↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

妹の結婚式を終えたので、今度は私が幸せになる番です

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/03

 妹の花嫁衣装には、私が選んだレースが使われていた。


 蔓薔薇の模様が袖口から指先へ伸びる。仕立屋で見本を広げたとき、思わず触れてしまったものだ。私の式のために注文したはずのそれは、今、ミレーヌの手首を飾っている。


「お姉様、ここ。まだ留まっていないわ」


 鏡の前から呼ばれ、私は妹の手を取った。

 手袋の釦は小さく、爪の先ほどしかない。三つ留めたところで、ミレーヌが指を動かした。


「きつくない?」

「少しだけ。でも平気。ジュリアン様がお好きなんですもの、この手袋」


 そう。

 その言葉を、私は口の中で飲み込んだ。


 私と一緒に見本を選んだときにも、彼は同じことを言った。リディアによく似合うと思う、と。


 最後の釦を留める。

 妹は満足そうに鏡へ向き直った。


「お姉様も、いつか結婚できるといいわね」


 髪を整えていた侍女の手が、一瞬止まった。

 ミレーヌは気づかなかった。妹が見ているのは、鏡の中の自分だけだった。


「ええ。私もそう思うわ」


 私の声に、今度は妹が振り返った。


「……怒っていらっしゃる?」

「いいえ。手袋は、それで大丈夫?」

「ええ」


 私は小さく頷き、花嫁の部屋を出た。


 廊下には春の切り花の香りが満ちていた。披露宴の席順を確認していた家令が、私を見つけて駆け寄ってくる。


「リディア様。南の控室ですが」

「ウェルナー夫人は膝を痛めていらっしゃるから、一階をお使いいただいて。階段を上がらせないよう、案内の者にも伝えてください」

「承知いたしました。それから、新郎のお母上が」

「お迎えします」


 母は花嫁の部屋にいた。父は式場で客を待っている。

 私には、次々と人が用事を告げに来る。


 半年前までは、今日の花嫁は私のはずだった。


     *


 私たちの家には、娘が二人いた。

 十七歳の私は伯爵家を継ぐために育てられ、一つ年下のミレーヌは、皆に可愛がられるために育てられた。


 私が乗馬の稽古で落ちると、父は、跡継ぎがその程度で泣くなと言った。

 妹が馬を怖がると、無理をさせることはないと言った。


 私が客の名前を間違えると、母はその晩、私が覚えるまで名簿を読ませた。

 妹が間違えると、まだ幼いのだからと客に微笑んだ。


 同じ年齢になれば同じことを求められるのだと、初めは思っていた。

 けれどミレーヌが十五になっても、十六になっても、母の言葉は変わらなかった。


「あなたはお姉さんでしょう」


 妹が私の誕生日に届いた桃色のドレスを欲しがった日も、そう言われた。


「よく似合っているじゃない。リディア、譲ってあげなさい」


 私が着る前に、妹はそれを着ていた。

 母は裾を整えてやりながら、もう一着注文すればいいと言った。

 私には、去年のドレスを直したものが渡された。


 絵を描くのが好きだった。

 十五の春、庭の花が咲き揃うのを待って、朝から画帳を広げたことがある。花弁を描き始めたところで、母が私を呼んだ。


「お客様がいらっしゃるの。今日は隣でお話を聞きなさい」


 翌日は礼法の稽古があり、その翌日には妹の買い物に付き添った。

 ようやく庭へ出られたときには、描こうとしていた花は散っていた。


 それでも、家を継ぐのは私だった。

 厳しくされる理由があるのなら、堪えられると思っていた。


 ジュリアンとの婚約が決まったのは、私が十五のときだ。

 子爵家の次男である彼が婿に入り、私と共に伯爵家を支える。父が決めた縁談だったけれど、私は彼を好きになった。


 冬の訪問のとき、ジュリアンは焼き菓子を二種類持ってきた。

 一つは、家族のための大きな箱。もう一つは、私のための小さな箱だった。


「君は胡桃が苦手だろう。こちらには入っていない」


 家族も知っているはずのことを覚えていてくれた。それだけで、箱を開ける前から嬉しかった。


 私は彼の訪問を待つようになった。

 会えば、いずれ二人で暮らす部屋や、庭に植えたい花の話をした。


 少しずつ、その時間にミレーヌが加わった。


「二人きりで、何をお話ししているの?」


 妹は私の隣ではなく、彼の隣に座る。

 私が父から聞いた話を伝えている途中でも、袖を引いて庭へ誘った。

 ジュリアンが断ろうとすると、頬を膨らませる。


「お姉様は、いつでもお会いできるでしょう」


 私は笑って、行ってきてと言った。

 次の訪問では、と考えていた。


 そうして待った次の訪問で、ジュリアンは婚約を解消したいと言った。


「君といると、いつも正しく振る舞わなければならない気がする」


 父の書斎だった。

 私の向かいにジュリアンとミレーヌが座り、両親は私の両側にいた。


「ミレーヌといると、自然でいられるんだ」


 妹がハンカチで目元を押さえた。


「ごめんなさい、お姉様。いけないことだと分かっていたの。でも、好きになってしまって」


 二人は手を繋いでいた。

 いつからなのかと聞いても、誰も答えなかった。


「結婚前でよかったと考えなさい」


