妹の結婚式を終えたので、今度は私が幸せになる番です
妹の花嫁衣装には、私が選んだレースが使われていた。
蔓薔薇の模様が袖口から指先へ伸びる。仕立屋で見本を広げたとき、思わず触れてしまったものだ。私の式のために注文したはずのそれは、今、ミレーヌの手首を飾っている。
「お姉様、ここ。まだ留まっていないわ」
鏡の前から呼ばれ、私は妹の手を取った。
手袋の釦は小さく、爪の先ほどしかない。三つ留めたところで、ミレーヌが指を動かした。
「きつくない?」
「少しだけ。でも平気。ジュリアン様がお好きなんですもの、この手袋」
そう。
その言葉を、私は口の中で飲み込んだ。
私と一緒に見本を選んだときにも、彼は同じことを言った。リディアによく似合うと思う、と。
最後の釦を留める。
妹は満足そうに鏡へ向き直った。
「お姉様も、いつか結婚できるといいわね」
髪を整えていた侍女の手が、一瞬止まった。
ミレーヌは気づかなかった。妹が見ているのは、鏡の中の自分だけだった。
「ええ。私もそう思うわ」
私の声に、今度は妹が振り返った。
「……怒っていらっしゃる?」
「いいえ。手袋は、それで大丈夫?」
「ええ」
私は小さく頷き、花嫁の部屋を出た。
廊下には春の切り花の香りが満ちていた。披露宴の席順を確認していた家令が、私を見つけて駆け寄ってくる。
「リディア様。南の控室ですが」
「ウェルナー夫人は膝を痛めていらっしゃるから、一階をお使いいただいて。階段を上がらせないよう、案内の者にも伝えてください」
「承知いたしました。それから、新郎のお母上が」
「お迎えします」
母は花嫁の部屋にいた。父は式場で客を待っている。
私には、次々と人が用事を告げに来る。
半年前までは、今日の花嫁は私のはずだった。
*
私たちの家には、娘が二人いた。
十七歳の私は伯爵家を継ぐために育てられ、一つ年下のミレーヌは、皆に可愛がられるために育てられた。
私が乗馬の稽古で落ちると、父は、跡継ぎがその程度で泣くなと言った。
妹が馬を怖がると、無理をさせることはないと言った。
私が客の名前を間違えると、母はその晩、私が覚えるまで名簿を読ませた。
妹が間違えると、まだ幼いのだからと客に微笑んだ。
同じ年齢になれば同じことを求められるのだと、初めは思っていた。
けれどミレーヌが十五になっても、十六になっても、母の言葉は変わらなかった。
「あなたはお姉さんでしょう」
妹が私の誕生日に届いた桃色のドレスを欲しがった日も、そう言われた。
「よく似合っているじゃない。リディア、譲ってあげなさい」
私が着る前に、妹はそれを着ていた。
母は裾を整えてやりながら、もう一着注文すればいいと言った。
私には、去年のドレスを直したものが渡された。
絵を描くのが好きだった。
十五の春、庭の花が咲き揃うのを待って、朝から画帳を広げたことがある。花弁を描き始めたところで、母が私を呼んだ。
「お客様がいらっしゃるの。今日は隣でお話を聞きなさい」
翌日は礼法の稽古があり、その翌日には妹の買い物に付き添った。
ようやく庭へ出られたときには、描こうとしていた花は散っていた。
それでも、家を継ぐのは私だった。
厳しくされる理由があるのなら、堪えられると思っていた。
ジュリアンとの婚約が決まったのは、私が十五のときだ。
子爵家の次男である彼が婿に入り、私と共に伯爵家を支える。父が決めた縁談だったけれど、私は彼を好きになった。
冬の訪問のとき、ジュリアンは焼き菓子を二種類持ってきた。
一つは、家族のための大きな箱。もう一つは、私のための小さな箱だった。
「君は胡桃が苦手だろう。こちらには入っていない」
家族も知っているはずのことを覚えていてくれた。それだけで、箱を開ける前から嬉しかった。
私は彼の訪問を待つようになった。
会えば、いずれ二人で暮らす部屋や、庭に植えたい花の話をした。
少しずつ、その時間にミレーヌが加わった。
「二人きりで、何をお話ししているの?」
妹は私の隣ではなく、彼の隣に座る。
私が父から聞いた話を伝えている途中でも、袖を引いて庭へ誘った。
ジュリアンが断ろうとすると、頬を膨らませる。
「お姉様は、いつでもお会いできるでしょう」
私は笑って、行ってきてと言った。
次の訪問では、と考えていた。
そうして待った次の訪問で、ジュリアンは婚約を解消したいと言った。
「君といると、いつも正しく振る舞わなければならない気がする」
父の書斎だった。
私の向かいにジュリアンとミレーヌが座り、両親は私の両側にいた。
「ミレーヌといると、自然でいられるんだ」
妹がハンカチで目元を押さえた。
「ごめんなさい、お姉様。いけないことだと分かっていたの。でも、好きになってしまって」
二人は手を繋いでいた。
いつからなのかと聞いても、誰も答えなかった。
「結婚前でよかったと考えなさい」
