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永遠の戦士  作者: ブラック無党
神の国
110/125

ミルバニアにて―村の方針―

「――それで、お前達は奴等がどこに向かったのか本当に知らないのだな?」


 茶色い髪の、真面目そうな雰囲気を発する男がその言葉を云うのはこの会話が始まってから二度目だった。

 質問を浴びせられたライルは、自分はそれほど怪しく見えたのだろうか――と、数人の男達の前で跪きながら自分達の言動を振り返る。

 穴は埋めたし村人達にもなるべく接触を持たないよう云い聞かせた。アポロンという名の貴族が兵を連れて村に入ってから以降、ライルはずっと彼の傍に控えているが、それを差し置いて村人が呼ばれた事実はないし顔色を変えさせるような報告も来ていない。そして当然のことだが自身の失言は記憶に無かった。問題はない筈だ。


「………」


 視線だけで相手を盗み見ると、云った男はこちらを訝しんでいるような表情ではなく、単に記憶を攫わせようとしている風に見える。どうやら杞憂であったようだ。


「……勿論でございます」


 ライルは石のような表情で答える。小さく動いた唇以外は血が通うことを止めたかの如く微動だにしない。

 ここは集会所である。かつてはシドという名の男が使い、今はアポロンという名の男が使っている。ライルはその、染みの付いた床を凝めながら、


「ここは避難民の集う場所。ほうほうの体で逃げ出した彼等がどうして魔物の進路上に集まるでしょうか」


 と、こちらも二度同じような答えを返す。

 すると、ライルに質問をした男――ベーリウ――は、窺うように己の主を見た。


「ふむ……」


 反応を求められたアポロンは浮かぬ顔だ。瞳を細めながら髭を撫でている。村長の云うことにおかしな所は――ない。

 ――いや、本当はあるのだがきちんと説明がなされており、今のアポロン達ではその真偽を確かめるすべ、もしくは時間は持たないのであった。

 村の端にある掘って埋め直した後には魔物の犠牲者の亡骸が眠っており、この通常の村らしからぬ防備は、散り散りになった後、北にある城塞に帰還しようとする騎士が知恵を貸したという村長の説明である。しかしそのことが引っ掛かっていた。逃げ惑うしか能のない民がこの危険地帯で地に足をつけて生きていることが腑に落ちないのだ。違和感があるのである。

 だからといって埋葬跡を掘り返すのは難しかった。時間がかかるうえに、墓を暴いたとあっては侯爵である兄の名に傷がつく恐れがある。しかもその理由が村人が魔物に与したかもしれないという荒唐無稽なもので余計に外聞が悪い。他の貴族達の物笑いの種になってしまうだろう。


「……まあいいだろう。どちらにせよ敵がお前達に行き先を告げていく理由がないのだからな」


 結局、アポロンはそう結論を出した。仮に村長が嘘をついているとした場合、敵が村人を殺せる時に殺していないのは理由がある。つまり敵に考える頭を持つ存在がいるということ。ならば行き先を告げ、なおかつここに放置するのはあり得ない。自分達がいなくなった後、逃げるに決まっているからである。もし村人達が魔物が勝つと信じ、自発的に従っているなら話は別だが、それこそ馬鹿な話だろう。人が人の創り出した世の中――つまり歴史――を認識して以来、魔物や魔物を従える者が大陸の覇者となったことはない。高地エルフでさえ失敗したのだ。今更人の世をひっくり返すような企てに一介の村人達が加担すると信じるのは正気を疑われてもおかしくはなかった。


「村長。俺達についてきている民衆だが、食料と水を分けてやれ。長居はしない。休ませはするがそれが終わったらすぐにでも出発するつもりだ」

「……かしこまりました」


 下げていた頭を更に低くしたライルは村に入り込んでいる者達の姿を脳裏に描いた。何百人もいるがなんとかなるだろう。村人達の食い扶持は減ってしまうが、元より断れる筈もない。

 それよりもこの貴族の兵が向かう先を突き止めねばならなかった。ライルを始めとするこの村の住人は表立ってシドを裏切るつもりはなかったが、だからといってあからさまに味方をするつもりもない。村の住人の中にはシド達に家族や親しかった者を殺された人間もいるのだ。そういった人間にとって、このアポロンという貴族と彼が率いる兵は仇を討ってくれる相手に他ならない。

