ミルバニアにて―ルオスの災難―
「今夜もだいぶ冷えそうだな」
「ああ。体調を崩さないよう注意しろよ。人手不足なんだから」
「わかってるさ」
ルオスの町を警備する兵士達が寒そうにマントをかき合わせ、洋燈をかかげながら通りをざくざくと歩いている。新しく編成された兵士達は急いでしつらえられた革の防具を纏っていて、急造の剣と小さな円盾を手にしており、五人一組で灯りの影になった部分にも忘れずに視線を送りながら定められた巡回ルートを進んでいた。
冷えた空気には相変わらず焦げた臭いが染みついており、それがこの町に降りかかった災難を嫌でも意識させる。大柄な男とその一味の行いはまだ記憶に新しく、焦げた臭いを嗅ぐ度にそれは上書きされるのだ。
しかし、それでも時間は公平に力強く流れていて、黒く煤けた家屋は日毎数を減らすし、更地になった焼け跡には新しく家が立とうとしているところもある。爪痕は生々しく残るが、町は着実にかつての姿へと舞い戻ろうと努力しており、毎日通りを歩く兵士達にはそのことがよくわかっていた。
時間までは終わりなどない道程を彼等は歩くが、町の犯罪は驚くほど減っている。夜中に外を出歩く者は少なく、犯罪を犯す者はもっと少ない。大きな不幸を乗り越えた住人達は好むと好まざるとに関わらずタフになっており、かつてなら命欲しさに差し出してたであろう金や食料は、今もまだ貴重品で誰もがそう簡単には手放さないことを知っているのだ。
兵士達の胸の内には希望があった。これだけの災難に見舞われたのだから、後は上を目指して頑張るだけだと子供のように一心に思っている。
だからだろうか、遠くから悲鳴が聞こえてたきた時、迂闊にも近づいてしまったのは――
勿論それは彼等の仕事だ。なにが起こったか調べなければ罰を受けるか職を失ってしまう。だが彼等は知っていた――いや、思い知らされていた筈なのだ。世の中は理不尽で、その理不尽の前では職責や義務など命を縮める種にしかならないということを――
「な、なんだこれ……」
「――おい! しっかりしろ!」
兵士達が目にしたのはズタズタに引き裂かれた同僚の死体だった。きっかり五体。知らせる時間すら与えられず殺されたのがわかる。体の中にあったものが外で湯気を上げていてとても生臭い。
周りの家々は固く扉を閉ざしており――きっと中で息を殺しているのだろう――いるのかすらわからなかった。
「気をつけろ。まだ近くにいるかもしれん」
「笛を」
「任せろ」
兵士達は囁き合い、一人が頷いて笛を咥えた。そして五人は背中合わせになると闇に溶け込んだ路地の先に目を凝らす。
ピュリリリ――と、夜の静寂を破って耳に障る呼び笛の音が空に昇った。すぐに助けが来る筈である。
だが――
「……おい、今の」
「ああ」
兵士達は顔を見合わせ、右手に持った洋燈を足元に置くと剣を抜いた。おどろおどろしい唸りが聞こえたのだ。それが空耳ではない証拠に仲間内の誰も否定しなかった。
「………」
四方に置かれた洋燈の灯りに薄くなった影がゆらゆらと揺れるなか、誰かがゴクリと喉を鳴らす。
――出し抜けに、重そうな足音が響く。
小さな灯りでは揺らぐ筈もない路地の闇がうごめいた気がした。
尻の下のピグルの背中が力強くうねり、脚は引き絞られた弦のように地面を蹴る。
頼りないちっぽけな灯りの輪の中で背中を寄せ合っている人間達の姿が見る見るうちに近くなる。
シュタックは皮の腿当てに包まれた脚を締めて後ろに置いて行かれそうになる身体をしっかりと固定した。その黄色く丸い目は再びの血の予感に残忍そうに瞬き、口には小さく鋭い歯列がぞろりと剥き出しになっていて、闇から躍り出た彼を目にした兵士達は驚きの声をあげる。
「――魔物だぁっ!」
一番手前の兵士が叫び、反射的に足元の洋燈を蹴り上げた。
シュタックは左腕にストラップで括りつけたお椀型の円形盾で飛んできたそれを払い除ける。
一瞬、辺りが昼のように明るく照らし出され、その後には勢力を盛り返した闇が絶海の孤島のように兵士達の姿を浮かび上がらせた。
「――このっ!」
一番手前の兵士が素早く近寄ったピグルに斬りつける。
しかしピグルは馬ではない。爪を立てて急停止すると兵士の剣は虚しく宙を斬る。
シュタックは停止した勢いを利用してピグルの背を離れた。前方へ飛んで兵士達を大きく飛び越える。そして逃げ道を塞いだ彼は、右手に持った肉切り包丁のようなコンヤーズ・ファルシオンを構えて後方の兵士の目の前に立ちはだかった。
背後から遅れてきた同族達がピグルを避けるようにして左右から襲いかかり、横並びになっていた前列の兵士二人が応戦するが、残りの二人――即ちシュタック達が来たのとは反対側を警戒していた兵士達は、背後で始まった戦いのことを気にする余裕もなく、目の前に突如現れた人型の魔物を見上げている。