母の手が、私の肩に触れる。
「夫婦になってからでは、もっと大変だったわ」
「では、この家はどうするのですか」
私は父に尋ねた。
ジュリアンがいなくなるなら、別の婿を探すのか。それとも、私が一人で継ぐことになるのか。
「ミレーヌに継がせる」
父は既に決めていた。
「ジュリアンも予定どおりこの家へ入る。その方が話が早い」
妹がハンカチを下ろした。
濡れた目が、父を見て明るくなる。
「私で、よろしいの?」
「リディアに教えてもらいなさい。何も案ずることはない」
私は膝の上で指を組んだ。
何のために、あんなに覚えたのだろう。
友人の誘いを断った日も、描きかけの絵を片づけた日も、家を継ぐためだと思っていた。
父は机から書類を取り出した。私を次期当主とする内定を取り消し、ミレーヌに変更するという。
私の了承を記す欄があった。
「今日、署名しなければいけませんか」
「長引かせてどうする」
父の声が低くなった。
「皆が困るだろう」
私はそこに、自分の名を書いた。
母はほっと息をつき、ミレーヌはジュリアンの肩にもたれた。
私の顔を見ていた人は、一人もいなかった。
*
結婚式では、妹は一度も足を踏み外さなかった。
前日に私が裾を持ち、何度も一緒に歩いたからだ。
新郎新婦が誓いを交わす間、私は後方の席にいた。
手袋の釦が外れないか、そればかり気になった。
披露宴で、ジュリアンがこちらへ来た。
「ありがとう、リディア。ミレーヌも喜んでいた」
「そう。よかったわ」
「君なら、もっとふさわしい相手が見つかるよ」
彼は慰めるように笑った。
昔、小さな菓子箱を渡してくれたときと同じ顔だった。
「そうね」
返す言葉がそれしかなくて、私は客に呼ばれたふりをして離れた。
庭へ続く扉の脇で、ようやく息をつく。
昼から口にしたのは、冷めたお茶が半杯だけだった。
「リディアさん」
顔を上げると、白髪の婦人が立っていた。
以前、私に求婚してくれた、三つ年上のレオン・アルヴェスト侯爵の叔母、オルテン夫人だった。
夫に先立たれてからは、ご自身の屋敷で暮らしている。私も母に連れられて、何度か訪ねたことがあった。
「レオンから、お返事を預かってきました」
扇の陰で、薄い封筒が差し出される。
私は両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「今夜は、きちんと食べてお眠りなさい。明日は朝から出かけるのでしょう」
私は頷いた。
夫人は私の肩を軽く撫で、客の輪へ戻っていった。
封筒は、すぐには開かなかった。
指の腹で、そこに書かれた自分の名をなぞる。
レオン様がこの家へ求婚に来てくれたのは、私が十四だった頃だ。
出会いは、親戚の家で催された夏の集まりだった。
私は挨拶を終えると、持参した画帳を抱えて庭へ出た。
人のいない池のほとりで、石に止まった鳥を描いていたのだ。
「こちらは、何を?」
後ろから声をかけられ、慌てて画帳を閉じた。
振り返ると、背の高い青年がいた。少し前に当主になったばかりのアルヴェスト侯爵だと、紹介されたときに聞いていた。
「絵を。鳥がおりましたので」
「拝見しても?」
見せてから、後悔した。
彼は黙っていた。随分長く。
「……こちらの」
「鳥です」
「ええ」
「太った犬ではありません」
レオンは口元を押さえた。
「犬とは、申し上げていません」
「顔に書いていらっしゃいます」
言った後で、今度こそ青ざめた。
侯爵に何という口を利いたのだろう。
ところが彼は笑った。
気を悪くした様子もなく、私の横に腰を下ろした。
「鳥は難しいのですね」
「動くので。首をこちらへ向けるまで待っていたら、飛んでしまいました」
「では、動かないものなら」
彼が池の向こうを指す。
石造りの東屋が、木々の間に見えていた。
「あちらなど、いかがでしょう」
私は画帳を開き直した。
彼は隣で静かに座っていた。早く仕上げろとも、もう戻ろうとも言わなかった。
描き終えた東屋は、少し傾いていた。
レオンはそれを見て、こちらにも何か住んでいるのですかと尋ねた。
私が睨むと、彼はまた笑った。
次の集まりでも、彼は私を見つけてくれた。
描きかけの絵のことを聞かれ、私は、まだ描けていないと答えた。
その次にも、同じ返事をした。
レオンから縁談が来たのは、その秋だった。
父は断った。
侯爵家の当主を婿に迎えることはできず、私を嫁に出せば跡継ぎがいなくなる。そう説明された。
「私にはミレーヌもおりますが」
「あの子に務まると思うのか」
父の言葉に、私は何も言えなくなった。
レオンには、自分で返事をした。
家を継がなければならないため、お受けできません、と。
会って話したのは、それが最後だった。
あの頃の私は、彼を好きだったのだと思う。
けれど、それを育てる前に終わらせた。
ジュリアンを好きになったことまで、嘘にはならない。