 だがシドの行き先を告げ口する気もなかった。どちらが勝つかわからないからである。シドは強引だが頭が悪いようには見えなかった。そしていかにも自信有りげだ。戦争のことなどわからぬライルにはどちらが勝つか断言することはできない。常識的に考えれば国を相手に勝てるとも思えないが、この地域に国の全ての兵力が集まっているわけではないのだ。局地的な勝利の後に舞い戻ってくることもありうる。

 もしシドの命令通り西か東に向かったと云えば、シドが北で敗れた場合、この村が疑われてしまう。そして北に向かったと正直に云えば、シドが負ければいいが、勝ってしまった場合、ライル達は殺されてしまうだろう。だから貴族の兵にはライルの言葉ではなしに自分達の考えで北に向かってもらうのだ。北にある城には戦いに敗れた王子や騎士団の生き残りがいる。それを追いかけて魔物が北に向かったと推測するのは簡単である。そしてその理由があるからこそシドに対する云い訳が成り立つ。

 シドが勝ったとして、何故南の軍勢が北に真っ直ぐ来たのかと問われればこう答えるのだ。云ったが押しとどめることができなかった――と。王子という存在がその云い訳を可能にしていた。

 つまり、シドを恨んでいる者にとっては偽りの方角を教えないだけで貴族の兵が北に向かうということには変わりない。それ以外の者達にとってはどちらが勝っても生き残る目がある、というやり方だった。シドが勝利した場合、彼を恨む者達は溜飲を下げることはできないが、ライルもそこまでは面倒をみきれない。無力な人間が他者のそういった恨みに付き合っていては命がいくらあっても足りないだろう。

 これは総意であった。シドが出て行ってからの話し合いで決まったことだ。ライルが独断で決めなかった――どっちつかずの妥協案になった――のは、密告をする者がいては全てが無意味になるからである。この案は全ての者にメリットがあるのだ。そしてどちらが勝つにせよ、生き残りが尋問され真実が明るみになる可能性はあるが、それは僅かだ。


「……一つ、よろしいでしょうか?」


 ライルは意を決して訊ねた。緊張で湿った額がきらりと光る。


「云ってみろ」


 答えたのは副官――ベーリウ――だ。


「魔物がどこに行ったかわからない現状、この村を拠点に捜索隊を出し、発見した後に出発するというのは無理なのでしょうか?」


 貴族の麾下は自前で食料を持っているし、おこぼれを狙っている志願兵は元々養う義務がない。村人が食えなくなるのに食料を分け与えろとは云わないだろう。ライルは間違ってこの提案が受け入れられたとしてもなんとかなると考え、そう云った。


「それは無理だ。我々がここを拠点とすればお前達村人が安心できるというのはわかるがな。北で戦いが始まるというのにここで茶を飲んでいるわけにはいかん」

「……は?」


 ライルは思わず――といった感じに顔をあげ、目を瞬かせる。

 それを見たベーリウは、


「心配しなくても我々が出発した後に魔物にここが襲われる可能性は低い。奴等は北へ向かった筈だ。お前達にはわからぬかもしれないが、足跡を追ってきた我々にはわかっている。騎士団との戦いの後、奴等は真っ直ぐ北へ向かっているのだ。ここにきていきなり方向を変えるにはそれなりの理由が必要だが、それはおそらく城になるだろう。そして城付近までくればガードルの兵と接触し、以降の動きは掴まれるし、それを嫌えばそこから西か東、南に向かうしかない。我々が北に向かえばここに来ることはありえん」

「迂回して来ることはないのでしょうか?」

「ないと云えるな。我々はここに来るまで廃村となった多くの村々を目にしている。拠点を持たない奴等は補給を略奪に頼るしかなく、既に奪い尽くした南に戻るよりも人間のいる西か東に向かうと考えられる」

「左様でございますか。安心致しました」


 再び顔を下げたライルは緩みそうになる口を隠すため、堅く唇を引き結ぶ。

 シドに知らせを送らないという選択はなかった。問題はどのような内容を送るかで、目の前の貴族が敗れた際、根掘り葉掘り情報を聞き出されてはまずいので北へ向かうきちんとした理由が必要なのだった。何故北へ向かったのか――その疑問に対する答えまで併せて送れば、そのことに対する尋問は必然短く軽いものになる。

