王都にて―一日目夜―
――ギギィィィィィ
その日、マルゴルは宿の悲鳴というものを生まれて初めて聞いた。
その男がやってきたのは日も暮れ始めた矢先のことだった。スウィングドアを開け放ち、酒場を兼ねた一階に姿を現した途端、盛り上がっていた客の男達が静まり返った。
一体何を食って育てばそんな身体になるのか。男がその凄まじいまでの巨躯を前に進める度、建物の床が軋みをあげる。
所々穴のあいた草臥れた外套を羽織っており、不思議な光沢の箱と異様な形状の槍を携えている。そして、男の後ろから戸口を潜って入ってきた四人を見たマルゴルは目を見張った。
――エルフだ。
男が一人に女が三人。エルフの年齢は外見と一致しないが、ちょっとした仕草や態度からわかる者にはわかる。長年宿屋を経営し、たくさんの人間を目にしてきたマルゴルはその経験から四人ともまだ若いと見て取った。
エルフに気付いた客達がどよめいた。
卓についていた客の誰もがその一行を目で追う。そんな中を、男は堂々と、エルフ達は表情を硬くして歩いた。
「い、いらっしゃい。……泊まりでいいのか?」
マルゴルは目の前まで来た男に、カウンター越しに声を掛けた。いつもの髭の生えた仏頂面に精一杯の愛想笑いを浮かべる。
「うむ。――ここは《良心と慈悲の刃》亭で間違いないな?」
「そ、そうですが……」
「一泊いくらだ?」
「二人部屋なら共通貨幣で銀貨一枚。四人部屋は二枚だ。人数分の食事が夜だけサービスでつく――つきます」
「……ふむ」
小首を傾げる男。左肩に載せた箱を無造作に脇に置いた。
そのドスンという響きに、
(――やめてくれ! 宿を壊す気かっ!?)
と、床ではなくマルゴルが悲鳴をあげそうになるが、とてもではないが口に出すことは憚られた。
酔客の相手をしなければいけない都合上、腕力にはそれなりの自信のあるマルゴルだが、目の前の男に力で勝てるとは到底思えない。下手に暴れられたら比喩ではなく宿が崩壊するだろう。
「ターシャ、金を出せ」
男がエルフにそう云うと、金髪の長い髪の女性エルフが進み出てくる。手に持っていた袋からさらに小さな袋を取り出すと男に手渡した。
こんな場合だというのに、マルゴルは一瞬目を奪われた。遠目からなら見たことはあるが、これほどの間近で目にするのは初めてだ。成程狙われるわけである。エルフの美貌というのは人間の女の美しさとはまた違ったものがある。これが種族による特性なら、エルフが人間の毒牙から解放される時はこないだろう。
ジャラリ、という貨幣を掴む音に我に返ったマルゴルは、カウンターに置かれた二枚の銀貨を訝しげに見た。人数分よりも少ない。
理由を訊ねようと顔を上げる。銀貨の入っていた袋に血がついているのに気付いた。
マジマジと置かれた銀貨を観察する。そして恐る恐る頭上にある男に顔を戻す。
無機質な光沢を放つ仮面がマルゴルの視線を弾き返した。
「え、ええと……。これはいったい……」
「四人部屋を一つだ」
「えっ……。それだと食事も四人になりますが……」
「それでいい。とりあえず一泊だ。待ち人がくるまでは延長するからそのつもりでいろ」
「ちょっとアンタ! 男のくせに私達と――」
何か叫ぼうとしたエルフの口を、髪の長さ以外はそっくりな顔つきのもう一人が押さえ込んだ。
「――むぐむぐっ!?」
「……少し黙る。一緒じゃないと夜中誰かが侵入した時対処できない」
――成程。マルゴルは理解した。自分の宿の安全がないと明言されたも同然だが、四人のエルフ達を前にしては納得するしかない。例え金を払って警備を雇っても、それを知ってなお襲おうとする輩は必ずいる筈だ。
同時にこれは、この宿で面倒事が起きる可能性を示唆している。そのことに思い至り青くなる。
