浮気
浮気をしているな。
すぐにそう思った。
結婚して5年、昔ほど熱烈に愛してると叫びだすような情熱はない。だが愛してると胸を張れる程度には彼女を想っている。
だからすぐに気づいた。彼女がいつもよりふとした瞬間におおらかな対応をするくらいで確証は全くなかった。ただの勘だった。
だけど、俺は彼女が大好きでずっと見ているんだ。彼女が前ほど俺を好きじゃないなんてすぐにわかる。わかってしまう。
そんな訳で、今日は仕事を休んだ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、あなた」
スーツでいつも通りに家を出て、妻-美早紀が見送られ終わるまで歩き、角を曲がったところで止まる。
今日は一日家を見張って、美早紀の不貞を確かめてやる。相手も確かめて制裁を与えてやる。
俺は家の裏側の道にまわり、庭の植え込みの隙間から美早紀の動向を見張ることに集中する。
○
AM 08:45
家の中から歌が聞こえていた。
同時にがーがーと掃除機の音がするから、多分紛れて聞こえないと思ってるんだろう。かなりの大音量で歌っている。相変わらずちょっと音痴だが、そこがまた可愛らしい。
今まではテレビの音がするだけで動きがわからなくて退屈だったから、ほっとした。早くも今日は何もなくて空振りになるんじゃないかと心が折れそうになってたからな。
しばらく聞いていると口笛に代わり、掃除機がとまった。何をしているのかはわからないが、とても楽しそうだ。
もしや、浮気相手とメール?
急に芽生えたその猜疑心が抑えきれなくなり、裏口からこっそり庭に入り、妻に見つからないように探す。
「♪」
風呂場の窓から除くと口笛を吹きながら洗濯物を洗濯機から出していた。
庭に出てきてそれを干し、次にお風呂掃除。
杞憂だったのはいいが、ずっと口笛を吹いている。
こんなに陽気な人だったのか。確かに毎日お風呂に入っている時に歌を歌っているのは知っているが、まさか一人の時は終始こんな調子なのか。
「……そういえば」
昔、付き合いだした頃、家にお邪魔するとずっと鼻歌を歌っていたな。最初は浮かれてるのかと可愛かったけど、何回目かの時にテレビが聞こえないと注意したきりしなくなった。
ずっと我慢してたのだろうか。
俺は反省しながら元の位置に戻って監視を続けることにした。
○
AM 11:00
美早紀が買物鞄片手に家から出て車に乗り込んだ。
おい! 最近ダイエットのために歩きにしたんじゃないのか! ていうか前は自転車だっただろ! だから太るんだよ! そうは見えないけど!
俺は自転車を引っ張りだして慌てて走り出す。といっても車の後ろなんて追いかけたらすぐに見つかってしまう。
いつもの普段着だしまさかこれから逢瀬なわけがなく普通に買物だろうから、裏路地を通って近所のスーパーまで先回りしておく。
「……」
あれ、遅くね?
「……」
え、もしかしてあの格好で浮気相手と会ってんの? マジで? Tシャツにジーパンで会うの? しかもそのTシャツ俺のお古なんだけど?
「…あ、来た」
何していたのか知らないが、車なのに俺より10分も遅れて来た。車を駐車させると中に入って行った。
追いかけ様に車の中を見ると後部座席に米袋が乗っていた。なんかすまん。美早紀は痩せてるって。保障するから。
店の中に入ると美早紀は鞄からチラシを取り出して広げながらカートを押した。いつものことだけど、こうして遠目に見るとチラシ広げてるのってちょっと変だな。せめて畳めよ。
特に問題もなくレジまで行ったので、俺は先に帰って自転車をしまっておくことにした。まさか生肉持ったまま逢い引きしないだろ。
○
AM 12:00
家からいい匂いがしている。これは……ハニートーストだな。俺はシャケ弁だ。
「……」
シャケ弁を立ち食いすんのって、なんかすんごい悲しくなるな。
○
PM 02:50
電話がかかってきた。それは別に良いが、電話に出てからが長い。誰と話してるんだ。
俺はこっそり家に近づいた。こっちの窓なら見えないし声くらいなら聞こえるよな。
「えー、ほんとー?」
むむっ。親しげな声だな。ビンゴにちがいない!