 集会所を退去したライルの目には、必要最低限のことをやる者達を除いて家々に引き篭もっている村の様子が見て取れた。外を出歩いているのは殆どが貴族が連れてきた兵士や、それに追随してきた志願兵の姿であった。シドはかなり大きくこの村を拡張したので天幕を張るスペースが足りないということはなく、兵士達は明るいうちから堂々と火を熾し、温かい食事の準備をしている。その顔は明るく自分達の勝利を疑っていないように見える。

 だがその顔はシドの下にいるエルフ達とは似て非なるものだ、とライルは思う。シドもエルフもここにいる兵士達のような敵は予想していよう。その上での勝利への確信を持っている。しかしここの兵士達は予測できていない。いや、予測していると思っているのだろうが、それは覆される可能性が高いのだ。

 ライルはシドと初めて会った時大層衝撃を受けたが、それでもまだ麾下共々見かけ上の戦闘力は想像できた。そしてもしそれが当たっているならば騎士団が敗れているわけがなく、実際に敗れたからには見かけだけでは知りようのない何かがある筈で、一緒に過ごしたライルにも分からなかったそれを目の前の彼等が知っているとは到底思えなかった。

 村の一番外側にある家畜小屋の隣に建つ民家の前で足を止めたライルは、裡に埋没していた思考を引き上げると扉を叩く。


「私だ。ライルだ」


 すぐに反応があった。

 家の中から足音がして扉が小さく開かれる。顔を覗かせたのは日に焼けた肌をした壮年の男だ。

 男は言葉少なに、


「……用件は?」

「日が沈んだらエルフのところに連絡に行って欲しい」


 云われた男は目を細め、少し経ってから小さく首肯した。 

 


 























 腹が減れば食い物を奪い、舐めた態度を取った奴がいれば因縁をつけてしょっぴき、相手がそれに抵抗すれば数の力で始末する。

 金は必要ではなかった。男には宝石を愛でる趣味はなく、女の機嫌を取らなければならないほど弱い立場でもない。結果、男の懐はその生活水準に比して寒いものとなる。

 今、それが男の境遇を惨めなものにしていた。

 貧しい村人に埋没してしまいそうな長衣(ゴネル)に、寒さを凌ぐためのフード付きのマント。革製の手袋をはめ、下はズボンとショートブーツ。腰のベルトにポーチを下げ、短剣を挿している男は、食事の準備をしている村人達の前に出来ている長蛇の列の最後方で、今か今かと自分の番を待っている。

 炊き出しがあったのは幸運であった。男が持っていた僅かな金目の物はここへ来るまでに食糧に変じており、それももう限界が来ていたのだ。これ以上旅が続くようなら行動に支障が出かねないところだった。

 埃に塗れ、染みの付いた衣服を着た男は逸る気持ちを抑えながら立っているが、その心を占めているのは、男よりも前に並んでいるみすぼらしく、卑屈で、頭の悪そうな人間達に対する怒りだった。そしてなにより許せないのは傍から見たら男もそんな有象無象とさして変わらないという事実だ。

 現状男はそれに耐えるしかなかったが、彼がこれまで過ごしてきた生活にはこのような我慢の存在する余地がなく、その怒りを堪えるのは大層辛いものがある。

 しかし男は知っていた。

 目の前の奴等がいずれ死ぬというこということを――

 そして男は信じていた。

 自らの所属する集団の勝利を――

 それが男とそれ以外の者達の唯一の違いであり、それがあるから男は我慢出来ているのだった。

 男には目の前の邪魔な人間達は近づく死に気づいてさえいない――いや、自ら死に歩み寄る愚か者に見える。男は彼等と同じ列に並んでいながら明確に立場を異にしているのだ。

 故に男は待てた。もう鍋の中身は残っていないのではなかと危ぶまれるくらい長い時間を。

 やがて男の番がやってくる。その時には、我慢を重ね続けた男は朝から晩まで労働に従事した一家の大黒柱の如く疲れており、それに併せて十分な達成感をも得ていた。

 近年稀に見る我慢を成し遂げた男は堂々と器を持って給仕する村人の前に一歩を踏み出そうとする。

 だが――


「おらぁっ! どけどけぇっ!」


 不意にそんな声が聞こえたか思うと、三人の男達が後ろから姿を現し、肩で男を押し退けた。


「てめぇ等ふざけんなっ!」


 割り込まれた男はかっとなって云った。云って、慌てて口を押さえる。


「……なんだ? なんか文句あんのかコラ?」


 三人組は振り返り、そのうちの一人が低い声で恫喝するように云う。

 彼等はくたびれてはいるがしっかりと手入れをされた装備を身に付けており、食い詰めてはいるもののただの農民ではないと思われた。三人が三人とも荒事で生きる者に相応しい身体を持っており――勿論それは男も同じであったが――三対一という数の不利と身に纏う武具の差が男に躊躇いを抱かせる。


