第1話 二人だけの徒歩旅行
一面に広がる,膝下まで生い茂る草の群れ。
頭上を覆うが如く,所狭しに伸びる木々。
その隙間から差し込む木漏れ日が,二人の進む先を照らす。
深い森の中に位置する場所を,イドリースとアルカの二人は進み続けていた。
今,彼らを追う者は一人もいない。
ペンタゴン最上層の混乱に乗じて,行方を暗ませることに成功していた。
新たな地へと踏み出した二人が始めに見たのは,砂礫と森の続く広大な大地だった。
不老不死を宿す人間はおろか,人工的な手が加えられた形跡もない。
今まで出会って来た人間の生活は,ペンタゴン内部で完結していたのだろう。
木を隠すなら森の中と言わんばかりに,二人は追手から逃れる。
自然の植物とはいえ,不用意な接触は避け,未踏の地へと侵入した。
そうして数日が経ち,今に至る。
イドリースは小柄なアルカを背負う形で,森を順調に進んでいく。
ほぼ休む間もなく歩いているというのに,苦にしている様子はなく,足取りは非常に軽い。
「あの……」
「ん?」
「やっぱり,疲れないです?」
「なあに,元英雄にかかればこの位は何ともない。それにこれだけ動けるのは,アルカのお蔭なんだ」
柔らかい土の感触を踏みしめ,イドリースは彼女の助力に感謝する。
ペンタゴン脱出以降,人が使える真っ当な設備はない。
自然のみが存在する場で,十分な水がなければ生き延びることは困難だった。
しかし研究所を抜け出す際,アルカは己の能力を用いて,エデンの大河を流れる水を裏世界へと多量に収納していた。
炎で蒸留し二人で飲み合っても,数週間は持ちそうな程のもの。
背負われてばかりで負担になることを危惧するアルカだが,彼女は十分にイドリースの手助けをしていた。
「というか下がスカートなんだから,そのまま歩いたら,植物が肌に当たって気触れるかも。そっちの方が大変だ」
「うぅ,そうでした……」
「というか,今更だけど何故にスカート? キューレが用意したものとは考え辛いんだけど」
「ええと。まだ研究所にいた頃,一度だけ女性用の服の山を押し付けられたんです」
「あ,そこで自分で決めたってヤツか」
「はい。物凄い量だったんで適当に選んだんですけど,それからは同じ服ばかり来るようになって……。こうなるなら,もっと考えておくべきでした……」
「いや,見た目は良いんだけどなぁ」
イドリースは背負うアルカを見返しながら,小さく唸る。
殆ど知識はないながらも,ファッションセンスなるものがあったのだろう。
儚げな銀髪によく似合った衣装を着こなしている。
彼的には目の保養になるが,森を歩くとなると話は別だ。
躓いて怪我でもすれば,それこそ一大事になってしまう。
「まぁ,気にしても仕方ない。このまま,俺におぶられてくれ」
「……すみません」
「うーん,謝るんじゃなくて?」
「あ,ありがとう? ございます?」
「それでよし。少し前向きな方が,俺も嬉しい」
別に気兼ねする必要などない。
妙に謝りがちな癖を指摘すると,彼女は少し身を乗り出した。
「嬉しい,ですか? 本当に?」
「個人的な感想だけど,心開いてくれてる感じはするかな」
「わ,分かりました。そう言ってくれるなら,私,もう少し頑張ってみますねっ」
好意的な言葉を掛けられたことが,心地良かったらしい。
背負われながらも意気込むアルカを見て,イドリースは頷く。
奥手な彼女も,ペンタゴン戦では己の気持ちと向き合いキューレと戦った。
紛れもない自身の強い意志が成し得たものだ。
生みの親であるキューレから託された以上,それを無碍にしてはならなかった。
それなりに静かで穏やかな雰囲気の中,彼らは森を進む。
緑一色,周囲に生息しているのは,見覚えのあるものばかりでなく,全く意味の分からない生態の植物も存在する。
