その一
それは夏の暑い一日のことだった。
セミの鳴き声がひっきりなしに鳴り響く午後、松原美紀はいつものように、一人パソコンに向かっていた。
まるでパソコンを睨みつけているかのように、食い入るように画面に表示されたグラフを見ていた。
エアコンの風が美紀の体を通り抜ける。
外の猛暑とは裏腹に、美紀の部屋は快適な空間であった。
グラフが刻一刻と変化する。
その度に美紀は一喜一憂する羽目になるのだ。
美紀が見ているグラフは、株価の変動を現したグラフだ。
美紀は所謂デイトレーダーで、毎日部屋に籠って株の売り買いをするのが仕事だった。
儲かるときは、一日で何十万となるが、反対に損をするときも一日で何十万となる。
それでも年間を通してみてみると、デイトレーダーとしてそれなりの利益は出ていた。
しかし、それだけでは十分な報酬とはならないため、株取引が終了した夕方から、デイトレーディングとは別のアルバイトに勤しんでいた。
この日も株取引が終了間近の、そんな時だった。
取引終了を知らせるベルが鳴り響くと、美紀は座ったまま大きく背伸びをした。
「あーあ、今日もマイナスかあ」
背伸びと共に、ため息にも似た言葉を一緒に吐き出す。
この二、三日は損をしてばかりだった。
これでは気分も最低だ。
美紀はゆっくり立ち上がると、冷蔵庫の方へ行き、中から冷たい麦茶を取り出し、コップに一杯注いで一気に飲んだ。
株取引が終わると必ず行う、儀式のようなものだ。
冷たい一杯の麦茶が、火照った頭を急速に冷やしてくれる気がするからだ。
麦茶を飲み干した後、アルバイトに向かう準備をし始める。
今のアルバイトをし始めて既に半年が過ぎた。
どの仕事もあまり長続きしない美紀にしてみれば、半年も続いたアルバイトはとても珍しかった。
地味なTシャツにグレーのパンツをはき、黒縁のめがねをかけて、白い帽子をかぶる。
街中では全く目立たない服装だ。
着替えが終わると、美紀は部屋を後にした。
そして、部屋を出てからおよそ三十分後、美紀がやって来たのは、『塚本探偵事務所』と書かれた扉の前だった。
美紀はノックもせずにその扉を開けて中に入った。
「お疲れ様です」
美紀が大きな声で部屋に入る。
部屋の中には男性が一人、ソファーに横になって寝ていた。
美紀はその男性の耳元に近づき、再度大きな声で言った。
「お疲れ様です!」
すると、男性がびっくりして飛び起きた。
男性は寝ぼけ眼できょろきょろと辺りを見渡した。
すぐに美紀に気がつくと、欠伸が出そうな声で美紀に言った。
「美紀君じゃないか。もうそんな時間か」
「塚本さん、また昼寝していたんですか。もう少しちゃんと仕事してくださいよ」
「仕事があれば、昼寝なんてしてないよ。仕事がないから、しかたなく寝ていたのさ」
男性が、さも理論ずくめと言った調子で答えた。
この男性は塚本秀雄。
一応、職業は探偵だ。
美紀は、塚本のアシスタント探偵として、毎日夕方から夜までこの事務所でアルバイトをしている。
アシスタントと言っても、実際の尾行や情報収集なども行っていて、最近ではどちらがアシスタントか、わからなくなってきた。
やり方はアルバイト初日に秀雄に教えてもらったのだが、今では、美紀の方が尾行は上手くなっている。
美紀が、机の上の書類を片付けながら言った。
「そんなことだから、依頼が来ないんですよ。もっと営業して依頼を取って来てください」
「そうはいってもねえ」
秀雄が面倒くさそうに答えた。
こう見えて、秀雄はなかなかの名探偵である。
とくに遺失物や捜索人にかけては、その能力を発揮する。
だからこそ探偵で食べていけるのであった。
「あら、新しい依頼が来たんですね」
「そうそう、昼間に来客があってね。夫の浮気を調べて欲しんだそうだ。美紀君にお願いしようと思って、そこに置いておいたんだよ」
「たまには、御自分で行ったらどうです?」
「いやいや、こういう依頼は美紀君の方が上手いからね」
上手いと言われて悪い気がしない美紀は、依頼内容の資料を手にとって読み始めた。
内容は、ありきたりの浮気調査だった。
確かにこの手の依頼は、秀雄より美紀の方が得意としている。
「わかりました。じゃあ早速調査に行ってきます」
「気を付けて行ってらっしゃい」
そういうと秀雄は、またソファーに横になっていた。
美紀は溜息を吐きながら、事務所を後にした。