そのジュリアンと婚約を解消して一月ほど経った頃、レオンから手紙が届いた。
婚約解消をオルテン夫人から聞いたこと。
よければ、一度会って話したいこと。
最後の一行を、私は何度も読んだ。
『私は今も、あなたとの結婚を望んでいます』
すぐには返事を書けなかった。
嬉しいと感じた自分が、恐ろしかった。
婚約を破棄されたばかりなのに。次の相手を探していたと思われるのではないか。
けれど、彼の手紙は私を急かさなかった。
二通目は、叔母が庭の薔薇を枯らしかけているという話だった。
三通目には、その薔薇が持ち直したと書かれていた。
私はようやく、よかったですね、と返事を書いた。
そこから、手紙が続いた。
妹の式が済んだら会いたいと伝えたのは、私だった。
レオンは、叔母の家でお茶をしませんかと誘ってくれた。
返事を書く途中で、私はペンを止めた。
結婚式が済んだら、私には何があるのだろう。
跡継ぎではなくなった。婚約者もいない。
それなのに翌月の来客の予定だけは、私の部屋へ届いていた。
私は新しい便箋を出した。
『家を離れることも、考えています』
それ以上は書けず、長く机に座っていた。
結局、その一行を消さずに送った。
オルテン夫人から返事が来た。
空いている客室があるので、必要ならしばらく滞在なさい、と。
レオンからも、迎えの馬車を出すと申し出があった。
私は式の翌朝をお願いした。
父に伝えたのは、その後だ。
夫人からは、父にも正式な滞在の申し入れが届いていた。私を客として迎え、しばらく預かるという内容だった。
父は相手の名を確かめ、承諾の返事に署名した。
「好きにしなさい。先方に失礼のないようにな」
それからは、また書類に目を戻した。
私は今夜受け取った封筒を開いた。
『明日、十時に伺います。荷物が増えても大丈夫です』
その下に、もう一行。
『画帳も、お忘れなく』
私は手紙を胸に押し当てた。
夜になってから、厨房で残っていたパンを一つ食べた。
自分の部屋へ戻り、引き出しの底から古い画帳を取り出した。
*
翌朝、私の旅鞄は二つになった。
服と身の回りのもの。少しずつ残していた小遣いの入った箱。それから、画帳と絵の道具。
元の婚約のために用意された品は、ほとんど妹の部屋へ移されていた。
朝食の席で、父が近く訪れる客の予定を話した。
「二人は明日、新婚旅行へ発つ。留守の間は、お前が客を迎えなさい」
私は紅茶のカップを置いた。
「今日、オルテン夫人のお宅へ参ります。先日お話ししました」
「それは聞いた。来客の日には戻ればよい」
妹が焼き菓子を割りながら、口を挟んだ。
「旅行から戻っても、しばらくお願いね。私、まだ何も分からないもの」
「しばらく、とは、いつまで?」
妹の指が止まる。
母は小さく笑った。
「そんなに難しく考えなくても。ミレーヌが慣れるまでよ」
「次の当主はミレーヌです。来客にも、本人が顔を見せるべきではありませんか」
「だから、留守の間だけ頼んでいる」
父が苛立ったように言った。
「旅行から戻った後もと、今、ミレーヌが」
「お姉様、どうしてそんな意地悪をなさるの?」
妹の声が震えた。
ジュリアンがその肩に手を置く。
「まだ慣れていないんだ。少し助けてくれてもいいだろう」
私は彼を見た。
これから一緒に学ぶと言ってくれるのかと、一瞬だけ思った。
彼が見ていたのは、私だった。
「私も、初めは何も知りませんでした」
声が、思ったよりはっきり出た。
「お父様もお母様も、覚えるようにとおっしゃいました。分からなければ尋ねて、間違えたら謝って、覚えました」
「お前は跡継ぎだったからだ」
「今は、ミレーヌが跡継ぎです」
父は黙った。
母が私の前へ身を乗り出した。
「家族なのに、そんな言い方をしなくても」
そのとき、廊下から足音がした。
家令が扉の前で頭を下げる。
「アルヴェスト侯爵がお見えです」
窓際の時計は、十時を指していた。
父が立ち上がり、ジュリアンも椅子を引いた。
母は私を一度見てから、髪へ手をやった。
レオンは紺色の上着を着ていた。
両親に挨拶した後、私へ視線を向ける。
「おはようございます、リディアさん」
「おはようございます」
立ち上がると、椅子の脚が床に引っかかった。
私は背もたれに手をついた。
レオンは近寄り、椅子をそっと引いてくれた。
「お迎えに参りました」
父が咳払いをした。
「娘は夫人のお宅へ滞在すると聞いておりますが、閣下自らお越しとは」
「叔母は家で待っております。私が迎えを申し出ました」
「以前のお話についても、改めてご相談できればと。跡継ぎも決まりましたので、今なら」
レオンは父の話を聞き終えてから、私を見た。
「リディアさん。今日、叔母の家へいらしていただけますか」
父が口を開いた。
それより先に、私は言った。
「参ります」
レオンが頷いた。
