ミルバニアにて―侯爵達―
敵の襲撃を予想していたカドモス達だが、魔物と遭遇することなく味方と合流した。合流した時は既に幾つかの村を経由しており、食料には困っていない。
カドモスの頭には再三の忠告にも関わらず村に残った民の姿があった。彼等はカドモスの言葉を信じなかったわけではない。生活基盤を捨てることができなかったのだ。
カドモスはそんな彼等を責められなかった。農地は刈り取りが終わっているが、冬に育てる作物もあるし、なにより家畜を連れて逃げるのは無理だ。逃げた先で他人の家畜の世話をただでしてくれる奇特な人物がいるとは間違っても云えない上、ただ消費してしまってはその時は良くても後で一家離散する羽目になるのは目に見えている。
「すぐに討伐隊がやってくるでしょうから」
と、それが後に残してきた村の長が口々に云った台詞だ。カドモスは、騎士団は壊滅する可能性について彼等に云えなかったのだ。
これはカドモス自身、己の弱さだとわかってはいたが、それによって生じる影響は極めて大きく、自らの手でそれを拡散することに躊躇いがあったせいである。また、間に合うように動くつもりであったし、そうなれば問題ないと自分に云い聞かせることができたせいでもあった。
カドモスと共に発った一部の騎士達は、馬で駆けてくる味方の兵士の姿を目にした時、知らず安堵の溜め息を吐いた。
「止まれ!」
カドモスに与えられた近衛の指揮官であるグンナムが、前に進み出てそう云った。白に近い銀髪をした偉丈夫である。
馬に乗った三十余りの兵士達は少し手前で停止しする。軽装で槍だけを手にしており、腰のベルトにポーチを下げ、そこにダガーを挿していた。
「我々はゴドフリー侯爵領ガードル所属の者である! そなたらは何者か!?」
カドモスはむっとなった。兜で顔がわかりづらいのは理解できる。しかし近衛や騎士の集団を伴っているのだ。それなりの身分ということは推測できる筈である。
「慮外者が! この方はカドモス王太子であるぞ!」
騎士がそう怒鳴り、カドモスは兜を脱ぐ。
兵士達はさほど慌てた様子もなく下馬した。
「これは失礼致しました。何分敵は知恵が回ると聞いておりましたので」
そうは云ったが、言葉ほどには敬意は込められていない。
しかしカドモスは怒りを堪えた。
「構わん。それよりお前達だけか? そちらの進捗はどうなっている?」
「は。私はこの隊の指揮官を任せられましたスパークと申します。ゴドフリー侯爵は殿下危うしとの報を受け、すぐに近隣から兵を徴集することに決めました。また、ギルドにおいても傭兵を募り、兵の数は十分な数に達しつつあります」
カドモスが跪いた兵士達に云うと、一人がそう答える。
「補給はどうなっている?」
「その点に関しましては、兵の数と併せ、効率的な運用のために現在軍議が開かれていると思います」
「なんだとっ!?」
カドモスはスパークの言葉に、剣に伸びる手を自制せねばならないほどの衝撃を受けた。
「まだ出発していないというのか!?」
「その通りです」
「何がその通りか!」
平然とした態度を崩さないスパークに、秀麗な顔を歪め、一歩前に出る。
「味方が飢えている時にそんな悠長なことをしていてどうするのだ! 侯爵の名誉は地に落ちるぞ!」
「お言葉ですが殿下。強力な敵がいるとわかっている地域においそれと輜重隊をやるわけにはいかない、というのが侯爵のお考えです。まずは現在の敵の位置や規模、そして騎士団の状態を確認し、問題ないと判断されればすぐにでも輜重は発つことでしょう。我々はそのために派遣されました」
「しかし騎士団がっ――」
「その騎士団ですが殿下。ここには一部しかいないようです。残りはどうなされたのでしょう? バードヴィック卿の報告では、未だ本隊は一戦も交えず、とあったのですが」
「誰がそんなことを質問していいと云った!」
「重要なことです、殿下。場合によっては援軍を派遣する必要がなくなるかもしれないのですから。私としましても侯爵から命を受けている身、その務めを果たさねばなりませんし、その侯爵は国と殿下の身を案じてこのような命令を出されたのです」