断るべきだ――マルゴルはそう思った。この客はまさに疫病神だ。下手をしたら明日の朝日を拝めなくなるだろう。
「すまんが部屋がいっぱ――」
「――どうしたの、お父さん?」
給仕をしていた娘――タリア――が様子を気にして近づいてくる。
「ねえ、いい加減早くしてくれないかしら? 私はすご~く疲れてるのよ」
先程叫び声をあげようとしたエルフの少女が、タリアにそう云った。
間近でその美貌を目にし、硬直するタリア。
「ちょっと! 聞いてるの!? 四人部屋に案内してよ。空いてるんでしょ?」
「――ハッ。 え、ええ。空いてると思います。ちょっと待っててくださいね」
そう云うと前掛けを外し、二階へと上がっていく。
マルゴルは呆然とそれを見送った。
「二階へどうぞ~」
しばらくして、階段の上からタリアの声が降ってくる。
エルフ達はそれを耳にするや、ぞろぞろと上へ上がっていった。
巨躯の男も、
「――あ、ああ。あ……」
と、口をパクパクとさせるも何も云えないマルゴルを一瞥すると、箱を拾い上げ遅れて後に続く。
「お、おい。いいのかよ、あんな奴上にあげて……」
「……え?」
近くの卓に座っていた男が心配そうな声を掛けた。意味がわからないマルゴル。
「いや……。床が抜けるんじゃないのか……?」
「あああっ!」
――脱兎の如く後を追うマルゴルの耳に、階段のあげる凄まじい悲鳴が聞こえてきた。
「やれやれだな」
シドはそう云って案内された部屋にそっと腰を下ろした。
ここまで来るのにも神経を使う必要があった。幸い床は抜けなかったが、激しい挙動を行えばその限りではないだろう。自重がここまで枷になるとは思ってもみなかったというのが本音である。
「いったいどんだけ重いのよアンタ」
サラの言葉に肩を竦める。
エルフ四人はそれぞれ寝台に腰掛け、楽な態勢になっている。森からここまでずっと歩き通しだったのだ。きちんとした場所で眠れるのは久しぶりなのだろう。皆の表情にそれが表れている。
「……遣いが来るまでここでずっと待つの?」
「いや……そうだな。ターシャ、昼間人間から奪った金で武器が買えるか?」
「いえ、宿に泊まる分には問題ありませんが、武器を買うには心許ないです。なまくらなら買うこともできるでしょうが……」
「弓と杖を買うにはいくら必要だ?」
「えええーーーっ! 杖買ってくれるのっ!?」
「……サラ、ちょっと黙る」
「――むぐぅっ!」
下でやった事と同じ遣り取りをする姉妹。ターシャはそれに苦笑しながら、
「奪った金額は銀貨換算で五十枚ちょっとです。それなりの武器なら一つ買えるか買えないか、といった金額ですね。その程度の弓なら私やレントゥスが森に入って即席で造った弓のほうがマシだと思います。杖にしても、安い魔導石のついた物なら買えるかもしれませんが、その場合も大して数を込めることはできませんので、結局殆どの魔法はミラやサラが最初から詠唱することになるでしょう」
「詠唱にかかる時間は?」
「アンタそんな事も――むぐぐぅっ!」
「誰もが知っている共通の魔法でも五~六秒はかかります。その人が造った独自魔法なら戦闘時に詠唱することは死を意味するくらいだと思って貰えればいいかと」
「そいつは厳しいな」
ミラやサラが魔法を使うとすればシドがいない時に襲われた場合だろう。その状況下で五秒以上ロスするというのは致命的である。
「最低限戦闘に耐える杖というのはどれくらいの魔法を短縮できるんだ?」
ターシャではなくミラに訊ねる。
「……だいたい五つ位込められれば何とかなると思う」
「――ぷはぁっ! 私は……そうね、三十くらい込められる杖を所望するわ」
「……サラ」
「(……こいつは)」
『話の流れからして、絶対嘘ですよねこれ……』
イヤな沈黙が流れた。