手が差し出される。
「お姉様」
妹の声に、私は振り返った。
「本当に行ってしまうの? 昨日まで、あんなに手伝ってくださったのに」
「結婚式のお手伝いは、昨日で終わったわ」
「でも、これからだって」
「これからのことは、ジュリアンと一緒に覚えてください」
妹は夫を見上げた。
ジュリアンは、困ったような顔をしていた。
「私を見捨てるの?」
ミレーヌの目に涙が溜まる。
何度も見てきた顔だった。
泣かせないように、今まで私は持っているものを渡してきた。
「あなたの結婚を祝ったわ」
私は妹の顔を見たまま言った。
「これからの暮らしまで、私が引き受けることはできない」
母が立ち上がった。
「リディア。少し落ち着いて。後で話しましょう」
後で。
私はいつも、そうして待ってきた。
「荷物を、お願いします」
家令に声をかけた。
彼は父を見た。父はレオンの前で私を引き止める言葉を探しているようだった。
その間に家令が頭を下げ、廊下へ出ていった。
私はレオンの手に、自分の手を重ねた。
玄関を出るまで、足元を見て歩いた。
妹が呼ぶ声が一度聞こえたけれど、振り返らなかった。
馬車には旅鞄が載せられていた。
乗り込んで窓から屋敷を見ると、自分の部屋の窓が分かった。
冬にはひどく冷え、夏には午後の日が差す部屋だった。
絵を描くなら、朝がよかった。
「画帳は?」
レオンに聞かれ、膝の上の鞄を押さえた。
「ここに」
「よかった」
馬車が動き出す。
私は窓を見つめていた。
屋敷が小さくなり、塀の陰に消えてから、口を開いた。
「ご迷惑をおかけしました」
「時間どおりに出発できました。叔母も喜びます」
答えが少し違っていて、私は顔を上げた。
レオンは、私の手元を見ていた。
鞄を握る指に気づき、力を抜こうとした。それなのに、うまく動かなかった。
「怖かったですか」
頷いたら、涙が一つ落ちた。
慌てて袖で拭こうとして、ハンカチを差し出される。
「今なら、戻れます」
私は首を振った。
「戻りません」
それだけは、すぐに言えた。
レオンは御者に何も告げず、私がハンカチを受け取るまで手を差し出していた。
泣いている間、彼は窓の外を見てくれた。
落ち着いてから顔を上げると、馬車は緩やかな坂道を上っていた。
「……鳥の絵を覚えていらしたんですね」
「ええ。あのときは、失礼いたしました」
「まだ犬だと思っていらっしゃるでしょう」
彼の口元が緩んだ。
「今度、もう一度拝見しても?」
「もっと上手に描けたら」
泣いたばかりの声で答える。
レオンは、楽しみにしていますと言った。
私はハンカチを握ったまま、少し笑った。
*
オルテン夫人の家では、客室の窓から庭が見えた。
机は明るい場所に置かれていて、小さな花瓶に薔薇が三本挿してあった。
「あの手紙の薔薇ですか」
「ええ。何とか咲いたのよ」
夫人は腰に手を当て、少し自慢そうに言った。
「レオンには大げさに書かれたでしょう」
「お水をお忘れになったと」
「二日だけです」
「暖かい部屋に置いたまま、二日でした」
背後からレオンが言い添え、夫人は彼を睨んだ。
私は笑ってしまい、慌てて口を押さえた。
夫人は私にも顔を向けたが、その目は笑っていた。
旅鞄を開くのは後にして、お茶にしましょうと誘われた。
席につくと、夫人が小さな皿を寄せてくれる。
「こちらには胡桃が入っていないそうよ。好みを聞かせてくれたでしょう」
私は手紙で、夫人に尋ねられるまま書いていた。
それでも菓子を見た途端、胸が詰まった。
ジュリアンがくれた、小さな箱を思い出したのだ。
あのとき、嬉しかった。
彼が優しかったことまで、なくなったわけではない。
けれど、その優しさだけを拾って、あの家に留まり続けることはできなかった。
私は皿から一つ取った。
口に入れると、蜜柑の皮の香りがした。
「美味しい」
夫人は満足そうに頷いた。
レオンも一つ取り、同じ菓子を食べた。
茶会が終わる頃、私は立ち上がって盆へ手を伸ばした。
「私が運びます」
侍女に声をかけると、彼女は驚いた顔をした。
夫人が、まだ皿に残っている菓子を指す。
「リディアさん、もう一ついかが?」
「ですが」
「私は食べたいわ。付き合ってくださらない?」
私は盆から手を離し、座り直した。
侍女が使い終えた食器を下げ、新しいお茶を注いでくれる。
自分だけ座っていることに落ち着かず、膝の上で指を擦った。
レオンは話を続けた。
屋敷の庭に池があること。そこには本物の鳥が来ること。
「本物の、は不要です」
言い返すと、夫人が笑った。
私は菓子をもう一つ食べた。
翌朝は、誰にも起こされなかった。
目が覚めたときには、薄いカーテンが白く光っていた。
時計を見て飛び起き、着替えながら何度も釦を掛け違えた。
廊下に出ると、侍女が花瓶を取り替えていた。
「申し訳ありません。寝過ごしてしまって」
