第一章 生きるのに大切なこと 5話
普段は煩わしい軋む階段の音を凱旋を祝う歓声のように感じながら、私は同じように軋むアパートのドアを開けた。
「ただいま、帰りました」
二間しかない部屋で玄関から見える位置の居間に、いつもどおり寝転がって本を読んでいる同居人の姿を見つける。肩肘をつきながら面倒くさそうにページをめくりながらも、狐の面で隠された顔は、きっと酷く真剣な表情なのだろう。
私は急いで靴を脱いで彼の元に駆け寄った。
「ただいま、帰りましたッ」
近くでもう一度繰り返した帰宅の声に、彼は漸く白黒の猫の写真付きのページから視線を上げて私を見た。面の下から伺える瞳から彼が不思議そうに私を見ているのがわかる。
「何だ、偉くご機嫌だな」
首を傾げながらしげしげと私の全体像を眺め、両の手に持った買い物袋で止めた。
「タイムサービスで安いキャベツでも大量に買えたか?
喜んでるとこ悪いんだが、俺はそろそろ別のモンに変えようとおもってるぞ」
「違います。前もって言っていただけるのは有り難いですけど、今更そんな事で私は喜びません。それより今日はついにアナタを見返す日が来たんです」
「見返す?」
ますます分からないといったように首を傾げる同居人の神様。私が何を言っているのか理解できないといった感じだ。普段の行いを悔いず、改めず、この人は見返すという言葉に全く心当たりがないのだろう。
だけど、今日の私はそんな事を気にしない。フフンと笑って手に持った買い物袋を前に突き出す。
「? 何だ?」
「すき焼きの材料です。全部で二十人分はあります」
「…………………また豪勢な」
口ではそう言いながら訝しげに私を見やる。細めた目ははっきり気味が悪いと物語っていた。
「それだけではないですよ、トキ。今日なら今月分と関係なしに二杯まで許します」
「へー、言うねぇ。まあお前がいいってんなら、俺は遠慮なくご馳走になるけどな。
んで、何があったんだ?」
遠慮などという言葉と一番縁遠いトキはやっと体を起こして私に問う。
私はそれを受けてよりいっそう笑みを深めた。
実は言いたくて言いたくて仕方がなかったのだ。常日頃からからかわれ続けてきた私としては、まさに千載一遇。特に自分より色々とひどいと思われる相手に苦渋をなめさせられ続けてきた身分としては堂々と、真っ向から見返すチャンスなのだ。だから私は今まで溜めてきたうっぷんを、ここで全部晴らすようにこう言った。
「友達ができましたッ」
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学校で昼食を食べるということは、私にとってはただの栄養補給という意味合いしかなかった。食費がかさむのでお弁当は家で作った朝の残りを詰め込んでいたせいか。どうせ、朝と同じ物だと思い、味わって食べようなどという感慨もわかず、口に入れて飲み込むという行為を何度も繰り返していただけだ。
勿論当たり前だけど、食事中はいつも一人。小学校二年くらいの時からだから、かれこれ十年近く静かな昼食を続けている。別に一人で食べるのが好きとか、食事中に喋るのは嫌いとかいう理由で気取るつもりはない。たわいないお喋りをしながら長くゆっくり食べるのは魅力的な事だと思うし、やれるならやってみたい。
ただ私にはそうする以外の選択肢を選ぶ権利がないだけだ。
もう、おぼろげだが、
私がまだ神に憑かれず、たまに寄ってきた若い神に身を削って"力"を分け与えるだけで済んでいた頃は仲の良い女友達もいた。給食の時間には机をくっつけて幼い会話に花を咲かせていたとも思う。だが、あの狐さんに憑かれてからは、当然のごとく、手のひらを返したように、私はその輪から外された。
子供は正直だし純粋だ。
風邪にかかった程度の認識しかなかった私が近寄っていくと、何か気味の悪いような物を見たという目を向けられた後、絵としては彼女達の友達のような位置にいても、その実、私は完全に輪から外された部外者であった。
その頃に流れを読むことを覚えた私は、もう私の流れと彼女達の流れが交わる事は無いのだと言うことに気づき、
…………………、
受け入れた。
だけど、運が良かったとも思う。私は持っていた物をはっきりと自覚する前に捨てることが出来たのだから。
ナイスタイミング
と、いうやつ。
その部分だけは私の神様を手放しで誉めてあげたいと思っているぐらいだ。
だけど、
「九城さん、そんなに少なくて大丈夫なんですか? もう少し食べた方がいいと思いますが」
「………………小食なので」
また、こういう機会に恵まれると知っていたら、もうちょっとそっち方面の経験も積んでおくべきだったなと、後悔の念にさいなまれている自分もいた。
場所は登野城さんが卒業した先輩からもらい受けたという書道部の部室。いつものように自分の席でお弁当箱を開こうとしていた私は手を引かれてここにつれてこられた。部員は彼女一人だけらしく、彼女自身も名前だけの幽霊部員で、大した活動もしていないという。そんな部活が良く残っているものだと思ったが、卒業した先輩が学校を去る前に登野城さんがいなくなるまで部活を存続させるように話をつけてくれたのだという。
「でも、クラスの女の子達よりもかなり少ないですよ? それに、前はもうちょっと食べていませんでしたっけ?」
「そんな事より……」
よく見ているなと感じながら、私は食べている弁当箱に箸を置いて、自分の手元から玉子焼きを口に入れようとしている彼女へと視線を向けた。
「良かったんですか? 登野城さん。こんな所で私なんかとお昼ご飯を食べていて」
「?」
自分のしたことを分かっていないのかと、首を傾げる姿に控え目な溜め息が出る。