シュタックの目線は兵士達よりも頭二つ分上にあり、彼は動物の皮が巻かれた柄を音がするほど強く握り締め、生臭い息を吐いた。
――何がきっかけになったのか、いきなり右側の兵士のほうへ大きく踏み込み、左上から斬りつける。
「ぐっ!?」
兵士が盾で受け流し、右手に持った剣で反撃する。
シュタックはそれを左の盾で払い除け、加勢しようとしていた左側の兵士の方へ弾いた。
「――うっわっ!?」
弾かれて目の前に現れた剣に、驚いた兵士の動きが止まる。
右手のファルシオンが勢いよく舞い戻り、右側の兵士を再度襲うが、同じように動いた盾によって再び阻まれる。
シュタックは手首を曲げて切っ先の角度を浅くした。受け流されることも、食い込むこともなかったファルシオンは盾の表面を浅く傷つけながら横に滑り、そのまま左の兵士へ向かう。
振り抜くと驚いた顔をした兵士の喉から噴水のように血が吹き出す。
「よくもっ!」
今度は逆だった。兵士の剣に追従するようにシュタックは盾を動かし、受け流すのではなく力技で強引に剣を止める。盾中央のスパイクのついたボス部分で剣を絡めとりながら右手のファルシオンを足元へ向けて繰り出す。
兵士は不格好に盾で防いだ。
シュタックの唇が捲れ上がる。兜に余程自信があるのでなければ盾は決して下げてはならない。足元を狙われた時は武器で防御するか躱すのだ。何故なら――
「――へぶっ」
金属で縁取られたロッテラが兵士の顎を強打する。唇が裂け、歯が砕けて兵士の胸元は血塗れになった。
「ジャッ!」
よろめいたところを、ファルシオンで兜がへこむほど強く叩く。ふらふらと足元が覚束ない様子の兵士に――こういう状態でなければ決してしないであろう――後のことを考えない大ぶりの一撃を見舞うと、兜の前面を押し曲げて刀身が半ばまで顔に食い込んだ。
一気呵成に四人を始末したシュタック達は、足元に転がる洋燈を近くの家の屋根に放り投げ、屍猟犬に跨り町の中央を目指す。
ゼハゼハと荒い呼吸で大気中の魔力を取り入れる屍猟犬は無人の通りを風のように疾走した。毛のない潰れた耳がピクリと動き、続いてシュタックの窪んだそれにも複数の足音と話し声が聞こえてくる。
闇に、明かりが船のマスト灯の如くに揺れている。
シュタックはファルシオンを左手に持ち変えると盾の裏からダガーを引き抜き、灯火を目印に投げつけた。
「――ぃぎっ!」
距離を縮めたシュタックの視界に、一人が崩れ落ち、他の兵士がそれに何事かと顔を向けている姿が目に入る。
大柄なシュタックを背に乗せたままピグルは力強く地を蹴り、しゃがみ込んだ兵士がそれに気づく。
――しかしもう遅い。
「スィッ!」
鋭い呼気とともに振り向いた顔面に剣尖を突き入れる。残りは後ろからついてくる部下に任せてそのまま駆け抜けた。
「魔物――」
背後で聞こえた言葉は途中でくぐもった呻きに変わる。
シュタックは行く先をピグルの先導に任せ、出会う兵士への初撃のみを行い、夜の町を突き進む。たまに遭遇する兵士達の集団はどれも少数で、五十ほどの数の泥鱗人の前に冷たい屍となった。
いつしか町の一角では引火した炎が赤々と燃え盛り、それは遠く離れたシュタック達の場所においても影を投げかけている。火事を知らせるためのものか、はたまた侵入者を告げるためものもか、狂ったように打ち鳴らされる鐘の音の下で、ついにピグルが停止した時、町中は大騒ぎとなっていた。
場所は比較的大きな通りで、ピグルは鼻を盛大に鳴らしながら前脚で地面を引っ掻く。建ち並ぶ家屋から何事かと顔を覗かせた住人達は、通りを占拠するシュタック達に気づくと慌てて鎧戸を閉めて家に閉じ籠もった。
シュタックが止まっているのでそれに倣って停止した泥鱗人達が、馬鹿にしたような笑い声をあげながら扉を蹴破り、屍猟犬に跨ったままのっそりと家屋に侵入していく。
ほどなく、通りに面した家々から悲鳴と陶器の割れる音、木が折れる音、何か重そうな物が倒れる音が続けざまに響いた。
シュタックはピグルから降りると周囲を見渡す。どう考えてもここにエルフがいるとは思えなかった。
ピグルが嗅いでいる地面の土を足で乱暴に払うと、硬質な手応えが返ってくる。屈みこんで取り上げたそれを空にかざしてまじまじと凝めた。
「………」
それは踏まれたのか、あちこちへこみ蓋がなくなった小瓶だ。シュタックの目が苛立たしげに細められる。指のように細長いそれを逆さまにしてしてみるが、中からはなにも出てこなかった。
集中して大きく息を吸う。だいぶ薄まってはいるが、嗅ぎ慣れた臭いがあった。
――血の、臭いだ。
シュタック達が来る前から、この町は血の臭いがたち込めていた。
