカは俺が外の世界に連れ出す。仲間達も開放して,それから故郷を探して,今よりもずっと楽しいことを見つけていこう」
「……それって,もしかして口説いてるんですか?」
「……そう見えた?」
「教えませんっ」
アルカは少しだけ朗らかな笑顔を見せた。
イドリースもそれを蒸し返すつもりはなく,今の言葉を必ず叶えるよう心に刻む。
こうして紆余曲折の中,二人はエデンの河を渡り終え,その先の研究所を目指すのだった。