 母の手が、私の肩に触れる。


「夫婦になってからでは、もっと大変だったわ」

「では、この家はどうするのですか」


 私は父に尋ねた。

 ジュリアンがいなくなるなら、別の婿を探すのか。それとも、私が一人で継ぐことになるのか。


「ミレーヌに継がせる」


 父は既に決めていた。


「ジュリアンも予定どおりこの家へ入る。その方が話が早い」


 妹がハンカチを下ろした。

 濡れた目が、父を見て明るくなる。


「私で、よろしいの?」

「リディアに教えてもらいなさい。何も案ずることはない」


 私は膝の上で指を組んだ。


 何のために、あんなに覚えたのだろう。

 友人の誘いを断った日も、描きかけの絵を片づけた日も、家を継ぐためだと思っていた。


 父は机から書類を取り出した。私を次期当主とする内定を取り消し、ミレーヌに変更するという。

 私の了承を記す欄があった。


「今日、署名しなければいけませんか」

「長引かせてどうする」


 父の声が低くなった。


「皆が困るだろう」


 私はそこに、自分の名を書いた。

 母はほっと息をつき、ミレーヌはジュリアンの肩にもたれた。


 私の顔を見ていた人は、一人もいなかった。


     *


 結婚式では、妹は一度も足を踏み外さなかった。

 前日に私が裾を持ち、何度も一緒に歩いたからだ。


 新郎新婦が誓いを交わす間、私は後方の席にいた。

 手袋の釦が外れないか、そればかり気になった。


 披露宴で、ジュリアンがこちらへ来た。


「ありがとう、リディア。ミレーヌも喜んでいた」

「そう。よかったわ」

「君なら、もっとふさわしい相手が見つかるよ」


 彼は慰めるように笑った。

 昔、小さな菓子箱を渡してくれたときと同じ顔だった。


「そうね」


 返す言葉がそれしかなくて、私は客に呼ばれたふりをして離れた。


 庭へ続く扉の脇で、ようやく息をつく。

 昼から口にしたのは、冷めたお茶が半杯だけだった。


「リディアさん」


 顔を上げると、白髪の婦人が立っていた。

 以前、私に求婚してくれた、三つ年上のレオン・アルヴェスト侯爵の叔母、オルテン夫人だった。

 夫に先立たれてからは、ご自身の屋敷で暮らしている。私も母に連れられて、何度か訪ねたことがあった。


「レオンから、お返事を預かってきました」


 扇の陰で、薄い封筒が差し出される。

 私は両手で受け取った。


「ありがとうございます」

「今夜は、きちんと食べてお眠りなさい。明日は朝から出かけるのでしょう」


 私は頷いた。

 夫人は私の肩を軽く撫で、客の輪へ戻っていった。


 封筒は、すぐには開かなかった。

 指の腹で、そこに書かれた自分の名をなぞる。


 レオン様がこの家へ求婚に来てくれたのは、私が十四だった頃だ。


 出会いは、親戚の家で催された夏の集まりだった。

 私は挨拶を終えると、持参した画帳を抱えて庭へ出た。

 人のいない池のほとりで、石に止まった鳥を描いていたのだ。


「こちらは、何を?」


 後ろから声をかけられ、慌てて画帳を閉じた。

 振り返ると、背の高い青年がいた。少し前に当主になったばかりのアルヴェスト侯爵だと、紹介されたときに聞いていた。


「絵を。鳥がおりましたので」

「拝見しても?」


 見せてから、後悔した。

 彼は黙っていた。随分長く。


「……こちらの」

「鳥です」

「ええ」

「太った犬ではありません」


 レオンは口元を押さえた。


「犬とは、申し上げていません」

「顔に書いていらっしゃいます」


 言った後で、今度こそ青ざめた。

 侯爵に何という口を利いたのだろう。


 ところが彼は笑った。

 気を悪くした様子もなく、私の横に腰を下ろした。


「鳥は難しいのですね」

「動くので。首をこちらへ向けるまで待っていたら、飛んでしまいました」

「では、動かないものなら」


 彼が池の向こうを指す。

 石造りの東屋が、木々の間に見えていた。


「あちらなど、いかがでしょう」


 私は画帳を開き直した。

 彼は隣で静かに座っていた。早く仕上げろとも、もう戻ろうとも言わなかった。


 描き終えた東屋は、少し傾いていた。

 レオンはそれを見て、こちらにも何か住んでいるのですかと尋ねた。

 私が睨むと、彼はまた笑った。


 次の集まりでも、彼は私を見つけてくれた。

 描きかけの絵のことを聞かれ、私は、まだ描けていないと答えた。

 その次にも、同じ返事をした。


 レオンから縁談が来たのは、その秋だった。


 父は断った。

 侯爵家の当主を婿に迎えることはできず、私を嫁に出せば跡継ぎがいなくなる。そう説明された。


「私にはミレーヌもおりますが」

「あの子に務まると思うのか」


 父の言葉に、私は何も言えなくなった。


 レオンには、自分で返事をした。

 家を継がなければならないため、お受けできません、と。


 会って話したのは、それが最後だった。


 あの頃の私は、彼を好きだったのだと思う。

 けれど、それを育てる前に終わらせた。

 ジュリアンを好きになったことまで、嘘にはならない。


 そのジュリアンと婚約を解消して一月ほど経った頃、レオンから手紙が届いた。


 婚約解消をオルテン夫人から聞いたこと。