迂闊に近づいては,どうなるか分かったものではない。
幸い,毒への耐性はイドリースに心得があった。
彼の炎は望んだもの全てに反応し,その部分のみを焼き尽くす。
それを応用し,人体に影響する毒物を検知・除去することも可能だった。
これは過去,毒殺を狙う暗殺者に対抗するために編み出した荒業。
結果,今も何度か炎が反応し得体の知れない植物を滅していたため,確かな効果はあった。
「本当に,他にも人がいるんでしょうか?」
「ペンタゴンには,時々人が拉致されてた。ってことは,アルカと同じ角のある人らが,何処かに隠れているかも」
イドリースの進行に迷いはない。
二人は人間から逃れるためだけに,森の中を彷徨っていたのではなかった。
その真意は,同種旧人の居場所を探ることにある。
ペンタゴンでは秘匿されながらも,旧人達が保管されていた。
拉致という回りくどい方法を取っていたこともあり,人間達の手で奴隷のように管理されている訳ではないようだ。
恐らく人目につかない場所で隠れ住んでいるに違いない。
当然旧人達がいる場所など,イドリース達には分からない。
ただ人間の目から逃れているなら,身を隠しやすい森が最適だろう。
「ん,この音はもしかして……」
すると彼は先の方向から新たな音を聞き取る。
水の流れる涼やかな気配。
一つの光明のようなものを感じ,彼は早足で草木をかき分ける。
視界を塞いでいた葉の群れを越えると,急に辺りが大きく開き,巨大な渓谷が目に飛び込んで来た。
苔の生えた大岩が無数に佇み,薄い青緑色に輝く川が,それらを掻い潜るように横断している。
二人がこの世界で初めて見た,自然から生まれた水辺だった。
「これって,川ですよね?」
「あぁ,どうにかここまで来たみたいだ」
「なんだか,エデンの河よりも綺麗に見えます……」
「確かに。人工的なものと,そうでないものの違いなのかもな」
外に出ることが生まれて初めてなアルカは,静かな音を立てる渓谷に目を奪われる。
例え閉ざされた世界であっても,自然の美しさだけは変わらないようだ。
イドリースは彼女を背負ったまま,岸辺へと足を動かす。
彼らの目的は,先ず川を見つけることだった。
川は生物にとって,切っても切り離せない利便性がある。
生活を担う基盤にもなりえ,そこから人々の住まいが広がっていくこともある。
旧人達が隠れ住んでいるなら,近辺にその痕跡が残っているかもしれない。
アルカを岸辺に降ろし,イドリースは川に向かって炎を放つ。
水を蒸発させるつもりはない。
彼が放った炎は,有害物のみを消し飛ばす浄化の灯。
水中に炎を漂わせるという,通常はあり得ないことを起きているが,彼からすれば良くあること。
炎に反応はなく,軽く水を触れても妙な異変は感じない。
人が入っても問題がない,純正の川であることは分かった。
「反応なし,か。良かった。とりあえずここで一息つこう」
川の発見で生存可能な環境がある程度整ったこともあり,イドリースはようやくその場で立ち止まる。
小休止である。
アルカは好奇心に押され,素足を川の中へと向ける。
つま先が水面に触れると,小さく声を上げた。
「ひゃ……」
「思ったより冷たかった?」
「はい。ちょっとビックリしましたぁ」
「ふむふむ。でも,汗を流すには丁度良さそうだなぁ」
日差しはごく普通だが,ペンタゴン脱出からは雨が一切降っていない。
彼は一瞬だけ考え,首元に手を触れる。
「いっその事,ここで軽い水浴びでもするかな」
「!!??」
「え,驚きすぎじゃないか……?」
「そ,そそ,それって服を脱ぐってことですよね!?」
「あ……いや,別に一緒にどうとかするつもりはなくて」
エデンの大河でのいざこざを思い出したのだろう。
頬を赤く染めるアルカに,何とか訂正を試みる。