「朝食をお持ちしてもよろしいですか」
「奥様は」
「庭にいらっしゃいます」
食堂へ行くと、夫人が庭から戻ってきた。
私の顔を見るなり、よく眠れたかと尋ねる。
叱られると思って用意した言葉が、口の中で止まった。
「……はい」
「それはよかった。レオンは午後に来るそうよ。あなたに予定がなければ、庭を案内したいと」
私は頷いた。
予定は、何もなかった。
そう気づいた途端に不安になり、何か手伝いを申し出そうになった。
夫人の向こうに、客室の窓が見える。
あの机に、画帳を広げたまま置いてきた。
「それまで、お部屋で絵を描いていてもよろしいですか」
「もちろん。できたら、見せてちょうだい」
私は朝食を食べてから、部屋へ戻った。
最初に描いたのは、花瓶の薔薇だった。
*
レオンの屋敷を訪れたのは、その三日後だ。
オルテン夫人も一緒だった。
庭の池には、本当に鳥がいた。
私が画帳を取り出すと、夫人は木陰の椅子で休むと言った。レオンは傍らに立ったまま、鳥を見ていた。
「座っていても、よろしいのですよ」
「私が動くと、飛んでしまいそうで」
鳥は何かを啄み、ひょいと首を上げた。
私は急いで鉛筆を動かす。
脚を描いているうちに、鳥は飛んでいった。
ため息をつくと、頭の上で笑う気配がした。
「まだ、お見せしません」
「見たい顔をしていましたか」
「とても」
レオンが私の横へ座った。
私は画帳を少し傾け、未完成の鳥を見せた。
「今度は、分かります」
「前も分かったことにしてください」
「では、上達なさいました」
私はその頁を破るふりをした。
彼が慌てて手を伸ばし、私たちは顔を見合わせて笑った。
笑いが収まってから、レオンは画帳を見たまま言った。
「また会ってくださって、ありがとうございます」
私は鉛筆を止めた。
「こちらこそ。迎えに来てくださって」
「結婚のお話ですが」
手が、膝の上で強張った。
レオンはそれに気づいたのか、少し間を置いた。
「私は、お受けいただけるよう願っています。ただ、叔母の家に滞在することとは、別に考えてください」
私は彼を見た。
「お断りしたら、出ていかなければならないのでは」
「叔母は、そのような条件をつけていません」
木陰を見ると、夫人は庭師を呼び止め、薔薇の植え替えについて話していた。
「お手紙に、そのことまで書かせるべきでしたね」
「いいえ」
私は首を振った。
夫人の手紙は、何度も読んだ。けれど好意を受け取るたびに、その後で何を求められるのかと考えてしまっていた。
「今、伺えてよかったです」
レオンが頷く。
池の水面に、小さな輪が広がった。
「私、ジュリアンのことを好きでした」
彼に会う前から、言わなければと思っていた。
昔からずっと、あなただけを好きだったと言えればよかったのかもしれない。けれど、それは違う。
「すぐにお返事をしたら、あなたにも失礼な気がして」
「ええ」
彼は静かに聞いていた。
「でも、お会いしたかったのは、本当です」
最後だけ、声が小さくなった。
レオンがこちらへ顔を向ける。
「それを伺えて、よかったです」
彼は笑った。
私も少しだけ、肩の力が抜けた。
「来週、町へ行きませんか。画材店があるのです」
私は画帳を見下ろした。
古い鉛筆は、もう短くなっていた。
「行きたいです」
レオンは日を決め、私の画帳を覗いた。
今度は、隠さなかった。
*
父から手紙が届いたのは、翌週だった。
来客の日を知らせる短い手紙だった。
最後に、午前中には戻るように、と書いてある。
私は便箋を出し、その日は伺いませんと返事をした。
何度も書き直し、余計な説明ばかり長くなるので、最後は最初の一文を残した。
その日の午後、レオンと画材店へ行った。
顔料の並ぶ棚の前で、私は青を一つ手に取った。
「それになさいますか」
「少し高いので、こちらに」
安い方へ手を伸ばすと、レオンが二つの瓶を並べた。
「色も違うようですが」
「ええ。でも」
私は鞄の中の財布を確かめた。
買えないわけではなかった。
それでも、誰も食べないものにお金を使うのがためらわれた。
レオンは、買ってあげましょうかとは言わなかった。
隣で瓶を見ながら、どんな絵に使うのですかと尋ねた。
「池を。晴れた日に、もう一度」
「では、晴れるといいですね」
私は、初めに選んだ青を買った。
店を出るとき、包みを自分の胸に抱いた。
実家で何があったのかは、後に母の手紙で知った。
妹夫婦は旅行へ出かけていた。父は客を迎えたが、仲介を引き受けていた親戚の令嬢の縁談について尋ねられ、何も答えられなかったという。
私が揃えた双方の希望と、次に確かめることを書いた覚え書きは、家令に渡してあった。
父はそれを読んでいなかった。
話はまとまらず、相手の家は改めて連絡すると言って帰った。
『あなたがいれば、滞りなく済んだのに』
母はそう書いていた。