興味を失ったように小瓶を放り投げ、再びピグルに跨ると、他の泥鱗人達もいたぶっていた人間達に止めを刺し、出発の準備を始める。
シュタックは鼻先から荒い息を吐く。自分達は役割は猟犬で、目印と獲物しか認知していない。ここは一度戻るべきだろうか――
「………」
――いや、そんなことをすれば殺されてしまうかもしれない。元々の使い主であったサマルは死んでしまい、今はその仲間であるラヌートがその代わりとなっているが、彼があまり自分達のことが好きではないのはわかっていた。曲がりなりにもサマルには自分が使う生き物に対する愛着があったが、それ以外の高地エルフにはそれはない。サマルは連れてきた生き物や創り出した生き物の面倒を見ていたが、それがなくなった今、泥鱗人は己の力で数を維持することを考えねばならないのだ。そしてそれはシュタックの役目だった。
森にいた者達、もしくはそれと取り引きをした者がここにいたのは間違いがない。確実なのはそれだけだ。シュタック達が追っていたのはエルフであってエルフではないからである。しかし森にある村にはエルフ達はいなかった。
「――シュッ」
ピグルの尻を叩くと、弾かれたように走り出す。明るく、声のする方へ――
方針が決まったのだ。
「ま、まま、魔物だぁっ!」
馬鹿の一つ覚えのようにシュタックを目にした兵士がそう叫ぶ。
火を消しに向かっていたのか、目の前には大勢の兵士達がいる。これまで散発的に出会った小集団ではない。通りは大きく、その数は着の身着のままの住民を合わせるとゆうに百を超えている。
「きゃあああああ!」
「ま、魔物だぞっ! 魔物が出たぞーっ!」
シュタック達に気づいた武器を持たぬ民が悲鳴をあげ、それは次々に伝播した。
「住民達を逃がせ! ――いや! 火消しに向かわせろ! 兵は後ろに戻れ!」
指揮官が声を張り上げるが、それも上手くいかなかった。火から逃げようとする者、消しにいこうとする者、そして突如現れたシュタック達に立ち向かおうとする兵士達。逃げるにしても方向は限られており、ごった返した中を突き進む兵は剣を抜くことも出来ない。
それでも、一部の集まった兵士達は前列に防衛線を築いて盾を押し出した。飛び道具はない。弓の熟練者はおらず、弩のような高価な兵器は全て持っていかれたのだ。
シュタックは行く手を阻む敵を前に首輪についた手綱代わりの紐を強く引く。ピグルが行き先を横にずらし家屋の壁があっという間に迫る。
しかしぶつかることはなかった。後ろ脚で強く地を蹴ったピグルはそのまま壁に爪を立てて駆け上がったのだ。横向きになったシュタックの目に、唖然とこちらを見上げる人間の顔が映る。
シュタックは音がするほど強く息を吸った。しなやかな皮の防具に包まれた胸部が盛り上がり、次の瞬間――
「ブハァァッ!」
口から大量の液体を吹き出す。雨のように粒が大きく、竜の吐息のように拡がったそれは驚き顔の兵士達にくまなく降りかかった。
「ぎゃあああっ!」
「目が! 目がぁ!」
毒の吐息を浴びせたシュタックを乗せ、そのまま後方のごった返す人混みの中に降り立つピグル。
「こっちに来たぞぁ!」
「逃げろぉ!」
周囲には無力な人間達がひしめいている。少しでも早く、少しでも遠くへ。シュタックから逃げようと背を向ける。
「シャーッシャッシャッ!」
最早技も糞もない。手を振るだけで人が傷つき、死ぬ。シュタックは両手を振り回しながら人の波を掻き分けた。両手には常に骨が砕ける感触が伝わってくる。
顔を押さえた兵士達の集団に後続の泥鱗人の集団が突っ込み、手当たり次第に殺していく。
まとまった抵抗が消えると、無力な住民達も兵士も一緒くたになって路地に逃げ込んでいるのがわかった。シュタックは部下を散開させると殺しに向かわせる。
血と焦げ付いた臭いに満ち、弱い。――この町は最高だった。
殺しの輪がこの場所を中心に拡がっていくなか、シュタックはピグルから降りる。尻を叩いて腹ごしらえに向かわせ、自身は兵士達の倒れ伏す中から、息のある者を探す。探して、胸ぐらを掴んで持ち上げた。
兵士の身体が宙に浮き、左腕一本で持ち上げているシュタックは問う。
「エ、エ、えるフは、どコダ?」
「……うう」
呻くだけで答えない兵士。最早光を見ることのないその目に、右手の指を突き入れる。
兵士の身体がビクリと跳ねた。
「がっあっ」
「エ、えるフは、どコダ?」
「――き、北へ」
シュタックは満足気に頷くと兵士を捨てる。
――行く先は決まった。しかし半日くらいなら遅れても構わないだろう。
倒れる兵士の鎧を脱がす。
食事はやはり生きたままが美味いというものだ。
北へ―ほわいといるみねーーーーしょん!―
を思い出した