3-3 空界へGO!
空界への旅立ちの日は新月の晩が選ばれた。
23時四45分、鎮守の森の木立、弁天池の前で俺は“その時”を待っていた。
「動きやすい恰好で」って遠足の時みたいなことを言われていたから、とりあえずジーンズにパーカーそして履きなれたスニーカーを選んだ。傍にはジイさんと観もいる。二人とも、揃いも揃って歯を抜く前のような顔をしている。ああ、これからの危険を考えると、本当に緊張する。斜めに背負った白虎炎陽剣の柄の感触に、はっとした。また無意識に背中に手を回してしまったらしい。
その時、砂利の上を歩く音に振り返った。
「みっ、美住?」
その姿に面食らった。
“不思議の国のアリス”
一瞬そう思った。それもセクシーな。
美住は薄青色のノースリーブのワンピースに白いエプロン姿だった。足元こそスニーカーだが、これからピクニックにでも行くような籐で編んだバスケットを腕に下げている。
俺の目の前で立ち止まると、美住が顔を赤らめた。
「私、あんまり料理が得意じゃないから恥ずかしいんだけど」
モジモジしながら、バスケットの中から何かを取り出すと、俺の前に差し出した。それは細かいハート模様が描かれたセロハンでラッピングされたチョコレートカップケーキだった。
「もしかして手作り?」
「そう。ごめんね。でもこれを食べてもらってからじゃないと空界へは行けないの。だから……」
美住は節目がちに言った。
「食べて」
艶やかな唇が恥ずかしそうに動く。
ああ、美住はかわいい。腹の底から叫びたくなるほどかわいい。
急いでラッピングを外すと、一気にほおばった。瞬間、体中に震えがきた。生鮭とニンニクを混ぜたような味、なのにチョコ。あっ、甘いのに臭い。全身から汗が噴出し、鳥肌が立った。思わず、えずきそうになった俺の肩を観が抱いた。
「優、コレは四天王であれば、一度は通る道だ。心してかかれ! そうですよね、師匠」
観がジイさんを見やると、ジイさんは目を閉じたまま、何度もうなずいている。
もしかして俺が“アレを知らないから適任”の“アレ”って、これのことだったのかよ!
涙ぐみながら、ジイさんと観を抗議の目で見やった。その時、美住が顔を覗き込んできた。
「優くん、やっぱり美味しくない?」
まつ毛の上で涙がキラキラと光っている。
くうっ、かわいい。かわいすぎる。破壊力のあるかわいさに、俺は心の中で念じた。
飲める。飲める。俺は飲める! チョコレートケーキを飲み込める!!
息をつめ、一気に飲み込んだ。全身から新たな汗が噴き出し、熱病にでもかかったように震えがきた。後味に悶絶していると、美住が、今度は金糸で編んだ巾着を差し出した。巾着の赤い紐の先には銀色の鈴、がついている。
「空界は圏外だから、巾着の鈴は向こうでの連絡用よ。もし何かあったら鳴らして、私もそうするから。それからその巾着は……お守り」
最後の部分だけ、美住は小声で言った。
「さて、そろそろ0時になる。夕子、優、時計の時刻を合わせるんだ」
ジイさんに言われ、俺と美住は互いに腕時計の針を合わせた。
午前0時、美住の髪が解かれ、俺はその豊かな黒髪に吸い込まれた。
☆☆☆☆☆
明るい光に目を開けた。そこは緑の山に囲まれたのどかな田園だった。右の畑にも左の畑にも真っ赤なトマトやキュウリといった野菜がたわわになっている。近くに小川でもあるのか、せせらぎの音が聞こえる。澄んだ空気、小鳥の美しいさえずり……思いっきり伸びをして、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。ここがどこか、何で自分がここにいるのか、一瞬浮かんだ疑問を忘れ、気持ちのいい朝もやの田園地帯を歩き出そうとした。
リンリンリン。
ポケットから鈴の音がかすかに聞こえ、はっとした。
そうだ、ここは空界だ。
そう思い出して首を傾げた。
ここって、本当にジイさんや観が心配していた世界なんだろうか。戦地やスラム街とかそういうところを想像していたのに。見ろ、この平和な世界を、のどかな畑を。早朝から農家の人が丁寧に畑仕事をしているじゃないか。
左の畑でせっせと動く人影を見やってギョッとした。
うっ、牛だ。牛がくわ持って、畑を耕している!?
