ミルバニアにて―王子誘拐事件・中―
「うう……いでぇよぉ……いでぇ……」
――男が泣いている。
血溜まりの上で、まるでそれしかできない子供のように見栄や外聞もなく、ただ感情のままに泣いている。
痛みの発生源がどうなっているのか確かめる勇気さえ持てず、致命傷を受けた獣がどうしようもない状況に吠えることしかできないのと同じように、ただ泣き続けている。
ミラの魔法で事なきを得た姉妹とドリスが屋根の上で目にしたものは、蹲って呻き声を漏らすキリイの姿であった。
暗いので正確なところはわからないが、立とうとしていないことからだいぶ酷い状態なのが予測できる。
「ね、ねえ。あんた大丈夫なの……?」
三人は顔を見合わせ、代表するかのようにサラが問う。誰も助け起こそうとはしない。ドリスは知らねど、少なくとも姉妹にはどうなったか知るのが怖いという思いがあった。
「ぼれのうでが……。ばおがいでぇよぉ……」
いつもと違って弱々しい声音、それに何を云っているか聞き取りにくい。
「何を甘えたことを云っているんですか! 早く立ってください! マスターは待ってはくれませんよ!」
「ちょっとあんたっ……」
厳しいことを云うドリスを、さすがにサラが窘める。
「だいたい全部あんたのせいでしょうが!」
「………」
「それを謝るどころかなかったように振る舞うなんてさいてーよ!」
「………」
ドリスは口をへの字に曲げて黙した。確かに少しやり過ぎたかな、と思わないでもないのだ。一番長い付き合いのシドはあんな風だし、自身が空を飛べるせいで、高さというものを甘く見ていたフシがある。しかし既に事は起こってしまったのだ。
――ここは謝ってはいけないところだ。ドリスはそう思った。キリイの怪我が大したことがなければどちらにしろ問題ないが、取り返しのつかない酷さだった場合、非を認めたらそこで終わりである。幸いきっかけはキリイの言動だったのでここは自業自得ということにしておこう。
「――いいえ。あなたは間違っています」
ドリスは悪びれずに云った。
「どこがよ!?」
「いいですか? よく考えてみてください。もしあそこにマスターがいたらどうしていたでしょうか。お腹が痛いなどと子供のような云い訳をして、命じられたことを放棄しようとしたキリイを放り投げていてもおかしくありません。それに比べればロープを結ぶという対応をした私は優しいくらいです」
「だからそこでなんであたしに結ぶのよ!? 他になんかあったでしょうが!」
「なかったからあなたに結んだんです! 結果良ければ全て良し、という言葉を知らないのですか? あなた達二人はちゃんと無事だし、キリイも痛い目を見ました。なんでしたら作戦が終わった後に有りのままをマスターに報告してもらってもいいですよ」
「く……。確かにあんなこと云ったキリイも悪いけど、ただの冗談だったかもしれないじゃないのよ!」
「そんなことは私にはわかりかねます。それに、そもそもあのような場所、タイミングでふざける方が悪いんです。船長である私にしてみれば、いきなり行かないと云い出すことは敵前逃亡にも等しき罪。――云っておきますが、マスターは敵前逃亡には厳しいですよ? もし知られたら間違いなく処刑です」
「……あんただって船を失ってるじゃない」
確かにキリイは不謹慎だった。サラはいい返しが思いつかず、悔し紛れにそう云う。
「船を制御できなくなった以上、仕方ありません。例えミラが私を掴んでいなかったとしてもこうなっていたでしょう」
「それもこれもあんたが私にロープを結んだせいよね?」
「また話を蒸し返すつもりですか? あれはキリイを素早く、かつ生かしたまま降下させるためと考えれば妥当な処置でしょう。しかも失ったのはプロトタイプのボロ船、マスターは許してくれる筈です」
「何が妥当よ! キリイは大怪我してるじゃない! 動けなかったら意味が無いわ! あなたのせいで王子の顔を確認できなくなったのよ!」
「そう云い切るのは早計というものです」
ドリスはそう云うと起き上がる気配を見せないキリイに、
「さあ、立つんですキリイ。立って自分の足で歩くんです。もし歩けないようならあなたは処分されるでしょう。誰が悪いだとか、誰の仕業だとか、そういったものとは関係なしにです。今! ここが! あなたの分水嶺なのです! 三度目の! 立って歩くことさえできれば、あなたの仕事は可能な筈です!」
