第一章 生きるのに大切なこと 6話
この川下市は、位置としては都心から幾らか離れた田舎と分類される土地だ。交通の便は田舎としては意外と便利で、都心まで二時間もかからずに行くことが出来る。ここ十年くらいまでに、ある理由で先延ばしにされていた開発も進み、安価な土地を求めて多くの人が市外や県外から流れ込み始めている。二十年程前までは無人の駅しかなかったという川下駅を中心に、段々と二階建てを超える背の高い建物が姿を現し始めていて、用もなく駅を散策するという暇な人間で賑わっている。
かくいう私もその恩恵に預かり、二時を少し過ぎた今、夏間近の嫌になる日差しに両手を上げて、新しく出来上がったばかりの喫茶店で一服の涼を味わっていた。テーブルにはキンキンと冷えたオープン記念サービスのかき氷とこの店で一番安い珈琲が置いてあり、片方がぬるくなるのを待ちながらもう片方を控え目につつく。私が過ごす休日としては贅沢すぎるくらいまともなひと時。つい先日まで学費を切り崩してまで食費に当てようとしていたのが嘘のようだ。それもこれも"神憑き"と友達になろうなどという物好きが現れ、私が引き受けたのとたまたま同じ仕事を協力してやり遂げようと話を持ちかけられたおかげだった。
前金だけでもいつもの役所からの給金が雀の涙に思える額だ。少しくらいの贅沢をしても罰は当たらないと思う。
「………フゥ」
いい感じにぬるくなってきた珈琲を口に含み、溶けたくなるような猛暑の中を三時間以上行使した体から熱された息を吐く。ここよりずっと北に住んでいた私には殺人的な暑さだ。この町に越してきて、今まで思ったこともない冷房という物のありがたみを知ることが出来た。お金がなかったはずの先日までの私が冷房病にかかってしまうほどだ。
「さて、と」
一息ついた所で狭い机の上に鞄から取り出した地図を広げる。
先日、登野城さんから貰った情報によれば、今回の事件の大半は夜に行われたことらしい。飼い主は朝になるまでペットの異変に気づかず、気づいた時には犬小屋はもぬけの殻、猫などの放し飼いされる動物も帰ってこない数が相当数ある様子だ。人目につかないという理由なら夜は至極当然な活動時間だが、神が犯人というのは恐らく間違いない。そして、神が人目を気にするはずもない。私の考えでは単純に犯人の活動する時間が夜に偏っているのだと思う。数少ない目撃者もいて、その人達の話では相手の外見は
「猫、ねぇ」
それも人間に並ぶくらいの大きさ、という話だ。暗い時間帯という事もあり、黒猫だったとか真っ白な猫だったとか不確かな情報も多いとう話だが概ねそいつが犯人だろう、というのが話を聞いた私の意見。
加えてここまでの被害者の数がそれなりに多いことから、犯人は成り立ての神で間違いないと考えている。猫の被害の割合が全体的に見てかなり多い。成り上がりたての神は元同族を好んで口にする上、結局それが好物になることが多いのだ。それに、少量ならまだお目こぼしもあるが役所が動き出すレベルまで土地を荒らすということは土地神にケンカを売っているのと同じだ。良識のある…………というのもおかしな話だが……………神ならそんな馬鹿な事は絶対に行わない。右も左も分からない成り上がったばかりの神ならではという話なのだ。
また一口珈琲を飲む。少し水っぽくなってきたかき氷を見つめながら思案する。
今日まわる予定の場所が三十二カ所。午前中に十五カ所まで行くことが出来たから日のある内に終わりになるとしても、明日までには相手方の潜伏先も分かるだろう。
地図に十五個のしるしを付け終えて、んー、と伸びをする。
こんなに仕事が順調なのは本当に珍しい。探索の基本は足なので、普段とやっていることは同じだが、効率の面でいえば雲泥の差といえるだろう。
「………順調すぎて困ることはないけど」
あまり上手く行き過ぎるのも考えものだ。余計な不安が心に芽生えるのを自覚しながら、頭を振って考えを終わらせる。
「…………あの」
「え?」
丁度頭を切り替えた時に机の向こうから声がかけられた。
何だろうと顔を上げて、
うっ、と息が詰まる。
「すいません、ここの椅子、一つお借りしても良いですか?」
声をかけてきたのは色白の青年だった。人の良さそうな、かつ、思わず息がつまりそうな清廉そうな顔立ちをしていて、日本男子という言葉がピッタリ当てはまりそうな人だ。この手の人並み外れた顔の造形に慣れている私でも思わず胸が高鳴ってしまう程と言えば分かりやすいかもしれない。