「無視してんじゃねえよ。お前に訊いてんだ」

「ぁ………」


 何も云い返せず、顔を伏せる。揉め事を起きれば兵士達が駆けつけるだろうが、それまでにズタボロにされるだろうことは想像に難くない。さすがに殺すまではいかない思うが、怪我の内容によっては行動に支障が出るし、何より目立つのはまずかった。

 男がここにいるのは町にいたままでは危険だったからだが、この集団の中にもルオスの住人はいる可能性はある。そしてその中に顔を覚えている者がいれば、男の運命はここで終わるだろう。

 この集団は男の味方がいる場所を目指しているのだから、接敵するその時まで何事も無く過ごすのが最善だ。


「――な、なんでもない。邪魔して悪かった」

「あぁん? なんでもないのに話しかけんじゃねえ。時間が無駄になっただろうが」

「……すまない」


 男が身体を小さくして呟く。

 すると、三人は罠にかかった獲物を眺める猟師のように男を見た。


「なぁに。俺達は盗賊じゃねえし、殺し屋でもねえ。この程度のことで人を傷つけようとは思わねえさ」

「そうだそうだ。これから同じ敵を相手に戦う仲なんだしよ」

「だが迷惑をかけられてただで済ませちゃ、これから先も同じようなことがあったら全部許さなきゃならなくなっちまう。ケジメは必要だ」

「………」


 答えない男に、三人はにたりと笑みを浮かべると用心しいしい詰め寄る。


「俺達は人間だ。そして人間ってやつは物事を円滑に進めるために金を使った取り引きってもんを生み出した。……俺の云いたいこと、わかるよな?」


 三人のうちの一人、無精髭を生やした男は顎を撫でながら云う。その口調は優しげで顔には笑みさえ浮かんでいたが、目の前の男を見据える瞳は冷たい。

 なんという悪党だ――と、男は思った。順番を無視したうえに金まで要求するとは。この三人にはいずれ天罰が降るに違いない。今この場に神がいないことが悔やまれる。


「悪いが金はない」


 男は胸を張って云った。神のことを思い浮かべると不思議と自信が溢れてくる。


「銅貨一枚持ってないし売れるもんはとっくに食いもんに変えちまった。残念だったな」

「金目の物ならあるじゃねえか」

「……え?」

「そこにあんだろが」


 一人がそう口にし、男の下半身を指差した。


「立派な短剣と靴だ。よこせ」

「い、いや……これは――」

「マントは勘弁してやるよ。この寒さじゃ死んじまうからな」

「………」

「どうした。早く靴を脱ぎな」

「………」

「さっさと脱げって云ってんだっ!」


 いきなり声を荒らげる相手に、男は青褪めた表情で後退る。


「待ってくれ。靴がないと歩けないし、短剣がないといざって時に――」

「足が二本ありゃ歩けんだろうが! それに男なら拳でなんとかしやがれ!」

「そんな無茶な!」


 男は助けを求めて辺りを見渡す。

 ――が、誰も視線を合わせようとはしなかった。既に配給がだいぶ消化された今、残っているのは自信なさげな者達ばかりだ。

 男は迷った。武器を捨てて抵抗すれば相手に大義名分を与えることになる。殺された後に兵士が駆けつけても死人に口なしだ。だからといって素手で立ち向かうのも無理。そして逃げれば飯が食えない。


「……どうやら痛い目に逢いたいようだな」


 三人は進退窮まって返事をしなかった男に痺れを切らした。拳を鳴らすと周りを取り囲む。


「取り引きのとの字も知らねえ野蛮人には拳でわからせるしかねえようだぜ」

「……くそっ」


 ここに至って男は逃げ出そうとした。一食より身の安全である。三人組の隙間を狙って地を蹴る。


「おおっとぉ」

「うわっ!?」


 しかしすれ違いざま足を引っ掛けられ無様に転倒してしまった。


「おらぁっ!」

「ぐぅっ」


 転んだところで腹部に爪先がめり込む。息が詰まった男がお腹を押さえて口を開けると、そこに靴底が降ってきた。頭が地面とぶつかって暗い視界がチカチカした。


「も、もふひゃめてくれ!」

「はめてくれだと!? 死にやがれ!」


 硬い靴底で何度も蹴られ、潰され、どこが痛いのかもわからなくなる。庇うべき腕も狙われ、転がされた男は混乱した頭で少しでも痛みから逃れようと亀のようにうつ伏せになった。