「……ぐ」
驚くべきことに、ドリスの言葉を聞いたキリイはゆっくりとした動作で起き上がった。冷たい屋根から顔をあげ、右手をついて久しぶりに寝台から立ち上がる病人のように身体を起こす。
振り返ったキリイを見た三人は思わず後退る。ドリスもだ。
「あ、あんたその顔……」
「ぐ、ぐぞぅ……がおが……あごが、ずげぇいだい」
そりゃそうでしょうね――と、サラは声にならない声で零す。キリイの左顔面は形が変わっていたのだ。おそらく骨が砕けているだろう。顔面を黒く染めたその姿はまるでアンデッドだ。
「あんた手は痛くないの……? 骨が突き出てるわよ……?」
キリイの左の肘の先、破れた皮膚の中から白いものが見え隠れしていた。
「がおよりいだぐない」
「そ、そう……」
「………」
「………」
言葉の出ない三人をよそに、キリイはあぶら汗と血を滴らせながら屋根に空いた穴に向かって進み出す。がたがたと震えながら、なるべく振動しないようおっかなびっくり歩く様子は末期の老人のようだった。
「待ちなさい、キリイ。その身体でどうやって降りるつもりですか」
ドリスが云うと姉妹が動き出す。幸いキリイはロープに結ばれたままだ。下ろすのは難しくない。
姉妹がロープを手繰り寄せている間に、ドリスはすっとキリイの目の前まで行く。
「見事な戦意です、キリイ。あなたの忠誠、見せてもらいました」
「………」
「これに免じてさっきのあなたの態度は忘れてあげましょう。あなたは立派に船から飛び降りた。しかし着地に失敗して転んでしまった。そうですね?」
「………」
じろり、という表現が相応しい動きで、キリイの眼球がドリスを睨めつけた。その瞳にあるのは苦痛と恐怖だったが、底には押さえつけられた行き場のない怒りが渦巻いている。
だが、重ね過ぎた色が黒くなるように混ざり合った感情は最後には一つの色に収束した。それは迷いや躊躇といったものには無縁の、透徹した意志を感じさせる瞳だ。
「……ああ。ぞうだな」
キリイの右の口の端が、ぴくりと微かに持ち上がる。どうやら笑ったらしい。
ドリスは内心胸を撫で下ろした。もしキリイがごねるようだったら本作戦中に死んでもらわねばならなかったからだ。そもそも雲霞の如く生息している原住民の腕の一本程度たいした価値はない。面倒の種は種のうちに掘り返して捨てておくに限るというものである。――シドと自分さえいればどこにいっても同じようにやり直せるのだから。
その後無言になったキリイを裂いた布で止血し、姉妹が二人がかりでドリスが偵察した階下に下ろした。
直下は小さく、屋根裏部屋と思われたので一気にその下まで行ったが、辺りは真っ暗で物音一つしない。
これはおかしなことだった。外は騒ぎになっているのだから、ここに本当に王子がいるのなら戦闘準備が行われているべきであり、怒号が飛び交っていても不思議ではないのだ。なのに実際は静寂に満ちている。
自然、話す言葉も小さくなった。
「真っ暗じゃない。殆ど見えないわよ」
皆外にいたので目が慣れている筈だが建物の中は外とはまた違った暗さで、穴の周囲を少し外れただけで壁の位置しか把握できないほどの闇が広がっている。採光用の隙間もあるものの同じような状態だ。
「灯りをつけるとここにいると云ってるようなものです」
サラの囁きに、同じく囁きでもってドリスが返す。
「少なくとも視認出来る範囲には生き物はいません」
「あんたは魔力が見えるんだったわね」
「それを利用して壁と部屋も見えますよ」
四人はしばし佇んだ。キリイのぜえぜえという荒い息遣いだけが唯一の音らしい音だったが、すぐに下の方から何かが衝突する音や叫び声のようなものが響いてくる。
「始まったようです。ここにいても埒が明きません。私達も行きましょう」
「行くってどこによ?」
「上を調べつつマスターのところにです」
「待って。それは無理」
ドリスが声の方へ顔を向けると、それを察したらしきミラは、
「キリイはこんなだし、私達も杖がない。ここは逃げ回れる広さもないし、正面切っての戦いになったら間違いなく負ける」
「……そうですか」
ドリスは少し考えて云う。計画では上と下からの挟み撃ちだったが、一番重要なのはキリイをシドに会わせることだ。最悪最後に検分できれば問題ない。まさかシドも合流していないのに片っ端から殺していくことはしないだろう。