 よければ、一度会って話したいこと。


 最後の一行を、私は何度も読んだ。


『私は今も、あなたとの結婚を望んでいます』


 すぐには返事を書けなかった。

 嬉しいと感じた自分が、恐ろしかった。

 婚約を破棄されたばかりなのに。次の相手を探していたと思われるのではないか。


 けれど、彼の手紙は私を急かさなかった。

 二通目は、叔母が庭の薔薇を枯らしかけているという話だった。

 三通目には、その薔薇が持ち直したと書かれていた。


 私はようやく、よかったですね、と返事を書いた。

 そこから、手紙が続いた。


 妹の式が済んだら会いたいと伝えたのは、私だった。

 レオンは、叔母の家でお茶をしませんかと誘ってくれた。

 返事を書く途中で、私はペンを止めた。


 結婚式が済んだら、私には何があるのだろう。

 跡継ぎではなくなった。婚約者もいない。

 それなのに翌月の来客の予定だけは、私の部屋へ届いていた。


 私は新しい便箋を出した。


『家を離れることも、考えています』


 それ以上は書けず、長く机に座っていた。

 結局、その一行を消さずに送った。


 オルテン夫人から返事が来た。

 空いている客室があるので、必要ならしばらく滞在なさい、と。

 レオンからも、迎えの馬車を出すと申し出があった。


 私は式の翌朝をお願いした。


 父に伝えたのは、その後だ。

 夫人からは、父にも正式な滞在の申し入れが届いていた。私を客として迎え、しばらく預かるという内容だった。

 父は相手の名を確かめ、承諾の返事に署名した。


「好きにしなさい。先方に失礼のないようにな」


 それからは、また書類に目を戻した。


 私は今夜受け取った封筒を開いた。


『明日、十時に伺います。荷物が増えても大丈夫です』


 その下に、もう一行。


『画帳も、お忘れなく』


 私は手紙を胸に押し当てた。

 夜になってから、厨房で残っていたパンを一つ食べた。

 自分の部屋へ戻り、引き出しの底から古い画帳を取り出した。


     *


 翌朝、私の旅鞄は二つになった。

 服と身の回りのもの。少しずつ残していた小遣いの入った箱。それから、画帳と絵の道具。

 元の婚約のために用意された品は、ほとんど妹の部屋へ移されていた。


 朝食の席で、父が近く訪れる客の予定を話した。


「二人は明日、新婚旅行へ発つ。留守の間は、お前が客を迎えなさい」


 私は紅茶のカップを置いた。


「今日、オルテン夫人のお宅へ参ります。先日お話ししました」

「それは聞いた。来客の日には戻ればよい」


 妹が焼き菓子を割りながら、口を挟んだ。


「旅行から戻っても、しばらくお願いね。私、まだ何も分からないもの」

「しばらく、とは、いつまで?」


 妹の指が止まる。

 母は小さく笑った。


「そんなに難しく考えなくても。ミレーヌが慣れるまでよ」

「次の当主はミレーヌです。来客にも、本人が顔を見せるべきではありませんか」

「だから、留守の間だけ頼んでいる」


 父が苛立ったように言った。


「旅行から戻った後もと、今、ミレーヌが」

「お姉様、どうしてそんな意地悪をなさるの?」


 妹の声が震えた。

 ジュリアンがその肩に手を置く。


「まだ慣れていないんだ。少し助けてくれてもいいだろう」


 私は彼を見た。

 これから一緒に学ぶと言ってくれるのかと、一瞬だけ思った。

 彼が見ていたのは、私だった。


「私も、初めは何も知りませんでした」


 声が、思ったよりはっきり出た。


「お父様もお母様も、覚えるようにとおっしゃいました。分からなければ尋ねて、間違えたら謝って、覚えました」

「お前は跡継ぎだったからだ」

「今は、ミレーヌが跡継ぎです」


 父は黙った。

 母が私の前へ身を乗り出した。


「家族なのに、そんな言い方をしなくても」


 そのとき、廊下から足音がした。

 家令が扉の前で頭を下げる。


「アルヴェスト侯爵がお見えです」


 窓際の時計は、十時を指していた。


 父が立ち上がり、ジュリアンも椅子を引いた。

 母は私を一度見てから、髪へ手をやった。


 レオンは紺色の上着を着ていた。

 両親に挨拶した後、私へ視線を向ける。


「おはようございます、リディアさん」

「おはようございます」


 立ち上がると、椅子の脚が床に引っかかった。

 私は背もたれに手をついた。

 レオンは近寄り、椅子をそっと引いてくれた。


「お迎えに参りました」


 父が咳払いをした。


「娘は夫人のお宅へ滞在すると聞いておりますが、閣下自らお越しとは」

「叔母は家で待っております。私が迎えを申し出ました」

「以前のお話についても、改めてご相談できればと。跡継ぎも決まりましたので、今なら」


 レオンは父の話を聞き終えてから、私を見た。


「リディアさん。今日、叔母の家へいらしていただけますか」


 父が口を開いた。

 それより先に、私は言った。


「参ります」


 レオンが頷いた。

 手が差し出される。


「お姉様」


 妹の声に、私は振り返った。


「本当に行ってしまうの? 昨日まで、あんなに手伝ってくださったのに」

「結婚式のお手伝いは、昨日で終わったわ」

「でも、これからだって」

「これからのことは、ジュリアンと一緒に覚えてください」


