1話 落下
現実とは、理不尽の積み重ねだ。
俺は十七歳の男子高校生、望月 悠真。
こんな言葉を吐くにはまだ早い年頃だと自分でも思う。
世の中の男女は、やれ恋愛だの青春だのに時間を費やしている。
俺はといえば、青春の入口を探しているうちに先に閉店時間を迎えそうだった。
だからたまに、バカみたいな妄想をする。
いっそのこと、空から美少女が降ってきて、勢いで付き合うことになったりしないものだろうか。
ほら、アニメみたいに。落下地点が偶然俺の腕の中で、周囲がスローモーションになって、恋が始まるやつ。
それとも、街を歩いていたら突然事故に遭って、次に目を覚ましたら異世界に飛ばされていた――なんてどうだ。
死にたくはない。でも、人生を一回だけリセットできるなら、ちょっと触ってみたいボタンではある。
そんな、あるはずもない現実逃避をしながら、俺はいつもの帰り道を歩いていた。
ビルが立ち並ぶ街中。
ふと空を見上げると――空から、女の子が落ちてきた。
……おい。
冗談だろ。
そういう「都合のいいイベント」を願ったのは確かだけど、心の準備ってものがあるだろ。
でもそれは、落ちてきたと言うより落下してきたの方が正しかった。
それも、とてつもないスピードで。
制服姿の女子高校生。
宙でばらばらになった姿勢、恐怖に引きつった顔、開かれたままの口。
俺の全細胞が「逃げろ」と叫んだ。
でも身体は、俺よりずっと現実的だった。
――逃げる暇なんてなかった。
その子は、俺の頭上めがけて一直線に落下してくる。
次の瞬間、凄まじい衝撃が全身を貫いた。
視界が砕け散り、肺の中の空気が一気に吐き出される。
骨がきしむ感覚が、遅れて全身に走った。
「――――っ」
声にならない叫び。
世界が上下も左右も分からない速度で回転し、アスファルトに叩きつけられる。
遠くで、誰かの悲鳴が聞こえた。
けれどそれは、まるで水の底から聞いているみたいに、ひどく遠かった。
視界の端で、血に濡れたブレザーの袖が見える。
それが自分のものなのか、上から落ちてきた少女のものなのか、もう区別はつかない。
――空から女の子が降ってくる。
――事故に遭って異世界転生。
妄想のメニューに載ってた二品が、同時に出てきた。
しかも、追加料金は命。キャンセル不可。返品不可。
……現実ってやつは、サービス精神が悪趣味すぎる。
そう思ったのも束の間、意識がぷつりと切れた。
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現実とは、理不尽の積み重ねだ。
俺は十七歳の奴隷、三二番。
こんな言葉を吐くには、十分すぎる年齢だと自分でも思う。
世の中の男女は、やれ魔法だの剣だの冒険だのに時間を費やしている。
俺はといえば、冒険の入口を探しているうちに人生の閉店時間を迎えそうだった。
毎日毎日、畑に鍬を刺す。
農作業に没頭する――いや、没頭させられる毎日。
報酬はない。
休みもない。
選択肢もない。
ただ「農作業をする奴隷」として、俺はいまここで生きている。
“生きている”って言葉が、こんなに罰ゲームみたいに響くとは思わなかった。
俺はあの日、自殺に巻き込まれて死んだ。
皮肉なことに、あの時妄想した現実逃避が、最悪な形のハッピーセットになって空から降ってきやがった。
しかも玩具が鋭利。返品不可。返金不可。命は回収済み。
ハッピーの要素、どこだよ。
意識が途切れた後、俺は真っ白な世界の真ん中にいた。
床も天井も壁もない。
「白」だけが、空気みたいに俺を満たしている。
足音は吸い込まれて、跳ね返らない。
正直に言うと、俺は少し胸が高鳴った。
――来た。
異世界転生の前室。
受付。待合。チュートリアル。
ここで女神が現れて、俺に最強スキルを授ける。たぶんそういう流れだ。
「ようこそ転生者よ」とか言われて、選べる職業は勇者、賢者、大魔法使い。
初期装備は伝説級。
追加で「好感度MAXの幼なじみ枠」まで付いてくる。
……そんな妄想をしていた。
が、
まっったくそんなことはなかった。
結論から言うと、待てど待てど、誰も来ない。
女神も神も担当者も来ない。
説明書も来ない。
最悪、注意書きの紙切れ一枚でもいいから来てほしいのに、それすら来ない。
白い。
ひたすら白い。
俺だけがいる。俺以外の「存在」がない。
最初の五分は「演出だろ」と思った。
次の十分で「……遅延?」と疑った。
三十分で「回線落ちか?」と現実に寄った。
一時間で「……これ、俺の番、飛ばされてない?」に変わった。
いや、だっておかしいだろ。
死んだんだぞ、俺。
普通、死んだら何かしらあるだろ。説明とか、謝罪とか、せめて番号札とか。
……もしかして。
俺、忘れられてる?