私は読み終えた手紙を、引き出しにしまった。
翌朝、机の上に画帳を広げた。
妹夫婦が帰ると、今度はミレーヌから手紙が来た。
母に客の名を覚えるよう言われた。父は何を聞いても機嫌が悪い。ジュリアンは、自分にも分からないと言う。
最後には、次の食事会だけでよいから来てほしいとあった。
私は一晩置いてから返事を書いた。
家令が持っている覚え書きを、二人で読んでほしいこと。
分からない点は、両親に確認してほしいこと。
私は出席しないこと。
封をした後でも、胸は苦しかった。
妹が泣いている様子を想像すると、馬車を頼みそうになる。
私は部屋を出て、夫人を探した。
夫人は居間で、刺繍の糸を解いていた。
「お茶をご一緒しても、よろしいですか」
それだけ尋ねると、夫人は椅子を指した。
「もちろん。今日はあなたの好きな菓子があるの」
私は隣に座った。
その日は、家へ帰らずに済んだ。
*
レオンと会う日が、少しずつ増えた。
晴れた日には池へ行き、雨の日にはオルテン夫人の居間で話した。
町へ出かけた帰りに靴が擦れたときは、もう少し歩けると言いかけて、休みたいと言い直した。
彼は近くの店に席を取り、私が座るまで待った。
ある朝、手紙で翌日の訪問を尋ねられた。
私は、描きかけの絵を仕上げたくて、返事に迷った。
彼と会いたい。
けれど、せっかく混ぜた色を、もう一度作れる気がしなかった。
長く悩んで、一日延ばしてもらえないかと書いた。
返事はすぐに来た。
『では、明後日に。絵を拝見できるのを楽しみにしています』
約束の日、レオンはいつもと同じ顔で訪ねてきた。
私は描いた池の絵を見せた。
鳥は小さく、遠くに描いておいた。
「ずいぶん向こうへ行ってしまったのですね」
「あの鳥は、そういう鳥なんです」
笑い合ってから、私は尋ねた。
「ご予定を変えていただいて、怒っていらっしゃいませんか」
レオンは驚いた顔をした。
「前もって、お知らせいただきましたよ」
「でも」
「昨日は、叔母から絵が進んでいると聞きました。邪魔をせずによかったと思いました」
私は彼の顔を見た。
言葉どおりに受け取ってよいのか、確かめたかった。
レオンはしばらく待ち、それから絵を指した。
「こちらは、頂けるのですか」
「……まだ、差し上げるとは」
「失礼しました」
あまりに残念そうなので、私は笑ってしまった。
「そのつもりで描いていました」
彼の顔が明るくなる。
私は絵を持ち上げ、乾いていることを確かめてから渡した。
レオンは両手で受け取り、長く眺めていた。
その顔を、今度描いてみたいと思った。
家を出て一月ほど経った頃、オルテン夫人に付き添って夜会へ出た。
新しいドレスは深い青だった。仕立屋の勧めた桃色よりも、自分で選んだ布に心が動いた。
レオンは会場の入口で待っていた。
「よくお似合いです」
彼が笑う。
私は手を取る前に、一度、裾を見下ろした。
「私も、この色が好きです」
声に出すと、もっと好きになった。
会場では、父と母にも会った。
妹夫婦も一緒だった。
ミレーヌは私のドレスを見て、それからレオンの腕に置かれた私の手を見た。
母が口を開きかけたが、夫人が先に挨拶をした。
「今夜はリディアさんに付き合っていただいているの。楽しみにしてきたのよ」
母は笑顔を作った。
父はレオンと、当たり障りのない話をした。
妹が私へ顔を寄せる。
「手紙、読んでくださった?」
「ええ。お返事をしたでしょう」
「あれでは困るの。食事会で、お母様に叱られたわ」
妹は、すぐ傍にいる母を見なかった。
「ウェルナー夫人の席が遠いって。お姉様が決めてくだされば、あんなことにはならなかったのに」
「お膝が悪いことは、覚え書きに書いてあるわ」
「全部読んでいたら、間に合わないもの」
私は返事をしなかった。
ミレーヌは唇を噛み、それからジュリアンの袖を引いた。
「あなたからも、お願いして」
彼は一度父を見てから、私へ顔を向けた。
「僕も、先方の息子と別の家の青年を間違えてしまって。縁談のことで声をかけたら、相手には既に婚約者がいたんだ」
彼の声が小さくなる。
「父上にも、あれほど説明しただろうと叱られた。君は、ああいうことをよく覚えているから」
「覚えるように言われて、覚えたのよ」
「そうだけど、僕らはまだ――」
「私が跡継ぎを降ろされたのは、半年以上前です」
彼は口を閉じた。
妹が目元を押さえる。
「旅行から帰っても、挨拶ばかりなの。ジュリアン様と出かける時間もないわ」
私は、描けなかった庭の花を思い出した。
花を描く代わりに付き合った、妹の買い物も。
「お姉様、次の一度だけ。うまくできなかったら、お父様が私たちの旅行を取りやめるって」
「二人で準備をすればいいわ」
私は妹の手を取らなかった。
「分からないことは、今、お父様とお母様に尋ねて」
父がようやく、ミレーヌの方を向いた。