 妹は夫を見上げた。

 ジュリアンは、困ったような顔をしていた。


「私を見捨てるの?」


 ミレーヌの目に涙が溜まる。

 何度も見てきた顔だった。

 泣かせないように、今まで私は持っているものを渡してきた。


「あなたの結婚を祝ったわ」


 私は妹の顔を見たまま言った。


「これからの暮らしまで、私が引き受けることはできない」


 母が立ち上がった。


「リディア。少し落ち着いて。後で話しましょう」


 後で。

 私はいつも、そうして待ってきた。


「荷物を、お願いします」


 家令に声をかけた。

 彼は父を見た。父はレオンの前で私を引き止める言葉を探しているようだった。

 その間に家令が頭を下げ、廊下へ出ていった。


 私はレオンの手に、自分の手を重ねた。


 玄関を出るまで、足元を見て歩いた。

 妹が呼ぶ声が一度聞こえたけれど、振り返らなかった。


 馬車には旅鞄が載せられていた。

 乗り込んで窓から屋敷を見ると、自分の部屋の窓が分かった。

 冬にはひどく冷え、夏には午後の日が差す部屋だった。

 絵を描くなら、朝がよかった。


「画帳は?」


 レオンに聞かれ、膝の上の鞄を押さえた。


「ここに」

「よかった」


 馬車が動き出す。

 私は窓を見つめていた。

 屋敷が小さくなり、塀の陰に消えてから、口を開いた。


「ご迷惑をおかけしました」

「時間どおりに出発できました。叔母も喜びます」


 答えが少し違っていて、私は顔を上げた。

 レオンは、私の手元を見ていた。

 鞄を握る指に気づき、力を抜こうとした。それなのに、うまく動かなかった。


「怖かったですか」


 頷いたら、涙が一つ落ちた。

 慌てて袖で拭こうとして、ハンカチを差し出される。


「今なら、戻れます」


 私は首を振った。


「戻りません」


 それだけは、すぐに言えた。

 レオンは御者に何も告げず、私がハンカチを受け取るまで手を差し出していた。


 泣いている間、彼は窓の外を見てくれた。

 落ち着いてから顔を上げると、馬車は緩やかな坂道を上っていた。


「……鳥の絵を覚えていらしたんですね」

「ええ。あのときは、失礼いたしました」

「まだ犬だと思っていらっしゃるでしょう」


 彼の口元が緩んだ。


「今度、もう一度拝見しても?」

「もっと上手に描けたら」


 泣いたばかりの声で答える。

 レオンは、楽しみにしていますと言った。


 私はハンカチを握ったまま、少し笑った。


     *


 オルテン夫人の家では、客室の窓から庭が見えた。

 机は明るい場所に置かれていて、小さな花瓶に薔薇が三本挿してあった。


「あの手紙の薔薇ですか」

「ええ。何とか咲いたのよ」


 夫人は腰に手を当て、少し自慢そうに言った。


「レオンには大げさに書かれたでしょう」

「お水をお忘れになったと」

「二日だけです」

「暖かい部屋に置いたまま、二日でした」


 背後からレオンが言い添え、夫人は彼を睨んだ。

 私は笑ってしまい、慌てて口を押さえた。

 夫人は私にも顔を向けたが、その目は笑っていた。


 旅鞄を開くのは後にして、お茶にしましょうと誘われた。

 席につくと、夫人が小さな皿を寄せてくれる。


「こちらには胡桃が入っていないそうよ。好みを聞かせてくれたでしょう」


 私は手紙で、夫人に尋ねられるまま書いていた。

 それでも菓子を見た途端、胸が詰まった。


 ジュリアンがくれた、小さな箱を思い出したのだ。


 あのとき、嬉しかった。

 彼が優しかったことまで、なくなったわけではない。

 けれど、その優しさだけを拾って、あの家に留まり続けることはできなかった。


 私は皿から一つ取った。

 口に入れると、蜜柑の皮の香りがした。


「美味しい」


 夫人は満足そうに頷いた。

 レオンも一つ取り、同じ菓子を食べた。


 茶会が終わる頃、私は立ち上がって盆へ手を伸ばした。


「私が運びます」


 侍女に声をかけると、彼女は驚いた顔をした。

 夫人が、まだ皿に残っている菓子を指す。


「リディアさん、もう一ついかが?」

「ですが」

「私は食べたいわ。付き合ってくださらない?」


 私は盆から手を離し、座り直した。

 侍女が使い終えた食器を下げ、新しいお茶を注いでくれる。

 自分だけ座っていることに落ち着かず、膝の上で指を擦った。


 レオンは話を続けた。

 屋敷の庭に池があること。そこには本物の鳥が来ること。


「本物の、は不要です」


 言い返すと、夫人が笑った。

 私は菓子をもう一つ食べた。


 翌朝は、誰にも起こされなかった。


 目が覚めたときには、薄いカーテンが白く光っていた。

 時計を見て飛び起き、着替えながら何度も釦を掛け違えた。


 廊下に出ると、侍女が花瓶を取り替えていた。


「申し訳ありません。寝過ごしてしまって」

「朝食をお持ちしてもよろしいですか」

「奥様は」

「庭にいらっしゃいます」


 食堂へ行くと、夫人が庭から戻ってきた。

 私の顔を見るなり、よく眠れたかと尋ねる。


 叱られると思って用意した言葉が、口の中で止まった。


「……はい」

「それはよかった。レオンは午後に来るそうよ。あなたに予定がなければ、庭を案内したいと」


 私は頷いた。

