第13話 過去の疑惑
ものの十分も経たずに,海の向こうから舞い散る水泡が見え始める。
霧のように一帯を覆うそれは,大瀑布による水飛沫だった。
アウグスが言っていた通り,上層を流れる海水が,下層の海へと音を立てて流れ落ちていく。
本来ならば絶景とも言える場所。
そこに,反転外壁エリコがあった。
断崖絶壁である大滝の岩肌を外壁に造り変え,その内部を巨大な地下都市としている。
反転外壁とは,天に向かって伸ばす筈の大壁を,大瀑布の下へと伸ばした反転的な意味だったのだ。
上層の海から見えるのは,エリコに繋がる,ヘリポートのような輸送船用の離着陸場と周囲を監視する小さな管理棟があるだけ。
単純な構造故に,侵入経路はあの場所以外に存在しない。
機動要塞ゲインで待機していたイドリースは,漂う水飛沫の向こうにエリコを視認する。
だが辺りの様子を見て,彼は気付く。
「……?」
何も変化がない。
聞こえるのは海の音ばかり。
一見すれば,何の問題もないようにすら見える。
だが既にエリコとの距離は1㎞程度しかない。
そこが一番の違和感だった。
「これだけ大きな要塞なんだ。この距離で,気付かれない筈がない」
外に向けた拡声器を使っているのだろう。
内部で操作するイオフィの声が,彼の元にまで聞こえてくる。
『どうかされましたか?』
「向こう側に全く反応がないんだ。迎撃の一つや二つ,必ず来ると思っていたんだが……」
真っ先に攻撃されると予測していた中,未だにエリコからの反応がない。
輸送船や飛行物体といったものも,一切見られない。
完全に沈黙,あるいはこちらの存在に気付いていないようだった。
しかし,そんなことはあり得ない。
巨大な要塞の接近に気付かない程,人間達が油断している筈がない。
イドリースは今一度自分が乗る要塞を見下ろす。
機動要塞ゲインは,本来は人間の手で造られたモノ。
下級種族に要塞は動かせない。
動かせるのはその知識に詳しい人間だけ。
テウルギア戦で逃げ遅れた一部の人間が,助けを求めて要塞を操作していると誤解している可能性もある。
『確かに,エリコは既に目と鼻の先。これだけ接近しても気付かれない,というのは不自然ですね』
それとも自分達を誘っているのか。
何か策があって,要塞の接近を許している。
考えられることは幾らでもあった。
視線を鋭くするイドリースに,イオフィが再度問い掛ける。
『引き返しますか?』
「いや,このまま行く。一旦,俺が乗り込んで状況を確認する」
何も状況が分からない中で,態勢を立て直す意味はない。
内部を把握するためにも,イドリースは管理棟へ突撃する意思を固めた。
イオフィにはゲインを間近に接近させるよう言いつつ,纏わせていた黒い灰を一層濃く展開する。
そして数秒も経たないうちに,そのままゲインから跳躍する。
塵灰を全身に包み黒い塊となった彼は,管理棟へと真っ直ぐに飛来した。
一切の迎撃を受けず,鋼鉄で構成された棟の壁を一瞬の内に焼き切り,内部へと侵入する。
やはり何かがおかしい。
イドリースは纏っていた灰を飛散させ,室内の光景を目に収める。
そして,そこにあったモノを見て疑念は更に深まった。
「何だ,これは……? 気を失っている……?」
侵入した室内は,所謂監視室だったのだろう。
様々な液晶パネルが並び,周囲の状況を事細かに計測している。
どれも壊れているようには見えない。
ただ,そこにいた監視員たちが問題だった。
彼らは一切動いていなかった。
気を失っているのか,ぼうっとしているのか。
全員が心ここにあらず,と言った様子で立ち尽くしている。
侵入してきたイドリースの存在にも気付いていないようだった。
彼は警戒しながらも,一人の男の肩を揺さぶった。
「おい,アンタ! 大丈夫か!?」
「う……うーん……? ハッ……!?」
暫くして,その男は我を取り戻したように動き出した。
意図して放心していた訳ではないらしい。