イドリースが手中から生み出したのは,薄い直方体型の新たな炎だった。
人一人は隠す位の大きさのもの。
ただし炎の出力を可能な限り抑えた,全く熱さを感じない灰の塊と言ってもいい。
「こんな感じで囲いは立ててみる」
「炎の仕切り?」
「別に何も燃やさない,見掛け倒しの壁さ。でも,互いの視界を塞ぐくらいは出来る」
「熱くない炎って,炎なんです……?」
「ま,気にしない気にしない。それとさっきは言葉選びが悪かったよ。俺に無理矢理見る趣味はないから」
「別に私は……」
「ん?」
「いえっ,何でもないですっ」
何やらもごもごと口を動かすアルカ。
そんな彼女を誘導しつつ,川から岸辺に掛けて大きく炎を広げる。
これで水浴びや着替える所を覗いてしまう心配はない。
彼女も汗を洗い流すことは賛成のようで,背中を押されながらも自発的に動き始める。
身体を拭く布についても,エデンの大河で頂いたタオルが残っている。
何かあったら声を掛けるようにと言い,イドリースは岸辺付近で腰を下ろした。
「さてと,どうしたもんかな」
暫く身体を休め,今後の食料を考えることにする。
摂取する食べ物に関しては,当然現地調達だった。
森が生きているということは,そこには生物も存在する。
ここ数日,二人は獣を狩ってはうまい具合に食をつないでいた。
元々貧民街出身のイドリースは,小動物を狩って食べることを幾度となく繰り返してきた。
熟練ではないにしろ,ある程度の成果は上げられるくらいの腕はある。
川の魚を獲るか,もう一度山に潜って獣を狩るか。
交互に視線を動かしながら迷っていると,その間,岸辺の奥に妙なものがあることに気付く。
傍まで近寄ってみると,そこには黒ずんだ大穴があった。
「これは……」
その穴は,人がすっぽり入る程度の深さと広さがある。
地中の土が露出し,辺りには小石が散らばっている。
衝撃で周りが吹き飛んだように見え,他に似たような穴はない。
人為的なものを感じ,イドリースは少しだけその正体を考察する。
「まるで,何かが空から落ちてきたような……」
「イドさーん,終わりましたー」
割と時間が経っていたのか,身体を洗うのが早かったのか。
快活なアルカの声が届き,彼はその場で思考を中断した。
「ん,ちょっと待った。どうせなら,服も軽く洗っておいてくれ」
「え,でも乾かすのに時間かからないですか?」
「そんなのは俺の炎で一瞬だ。皺なしに仕上げてあげよう」
自信ありげにイドリースが答えると,彼女は感嘆する。
彼の炎は燃やすことしかできないが,余計な水滴を燃やす,蒸発させることが可能だ。
その延長で,瞬間乾燥させることも出来なくはない。
「そんなことも出来るなんて,凄い便利です」
「燃やすだけじゃなくて,乾かすのも俺の専売特許なもんで」
「もしかして,こういうことって何回も経験があったんですか?」
「自分の服を乾かすってのは,よくやったかな。戦いばっかりだったあの時は,濡れたものをまともに乾かせる場所は少なかったから」
「なるほどぉ」
「時代が時代なら,英雄じゃなくて洗濯屋になってたかもなぁ」
「ふふ。じゃあ,お言葉に甘えて,イドさんの手腕に任せちゃいますね」
笑う彼女の態度は,幾分軟化していた。
まるで友を失ったイドリースを励ましているようにも感じられた。
彼は少しだけ目を細め,今まで木々に遮られていた空を見上げる。
太陽の光は千年前と一切変わらない。
空の色も常に雲が無数に漂っているが,暗澹とした空気が覆うことはない。
確かに人影はなく繁栄という名は完全に失われているが,希望を失った世界には今の所は見えなかった。
「キューレ……お前はこの世界で,何を見たんだ?」
何か隠された真実があるのだろう。
正体不明の大穴を前に,イドリースは乾燥用の炎を用意するのだった。