 予定は、何もなかった。

 そう気づいた途端に不安になり、何か手伝いを申し出そうになった。


 夫人の向こうに、客室の窓が見える。

 あの机に、画帳を広げたまま置いてきた。


「それまで、お部屋で絵を描いていてもよろしいですか」

「もちろん。できたら、見せてちょうだい」


 私は朝食を食べてから、部屋へ戻った。

 最初に描いたのは、花瓶の薔薇だった。


     *


 レオンの屋敷を訪れたのは、その三日後だ。

 オルテン夫人も一緒だった。


 庭の池には、本当に鳥がいた。

 私が画帳を取り出すと、夫人は木陰の椅子で休むと言った。レオンは傍らに立ったまま、鳥を見ていた。


「座っていても、よろしいのですよ」

「私が動くと、飛んでしまいそうで」


 鳥は何かを啄み、ひょいと首を上げた。

 私は急いで鉛筆を動かす。

 脚を描いているうちに、鳥は飛んでいった。


 ため息をつくと、頭の上で笑う気配がした。


「まだ、お見せしません」

「見たい顔をしていましたか」

「とても」


 レオンが私の横へ座った。

 私は画帳を少し傾け、未完成の鳥を見せた。


「今度は、分かります」

「前も分かったことにしてください」

「では、上達なさいました」


 私はその頁を破るふりをした。

 彼が慌てて手を伸ばし、私たちは顔を見合わせて笑った。


 笑いが収まってから、レオンは画帳を見たまま言った。


「また会ってくださって、ありがとうございます」


 私は鉛筆を止めた。


「こちらこそ。迎えに来てくださって」

「結婚のお話ですが」


 手が、膝の上で強張った。

 レオンはそれに気づいたのか、少し間を置いた。


「私は、お受けいただけるよう願っています。ただ、叔母の家に滞在することとは、別に考えてください」


 私は彼を見た。


「お断りしたら、出ていかなければならないのでは」

「叔母は、そのような条件をつけていません」


 木陰を見ると、夫人は庭師を呼び止め、薔薇の植え替えについて話していた。


「お手紙に、そのことまで書かせるべきでしたね」

「いいえ」


 私は首を振った。

 夫人の手紙は、何度も読んだ。けれど好意を受け取るたびに、その後で何を求められるのかと考えてしまっていた。


「今、伺えてよかったです」


 レオンが頷く。

 池の水面に、小さな輪が広がった。


「私、ジュリアンのことを好きでした」


 彼に会う前から、言わなければと思っていた。

 昔からずっと、あなただけを好きだったと言えればよかったのかもしれない。けれど、それは違う。


「すぐにお返事をしたら、あなたにも失礼な気がして」

「ええ」


 彼は静かに聞いていた。


「でも、お会いしたかったのは、本当です」


 最後だけ、声が小さくなった。

 レオンがこちらへ顔を向ける。


「それを伺えて、よかったです」


 彼は笑った。

 私も少しだけ、肩の力が抜けた。


「来週、町へ行きませんか。画材店があるのです」


 私は画帳を見下ろした。

 古い鉛筆は、もう短くなっていた。


「行きたいです」


 レオンは日を決め、私の画帳を覗いた。

 今度は、隠さなかった。


     *


 父から手紙が届いたのは、翌週だった。


 来客の日を知らせる短い手紙だった。

 最後に、午前中には戻るように、と書いてある。


 私は便箋を出し、その日は伺いませんと返事をした。

 何度も書き直し、余計な説明ばかり長くなるので、最後は最初の一文を残した。


 その日の午後、レオンと画材店へ行った。

 顔料の並ぶ棚の前で、私は青を一つ手に取った。


「それになさいますか」

「少し高いので、こちらに」


 安い方へ手を伸ばすと、レオンが二つの瓶を並べた。


「色も違うようですが」

「ええ。でも」


 私は鞄の中の財布を確かめた。

 買えないわけではなかった。

 それでも、誰も食べないものにお金を使うのがためらわれた。


 レオンは、買ってあげましょうかとは言わなかった。

 隣で瓶を見ながら、どんな絵に使うのですかと尋ねた。


「池を。晴れた日に、もう一度」

「では、晴れるといいですね」


 私は、初めに選んだ青を買った。

 店を出るとき、包みを自分の胸に抱いた。


 実家で何があったのかは、後に母の手紙で知った。


 妹夫婦は旅行へ出かけていた。父は客を迎えたが、仲介を引き受けていた親戚の令嬢の縁談について尋ねられ、何も答えられなかったという。

 私が揃えた双方の希望と、次に確かめることを書いた覚え書きは、家令に渡してあった。

 父はそれを読んでいなかった。


 話はまとまらず、相手の家は改めて連絡すると言って帰った。


『あなたがいれば、滞りなく済んだのに』


 母はそう書いていた。

 私は読み終えた手紙を、引き出しにしまった。

 翌朝、机の上に画帳を広げた。


 妹夫婦が帰ると、今度はミレーヌから手紙が来た。


 母に客の名を覚えるよう言われた。父は何を聞いても機嫌が悪い。ジュリアンは、自分にも分からないと言う。

 最後には、次の食事会だけでよいから来てほしいとあった。


 私は一晩置いてから返事を書いた。


 家令が持っている覚え書きを、二人で読んでほしいこと。

 分からない点は、両親に確認してほしいこと。

 私は出席しないこと。