「相変わらず幸子さんたらお世辞がうまいんだからぁ」
……どうやら電話の相手は友人らしい。話には聞いたことがある。確か去年知り合った主婦友だとか。
「うん、うん。じゃあ後でねー」
会う約束をしたみたいだ。うーん、今日は浮気はなしだなぁ。これ以上やっても仕方ない……待てよ。幸子さんとやらと一緒に浮気をしている可能性もある。
俺はついて行くことに決め、タクシーを裏手に呼んだ。
○
PM 03:30
あれからしばらくして美早紀は化粧もバッチリして、可愛い服を着てる。まるでデートするみたいな格好だ。
まさかという思いと、ただ友達に会うためのお洒落だという思いが交差する。
わ
どうだっただろう。前から気分によって何でもないただの買物にお洒落するような気まぐれなところはあった。
美早紀は予想に反して歩きだった。俺は謝りながらタクシーを返した。電車で4駅向こうの繁華街に出た。
道中ずっと楽しそうに携帯電車をいじっていた。隣の車両だから詳しくはわからないが、さすがに近づくわけにはいかない。
人通りが多いので道一本分ほどの距離を空けて堂々と着いていく。見失わないようにしなければ。
美早紀はよくある喫茶店に入って行った。店内は大きめだし、まあ多分大丈夫だろう。俺は外のガラスごしに美早紀が奥の席についたのを確認してから店に入り、何食わぬ顔で美早紀の背中側のテーブル席に背中合わせになるように座った。
距離は近くて話が聞ける上、もし振り向いても顔は見えない。席に座る際に美早紀の向かいに座る女性を確認したが、普通の女性だった。
やはりただの友達なのか。彼女の服装はさすがにジャージではないが、ごく普通の格好だ。
「にしても美早紀、相変わらずお洒落だよね」
「ほんと? ふふ、頑張ってるからね。私の努力をもっと褒めてもいいわよ」
「はいはい、可愛い可愛い」
「ふふーん。なんてね、さすがに私だって買物なんかはジーパンにシャツよ。でもせっかくこっちまで来るんだからお洒落したいじゃない」
「んー、わからんでもないけど、毎週こうしてだべってんのにそうそう気合いはいんないって」
「だって、そうでもしなきゃ機会がないじゃない。このスカートも買ったけど幸子さんと会う時にしかはいてないもの」
「旦那に見せてやんなよ」
「買った時は見せたしぃ、褒めてもらったけどぉ……家で着てどうするのよ」
「まーねー、うちも旦那と一緒に出かけるって言っても買物くらいだしねぇ」
………なんか、すんません。
まあしかし…普通だな。フツーの会話だ。うーん。今日は違うのか、それとも俺が疑いすぎか?
何か確証があったわけじゃないし、勘だった。でも何故か確信できた。絶対だと思った……思ったんだけどなぁ。
それから二人は小一時間ばかりコーヒー一杯とお喋りで時間を潰すと、そろそろ帰ろうかと席をたった。
見つからないように肩をすぼめてコーヒーに口をつけながら、ちらっと隣を通る美早紀を見て、愕然とした。
美早紀は俺には気づかなかった。基本的に死角だしそれは当然だ。ただ、俺は気づいてしまった。
やはり美早紀は俺以外に心を移していた。可愛らしい服装もそのためで、美早紀は幸子とやらに恋をしている。
ごく普通の会話で、何があったわけでもない。俺も見なければ気づかなかった。勘違いだで終わっていただろう。
だけど見てしまった。美早紀の、目。想いがこもった、恋する目だ。
俺にはわかる。恋人になり結婚してからもずっと、少し前まで向けられていた俺だから、わかってしまった。
○
呆然とし、我に返った俺はとっくに冷めきったコーヒーを飲み干して店を出た。
どんな顔をして家に帰ればいいのかわからなくて、ぶらぶらと放浪したが、無意味に時間が過ぎるだけでなんの結論も出せなかった。
いつも会社に行っているなら帰るだろう時間になり、仕方ないので重い足を引きずりながら家に帰った。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「ちょっと、何だか顔色悪いわよ。熱は…」
「大丈夫。ちょっと疲れただけだ」
「そう? …ならいいけど、具合悪いなら無理しないでね」
いつも通りの顔でいつも通りに玄関まで迎えに来てくれて、首を傾げながら伸ばされた手を俺は遮った。
心配そうにされて、どの口が言うんだ。お前のせいだ。と罵声が喉まで出かかったが、飲み込んだ。
「ああ。着替えてくる」
部屋に行き、スーツを脱いで息をつく。
怒鳴ったってどうにもならない。美早紀は浮気をしてるわけではない。手すら繋がない。今日はただ友人とお茶をしただけだし、幸子もそう認識してるだろう。