「私があなたに話かけられたのを見て、クラスの人間が全員驚いてましたよ。神憑きの人間とおおっぴらに仲良くするのは余りうまくないです」
登野城さんは、ああ、と納得したように呟いた。
「その事ですか。いいんですよ、別に。気にしないでください。私がしたくてしている事ですから」
「だけど……」
「それとも迷惑でしたか? だったら、ごめんなさい。私、お友達とお昼ご飯を食べるというのに少し憧れていたので」
「あ、いえ………」
うなだれる姿に元々感じていた神憑きとしての引け目の上に、さらに罪悪感を感じて慌てて否定する。
「私も憧れていましたから。登野城さんが構わないなら私からは何も……………。むしろ、誘ってくれて有難うって言いたいくらいなんです。こうやって普通の人と普通にお話しながら食べるのって全然なかったから」
普段と違うから緊張してしまうが、それでも我ながら現金だなと呆れるくらいに、私はこの部室に連れてこられたことに胸を高鳴らさせていた。悪い意味のだったら珍しくもないけれど、こんなに良いドキドキをしたのは本当に久しぶり。
忘れかけていた楽しいという感情が、どういうものだったかをこの短い休み時間に再び思い出させてくれた彼女にはとても感謝していた。
私の言葉に登野城さんは安心したように笑う。
「それなら良かったです。正直、少し図々しかったかなと心配でしたから」
驚いたのは確かだったが、それよりも嬉しさの方が断然勝った。この程度の事でここまで喜んでしまう自分が逆に恥ずかしかったくらいだ。
「あっ、そうでした。話は変わりますけど、九城さん」
口に入れた玉子焼きを飲み込んでから彼女は言う。
「盗み聞きするつもりは無かったのですが、昨日シズナリ様と話しているのを聞いてしまいました。九城さんは今この町で起きているペットの誘拐事件をお調べになっているんですよね?」
「えっ? ……ええ、そうだけど」
「どの位の事をお知りになっているんですか?」
登野城さんは身を乗り出すように聞いてきた。
私は目をしばたかせる。
昨日今日親しくなった人間に話すべきかどうかを一拍だけ考えた。
常の私なら即座に聞き流すような話題だが、神憑きではないとはいえ供え屋の登野城さんに話を聞かれて、はぐらかそうとするのも可笑しな話だ。
大体シズナリとの会話を聞いていたというなら、この質問は実際に私がどれほどの情報を持っているのかという確認の意味だろう。なら、流れを読んで、正直に話すという選択も悪くない。同業者なら考えるけど、神憑きでない者にはどうにもいかないのが神というものだ。獲物をかすめ取られる心配は少ない。
「犯行を行ったのは足跡から四足の獣。狙われたのは外で飼われている犬などのペット達だと、シズナリ様からは伺いました」
「……それだけですか?」
「……………後は私の勝手な推測ですが、成り上がったばかりの神の仕業だと思います。シズナリ様のような土地神の方ならまだしも、役所の人間も早い段階で感づいていたようでしたから」
シズナリに聞けたのは二つだけ。舞の登場でそれだけの情報しか得られない不況を買ってしまったが、それでも、当初の目的を果たせただけでも良くできたほうだ。
もしかしたら、こうやって呑気に昼食を味わえなかったかもしれないのだから。
堅実な積み重ねが確実な実を結ぶように、世の中の理を少しでも理解しているなら、簡単に人生を賭けた一か八かの賭けなんてするものじゃない。
あの時、
シズナリにとっては、情報を私に与えることも、私を亡くすことも同じくらいの価値しか無かった。なら、命の上に少しの情報を手に入れられただけでも御の字というものだろう。
舞は少し考えこむようにして、「実は」と口を開いた。
「私の仕事関係で、この件に関して調査といいますか、解決するように依頼を受けまして」
「解決?」
神憑きでもない人間に神関係の解決を望むなんて尋常なことじゃない。アリに海を泳ぐサメを倒せと言っているようなものだ。
「言いたいことは分かります。ただ、シズナリ様との繋がりが私には少なからずありますから。先方はそれを頼りになさってるんですよ」
「……………それで、いいんですか?」
いいように危険な事に使われて。
神と話を交わすという事がどれだけのことなのかきっと彼女に依頼した奴はわかっていない。
「お仕事ですから。それに、ちゃんとそれなりの物も頂いているので、一人でこういうことをするのに不満はありません」
「でも」と彼女は続ける。
「仕事を円滑に進める努力は惜しまないつもりですよ、九城さん」
そういって食べ終えた弁当箱をしまい、一呼吸ついてから彼女は居住まいを正して正面から私の目を見た。
「神憑きの九城様、この町の供え屋"登野城"としてご相談があります。どうか私と手を取り合っていただけませんか?」
「…………私に近づいたのはそのため、ですか」
「否定はしません。でも、キッカケはキッカケ。あなたに言ったことに嘘はありません。家(供えや屋)のことを気にしなくていい友人がほしかったのも本当です。私は嘘のある関係を友人とは言わないと教えられましたから」
「………………フゥ」
不思議と悪い気はしない。それはどこか私自身が妥当な事だと分かっているからだろうか。逆に変に取り繕われなかった事で、舞のことをより好ましく思えている自分に安心する。
なら、
「見返りは?」
ニヤリと、
やっといつもの自分のように落ち着いて笑うことができた。やっぱり慣れない状況で慣れないことをしていると、不自然につかれるものだ。
登野城さんも同じように、笑顔を作る。
「私が頂く報酬の五割と……………後は気軽につき合える友達などいかがですか?」