 封をした後でも、胸は苦しかった。

 妹が泣いている様子を想像すると、馬車を頼みそうになる。


 私は部屋を出て、夫人を探した。

 夫人は居間で、刺繍の糸を解いていた。


「お茶をご一緒しても、よろしいですか」


 それだけ尋ねると、夫人は椅子を指した。


「もちろん。今日はあなたの好きな菓子があるの」


 私は隣に座った。

 その日は、家へ帰らずに済んだ。


     *


 レオンと会う日が、少しずつ増えた。


 晴れた日には池へ行き、雨の日にはオルテン夫人の居間で話した。

 町へ出かけた帰りに靴が擦れたときは、もう少し歩けると言いかけて、休みたいと言い直した。

 彼は近くの店に席を取り、私が座るまで待った。


 ある朝、手紙で翌日の訪問を尋ねられた。

 私は、描きかけの絵を仕上げたくて、返事に迷った。


 彼と会いたい。

 けれど、せっかく混ぜた色を、もう一度作れる気がしなかった。


 長く悩んで、一日延ばしてもらえないかと書いた。


 返事はすぐに来た。


『では、明後日に。絵を拝見できるのを楽しみにしています』


 約束の日、レオンはいつもと同じ顔で訪ねてきた。

 私は描いた池の絵を見せた。

 鳥は小さく、遠くに描いておいた。


「ずいぶん向こうへ行ってしまったのですね」

「あの鳥は、そういう鳥なんです」


 笑い合ってから、私は尋ねた。


「ご予定を変えていただいて、怒っていらっしゃいませんか」


 レオンは驚いた顔をした。


「前もって、お知らせいただきましたよ」

「でも」

「昨日は、叔母から絵が進んでいると聞きました。邪魔をせずによかったと思いました」


 私は彼の顔を見た。

 言葉どおりに受け取ってよいのか、確かめたかった。


 レオンはしばらく待ち、それから絵を指した。


「こちらは、頂けるのですか」

「……まだ、差し上げるとは」

「失礼しました」


 あまりに残念そうなので、私は笑ってしまった。


「そのつもりで描いていました」


 彼の顔が明るくなる。

 私は絵を持ち上げ、乾いていることを確かめてから渡した。


 レオンは両手で受け取り、長く眺めていた。

 その顔を、今度描いてみたいと思った。


 家を出て一月ほど経った頃、オルテン夫人に付き添って夜会へ出た。

 新しいドレスは深い青だった。仕立屋の勧めた桃色よりも、自分で選んだ布に心が動いた。


 レオンは会場の入口で待っていた。


「よくお似合いです」


 彼が笑う。

 私は手を取る前に、一度、裾を見下ろした。


「私も、この色が好きです」


 声に出すと、もっと好きになった。


 会場では、父と母にも会った。

 妹夫婦も一緒だった。


 ミレーヌは私のドレスを見て、それからレオンの腕に置かれた私の手を見た。

 母が口を開きかけたが、夫人が先に挨拶をした。


「今夜はリディアさんに付き合っていただいているの。楽しみにしてきたのよ」


 母は笑顔を作った。

 父はレオンと、当たり障りのない話をした。


 妹が私へ顔を寄せる。


「手紙、読んでくださった?」

「ええ。お返事をしたでしょう」

「あれでは困るの。食事会で、お母様に叱られたわ」


 妹は、すぐ傍にいる母を見なかった。


「ウェルナー夫人の席が遠いって。お姉様が決めてくだされば、あんなことにはならなかったのに」

「お膝が悪いことは、覚え書きに書いてあるわ」

「全部読んでいたら、間に合わないもの」


 私は返事をしなかった。

 ミレーヌは唇を噛み、それからジュリアンの袖を引いた。


「あなたからも、お願いして」


 彼は一度父を見てから、私へ顔を向けた。


「僕も、先方の息子と別の家の青年を間違えてしまって。縁談のことで声をかけたら、相手には既に婚約者がいたんだ」


 彼の声が小さくなる。


「父上にも、あれほど説明しただろうと叱られた。君は、ああいうことをよく覚えているから」

「覚えるように言われて、覚えたのよ」

「そうだけど、僕らはまだ――」

「私が跡継ぎを降ろされたのは、半年以上前です」


 彼は口を閉じた。

 妹が目元を押さえる。


「旅行から帰っても、挨拶ばかりなの。ジュリアン様と出かける時間もないわ」


 私は、描けなかった庭の花を思い出した。

 花を描く代わりに付き合った、妹の買い物も。


「お姉様、次の一度だけ。うまくできなかったら、お父様が私たちの旅行を取りやめるって」

「二人で準備をすればいいわ」


 私は妹の手を取らなかった。


「分からないことは、今、お父様とお母様に尋ねて」


 父がようやく、ミレーヌの方を向いた。


「戻ったら話す。今夜は、客に挨拶をしなさい」


 妹は夫を見上げたが、ジュリアンも顔を逸らした。

 レオンとオルテン夫人の前で、二人ともそれ以上は頼めなかった。


 そのとき、父の肩越しに、一人の紳士が近づいてきた。

 私も何度か会ったことがある。先日、姪の縁談の相談に伯爵家を訪ねた人だった。


「伯爵。仲介の件ですが、別の方にお願いすることにしました」


 父の顔から笑みが消えた。


「先日は、娘が急に家を離れまして。手違いが」

「あなたにお願いした話です。先方の希望も、今後の予定も、その場でお答えいただけなかった」


 紳士は私に会釈した。