「ならとりあえずどこかに部屋を確保しましょう。いずれここに上がってくるでしょうから、それまで立て篭もるのです」
ミラとサラはぶつぶつ不平を云いながらも短剣を手に持った。キリイもゆっくりと陶器の擦れるような音をさせて鞘から剣を引き抜く。
ドリスが先頭に立った四人は壁に手を当てて移動し、感触から手近な扉に取り付いた。キリイだけは最後尾で喘いでいる。
「ここに扉があります。一気にいきますか? それとも音を立てずにこっそり入りますか?」
「……どうしてあたし達に訊くのよ」
「どうしてって、矢面に立つのはあなた達二人だからですが」
「………」
「………」
「……あんたって最低よね」
溜め息を付いたサラは姉に、
「どうする?」
「私にいい考えがある。扉の外で詠唱して、それが終わったら扉を開けて魔法を撃つ。そして一斉に突入。――どう?」
「賛成」
「いい案です。魔法は火にしましょう。撃つ瞬間目を瞑れば相手の視界だけを奪えます」
キリイを置いて配置についた三人。ミラが取っ手に手をかけ、合図を出す。
「いつでもいい」
「いくわ。『――器に満ちしマナよ。意志の標の元、我に隷属し、全てを薙ぎ払う刹那の紅蓮とならん』」
サラが小さく唱える。
――次の瞬間、瞳を閉じたミラは勢いよく扉を手前に引いた。
「今!」
「『爆炎球』」
サラの突き出した掌から握り拳ほどの赤い球が出現した。それは一直線に部屋の中へ飛んで行く。
サラがさっと身を翻し扉から離れた直後、魔法の球が大爆発を起こす。扉から真っ赤な炎が吹き出した。
「アッヅゥーっ!」
「ちょっ!? あっつ、あっつい!」
「ぐぐぐ……」
「……せ、選択が悪かった……かも」
開け放たれた扉から吹き出した熱風の余波を受け、四人はそれぞれ身悶えする。
「と、突撃です! 今こそ突撃の時です!」
いち早く立ち直ったドリスがそう叫んで部屋に突入した。そしてすぐに戻ってくる。
「ててて、敵! 敵! 敵がいます!」
ドリスのすぐ後に続いて火のついたシーツを被った男が物凄い形相で部屋から出てきた。その男は廊下にいる姉妹に気づくとすぐさま襲いかかってくる。
「じねえぇっ!」
目を丸くした二人は慌てて廊下を這って逃げる。
「たたた、助けて!」
「――ぐっ」
今まさにサラに振り下ろされんとする剣。サラのお尻が二つに割れようとする。しかし寸でのところでキリイが割って入った。
シーツを払い除けキリイに目を向けた男は表情を強張らせ、
「……こここ、この化け物がっ!」
「ぐっ!? ――ごのっ」
罵った男は一瞬怯んだ様子を見せたが、それでも部屋の中から漏れてくる残り火の明かりを頼りに打ちかかってくる。キリイは片手でそれをなんとか捌くが足元が覚束ない。よたよたと後退しながら致命傷を防ぐ。
「見掛け倒しが! 剣の錆にしてくれるわ!」
「させませんよっ!」
――突如、闇の中から飛来した小さな影が男の顔に飛び蹴りをかました。小枝のような足が眼球にずぶりと埋まる。
「ぎゃあああああっ!」
「がぁあああああっ!?」
気持ちの悪い感触に男と一緒になって悲鳴をあげるドリス。そこへミラとサラが駆け寄りざくりざくりと短剣を突き刺した。
「ぐ、ぉ、ぉおおおおおおっ!?」
「どどめだ!」
男は腕と脇に刺さった短剣もそのままに腕を振り回し、纏わりつく虫でも追い払うようにドリスと姉妹を突き飛ばすが、キリイがさらなる追い打ちを掛け深々と首を切り裂く。
残心するキリイの目に、男の手から力が抜け、紋章入りの立派な剣がこぼれ落ちるのがわかったが、それでも立ったままの男は首から鮮血を溢れさせながら残った目でキリイを見る。
キリイもまた、同じように男を凝めた。
「あ……あ……」
「……おでの、がぢだ」
何かを云おうとした男にキリイは告げる。男の身体がどうと倒れた。
キリイもまた倒れそうになるが、手伝ってもらって部屋に入る。
部屋の中には四体の焼死体があった。皆武器と防具を身に付けていたようだが、溶けた皮膚に張り付いて一体化している。
ドリスはほっと安堵した。身なりが特別な者はいないようだ。よくよく考えてみれば今の状態で戦闘になっても王子だけを残して勝つことは難しかった。外れで運が良かったというべきだろう。
「香ばしい匂いがするわね」
「焼き肉の匂い」
ミラとサラはキリイを焦げた寝台に座らせると燻り続ける火を消して扉を閉め、しっかりと鍵をかけた。