「戻ったら話す。今夜は、客に挨拶をしなさい」
妹は夫を見上げたが、ジュリアンも顔を逸らした。
レオンとオルテン夫人の前で、二人ともそれ以上は頼めなかった。
そのとき、父の肩越しに、一人の紳士が近づいてきた。
私も何度か会ったことがある。先日、姪の縁談の相談に伯爵家を訪ねた人だった。
「伯爵。仲介の件ですが、別の方にお願いすることにしました」
父の顔から笑みが消えた。
「先日は、娘が急に家を離れまして。手違いが」
「あなたにお願いした話です。先方の希望も、今後の予定も、その場でお答えいただけなかった」
紳士は私に会釈した。
「これまでのお心遣いには感謝しています、リディア嬢」
父が何か言いかけたが、相手は挨拶を終えると離れていった。
父は隣を見た。母は扇を開き、口元を隠した。
「大事なときに娘がいないと、困りますわね」
母の声に、オルテン夫人が顔を向けた。
「私の家への滞在は、伯爵に書面で承諾いただいています」
「ええ、もちろん。でも、この子にも、家のことをもう少し考えてほしいというだけですの」
「婚約を解消された後も、妹さんの式を整えたのでしょう。私には、十分に家のことを考えたように見えました」
夫人は穏やかに言った。
「今後は、次の当主に選ばれたお嬢さんに、ご両親で教えて差し上げてください」
母の扇が止まった。
いつものように私を見たが、私は何も言わなかった。
父も助け舟を出さなかった。遠ざかる紳士の背中を、まだ見ていた。
挨拶を終えて離れようとしたところで、ジュリアンが呼び止めた。
「リディア。少し、話せないか」
以前より、疲れた顔をしていた。
ミレーヌがその袖を掴む。
「何を話すの?」
「少しだけだよ」
私は首を振った。
「今夜は、約束があります」
レオンの袖に触れた。
彼は私を見て、頷いた。
「踊っていただけますか」
「はい」
広間の中央へ歩き出した。
ジュリアンが何を話したかったのかは、聞かなかった。
曲が始まる。
レオンの手が私の背に添えられた。
「苦しくありませんか」
私は少し考えた。
胸には、まだ痛むところがあった。
両親が私を呼び戻す理由は変わらず、妹は私の返事を受け入れていない。
それでも、今夜このドレスを着て来られた。
レオンの手を取って、ここに立っている。
「踊りたかったんです」
私は答えた。
「あなたと」
レオンの足が一拍遅れた。
私は顔を上げる。
「閣下でも、間違えることがあるんですね」
「あります。今のようなことを、急に言われると」
彼の耳が少し赤かった。
私は笑い、次の一歩を一緒に踏み出した。
*
求婚の返事をしたのは、その夜会の翌週だった。
レオンの屋敷の庭は、若葉が風に揺れていた。
オルテン夫人は暖かい居間で待っていると言い、私たちは池のほとりを歩いた。
私は手袋をはめた手を握り、ほどき、もう一度握った。
「レオン様」
彼が足を止める。
「結婚のお話を、お受けしたいです」
練習してきた言葉は、その後にも続いていた。
けれど、彼がじっとこちらを見るので、すべて飛んでしまった。
「本当に?」
私は頷いた。
「あなたがお迎えに来てくださったから、というだけではありません」
彼の上着の袖に、小さな葉がついていた。
私はそれを取った。
「会う約束のある日は、朝から時計を見ます。帰られた後は、話し忘れたことを手紙に書いています」
目を上げる。
「絵を描いていても、あなたに見せたいと思うんです。……そういう毎日を、これからも続けたいです」
レオンが私の手を取った。
今度は、手袋越しに両手で包まれた。
「私もです」
短い返事だった。
彼は何か言おうとして、息をつき、笑った。
「長く考えていたのに、言葉が出ません」
「私も、練習したんです」
「今のお返事を?」
「ええ。もう少し、きちんと言うつもりで」
レオンは私の手を持ち上げ、指先に口づけた。
私は頬が熱くなり、目を逸らした。
池の向こうに東屋があった。
あの夏に描いたものとは違う、彼の家の東屋だった。
「あちらを描いても、よろしいですか」
「ええ。ただ、その前に」
私が顔を戻すと、彼は少し身を屈めた。
「口づけをしても?」
今度は声が出なかった。
私は頷いて、彼の袖を掴んだ。
唇が触れたのは、ほんの一瞬だった。
それでも、彼が離れた後まで、胸が忙しく鳴っていた。
「もう一度、お願いしてもよろしいですか」
レオンが尋ねる。
私は彼の袖を掴んだまま、小さく頷いた。
*
結婚式は、その夏に決まった。
父は婚姻に同意した。
侯爵家との縁を断ちたくはなかったのだろう。両家の話し合いにはオルテン夫人も入り、私が実家へ定期的に手伝いに戻るという話は、条件に含まれなかった。
その翌週、父の同意書を添えて婚姻の届けを出した。式の準備を待たず、私たちは夫婦になった。
侯爵家へ移る日、夫人は庭の薔薇を一輪持たせてくれた。