「い,いけねぇ。何か急に意識が遠くなったと思ったら……おい,お前達! しっかりしろ!」
起こされた男が,周りの人間にも声を掛けていく。
糸が切れたように,皆が一斉に目覚めだす。
「あれ? いつの間に気を失って?」
「馬鹿言え,俺達は不老不死だぞ。旧人みたく,意識なんて飛ばねぇよ」
割と気楽な雰囲気すら漂う。
彼らはイドリースの事を放置して,各々配置に戻り始める。
「ったく何てことだ! いつイドリースがやって来るかも分からないのに,全員が全員ぼうっとしてるなんて,たるみ過ぎだぞ!」
「あの……もし……」
「お前達! レーダーから目を離すなよ! 奴らが来たら直ぐに迎撃する!」
「了解! 塵灰の炎だが何だか知らないが,ここには一歩も踏み入らせないぜ!」
完全に置いて行かれたイドリースは,後ろ首を掻く。
一体どう説明したものか。
張り切り始めた彼らに,おずおずと話しかける。
「あのさ……」
「何だ? って言うか,お前誰だ? 見慣れない格好をしているが,新入りか?」
「いや……何て言えば良いのか……」
何度か首を捻った挙句,何も良い案は思い当たらなかった。
どう答えても,同じ結果しか見えてこない。
彼は乾いた笑いを浮かべつつ,片手を軽く挙げた。
「俺がその,イドリースなんだけど」
「そうかそうか……遠路遥々どうも……」
一瞬の内に,周囲が静まり返る。
まさに思考が停止した,というに相応しい状況。
次の瞬間,周りの人々が一斉に目を見開いた。
「はあああああ!?」
その驚きようは,こちらも同じなのだが。
思いながらも口に出さないイドリース。
直後,周囲のレーダーを見ていた一人の男が,座っていた椅子から転げ落ちる。
「うわあああああ!」
「どうした!?」
「ゲインが……! 目の前まで迫ってます……!」
「馬鹿なァ!? あれは放棄された筈だろ!? いつの間にこんなに近くにィ!?」
やはりイドリースだけでなく,接近していたゲインにすら気付いていなかったようだ。
彼らにとっては急に敵と要塞が現れたように見えているらしい。
色々と対策をしていたようだが,唐突過ぎる事態に皆が慌てふためく。
「ちょっ……! どうするんだ,これえ!?」
「どうするもこうするもねェ! 一旦退くぞォ!」
「こんなの……ダブラ様にどう報告するんだよォ……!」
最強と呼ばれる英雄に勝てる筈もない。
皆が脱兎の如く,監視室から逃亡する。
一瞬反撃してくるかと思ったが,その心配も皆無だった。
部屋の中がもぬけの殻となり,一人取り残されたイドリースは,参ったと言わんばかりに腕を組んだ。
「いや……本当に,どうなってるんだ……?」
訳が分からない。
何故彼らは気を失っていたのか。
逃亡する人間を追うことなく,イドリースは辺りを警戒し続けた。
だが,元凶となるものは何も見つからない。
そもそも人間は魂だけの存在。
気絶するということも,本来はあり得ない筈なのだ。
室内を探っていた彼だったが,不意に壁に貼られたクリアファイルらしきものが目に入る。
一枚の大きな紙が意味ありげに差し込まれていたので,手に取って広げてみる。
細かな図が書かれたそれは,エリコの内部を記載した見取り図だった。
「これは,エリコの地図じゃないか」
侵入時に聞いていたエモの話と照らし合わせると,10年以上前の話とは言え,割と一致していた。
旧人の囚われているルートや,足を踏み入れるべきでない危険な場所など。
大よその所は合っている。
彼女の情報に疑う点はなかった,ということだ。
そこまで結論付けると,地図に紛れていたのか一つの紙束が床に落ちる。
思わずそれを拾い上げると,見慣れない表の数々が目に飛び込んでくる。
「何だ? 旧人の輸送記録……?」
エリコ内に隔離されている旧人の貸出。
表に記載されていたのは,そんな記録だった。
名前ではなく各々に割り当てられた番号,当時の状態や性別,そして年齢などが事細かに記されている。