「ここ空界はね、人が生まれかわる前にいく世界なの。だからとても人間界に近いのよ」
振り向くと、美住が立っていた。もう一度、農作業をする牛を見た。向こうのほうの畑では豚が腰を曲げ、田植えをしている。
「農業にいそしむ動物がいる世界が? 人間界に近いのか?」
「あの人たちは元々人間よ。問題なければ、これから人として生まれ変わってくるはずよ」
美住の話によると、何でも空界は人間界の輪廻転生のサイクルに戻る前の、いわば訓練施設みたいなところだという。ここで生まれ変わる目的を決め、過去生からの記憶を消していく。そして一定期間過ごすと、人間界に生まれ変わってくる。牛や豚は、この世界のルールを守らなかったため、三日間“動物として過ごす”という罰を受けているというのだ。変わった罰だが、下手をするとそのまま動物として生まれ変わることになるというから恐ろしい。
その時、熊が手押し車を押しながら、脇を通りかかった。
「じゃあ、この熊もこのまま熊ってこともあるわけなんだ」
こっそり美住に耳打ちをした。すると、熊が立ち止まって憤然と俺を睨んだ。
「失礼ね! アンタこそ白虎のくせに! 一生そのままってこともあるんだからね」
「なっ、何言ってんだよ、俺は……」
言いかけた俺の腕を美住が引っ張った。
「ごめんなさい。彼、気が立っているのよ。チョコレートケーキを食べすぎたせいで、こんなんなっちゃったから」
熊は美住の全身に目を走らせると、短いため息をついた。
「じゃあ、あんたもかい、ウサギさん?」
ウッ、ウサギさん!?
驚いて美住を見た。しかしそこにいるのはウサギではなく、黒髪をたなびかせている美住だ。蠱惑的なワンピースにエプロンっていういで立ちも、この世界に来る前と変わらない。
「美住、この熊おかし」
“いんじゃないか?”と言おうとした口を美住がふさいだ。
「なんだい」
熊の目の奥がギラっと光った。すると美住がとびっきりの笑顔を熊に向けた。
「この熊さんもおかしは好きなのかなって言ったんです。ほらっ、わたし達、チョコレートケーキが大好きだから」
熊が納得したように大きくうなずき、
「ああ、そうだね。分かる、分かる。まあチョコレートケーキは美味しいからね。アイツに、はまると一日一個って法律はきついわよね、本当に。ビターとミルクチョコを混ぜた、ふわっふわっの生地の中からトロッとしたチョコが流れ出して……」
チョコレートケーキがどれ程、甘美な食べ物なのか熱く語り始めた。
熱弁をふるう熊に気づかれないよう、俺はそっと美住に耳打ちした。
「俺が虎で、美住がウサギってどういうことだ? 姿が動物になると、視界まで変になっちゃうのか?」
「そんなことないわ」
美住がくすぐったそうに笑った。
「この世界に来る前にチョコレートケーキを食べたでしょ。あれを食べると、ここの世界では自分たちと同じ生き物に見えてしまうの」
「そっ、そうなの!」
「ええ。それからこの世界の人達に、まだ生きている人間だってバレないように気をつけてね。もしバレたら……」
その時、
「ところで、さっきから気になってたんだけど」
熊の目がギラっとした。
「ウサギさん、あんた匂うね。ひょっとしてあんた……」
美住の顔がさっと緊張した。
「その手にしているバスケット、もしかして中にチョコレートケーキが入ってるんじゃないのかい?」
熊が鼻をヒクつかせながら、美住のバスケットを指差した。美住がホッとしたようにうなずくと、突然熊が拝むように手を合わせた。
「ねえ、お願いだから、チョコレートケーキを私に分けてくれない? 一個でいいからさ。代わりに私の桃をあげるから」
熊は手押し車の中からピンク色の大きな桃を一つ取り出した。甘い香りがふんわりと漂い、その匂いだけで口中が唾液でいっぱいになる。俺が桃に手を伸ばそうとすると、美住がその手を掴んだ。
「桃はいらないわ」
美住がきっぱりと言い、俺は(熊も)がっくりと肩を落とした。
「でもチョコレートケーキはあげる。その代わりに連れて行って欲しいところがあるの」
美住がバスケットからチョコレートケーキを取り出すのを見て、熊がパアアっと顔を輝かせた。
「どこだい、どこへ行きたいんだい? どこへでも連れて行ってあげるよ」
「本丸城よ」
「本丸城だって!」
熊が素っとん狂な声を上げた。
「なんだってアンタ、あんな変わり者の統治者様がいるところに行きたいんだい? あそこに連れて行くなら、チョコレートケーキは3個にしてもらわないと」
「2個」
「いや3個!」
「そう。なら、いいわ。別の人に頼むから」
美住はチョコレートケーキをバスケットにしまうと、背を向けて、歩き始めた。すると、慌てて熊が美住の前に回りこんだ。
「待っておくれよ。2個でいいから。ねっ」
熊は美住の返事も待たずに指笛を吹いた。轟音をたてながら、山の向こうから何かがこちらに向かってくる。それが大きな白い鳥だって分かるのに数秒もかからなかった。あっという間に爆風を起こしながら、俺達の目の前、細いあぜ道の上に着地した。
「本丸城までは遠いから。これで行くよ」
熊は手押し車の中からリモコンをとり出し、鳥の眉間に向けた。すると、ぷっくり膨らんだ鳥のお腹の一部に扉型の筋が入ったかと思うと、前方にパカリと開いた。鳥じゃなくて、鳥型の機械?