「お茶には、いつでもいらっしゃい」
私は、必ず伺いますと答えた。
馬車ではレオンが隣に座り、今度の部屋は朝の光が入ると教えてくれた。絵を描く机を、どこへ置くか相談したかった。
ひと月も経たないうちに、両親が侯爵家へ訪ねてきた。
父は挨拶を済ませると、一枚の名刺をレオンへ差し出した。
「この方とは、閣下もご親交がおありでしょう。改めて、私をお引き合わせいただけませんか」
夜会で、父の仲介を断った紳士の名だった。
レオンは受け取らず、父の前へ視線を戻した。
「先方が依頼を取り下げられた事情は、伺っています。私から再考を求めるつもりはありません」
「ですが、今は親族なのですから」
「新しい依頼をお受けになるなら、伯爵がご自身でお話しください」
父は名刺を引っ込めた。
母が私へ身を寄せる。
「リディアからもお願いして。あなたの実家なのよ」
「お父様が引き受けたお仕事です」
母は私の手を握ろうとした。
私は膝の上から手を動かさなかった。
「それなら、次のお茶会には二人でいらして。お母様のお友達にも、お披露目しなくては」
「結婚式で、お会いします」
「そうではなくて、私は侯爵夫人の母として――」
そこで母は言葉を切った。
レオンは私の返事を待っていた。
「母として来てくださるなら、私の話も聞いてほしいです」
私は二人を見た。
「私に何をしてほしいかばかりでなく、今、どう暮らしているかを」
父は黙っていた。
母は口を開きかけ、閉じた。
「……侯爵家の暮らしは、困ることはないの?」
初めて、母にそう聞かれた。
「ありません。絵を描く時間もあります」
母は、お茶のカップを見下ろした。
私は取り繕う言葉を足さなかった。
両親は、その日、紹介状も訪問の約束も持たずに帰った。
父の引き受けていた仲介は一件減り、次に残っている相談については、自分で希望を聞き直したという。母も妹の隣につき、来客の名前や家同士の関係を教えるようになった。
その話を、私は後に母の手紙で読んだ。
ミレーヌは、初夏の客を自分で迎えたという。
母の手紙には、まだ不慣れだが少しずつ覚えているとあった。
私は、その一文を二度読んだ。
できるのだ。
最初から、覚え始めることはできたのだ。
手紙を閉じたとき、少し腹が立ち、少しほっとした。
その両方を抱えたまま、私は自分の式の準備を進めた。
レースは、新しく選んだ。
細い葉の模様だった。
仕立屋が蔓薔薇の見本も広げたけれど、私は葉の方を指した。
「こちらでお願いします」
レオンに相談すると、好きな方にしましょうと言われた。
「見たいのは、あなたが着ているところですから」
私は返事をする代わりに、見本帳で顔を隠した。
式の朝、母から手紙が届いた。
両親は参列するが、妹夫婦は来ないという。ミレーヌが私の結婚をまだ素直に喜べずにいるので、一言、私から手紙を送ってやってほしいとあった。
私は便箋を出しかけ、窓辺の時計を見た。
もう、支度を始める時間だった。
「お返事は、明日以降にします」
手紙を持ってきた侍女に伝える。
彼女は頷き、髪に挿す花を運んできた。
レオンの庭で咲いた、小さな青い花だった。
少し前に二人で選んだとき、彼は、私の買った顔料に似ていますねと言った。
鏡の中で、白いドレスに青が映えた。
侍女が手袋の釦を留めてくれる。
「きつくはありませんか」
「少しだけ。直していただけますか」
「もちろんです」
釦が一つ外され、布が丁寧に整えられた。
私は指を動かした。
「こちらで、いかがでしょう」
「ええ。ありがとうございます」
扉が叩かれた。
オルテン夫人が顔を出す。
「まあ」
それだけ言って、しばらく私を見ていた。
目元を押さえるので、私はつられて泣きそうになった。
「まだ泣いてはだめですよ」
夫人が言う。
先に泣いていらっしゃるのはどなたですかと返すと、彼女は笑った。
廊下へ出る。
今日は、席順の相談をする人も、来客の案内を頼む人も、私を呼び止めなかった。
式場の前で、レオンが待っていた。
私を見て、彼は背筋を伸ばした。
そのまま黙ってしまう。
「……何か、変でしょうか」
尋ねると、彼は首を振った。
「綺麗で」
途中で声が止まり、私まで俯いてしまった。
後ろで夫人が咳払いをしたので、二人で顔を上げる。
「リディア」
レオンが手を差し出した。
あの春の朝も、彼はこうして私を待っていた。
あのとき私は、屋敷を出るまで足元ばかり見ていた。
今日は、彼の顔を見て手を取った。
「レオン様」
「はい」
「式が済んだら、少し食べる時間をくださいね。お祝いの挨拶ばかりでは、また食べ損ねてしまいそう」
レオンが笑った。
「隣で、一緒に食べましょう」
「蜜柑のお菓子も」
「あります。叔母が確かめていました」
扉の向こうで、音楽が始まった。
彼の手を握り直す。
私の手袋も、彼の手も、ちょうどよかった。