「よくも口が回る! 味方を見捨てようとしている奴の云う台詞か!」
「……今の言葉は殿下の名誉のために聞かなかったことにしておきます」
「ほざけ!」
「落ち着いてください、殿下」
騎士がそう云うと、カドモスははっとなった。他の誰でもない、騎士の言葉だったからだ。仲間を置き去りにしろと云われ、事実そうした彼等の言葉はカドモスの心を強く揺さぶる。
「残念ですが、その兵士の言葉は間違っておりません。どうなっているかわからない仲間を助けるために他のものを危険に晒すのは私達としても本意ではありません」
「だが助けられる可能性があるのだぞ!?」
「いえ、もう無理でしょう」
騎士は哀しそうに首を振った。
「元々ぎりぎりの賭けでしたし、侯爵の行動が殿下の予想と違っていた時点で間に合わなくなりました。飢えて死ぬか、戦って死ぬか……。もし生き延びる目があるとするなら、敵から食料を奪った場合だけです。そしてそうであるならば、急いで援軍を送る必要はなくなります」
「――いや! まだ間に合う!」
カドモスは力強く言葉を発した。
騎士達は勿論兵士達も驚いてカドモスを注視する。
「スパーク! 馬と全ての食料を寄越すのだ! お前達が行かぬのなら俺自身で向かうまでよ!」
スパーク達兵士はぴくりとも動かなかった。それどころか、
「殿下。侯爵は殿下が城に戻ってくることを望んでおられます」
「俺に指図する気か!?」
「全ては御身のためでございます」
「これは命令だ! いますぐ馬と食料を出せ!」
とうとうカドモスは剣を抜く。抜いてスパークに突きつける。
だがスパークは華美な装飾が施された柄と蒼白い刀身を、その刃と同じくらい冷たい眼差しで凝めるだけだった。
「いえ、殿下。殿下ご自分の足で向かわれないのなら、我々が引き摺ってでも連れて帰ります。我々はきっと侯爵だけでなく、王その人からさえも褒美を賜ることでしょう」
「俺が出陣することを許したのはその王だぞ!?」
「状況が違います。もし初めからこうなるとわかっていれば王は許さなかったでしょう」
「食料さえ不足していなければ魔物などに遅れを取ることはない! 例えその数が十倍であってもだ!」
「確かに。それだけの近衛がいればあながち嘘とは云い切れませぬ。しかし――」
スパークは今にも飛び出しそうな近衛にその視線の向きを変える。
「近衛は殿下の身を守るために王が貸し与えたもの。その近衛が戦うということはすなわち、殿下御自身が戦場で剣を振るうということです。それがどのような結果をもたらすか殿下はわかっておいでではない。仮にそれがかなった場合、ここにいる近衛や騎士達、そして私達は王に罰せられるでしょう。殿下を不用意に危険に晒したとして」
「………」
「率直に云わせてもらうが――」
スパークは矛先をカドモスから近衛に変えた。
「私が先程やるといったことは、本来ならお前達がやるべきことだ。王から殿下を守れと云われているならば、少数で敵に襲撃をかけようとする殿下を気絶させてでも安全な場所に連れ帰るべきではないかな。勿論状況によっては仕える主を危険に晒さねばならない時はある。だが今はそうではないし、敵が必ず勝てる相手というわけでもない。何故なら、もしそうであるなら私や殿下は今ここにいないのだから」
「………」
グンナムは目を瞑って何事かを考えた。そしてそれが開かれた時、カドモスは己の意見が通らないことを悟った。
「殿下。ここは城に戻るべきです」
久しぶりに声を聞いた気がした。グンナムだけではなく、近衛は口数は多くない。しかしだからこそ、その口が開かれた時の彼等の意志は揺るぎない。
「……俺には父の権限を越えてまでお前達に命令する権利はない」
カドモスは残念そうに兜をかぶり直す。
「しかし忘れるな。お前達の選択がまだ無事なのかもしれない騎士達に止めを刺した可能性もあることを」
「王が賢明なご判断をなされることでしょう」
「どちらにとっての賢明か、意見が分かれるところであろうな」
応えたスパークに鼻を鳴らし、脇を通り過ぎる。
黙って頭を下げていたスパーク達は、カドモス達の背が遠くなる頃合いを見計らい立ち上がった。鞍に手をかけて馬上の人となる。