「こいつ! 往生際の悪い奴だ!」

「引き摺り起こせ!」


 首に巻かれたマントが引っ張られ体が仰向けになるが、すぐにまたその場で丸まる男。


「――この野郎!」


 服の後ろ襟に手が掛かる。男が抵抗を続けるとそれはビリビリと破れた。


「ちっ! もう勘弁ならねえ!」


 ズボンが同じように破られる。

 男は自分がとても無防備になった気がした。


「靴もよこしな!」


 靴が脱がされようとしても男は抵抗しなかった。今となっては痛みから逃げることがなにより重要だ。

 しかしとうとう短剣と靴を奪われてしまった男。そんな男を、息を荒らげた三人は奪った二物を手にぶら下げながら見下ろし、


「まさかこんなに手こずるとはな」

「この二つじゃ全然割りに合わねえ」


 そう云うと、カチャカチャと音を立てながら男根を取り出して男に小便をかけ始めた。

 湯気の出る液体が男の身体から赤いものを洗い流していく。


「運動したせいで腹が減っちまったぜ」

「全くだ」


 三人は出し終わると大事そうに一物をしまい込んだ。そしてぶつぶつと零しながら、男には目もくれずに何事もなかったかのように食事を受け取りに向かう。

 それを見て、飛び火するのを恐れて距離を置いていた周りの者達も列に戻ってくる。

 男のいた場所に、するりと別の者が入り込んだ。










 アキムがそれに意識を向けたのは日も暮れようとする時分だった。

 最前、右手にスプーンを、左手に根菜の一切れ載った麦粥を持ち、冷たくなった夕飯を流し込んで器を返却したアキムは、やっと長い順番待ちから解放され、後は寝る場所を確保するだけだと思いながら村を散策しようとしていた。

 そこでふと目に止めた暗緑色の塊に、用心深そうな瞳を動かし辺りを窺う。

 目立つのが嫌で人が減ってから動き始めたこともあり、注目している者はいない。配給を必要とする者の殆どが食事を終わらせているし、その塊はずっとそこにあったのだろう。誰も気にも止めていないようで、皆、寝床を確保するために忙しなく動いている。