「――な、なによ、ちょっとした冗談じゃない。……私もお姉ちゃんと同じのでいいわよ……。というか私達の杖を捨てたんだから同じの弁償しなさいよね……」
ブツブツと文句を垂れ流すサラを無視してターシャに訊ねる。
「それで、その使用に耐えうる杖と弓を二つずつ揃えるのにいくらくらいかかるんだ?」
「そ、そうですね……たぶん金貨十五枚……いえ、余裕を持って二十枚、といったところでしょうか。私もあまり人間の世界の物価に詳しいわけではないので……」
「銀貨に換算すると二千枚か……」
『何故わざわざ銀貨に直すんです?』
「(………)」
『ピンとこないならそう云えばいいのに……』
「(……黙れ)」
金貨二十枚というのがどれだけ大金なのかピンとこないシドではあるが、稼ぐのが大変そうだということはわかる。何しろ銀貨二枚で宿に四人が食事付きで泊まれるのだ。稼げないとは思わないが、そうするとシドが率先して動かねばならなくなり、エルフ達に付きっきりになるのは難しくなるだろう。エルフの身を守る為の武器を買うために、エルフの身を危険に晒すのは本末転倒である。
「どうにかして金を手に入れる必要があるな……」
床に直接胡座をかき、顎に手を当てて呟く。そんなシドに、
「奪っちゃえばいいじゃない」
サラが助け舟を出した。
「金を奪うには荒事に首を突っ込む必要がある。さすがに四方八方から攻められてはお前達の安全は保証できんぞ」
「違うわよ。何もお金を奪う必要なんてないって云ってるの。最初から武器を奪っちゃうの」
「……どこの誰から奪うつもりだ?」
「そんなの決まってんじゃない。武器屋からよ!」
私ってアッタマいい、とサラ。
『何を云ってるんでしょうか、この娘』
「(さあな。とうとう頭がイカれたのかもしれん)」
シドだけでなくエルフ達も生暖かい目でサラを見ている。武器屋なんぞを襲った日には、この国の兵士と正面切って殺り合う羽目になりかねない。ミアータに釘を刺されたこともある。そのような真似は慎むべきだ。
こうなると、道中で殺した老人の杖を回収しなかったのが悔やまれる。ここまで高価だと知っていればコンテナに入れて持ってきていただろうに。
捕虜であるエルフの為にそこまですることはない――とは思わなかった。金というのは所詮交換の為の道具でしかなく、それに対する執着はシドにはない。金は手段であって目的ではないのだ。そして、従いてくるエルフとオーガに対し負う責務は既に決めたことである。
現在は手元に先立つものがないが、金というのはある所にはあるものだ。もし、エルフが本当に金持ち達の垂涎の的ならば何もしなくても向こうから接触してくるだろう。仮に、もし何もしてこなかったとしてもそれはそれで問題が起こらないということであり、何事もなくこの都市を出て伯爵領に出発できる。
「――金の問題については追々どうにかなるだろう。まずは一階に下りて食事を取ってこい」
「よっし! それなら任しといて!! この宿の食材を空にしてやるわ!!」
サラが勢いよく立ち上がる。
『サービスでついてる食事だから量が決まってるって考えないんでしょうかね……?』
「(……放っておけ。期待するだけなら本人の自由だ)」
シドは食事を取る必要がない。――ないが、道中でかなりのダメージを外皮が負い、その再生にエネルギーを使っただろう。エルフ達がいない間に外皮用のレーションでも摂取しておこうとコンテナの鍵に手を伸ばす。
その肩を、ミラが摘んだ。
「……こないの?」
「俺は食事は必要ない。お前達も保護者が必要な年齢ではあるまい」
「……襲われたら?」
「――む」
言葉に詰まる。確かに用心するに越したことはない。
コンテナに伸ばした手を引っ込め、やれやれと立ち上がる。