「あの?」
「………あ」
呆然と見とれていた自分に赤面して慌てて言葉を返す。
「椅子…………ですよね。どうぞ、私一人なので使わないですから」
言って、
何をいってるのよ、と直後に自分で自分にだめ出しする。
当然相手もそう見越した上で声をかけたに決まってるじゃない。
アワアワとテンパり始める私を置いて目の前の青年は、ドキリとする優しげな笑みを浮かべて礼を言った。
「有り難う。じゃあ、借りるね」
そう言って何事もなかったように私が座っているのとは反対方向の壁際に椅子を持っていく。それを見届けて、
「あー………」
椅子にもたれて天井を見上げる。
ここの所、とみに分かり始めてきた事柄だが、私は実は人見知りなのかもしれない。
日常の中で幾つかのパターンでしか返答をしていなかったせいか、予想外の状況に予想以上に弱すぎる。いずれこの事が原因で取り返しのつかない失敗をしてしまいそうだ。
「What are you scoldiog!?」
「ん?」
急に、
普段聞き慣れない異国の言葉が耳に入り、私は声のする方へと視線を向けた。
その先には先程椅子を借りていった青年と、もう一人。
長い金髪に日本人には有り得ない青い瞳を持った女の人が立っていた。
「……うわ、迫力」
トレンディードラマを地でいける感じだ。
壁際で、おそらく一人用だと思われる机を跨いで並び立つ二人は、背の高さと整った容姿からも映画のワンシーンを見ているように錯覚させられる。当然のように周囲の注目も彼らに集まっていたが、当の本人達は全く気にもとめていないようだった。
「Did not you say that you wanted to drink tea?」
「You are annoying. I know but I will go out of this noisy shop annoyingly and early.」
そう言って金髪の女の人はバックを手に持って、肩にかけてから店の外に向かって行った。去っていった机には青年と彼らの持ち物であろう旅行用の大きなアタッシュケースが二つ。
「…………ハア」
青年が深いため息をつく。その様子は、またか、と嘆いているようにも、やってしまった、と後悔しているようにも見えた。少しの間天を仰いだ彼は、やがて先程持っていった椅子を手に、私のもとに戻ってきた。
今度こそ、本当に私は混乱してしまう。
だって、こんな時に何て言えばいいのかなんて私じゃ、絶対に思いつかない。
「あ………」
「ごめん、椅子必要なくなったみたいだ」
バツの悪そうに笑った彼は椅子を置いて、そのまま行ってしまおうとする。
彼にとっては私は椅子を、たまたま借りた相手というだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。そんなのは当たり前だし、自分でも何を言っているのだろうと首をかしげるところだけど、それでも私は去ろうとする彼に一声かけてみたいと思ってしまった。
あの、というわたしの声に、彼は振り返る。
「がんばってください」
彼は不意を突かれたように目を大きく見張った。当然なのだろう。一見の相手にこんな事を言われては誰だって戸惑う。
しかし、彼は驚いたように私を見た後、すぐにやわらかく笑った。
"うん、ありがとう"
優しく告げられる。
大きなカバンを二つ転がしながら、外へと出て行くその後姿に、私は思った。
「私は………」
何をやっているのだろう。
これは大きなお世話以外の何者でもない。私がかかわる理由が何一つ見出せないじゃない。それ以前にもう少し気の聞いた言葉を送れないのか私は。
必要なかっただの、どうせ私には…だの、自虐的に悲観ぶっていた結果がこれだ。
ほんの少し前なら絶対に行わない行動。無駄だと、意味のないものだと決めつけていた行い。私には不可思議や不快とすら感じられるこの感情。
今までの私の世界観では、人というのは父と、役所の人間と、仕事先で訪れた土地の者と、学校を含めたその他大勢だけだった。そこに、友人なんてものが出来てしまうから、その他大勢をより細かく腑分けする羽目になってしまうのだ。
まったく、
「面倒くさい」
本心からそう言って、
この苦労が私にとって心地の良いもののように、
本心から笑ったのだった。