幸せを捕獲せよ
重みが麻痺してきた頃、やっと俺の肩に頭を預けていた小谷が目を覚ました。
おはようと笑いかけるが、彼女は瞬きもろくにしないで俺の顔をまじまじと見つめるだけだった。
ここは文芸部室である。とっくに部活は終了して他の部員は帰っていたが、小谷が俺にもたれて寝ているので起きるまで待っていたのだ。
「どうしたの?」
小谷の寝起きが悪いことは重々承知していたので、あまり気にせずに訊ねてみる。
質問には答えずに小谷は自分の右頬を抓った。大きな目に涙が滲んでいく。
「先輩に嫌われる夢を見ました」
「……えっと?」
「河野先輩は、私のこと嫌いですか?」
俺は咄嗟に首を横に振る。
「嫌いじゃない」
居心地が悪くってソファーから立ち上がろうとするが、彼女は俺の手を取って引き留めた。目があう。小谷のこんな真剣な顔を、初めて見た。
「じゃあ、好きって言って下さい」
「…………言わなくても、知ってるでしょ」
恥ずかしくって言えなかった。俺なんかが言うのは、いけない様な気さえする。
小谷はそっと目を逸らして、笑顔を作った。
「冗談ですよ、からかってみただけです」
「悪趣味な」
「たまには良いでしょう?」
「君はいつもでしょ」
ため息混じりに言う。内心ほっとしていた。だってさっきの小谷は怖かったから、にこにこしている彼女に安心する。
小谷の語調は妙に弾んでいた。
「まぁまぁ。先輩、今日も好きですよー」
「どういう話の流れ……?」
「いやー、幸せだなって」
俺は首を捻る。今の話のどこに幸せを感じられる部分があったのだろうか。
彼女は腰を上げて、部室の窓を閉め始めた。どうやら帰る気になったらしい。窓の外は曇っていて、どこか現実味が無く感じた。小谷はやけに緩慢に窓を閉めながら言う。
「話しかけたら答えてくれたり、寄り添ったら受け止めてくれたり、それで幸せなんです。先輩が――私の好きな人が、私を嫌わないでくれる事だけで幸せなんです」
背を向けられていて、今彼女がどんな顔をしているのか俺には分からない。
気付くと呟いていた。
「うらやましいなあ」
彼女はくるりと振り返る。
「幸せは、捕獲するものですよ。頑張って捕まえて下さい。……私は先輩に幸せになって欲しいんです。先輩の幸せは、私の幸せです」
何も、言い返せなかった。
俺は黙ったまま、カーテンを閉めるのを手伝う事にした。
ガラスの向こうの空の暗さは、心までも暗くする。
ふといつだったか曇り空一つで憂鬱になる俺に、小谷が言っていた言葉を思い出した。
たしか、「口角を上げて下さい」だ。
言葉通りに口角を引き上げてみる。カーテンが閉まりきる寸前にもう一度みた曇り空は、さっきより綺麗に見えた気がした。
「ああっ!」
唐突に、小谷が叫んだ。どうかしたか聞くと、彼女は困った顔をする。
「忘れてました、今日用事があったんです! 先輩、先に帰って下さい。鍵は閉めときます。起きるの待っててくれたのにすみません」
至極申し訳なさそうに、それでいて有無を言わせない口調に俺は思わず頷いた。
薄暗い廊下を歩く足取りは、重たくなっていく一方だ。
考えれば考えるほど小谷の様子は可笑しかった。
それは一体どこがだろう?
冗談が多いのも、歯が浮くような台詞をなんでもないように言うのも、少しわがままなのも、いつものこと。
はっとして立ち止まった。
――そうだ、わがままだ。
どうして気が付けなかったのだろう。彼女のわがままは、いつだって俺のためだったのに。
優柔不断な俺の代わりに何かを決めたり、素直じゃない俺の為に代わりにわがままを言ってくれていたのに。
その小谷が今日は自分の為にわがままを言ったんだ。
「好きって言って下さい」と。
俺は来た道を戻って、廊下を駆けた。
もし自惚れだったとしても、小谷が本当に俺の一言で幸せになってくれるなら、今やるべき事はただ一つ。
勢いに任せて案の定まだ開いたままの部室のドアを開ける。やっぱり用事なんてなかったんだ。
しゃがみ込んで膝に顔を埋める小谷が、そこに居た。
小谷は目許を擦って立ち上がる。一瞬だけ俺に視線を送ったと思うと、直ぐにそっぽを向かれた。小さく小谷が鼻を啜る音がした。小谷だって、泣くんだ。当たり前なのに、今知った。
「どうしたんですか」
「捕獲しに来た」
「……なにをですか」
「幸せ」
零れんばかりに目を見開いて、小谷は俺を凝視する。
彼女が「俺の幸せは自分の幸せ」だと言うのならば、俺だって「小谷の幸せは俺の幸せ」だ。
俺は大きく息を吸って、真っ直ぐ小谷を見返した。
「好きだ」