 それを見て取ったアキムは地面に蹲る人だろう塊に近づいた。

 勿論もっと早くからそれに気づいていた。しかしその時は食事よりも優先すべきとは思えなかったし、こうやって蹲ったままだとも考えなかった。

 地面に倒れる人影に、今初めて気づいたかのように目を丸くしながら歩み寄ったアキムは、


「……おい。あんた大丈夫か?」


 と心配そうに口にしながらしゃがみ込む。そして鼻の奥につんとくる臭いに顔を顰めた。

 小便の臭いである。十中八九喧嘩であろう。腹が減っているのに長い列に並ばなければならず、苛々とするこのような場ではよくあることである。

 アキムは腰から鞘ごと短剣を取り出し、それで人影をつつく。


「おい。起きてるか?」

「………」

「おーい……」


 返事はないが、念の為に何度かそれを繰り返す。

 そして完全に意識がないと見るや、


「へ、へへへ」


 笑みを浮かべたアキムは傍らに膝をつくと倒れている男の身体の内側に手を突っ込んだ。


「……む。ないな」


 物入れを求めてまさぐるが、その手は空を切るばかり。ベルトにも何もさがっていない。ならばと男の頭の上に広がっているマントを探すが、そこにも何もなかった。


「………」


 表情を消したアキムは無言で立ち上がる。冷たくなった手の臭いを嗅ぐと眉を寄せ、足の裏で蹴りを入れる。


「このくそ野郎が! 金もないくせによくも俺に小便を!」

「……う」


 蹴られて仰向けになった男が呻いた。寒そうに身体を縮こまらせ、うっすらと瞼が持ち上がる。

 その男の手が、踵を返そうとしたアキムの足を掴んだ。

 アキムの瞳が刃のように鋭く細められる。


「その手を放しな」

「……あ」

「放さねえと俺の剣が迸るぜ」

「あ……ア、キム……殿……」

「なにっ!?」


 弱々しく呟かれた自分の名前に、アキムは驚いて男の顔をまじまじと凝めた。事と次第によっては始末しなければならないと思いながら。


「……生憎だが人違いのようだ。俺はアキムという名前じゃない」


 云いながら記憶を掘り返す。もしかしたら本当に知り合いかもしれないからだ。

 だが何度見ても男の顔は記憶の中にあるそれと重ならなかった。


「お、俺、は……」


 男はごほごほと咳き込んで喉の調子を整え、


「か、神の命令で、騎士団の偵察を……。その後ルオスで、アキム殿の顔を……」

「………」

「み、皆と合流できなくて……。どこにいるかもわからないし……。そ、それで……それで……討伐隊についていけば会えるかと……うっうっ」


 男は嗚咽を漏らし始めた。今度は夕日にきらきらと輝く涙が小便を洗い流す。


「そ、そうか……。いやすまん。顔が腫れてたから気づかなかったんだ」


 怒りと喜びの混ざった変な表情になったアキムはそっと足を掴んだ手を振り払う。仲間は多いに越したことはない。越したことはないが――


「お前それ誰にやられたんだ?」

「こ、これは――」


 アキムが訊くと倒れている男は屈辱と怒りに身を震わせる。


「いきなり列に割り込んできた奴等に……。俺が注意したらそいつらが……」

「装備もそいつらに?」

「い、いえ。盗られたのは靴と短剣だけです。鎧と剣はその前に食いもんに――」


 化けました、という男に、アキムは呆れた様子で、


「何やってんだお前。俺達にはシドから教わった冴えたやり方があるだろうが」

「で、ですが一人では……」

「一人がなんだ。俺を見ろ。俺だって一人だ」


 腕を上げて装備を誇示するアキムの装いは立派なものだ。襟首までを保護する鎖頭巾の上から鼻当てのついた兜を被り、口元を覆う帷子はいまは垂れ下がっている。はだけたマントから見える身体には、クッションの縫い込まれたギャンベソンの上に膝下まである鎖帷子を着用し、さらに小札と鋲の縫い込まれたブリガンダインを。その肩から手首までを棒と輪と小札でできた鎧の札(スプリンツ)が走る。そして帷子から覗く脚は金属製の脛当てで、手と足を守る手袋と靴は甲を板金が守っている。腰に帯剣したその姿は一分の隙もない。