発とうとするスパークは背後を振り返り、歩く騎士達を目を細めながら見た。
王都やガードルでたまに目にした以前と違い、その背は小さい。
「状況は変わったのですよ、殿下」
例え数が戻ろうとも、騎士団が元の戦力を取り戻すことはない。彼等はデストリアーの大半を失ったのだ。全軍馬中僅か数パーセントしか存在しないこの最高級軍馬は、失ったからといって即座に代用は見つからない。
「Muerto el caballo, perdito el hombre d'armas」
馬が死ぬ時、騎士も死ぬ――知らず、昔の人間が残した格言が、スパークの口をついて出た。
「閣下。ゴドフリー侯爵が兵を募っております」
執事がワインと共にその報告を持ってきた時、ダイアンは居城の上ベイリーにある主館で食事を摂っているところであった。広間はイグサを芯にした蜜蝋で明々と照らし出され、壁に埋め込まれた暖炉が温めている。
ダイアンは頭から被る長袖のチュニックの上に毛皮で裏打ちされた袖のないチュニックを重ね着し、マントを垂らしている。腰は留め金のついたベルトで留め、長靴下、室内履きという格好だ。しかしその服装は厳つい顔の彼にあまり似合ってはいなかった。
清潔なクロスが敷かれたテーブルにはトレンチャー――前日に焼いた分厚いパン――の上には香辛料をまぶして焼いた塩漬け肉が載っており、脇には塩皿、銀の杯、メイザー、銀のナイフとスプーンがある。離れたところに、衣をつけて揚げたフリッターや、味付けした生ニシンを使ったパイ、鶏肉のペーストにアーモンドミルクで煮たコメを混ぜ、砂糖を入れて煮込んだブラマンジェ、すり身を使ったモートリュなど一人では食べきれない程の品々が並んでいた。
ダイアンが肉を食べると、すぐに召使が水差しと鉢を持って側に寄った。外に通じる広間の鎧戸からはいい匂いが漂ってくる。厨房のある建物では鈎と鎖で火にかけた大鍋を使って料理人や助手が今も仕事をしているのだ。
「ゴドフリーめ、とうとう気が狂ったか」
ダイアンは眉を寄せてそう云うと、腸詰めに手を伸ばす。それを咀嚼し、葡萄酒で流し込んでから、
「奴も終わりだな」
召使いがくるのを待たず、脂をマントで拭きとった。頭の中ではどういう風に王に具申しようか考えている。なるべく戦が起きるように仕向け、パイを切り分けるように相手の領地を分割するのだ。
「いえ。王にも出陣を促しているようです。侯爵の支配下にある複数の都市から同じような報告があがってきております」
「……なんだと?」
自分の知らないところで何かが進行している。そう思ったダイアンは席を立った。妻と子供達には、
「少し席を外す。お前達はそのままでいなさい」
と云ってから己の執務室に向かう。
城の床は汚れを隠すためにニガクサやヒソップが敷かれている。そろそろ交換せねばならんな――そう心に留め置きながら、石と木の混合建築である主館の三階へ行き、執務室の椅子に腰を降ろす。
壁の張り出しに置いてある燭台は火が灯されているが、執事は小鉢型のオイルランプにそれから火を移すと机の上に置いた。
「聞こうか」
「は」
云うと、執事は声を潜めるようにして、
「ゴドフリー侯爵は第一王子の危機を訴えているようでございます」
「カドモス殿下の?」
「はい。それ故王が来るのは確実だと、伝書にはあったようです」
「………」
王が来ることによって何が生じるのか。ダイアンの頭は素早く回転した。
「殿下は魔物討伐に向かった筈だな」
「はい」
「つまり、敗れたか」
「………」
危機というからには敗れたか、何らかの理由で所在がわからなくなったか、もしくは大病や怪我を患ったかだろう。俄には信じがたいが、ゴドフリー侯爵が堂々と兵を集めている現状を考えれば答えは出てくる。
あり得そうにないからといって一言に切って捨てるのは愚かなことだった。少なくとも、ゴドフリー侯爵が発狂したと云われるよりは信憑性がある。
「そうか……。騎士団が、敗れたか」
ダイアンはこみ上げてくる笑いを抑えきれなかった。唇が弧を描き、目尻は泣き笑いのようにやに下がった。