あれだけ平気な顔をしてるんだから、もしかしたら美早紀自身も自分の気持ちを自覚してなくてただの憧れ、友人としての好意と勘違いしてる可能性もある。なのに怒ったって仕方ない。
俺は美早紀と結婚してるから、もし肉体関係を他の人と結ぼうというなら貞操を守れとは強制できる。だけど気持ちまで制御しろなんて無理だ。ただのお喋りをやめろとは言えない。
法律だって心までは縛れない。美早紀が俺の妻として正しく行動してる以上、気持ちがよそを向いているのは俺のせいだ。俺の魅力がたりないからだ。俺がひきとめる努力を怠ったからだ。
「っ…」
涙が一滴こぼれた。
怒りなのか、悲しみなのか、悔しさなのか、情けなさなのか、何が理由かはわからないが、涙がしばらくとまらなかった。
顔を洗ってから食卓についた。幸い泣いたことには気づかなかったらしい。
夕食が終わって、風呂に入り、晩酌しながらリビングで二人無言でテレビを見ながら気づいた。
最近はずっとこんな感じで、二人でいても殆ど言葉を交わしてない。そういえば、微笑みでなく満面の笑顔なんてもう大分前から見ていない。一緒に出かけてもいないし、性交も週一で義務的にしている感じで、新婚のころの甘さはない。
俺はその夜、久しぶりに一週間の間を空けずに美早紀を誘った。
「いいけど…疲れてるんじゃないの?」
「むしろだからだよ。明日休みだから大丈夫だ」
意外そうにした美早紀だったが、すんなりと応じてくれた。それが嬉しくて、ここ数年ないほど精力的になった。
終わってから俺は美早紀を抱きしめた。
今までももちろん好きだったし愛していたが、急に愛おしいという気持ちが溢れてきた。
美早紀が好きだ。美早紀にまた前みたいな目を向けてほしい。
「な、なんなの? 今日なんか変よ?」
「嫌か?」
「……そうじゃないけど、何かあったの? あ、わかった。何か仕事でポカしたとかでしょ。」
甘えちゃってしょうがないなぁ、と美早紀は微笑みながらよしよしと俺の頭を撫でた。
「また来週から頑張れば大丈夫よ。あなたは頑張りやさんだもの」
優しい声と手。思えば昔、辛い時はいつも美早紀が側にいて慰めてくれた。
うん、やっぱり俺は美早紀が好きだ。俺は美早紀の浮気と言えるのかわからない浮気心を指摘しないことに決めた。
美早紀が俺以外に気持ちがそれてるなら、努力しよう。ちゃんと気持ちを伝えて、もう一度俺に恋してもらおう。
「……美早紀」
「なあに?」
「愛してる」
「……え? な、なに? 急に……は! もしかして浮気!? それで罪悪感で今日なんか優しいの!?」
「違うよ」
美早紀のお前が言うなと言いたくなる台詞はでも純粋に驚きと嫉妬まじりで、ちょっとおかしくなる。
美早紀は幸子に恋をしてるけど、俺を嫌いになったわけじゃない。ただちょっと気持ちのボルテージが下がっただけで、好きな気持ちがなくなったわけじゃない。
「ほんとに? 正直にいうなら一回くらい……い、嫌だけど、許してあげる」
「違うって。同僚がさ、奥さんになあなあでちゃんと大事なこと言わないで手を抜いてたら浮気されたんだ。だからそれ聞いて俺も反省して、お前にちゃんと言おうと思ったんだよ。手抜きせずにさ」
テキトーな作り話をでっちあげる。素直な美早紀は疑わない。
「そっか……ふーん。いくら寂しいからって浮気しちゃダメだと思うけど、そうしてくれるなら嬉しい。なーんかこうしてると昔思い出すわね」
「明日、どっか出かけないか?」
「え、お出かけ?」
「ああ。久しぶりにデートしよう」
「デートって…いいけど」
照れた美早紀はにまにましながら俺を撫でるのをやめてその手で鼻をつまんできた。
昔はよくこうして鼻なり頬なりつままれたものだ。
「なぁんか急に焦っちゃて。あなたって、私のこと大好きよねー」
「好きだ」
「……ふふー。心配しなくても浮気なんてしないわよ。でもデートはします。どこ行くの?」
「俺が決めていいのか?」
「結婚前はそうしてたじゃない」
「…そうだな。楽しみにしててくれ」
「あ、秘密にする気?」
「明日のお楽しみだ」
「ふふ…えへへ、やだ、なんか私馬鹿みたいに嬉しいんだけど。今度自慢しちゃおっ」
「誰に?」
「前言ったけど覚えてるかしら。友達の幸子さん。今一番仲良しなの。素敵な人よー」
やはり美早紀に自覚はないらしい。なら幸いだ。ここからいくらでも巻き返せる。
俺はぎゅーっと強く美早紀を抱きしめる。
「今度紹介してよ」
「うーん…いいけど、幸子さんが素敵だからって見とれたらダメよ。私は見とれるけど」
「なんだそりゃ」
「だって幸子さんって何だか格好いいんだもの。あ、あとちょっとあなたに似てるわ」
「え…」
意外と、また同じ目を向けてもらえるようになるのは早いかも知れない。
○