「これまでのお心遣いには感謝しています、リディア嬢」


 父が何か言いかけたが、相手は挨拶を終えると離れていった。

 父は隣を見た。母は扇を開き、口元を隠した。


「大事なときに娘がいないと、困りますわね」


 母の声に、オルテン夫人が顔を向けた。


「私の家への滞在は、伯爵に書面で承諾いただいています」

「ええ、もちろん。でも、この子にも、家のことをもう少し考えてほしいというだけですの」

「婚約を解消された後も、妹さんの式を整えたのでしょう。私には、十分に家のことを考えたように見えました」


 夫人は穏やかに言った。


「今後は、次の当主に選ばれたお嬢さんに、ご両親で教えて差し上げてください」


 母の扇が止まった。

 いつものように私を見たが、私は何も言わなかった。

 父も助け舟を出さなかった。遠ざかる紳士の背中を、まだ見ていた。


 挨拶を終えて離れようとしたところで、ジュリアンが呼び止めた。


「リディア。少し、話せないか」


 以前より、疲れた顔をしていた。

 ミレーヌがその袖を掴む。


「何を話すの?」

「少しだけだよ」


 私は首を振った。


「今夜は、約束があります」


 レオンの袖に触れた。

 彼は私を見て、頷いた。


「踊っていただけますか」

「はい」


 広間の中央へ歩き出した。

 ジュリアンが何を話したかったのかは、聞かなかった。


 曲が始まる。

 レオンの手が私の背に添えられた。


「苦しくありませんか」


 私は少し考えた。

 胸には、まだ痛むところがあった。

 両親が私を呼び戻す理由は変わらず、妹は私の返事を受け入れていない。


 それでも、今夜このドレスを着て来られた。

 レオンの手を取って、ここに立っている。


「踊りたかったんです」


 私は答えた。


「あなたと」


 レオンの足が一拍遅れた。

 私は顔を上げる。


「閣下でも、間違えることがあるんですね」

「あります。今のようなことを、急に言われると」


 彼の耳が少し赤かった。

 私は笑い、次の一歩を一緒に踏み出した。


     *


 求婚の返事をしたのは、その夜会の翌週だった。


 レオンの屋敷の庭は、若葉が風に揺れていた。

 オルテン夫人は暖かい居間で待っていると言い、私たちは池のほとりを歩いた。


 私は手袋をはめた手を握り、ほどき、もう一度握った。


「レオン様」


 彼が足を止める。


「結婚のお話を、お受けしたいです」


 練習してきた言葉は、その後にも続いていた。

 けれど、彼がじっとこちらを見るので、すべて飛んでしまった。


「本当に?」


 私は頷いた。


「あなたがお迎えに来てくださったから、というだけではありません」


 彼の上着の袖に、小さな葉がついていた。

 私はそれを取った。


「会う約束のある日は、朝から時計を見ます。帰られた後は、話し忘れたことを手紙に書いています」


 目を上げる。


「絵を描いていても、あなたに見せたいと思うんです。……そういう毎日を、これからも続けたいです」


 レオンが私の手を取った。

 今度は、手袋越しに両手で包まれた。


「私もです」


 短い返事だった。

 彼は何か言おうとして、息をつき、笑った。


「長く考えていたのに、言葉が出ません」

「私も、練習したんです」

「今のお返事を?」

「ええ。もう少し、きちんと言うつもりで」


 レオンは私の手を持ち上げ、指先に口づけた。

 私は頬が熱くなり、目を逸らした。


 池の向こうに東屋があった。

 あの夏に描いたものとは違う、彼の家の東屋だった。


「あちらを描いても、よろしいですか」

「ええ。ただ、その前に」


 私が顔を戻すと、彼は少し身を屈めた。


「口づけをしても?」


 今度は声が出なかった。

 私は頷いて、彼の袖を掴んだ。


 唇が触れたのは、ほんの一瞬だった。

 それでも、彼が離れた後まで、胸が忙しく鳴っていた。


「もう一度、お願いしてもよろしいですか」


 レオンが尋ねる。

 私は彼の袖を掴んだまま、小さく頷いた。


     *


 結婚式は、その夏に決まった。


 父は婚姻に同意した。

 侯爵家との縁を断ちたくはなかったのだろう。両家の話し合いにはオルテン夫人も入り、私が実家へ定期的に手伝いに戻るという話は、条件に含まれなかった。

 その翌週、父の同意書を添えて婚姻の届けを出した。式の準備を待たず、私たちは夫婦になった。


 侯爵家へ移る日、夫人は庭の薔薇を一輪持たせてくれた。


「お茶には、いつでもいらっしゃい」


 私は、必ず伺いますと答えた。

 馬車ではレオンが隣に座り、今度の部屋は朝の光が入ると教えてくれた。絵を描く机を、どこへ置くか相談したかった。


 ひと月も経たないうちに、両親が侯爵家へ訪ねてきた。

 父は挨拶を済ませると、一枚の名刺をレオンへ差し出した。


「この方とは、閣下もご親交がおありでしょう。改めて、私をお引き合わせいただけませんか」


 夜会で、父の仲介を断った紳士の名だった。

 レオンは受け取らず、父の前へ視線を戻した。


「先方が依頼を取り下げられた事情は、伺っています。私から再考を求めるつもりはありません」

「ですが、今は親族なのですから」

「新しい依頼をお受けになるなら、伯爵がご自身でお話しください」