「くっくっく。こいつは傑作だ」
「………」
「どうやら運が向いてきたようだぞ」
「は」
おそらくゴドフリーは魔物との戦闘に王を仕向け、どさくさに紛れて弑すつもりだろう――そうダイアンは思った。自分ならそうするからだ。王子は殺すか保護し、王の遺体とともに王都に帰還する。そして突然の王の死に混乱する宮中に根を伸ばすのだ。その際は無用な混乱を避けるという理由で箝口令を敷き、他の貴族が駆けつける前に素早く事を進める。例えそれが無理であっても、王の戦力を削いだ上で自分の発言力を高めることができる。次期国王を保護し、現国王と轡を並べて魔物を討伐する。最悪でもそれだ。今頃奴は降って湧いた幸運に笑いが止まらないに違いない。しかし――
「それはこちらも同じなのだよ」
ダイアンは紙とペン、インク壺を取り出すと指輪の嵌まった手でサラサラと文字を書き込む。戦場はガードルからほど近い場所の筈だ。何故ならそこが集積所にされたから。そしてその南には準備が完了するどころか、作戦行動中の手勢が存在するのだ。それと魔物の存在を利用する。
「明日の朝一番で鳥を飛ばせ。これを弟に届けるのだ」
そう云って書き終わった書を執事に手渡した。
「ルオスにいるアポロン様宛でございますな」
「そうだ」
「畏まりました」
執事は静かに書を仕舞い込む。
ダイアンはその様子を漫然と眺めていたが、ふと、
「ゴドフリーは遠慮すまい。アポロンに与えた手勢だけで足りるか……?」
「こちらからも兵を送ってはいかがでしょうか? 馬ならばそう日はかからないかと思いますが」
「それはいかん。こちらには兵を送る理由がない」
アポロンは事が起こる前に現場付近にいた。嘘をつく必要もなく偶然だ。しかし今さらに兵を募れば、二心ありと勘ぐられてもおかしくない。もしゴドフリー侯爵がそれを知ったら、王を害するのを止めてリスクの少ないライバル領狙いに方針を変えるかもしれなかった。
ゴドフリー侯爵は免罪符を手に入れているのだった。兵が増えれば増えるほど、民草は彼の忠誠を称える。そしてまた、彼は同時に王を待つ理由をも手に入れているのだ。王を待たずに討伐してしまえば王の面目は丸潰れとなる。誰憚ることなく戦力を集め、王を待てる。それが今のゴドフリー侯爵の置かれた状況だ。
「その辺は弟の手腕に期待するしかないか……」
「………」
「武器防具と食料だけは送るよう手配をしろ」
「は」
「緊急措置だ。荘園からの産出分も使え。後で補填させる」
「畏まりました」
執事は一礼すると部屋を出た。小間使いを呼んで明日の朝一番に荘園差配人達に来るようにと伝言を頼む。
それが住むと自分の作業部屋に行き、紙とペンでダイアン侯爵のように文を作った。小さく丸めて真鍮の筒に入れると洋燈を持って中庭に出る。中庭には鍛冶場、火薬塔、工廠、井戸などがあるが、彼が用があるのは鳩小屋だった。
二続きになった鳩小屋の手前の部屋には世話人がいた。
「これはこれは。バライソー様。お呼びしてくれればいつでも参りましたものを」
世話人は椅子から立ち上がると平伏せんばかりに頭を下げる。
「明日の朝一番で鳥を使いたい。状態は問題ないか」
「勿論でございます。使用人と同じで、閣下の鳥にタダ飯ぐらいはおりません」
「それは結構。見ても構わないかね?」
「は、はあ……。それは構いませんが……。中はだいぶ――」
「構わない。念の為に確認しておきたいのだ」
執事は世話人を残し、奥の扉を開けるとそっと身体を滑り込ませた。中は動物特有の生臭い臭いがこもっている。足元は糞尿だらけだが、彼は一顧だにせず奥へ進んだ。
鳩のいる棚の端で、暗く淀んだ天井に向かって口を開く。
「マーデス、来い」
縦横に走る梁の奥から小さな羽音が聞こえ、小柄な身体が飛び出すように舞い降りてくる。
執事は目のない漆黒の鳥を優しく掴み、鉤爪に気をつけながら足首に筒を取り付けた。
「これをラヌート様に」
黒い鳥は小さく頭を振って首肯する。
執事が壁際の紐を引いて上にある窓を開けてやると、鳥は彼の腕を蹴って飛び立ち、暗くなった空に溶けるように姿を消した。