「アウグスの仲間達がいることは間違いないみたいだな。でも,一体何処に輸送されて……」
エリコ以外にも旧人が運ばれている場所があるのか。
新たな情報を手に入れるため,輸送先を見ようとした瞬間だった。
何者かがこの部屋に近づいて来る。
脱兎の如く逃げ去った監視員たちの逃げ道から,静かな足音が迫る。
イドリースは咄嗟に目を離し,暗く染まった出入り口で待ち構えた。
近づく足音に,微かな金属音が入り混じる。
現れたのは虚弱そうな長身青年だった。
旅人のコートを羽織り,錆びた首輪を嵌められた妙な格好をしている。
その青年は目を合わせるよりも先に,感服した声を出す。
「いやぁ,まさかこんな事になっているなんて,思わなかったよ」
青年は拍手をしかねない雰囲気だった。
警戒するイドリースの元へと歩み寄り,一定の距離を保ったところで立ち止まる。
「流石,最強の英雄と呼ばれるに相応しい大胆さだね。ゲインを鹵獲して,自分のものにしてしまうなんて」
「君は一体……?」
「おっと,これは失礼。ボクの名前はダブララサ。気軽にダブラ,と呼んでほしいかな」
そこで彼は自らが十傑であることを明かす。
第九席,僅かなるダブララサ。
エリコを管轄する男が,誰よりも早く駆け付ける。
件の人物が真っ先に現れたことに,イドリースは意外さを覚えた。
「まさか,いきなり十傑が現れるなんてな」
「あらら,ボクのことを知っていたんだね。何だか嬉しいよ」
「そっちこそ,俺の事に詳しいみたいだな」
「かつての有名人を調べるのは,礼儀として当然のことだよ。余計な犠牲も出したくないからね。さてと……先ずは始めに聞いておきたいことがあるんだ」
少なくとも全く話を聞かない雰囲気ではない。
交渉も出来るだろうかと思ったが,直後にダブラは意味深な視線を向けた。
「君は一体,何をしたんだ?」
「……何だって?」
「事情は理解したよ。ゲインと一緒に,急に目の前に現れたんだってね。そんな芸当が出来る人は限られているけれど……塵灰の炎には,そんな力も隠されていたのかな?」
先程の人間から事情を知ったらしい。
だが,当のイドリースは彼らには何もしていない。
奪ったゲインを用いて,エリコまでやって来ただけ。
相手を殺すつもりは一切なく,意識を刈り取るような真似もしていない。
「俺は何もしていない。俺が来た頃には,全員が気を失っていたんだ」
「……気を失っていた?」
ダブラも不思議そうに考え込む。
互いが互いに,この場で起きたことを把握し切れていないようだった。
だがダブラには一つ心当たりがあったようだ。
何度か頷いて納得する。
「成程,ね。どうやら君達も,一枚岩じゃないようだ」
「何……?」
「じゃあ,話を元に戻そうか。イドリース,千年前の英雄。君は何をしに此処に来たんだい?」
イドリースは警戒を怠らないまま,目の前の十傑と相対する。
この男は自分を試している。
招かれざる客がやって来たことを理解しながら,迎え入れる様な態度すら感じる。
囮とはいえ,慎重に出方を伺った方が良い。
「ここに囚われている仲間の解放。それと,交渉をしに来た」
「交渉?」
「あぁ。俺達は,此処にいる人々を殺しに来たわけじゃない。俺達が求めるのは彼らの自由,一定以上の生存権なんだ」
「……テウルギアを倒して得た答えがそれかい?」
「そう。貴方なら出来る筈だ。人間の王,エリヤに話を通すことも」
「まぁ,確かに出来ないことはないよ。ボクは最弱の十傑だけれど,彼とはそれなりの交流がある」
エモが言っていた通り,ダブラはエリヤと強い繋がりがあるようだ。
王の次に意味を成す,鶴の一声。
他の十傑に対しても,否応なしに従わせる力があるのかもしれない。
故にダブラの肯定さえ得られれば,二種族の確執解消に向けて大きく前進する。
「でも,そう簡単には頷けないな」
だが,最弱の十傑は首を振った。
分かってはいたが,簡単にはいかない。