「そ、その装備は?」

「こいつか? こいつは奪ったものだ。前の装備は捨てちまったからな」

「ど、どうやって……」

「どうやってもこうやってもない。一人で居るやつをこっそり殺せばいいだろうが」

「いえ、俺もそれは考えたんですが、どうも一人で行動してる奴等は警戒心が強くて……」

「お前の頭は飾りかよ。急がば回れって言葉があるだろう。警戒してるならそれを緩めるとこから始めるんだよ」


 アキムは説明してやろうとしたが、いつまでもここに留まっているのもなんだと考え、


「まあいい。それは追々教えてやる。まずはそのくっせえ臭いをなんとかしろ」

「は、はあ」

「とりあえず立って井戸まで行け。身体を洗ってからだ、動くのは。臭いで気づかれるかもしれんからな」


 そう云って笑うアキムに男は媚びるような笑みを浮かべる。


「お、俺の装備を取り戻してくれるんで?」

「いや……靴と短剣だろ? その程度の物のために危険は冒さないさ。どうせなら一式揃えよう。戦力が増えたほうが俺にとってもいいんでな」

「ア、アキム殿っ!」


 男は感極まった面持ちでアキムの足に縋り付いた。


「放せ! 小便がつくだろうが!」

「す、すいません」


 平身低頭する男と連れ立って井戸へ向かったアキムは、滑車を使って水を汲み上げ、桶に溜めた冷水を何杯も何杯も浴びせる。


「アキム殿、冷たい」

「我慢しろ。それとその破れた服は脱いじまえよ」

「は、はぁ……。しかしそれだとマントと下着だけになりますが……」

「一式揃えてやるって云ったろ」

「わかりました」


 一度全裸になった男はマントと下着を揉み洗いしてよく絞り、再び着用する。そしてがたがたと震え始めた。


「凄い寒いです」

「我慢だよ、我慢。今お前に必要なのは我慢の心だ。それよりお前なんて名前だ?」

「ヘテロテスです」

「――よし、ヘテロ」


 そう云ったアキムは弟子を教え諭す師のように眼光鋭く、


「まずはどんな装備がいいかだ。妥協はするなよ。早死にの元だぞ」

「どんな装備かというと?」

「今からあちこち見て回るから、欲しい装備が見つかったらそいつを覚えていろ」

「そ、それなら――」


 ヘテロは恐る恐るといった感じで、しかし瞳は期待に輝かせ、


「俺を襲った三人組の装備でいいです。体格も似てたし、十分使えそうな装備でした」

「………」

「だ、駄目ですかい?」


 こっちは二人、相手は三人。これはやはり厳しいかと、ヘテロは残念そうに肩を落とした。そしてなおも黙っているアキムに、


「いえ、無理ならいいんです。向こうが数が多いし――」

「勘違いするな。別に無理じゃない」

「え?」

「俺はただ本当にそれでいいのかと思っただけだ。見て回ればもっといい装備をつけてる奴がいるかもしれないだろ?」

「だだだ、大丈夫です! あの装備が俺は欲しい! あれこそ俺の求める装備でした!」

「そ、そうか。まあお前がいいんなら構いやしねえが……」

「是非あいつらでお願いします!」

「わかったからそういきり立つな。それで、そいつらの顔は覚えてるんだろうな」

「勿論です!」

「よし。ならさっさと行くぞ。ちょうどいいタイミングに日が暮れるからな」

「い、行くってどこへです?」

「いいか。物事には順番ってもんがある。まずは手頃な奴からめぼしい装備を奪う。それを使ってお前の云う三人組を襲撃するんだ。正面からやり合うつもりはないが、何があるかわからないからな。戦える状態でいくに越したことはない。――だろ?」

「そうですね。なら最初はどんな奴を?」

「そんなのは決まっている」


 訊かれたアキムは力強く云い、口角を吊り上げる。悪戯を思いついた子供のように細められる目はかつてと同じだが、その為す所は全く違う。こと男に関しては、大人と子供で違うのは玩具の値段だけという言葉があるが、そういう意味ではアキムは大人になったのだ。


「まずは女を探す」

「……女を?」

「そうだ。お前もここに集まっている戦場漁りどもの中に女が混じっているは知っているだろう」

「はい」

「こういう場所では男は女を求めると相場が決まっている。哀しい男の性だ」

「………」

「しかし俺達は違う。少なくとも俺とシドとキリイはな。つまり普通の奴より弱点が一つ少ないってことだな、うん」

「はあ……」

「今のとこ、ここは安全だと考えられてる。つまり逢引きをしてる奴等が必ずいる筈だ。オーガみたいな奴を除いて、ついてきてる女どもは兵士と恋仲になった奴か商売女だけだからな」

「そ、そいつらを?」

「そうだ。草むら乳繰り合ってるところを――」


 アキムは云って、短剣を鞘から引き抜いて勢いよく振り下ろす。


「――一気に仕留める!」

「………」

「それでそいつらの装備と金は俺の物になる。まあ装備はお前にくれてやるけどな」

「あ、ありがとうございます」

「うむ。わかったら行くぞ。人気がなく、なおかつあまり離れていない場所にいる女を探すんだ」


 頷いたヘテロを置いて、アキムはすたすたと歩き出す。慌てて後を追うヘテロ。

 しかしアキムはすぐに立ち止まって後ろを振り向いた。その瞳が剣呑な輝きを放つ。


「……ところでお前、俺の妹を見なかったか?」

「い、いえ。見てませんが……。はぐれたので?」

「端的に云えばそうだ。シドのところに向かっていれば問題ないんだが、捕まっている可能性もある。その場合助けられるのは俺しかいない」

「まあ……そうでしょうね」


 この時ヘテロの頭にあったのは神を名乗るシドのことだった。彼がたった一人の捕虜のために行動を起こすとは思えない。


「兵士を拷問していけば手掛かりが掴めるだろう。もし情報が出なかったとしても、それは妹が奴等に捕まっていないということだ。俺は安心できるし、誰も損はしない」

「………」

「さ。行くぞ」

「あの……その前に飯を食いたいんですが……」

「わかったわかった。それもなんとかしてやる」


 アキムは気軽そうに請け負った。アテはある。殺した奴の肉をこっそり剥ぎ取って適当な動物の肉だと云って食わせれば問題ないだろう。


「全部俺に任しとけって」


 そうして、地平線に日が沈むとともに、二人の男は闇に溶けこむように姿を消した。

 


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