「ほら、席に座って」
熊が俺の肩を掴んで、扉の開いた鳥の腹めがけて投げつけた。
「うわあ」
無機質な灰色の床にぶつかるっと思った瞬間、ベージュ色のソファがさっと動き、俺の身体を受け止めた。そこは電車の個室のようで案外広々としている。びっくりしつつ座り直していると、美住も同じようにして中に飛び込んできた。
「ふたりともシートベルトはちゃんとしておくれよ。最近は法律が厳しくなったから」
熊はそう言うと、ソファから立ち上がり、背後の階段を上って行った。俺と美住がシートベルトを締めた途端、全身を押さえつけるような強い重力がかかり、耳の奥が詰まった。10秒ほどすると、電子レンジの“チン”という音がした途端、体にかかる圧力が一気になくなった。ソファの上でぐったりとしていると、熊が上から降りてきた。
「着いたわよ。さあ、約束のチョコレートケーキをちょうだい」
美住がチョコレートケーキを渡すと、熊はダラダラとよだれをたらし、
「さあ、早くここから降りて」
地上へ降りるための階段を下ろしてくれた。入る時もこの階段を使えばよかったのでは? と思いつつ階段を降りた。地面に足がついた途端、白い鳥は逃げるように青空へと飛び去って行った。
☆☆☆☆☆
太鼓型の大きな石橋が見えてきた。その向こうには宝石のような青い石を積み上げた城壁と金色の門が見える。美住はきびきびとした足取りで、石橋を渡りはじめた。
「美住、四人目は、あの壁の向こうにいるのか」
「ええ、お城、本丸城の中にいるはずよ。なにしろこの世界の統治者だから」
統治者と聞いてビックリしてしまった。
「じゃあ四人目は、殿さまかなんかなのか?」
「たぶん……でも本来の姿は分からない」
「どういうこと?」
「わたしが玉女守門に就任した時、挨拶の際に一度だけ会ったことがあるの。でもその時は仮の姿だった」
「じゃあ本来の姿は? 顔が分からないってこと」
美住が門を見上げ、目をしばたたかせた。つられて門を見上げていると首が痛くなった。
その時、重々しく閉じられていた門が、ギイイッと音を立てて開いた。再び歩き出そうとすると、美住が俺の腕を掴んだ。振り向くと緊張した眼にぶつかった。
「美住?」
「さっきの話の続き」
美住は、俺の腕を引っ張ると、つま先立ちになって俺の耳に唇を寄せた。花のような蜜のようないい匂いがふわりとした。
「空界では生きている人間は“不死人”って呼ばれてて、空界の人達が“不死人”の生き血を飲むと来世での幸福が得られるって信じられているの。だからもし“不死人”だってバレたら、恐らくこの世界に拘束され、血を抜かれ続けるわ」
何だって!
飛びすさんだ俺の腕を掴んで、美住がまた耳に近づいた。
「だから絶対にバレないように気をつけて。それから、この世界の食べ物や飲み物は絶対に口にしないで。元の世界に戻れなくなるから」
お堀の水がギラっと太陽の光を反射した。まるで怪しい生物のようにたゆたっている。
この一見、なんでもなさそうな、というよりむしろ平和に見える世界がそんな恐ろしいところだったなんて……ジイさんや観が美住一人をこの世界に行かせたがらなかったわけだ。
「チョコレートケーキが効いてて、この世界の人には自分たちと同じに見えているはずだから、大丈夫だと思うんだけど……もし何かあったら、さっき渡したお守りの中を開けて。中には私の髪の毛が一房入っているから」
ドキッとした。
髪の毛をお守りでくれるって、普通に考えたらちょっと(いやかなり)怖い。でもこれが玉女守門の美住からだと話は別だ。
「それでいざって時には頭から髪の毛をふりかけて、そしたらすぐに、人間界へ飛べって、そう祈って、すぐによ。髪の毛をふりかけると、途端に色々な世界とつながっちゃうから気をつけて」
「なんでそんなこと言うんだよ」
「コツが必要だからよ。祈るのが遅れると、別の世界に飛ばされることだってあるから」
「違う、どうして一人で帰れみたいな話をするんだよ。四人目と一緒に帰るんだろ」
「……そうね……」
美住は頷くと、
「何もなければね」
門に向かって歩き始めた。