受付番号、配布されてない。
呼び出しもない。
そもそも受付の概念がない。
あるのは、白。
白。
白。
俺は白の中心で、ぽつりと一人きり。
「すみません」
声を出してみる。
返事はない。
「転生希望なんですけど」
返事はない。
「死んだんですけど」
返事はない。
……なるほど。
あるのは白。
そして俺。
以上。
それから俺はただ待ち続けた。
最初のうちは、キレていた。
「おい! 誰かいないのですか!」
「転生希望なんですけど!」
「問い合わせ窓口どこ!? 番号札は!? 整理券は!?」
次第にキレれるにも飽きた。
そこから俺はただ無言で待ち続けた。
不思議なことに、この場所は生理現象は何もなかった。
お腹も減らないし、眠くもならない。
どれくらい経ったのかは分からない。
時計がないんじゃない。俺の中の「時間」が白に溶けていった。
そして、ある瞬間。
“床”なんて存在しなかったはずの場所から、急に床が仕事を始めた。
足元が、抜けた。
「は?」
意味も分からないまま、俺は落下した。
白がちぎれて、裏側が剥き出しになるみたいに、世界が切り替わる。
次に来たのは音だ。
怒鳴り声。笑い声。金属の鳴る音。獣のいななき。
匂いも来た。汗と泥と、鉄と、――金の匂い。
俺が落ちた先は、どうやら奴隷市場だったらしい。
らしい、というのも、その場で説明会が開かれたわけじゃない。
「ようこそ」とも言われないし、「こちら規約です」と紙も渡されない。
ただ、視線の質が違った。
人を見る目じゃない。
「なんだこいつ」
一人の大柄な男が、俺のところまで歩いてきた。
足音が近づくほど、俺の中の「人間」が後ずさっていく。
男はしゃがみ、俺の顔を覗き込む。
確認するのは顔じゃない。
歯と、肩と、腕。
まるで中古品の査定だ。
「……よくわからねえが、奴隷として売っちまうか」
よくわからねえ。
この世界では、その一言が許可証になるらしい。
身元不明? 経歴不明? 来歴不明?
――だから保留、じゃなくて。だから商品。
男が立ち上がり、手を振る。
「おい! 縄! 首輪! 台に上げろ!」
そこからは、びっくりするぐらい順調に話が進んだ。
縄を掛けられて、洗われて、台に立たされて、歯を見られて、腕を触られて。
俺の人生が、五分刻みの査定項目に分解されていく。
値段がついた。
それだけで俺は「俺」じゃなくなった。
あとは早い。
札が上がって、鐘が鳴って、決まった。
買ったのは、どっかの貴族だった。名前も顔も覚えてない。覚える必要がなかった。
連れて行かれて、服を替えさせられて、首輪の鎖の長さを調整されて。
その日のうちに畑を見せられて、鍬を渡された。
そして今、
俺は十七歳の奴隷として、今日も元気に、畑を耕している。