イドリースは視線を鋭くし,再度尋ねる。
「人間にとって,彼らは既に脅威でもない。それなのに,何故ここまでのことをするんだ……?」
「それはボク達が不老不死だからさ」
自らの身体を指し示しながら,彼は続ける。
「君達のように限りある命があるなら,子孫を生み次の代に思いを託す。長い年月をかけて,その思いも忘れていくだろうね。でも,ボクら人間にはそれがない。当時の惨劇を知る人は,ずっとその思いを抱えて生きているんだ。カーゴカルトや,テウルギアのように」
「……」
「十傑が何のために存在しているのか,君は知っているかい? 十傑はね。あの惨劇から人類を救った者に与えられる称号なんだ。旧人の脅威を退けた英雄中の英雄。言わばボク達の存在が,旧人に対する絶対的な悪意なんだ」
十傑の存在意義。
それは単純な称号ではない。
キューレやカーゴカルトがそうだったように,人類が存続するまでに大きく貢献した者達。
栄光の裏には必ず影が潜む。
彼らがいるからこそ,人間は900年前の惨劇を忘れず,忌み嫌い続けるのだ。
「と,ここまで言ったけど,残念ながらボクはその世代を直視した人間じゃない。だから,旧人に対して劣悪な感情はないんだけどね」
「それでも,変わる気はないってことか? こんなことに意味がないと分かっていても,永遠に永久に,恨み続けるのか?」
イドリースにはそれが不毛に思えて仕方がなかった。
エリヤの手によって,ある程度の意志を制御されていることは知っている。
全ての元凶はそこにあるのかもしれない。
「王の意志……皆その影響を受けているだけ。俺にはそう思えて仕方ない」
「……君は何処でその事実を知ったんだい?」
直後,ダブラは少しだけ態度を変えた。
何故,お前がそれを知っている。
そう言わんばかりの問いだった。
穏やかだった場の空気に,痺れるような感覚が舞い込む。
「キューレ……カーゴカルトが死に際に残した言葉だ」
偽る意味もない。
彼が反逆を試みるに至った理由の一つを明かす。
すると鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたダブラが,一転して大きく笑い出した。
「ハハハ,そういうことか! 全く,あの人は本当に面白いことをしてくれた!」
「何だと?」
「彼が気付いていたとなると,恐らくテウルギアも知っていただろうね。いやはや,あの件は絶対秘匿の案件だと言うのに」
「まさか……他の人間達は知らないのか……!? 王の意志を……!」
イドリースは驚きを隠せなかった。
キューレが死の間際に告げたそれは,言い換えれば隠蔽された真実。
ゲイン戦でチェインが王の意志を何一つ知らなかったことに,少しだけ疑問を抱いていたが,その理由が氷解する。
「そこまで知っているなら,余計な問答は不要だね。一つ,こちらからも問いを投げ掛けても良いかな?」
次に彼は尋ねた。
笑いを抑えるように白い歯を見せ,得体の知れなさも拭えない。
微かに挑発しているようにすら感じられる。
「君は千年前に封印された。最強の英雄として,手が付けられない危険人物として,現世から永久に追放された。それを前提として考えてほしい」
過去の事を掘り返すつもりなのだろう。
ダブラはイドリースが封印された経緯を知っている。
その上で,疑念を撒く。
遠回しな言い方に,イドリースも更なる予感を抱いた。
「その後に起きた900年前の惨劇,君は不思議だと思わなかったかい?」
「!」
「やっぱり,ね。君ほどの人物なら,君ほどの英雄なら,過去の惨劇を知って絶対にこう思った筈だ」
息を呑むイドリースに,ダブラが告げる。
それは前々から思っていながら,目を逸らしていた一つの事実。
待ち受ける一つの末路。
「どうして,自分をその時に解放しなかったのか。その理由を教えてあげよう」
900年前にイドリースが解放されなかった訳。
ある種の転機が,訪れようとしていた。