床が悲鳴をあげた。
「……そっと動く」
そう云い残し、下に向かうミラ。
シドは目の前でひょこひょこ動く頭頂部の旋毛を見下ろしながら後をついて行く。その光景に、
『子犬の面倒を見る親犬みたいです』
――ドリスの台詞が胸に痛いシドだった。
「――それで?」
濁声でそう云い放ち、ヴェガス=ヨークトは鑢を動かしていた手を止めた。磨いたばかりの爪が獣脂に灯った光を反射して鈍くギラついている。
それを顔の前まで持っていくと、舐め回すように眺め、ふっと息を吹き掛けた。
ヴェガスの前にいる男が、その仕草にビクリと身体を動かす。
「――で、ですので、エルフを見かけたという構成員は恐らく襲撃をかけたのだと思われ、また、誰も戻ってきていないことから……」
「――それで?」
ヴェガスは同じ言葉で先を促した。
黒檀の机を指先でコツコツと叩く。鋭い爪があげる硬質な響きだけが室内を満たした。
「あ――、あの、恐らく皆、殺されたのではないか――と」
「――それで?」
「――へ? い、いえ、……その、それだけです……」
小さくなる男。それなりに年を重ねた肌がジットリと汗に濡れる。
コツコツという叩く音が、ガリガリという削る音に変わった。
ヴェガスがのそりと立ち上がると、小さくなっていた男が慌てて、
「――さ、幸い奴等は目立ちます。人を使って居場所を探させていますので、わ、わかり次第報告に――ヒッ」
部下である男は、目の前に聳え立った巨体に息を呑んだ。
ヴェガスは剛毛の生えた腕を伸ばす。怯える男の頬に爪を当てた。
一筋の赤い線が頬を伝っていく。
「――よかったな、既に行動を起こしていて」
云いながら、爪を下に持っていく。
「あ……あ……」
頬が薄く切り裂かれても男は身動ぎ一つできない。脂汗が吹き出した。
「見つけ出したらすぐに来い」
爪を離し背を向けるヴェガスに男は安堵の息を吐く。
ヴェガスは見た目からでは想像もできない程柔らかい椅子に座り直す。深く沈み込み、背もたれに体重を預けた。
「――行け」
「――ハ、ハッ」
顎をしゃくり部下である男を部屋から追い出す。そうして、
「……サマル、どう思う?」
部屋の片隅で黙したままだった男に声を掛けた。
暗がりから男が一歩進み出る。後ろに撫でつけた黒髪に、狐のような細い眼差し。顔にかけた眼鏡がキラリと光る。白いシャツに黒いズボンを履き、執事のような外見である。
「不自然ですねぇ」
サマルと呼ばれた痩せた長身の男は、口元を歪めてそう答えた。
「そう思うか。縄張りで俺に逆らう奴がまだいたとは……」
「知らないのでしょう。聞けば、ヴィダレイン伯爵と一緒に王都へ来たようですし」
「そんなものは理由にならん!」
ヴェガスは机に拳を叩きつけた。サマルがそれを見て眉を顰める。
「また机が壊れますよ、そんなことしてると」
「机などどうでもいい! 壊れたらまた持ってこさせろ!!」
ヴェガスが唸ると、喉からグルグルという音が漏れる。
「糞ったれのエルフ共めが。俺の面子を潰したツケは支払ってもらうぞ」
「……果たしてエルフだけでしょうかね」
「……どういう意味だ?」
「いえ、さっき云った言葉の続きですよ。エルフだけでこんなことをやるのは余りにも不自然に過ぎる。後ろで誰かが糸を引いていると考えるべきでしょう」
「他の組織の仕業だと云いたいのか、貴様は。そいつは明らかな協定違反だぞ」
「まだ決まったわけではありませんよ。可能性の話です」
「……どちらにせよ、エルフの身柄はこちらで回収する。例え裏に誰がいようと、な」
そう云うと、ヴェガスの唇が捲れ上がった。
「まずは俺自らがエルフ共に躾を叩き込んでやろう」
サマルはその、唇から覗く牙を見ながら、これから騒がしくなるだろう街を思い嘆息した。