 父は名刺を引っ込めた。

 母が私へ身を寄せる。


「リディアからもお願いして。あなたの実家なのよ」

「お父様が引き受けたお仕事です」


 母は私の手を握ろうとした。

 私は膝の上から手を動かさなかった。


「それなら、次のお茶会には二人でいらして。お母様のお友達にも、お披露目しなくては」

「結婚式で、お会いします」

「そうではなくて、私は侯爵夫人の母として――」


 そこで母は言葉を切った。

 レオンは私の返事を待っていた。


「母として来てくださるなら、私の話も聞いてほしいです」


 私は二人を見た。


「私に何をしてほしいかばかりでなく、今、どう暮らしているかを」


 父は黙っていた。

 母は口を開きかけ、閉じた。


「……侯爵家の暮らしは、困ることはないの?」


 初めて、母にそう聞かれた。


「ありません。絵を描く時間もあります」


 母は、お茶のカップを見下ろした。

 私は取り繕う言葉を足さなかった。


 両親は、その日、紹介状も訪問の約束も持たずに帰った。

 父の引き受けていた仲介は一件減り、次に残っている相談については、自分で希望を聞き直したという。母も妹の隣につき、来客の名前や家同士の関係を教えるようになった。

 その話を、私は後に母の手紙で読んだ。


 ミレーヌは、初夏の客を自分で迎えたという。

 母の手紙には、まだ不慣れだが少しずつ覚えているとあった。

 私は、その一文を二度読んだ。


 できるのだ。

 最初から、覚え始めることはできたのだ。


 手紙を閉じたとき、少し腹が立ち、少しほっとした。

 その両方を抱えたまま、私は自分の式の準備を進めた。


 レースは、新しく選んだ。

 細い葉の模様だった。

 仕立屋が蔓薔薇の見本も広げたけれど、私は葉の方を指した。


「こちらでお願いします」


 レオンに相談すると、好きな方にしましょうと言われた。


「見たいのは、あなたが着ているところですから」


 私は返事をする代わりに、見本帳で顔を隠した。


 式の朝、母から手紙が届いた。

 両親は参列するが、妹夫婦は来ないという。ミレーヌが私の結婚をまだ素直に喜べずにいるので、一言、私から手紙を送ってやってほしいとあった。


 私は便箋を出しかけ、窓辺の時計を見た。

 もう、支度を始める時間だった。


「お返事は、明日以降にします」


 手紙を持ってきた侍女に伝える。

 彼女は頷き、髪に挿す花を運んできた。


 レオンの庭で咲いた、小さな青い花だった。

 少し前に二人で選んだとき、彼は、私の買った顔料に似ていますねと言った。


 鏡の中で、白いドレスに青が映えた。

 侍女が手袋の釦を留めてくれる。


「きつくはありませんか」

「少しだけ。直していただけますか」

「もちろんです」


 釦が一つ外され、布が丁寧に整えられた。

 私は指を動かした。


「こちらで、いかがでしょう」

「ええ。ありがとうございます」


 扉が叩かれた。

 オルテン夫人が顔を出す。


「まあ」


 それだけ言って、しばらく私を見ていた。

 目元を押さえるので、私はつられて泣きそうになった。


「まだ泣いてはだめですよ」


 夫人が言う。

 先に泣いていらっしゃるのはどなたですかと返すと、彼女は笑った。


 廊下へ出る。

 今日は、席順の相談をする人も、来客の案内を頼む人も、私を呼び止めなかった。


 式場の前で、レオンが待っていた。

 私を見て、彼は背筋を伸ばした。

 そのまま黙ってしまう。


「……何か、変でしょうか」


 尋ねると、彼は首を振った。


「綺麗で」


 途中で声が止まり、私まで俯いてしまった。

 後ろで夫人が咳払いをしたので、二人で顔を上げる。


「リディア」


 レオンが手を差し出した。


 あの春の朝も、彼はこうして私を待っていた。

 あのとき私は、屋敷を出るまで足元ばかり見ていた。


 今日は、彼の顔を見て手を取った。


「レオン様」

「はい」

「式が済んだら、少し食べる時間をくださいね。お祝いの挨拶ばかりでは、また食べ損ねてしまいそう」


 レオンが笑った。


「隣で、一緒に食べましょう」

「蜜柑のお菓子も」

「あります。叔母が確かめていました」


 扉の向こうで、音楽が始まった。

 彼の手を握り直す。


 私の手袋も、彼の手も、ちょうどよかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
姉の立場を全部奪った妹とそれを是とした両親、そして婚約者を裏切って妹に乗り換えたバカな男と揃いもそろってダメダメな家とそれでも付合おうと思う人達がいるの? 普通は社交には呼ばれない、取引は即中断、嘲笑…
ヒロインがレオンに惚れるのはわかるけど、なんでレオンがヒロインに惚れたのか、叔母がそこまでヒロインに好意的なのかさっぱりわからなかった。 同情する=恋をするではないし、ヒロインはすぐ手紙を書いたら婚約…
翌週、また翌週、でのんびりと話が続いているのに 時折「手紙を受け取ったら即日で午前中に帰ってこい」「その日には帰らずに済んだ」みたいなめちゃくちゃ急なスケジュールが混ざるのは何なんだろうか。 逆に「来…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。