第一章 生きるのに大切なこと 1話
朝起きて一番最初に確認する事は一にも二にも冷蔵庫の中身だ。
ひんやりと気持ちのいい冷気を感じながら冷蔵庫の扉を開けて、一つずつ何が入っているかを確認する。
牛乳、卵、マヨネーズ、ソース、ケチャップ、牛肉、豚肉、鶏肉……………。
端から段々と見ていって野菜室を開けた所で私は大きな空間が不自然に広がっていることに気づいた。
「………………キャベツがない」
丸々一個…………だけじゃ飽きたらず一個半。
ため息をつく。
次に確認するのは調味料だ。
最近はマヨネーズをかけるのに凝っていたようだから減っていなかったことに安心して食材に手をつけていないと思ったけれど、案の定…………、
「………………塩が」
買ってきたばかりの塩が半分程無くなっていた。
勿論一人暮らし用の小さな瓶に入ったような奴ではなく一袋の半分だ。
いくら何でも糖尿病になるんじゃなかろうか。
大きく息を吐いて立ち上がる。
まあ、一袋全部無くなっていなかっただけでも御の字だ。
前の時からはそろそろ1ヶ月。以前には冷蔵庫の中身が全て無くなっていることも珍しくはなかったのだから進歩はしているのだろう。燃費を無駄に消費しないように頑張っているのかもしれない。
さて、
「朝ご飯の準備しよ」
私はお気に入りのエプロンをつけて取りあえずお味噌汁を作ることから始めたのだった。
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朝ご飯の準備を終えた私は赤いキツネのマークが散りばめられたエプロンを台所に置いて敷き布団がしいたままの部屋に移動する。
丁寧に布団を折りたたみ端に寄せて、それを仕舞うのとは別の目的で私は押し入れの戸を開く。
目にはいるのはうず高くつまれた毛布の山。夏のこの時期にこの中で寝ることを考えるとゾッとしないでもないが、幸い押し入れの中は真冬の雪山のように冷えていた。
いつものことなので私はいつものように声をかける。
「おはようございます、トキ。朝食ができましたがどうしますか?」
声に反応して毛布がもぞもぞと動く。
暫くして、その山の中から見知ったお面が顔を出した。
もう一度同じ言葉を繰り返す。
「おはようございます」
「…………あぁ」
「朝食はどうしますか?」
「…………………あぁ」
私はそれを了解の意として受け取り、朝食を並べておいた食卓につき彼と自分の碗にご飯をよそる。
茶碗を彼のいつもの定位置に置くのと寝起きの髪を掻きながらトキが自分の座席に座るのは同時だった。
「頂きます」
「…………………」
トキは言葉の代わりに私の中で彼のトレードマークとなってしまっている狐の面を外す。面の下からあらわれたのは少し目つきの悪い色白の青年だった。髪まで白く染まっている額にはまだ寝たりないのか深すぎるシワが刻まれていて綺麗な顔と合わさってものすごい迫力だ。ちょっとお近づきになりたいという程度の心持ちでは話しかけることなど到底不可能だろう。
と、彼の顔を見ていたのがバレたのか唐突にトキがこちらを見た。
「なんだよ」
「いえ、眠そうだなと思いまして。昨日はお昼も寝ていたんでしょう。夜は遅かったのですか?」
昨日私が帰った頃には押し入れの中に入ってしまっていたから寝たものだろうと思っていたのだが冷蔵庫の中身が減っていたのを見ると、夜遅くまで起きていたらみたいだ。
トキは私の問いに目を細めて答えた。
「まあ、それもあるがな。単純に力が足りてねえんだよ」
「夜更かしするからですよ。
昨日は何の本を?」
「……これ」
彼は手を振って本を出し、それを私に差し出した。
「"猫と話す49の方法口入門編口"?
猫と話たいんですか?特殊な願望ですね」
「まさか。
お前と一緒にすんじゃねえよ。俺は至極真っ当な部類だ。
それよりテレビつけてくれ」
「食事中にテレビなんて行儀の悪い」
「そりゃ初耳だな。
良いこと聞いた」
私の苦言におざなりに答えて彼は朝食に手をつける。
このアパートに引っ越す前から使っている古株のテレビにリモコンを向けて私はスイッチを押した。
「何見るんですか?」
「んー、ニュース。
そして、おかわり」
「珍しい。
その歳でやっと世情が気になりだしたんですか?
後、もうちょっとゆっくり食べてください」
「世情って程のものじゃねえけどな。俺が知りたいのはもっとローカルな範囲。
お前に聞ければ早いんだが、お前友達いないんだもんよ。
近所のおばちゃんの井戸端会議に俺が入り込むわけにもいかねえしな」
私は受け取ったお椀にご飯をよそり突き返すようにしてトキに渡す。
「誰のせいですか誰の」
「少なくとも俺じゃねえな。多分はその無愛想なツラのせいだと思うぜ」
「アナタにだけは無愛想などと言われたくありませんね」
テレビを適当なニュースに変えて睨むように彼をみる。
無愛想どころか常日頃から狐の面などを被っているくせに何を言うのか。
夏のむせかえるように暑苦しいこの時期にそんな蒸れそうな物を付けているところを見せられて私がどんな気持ちになっているのか明確に意識させてやりたくなる。
まぁ、言ったとしても彼はどこ吹く風で食事を続けるのは間違いない。基本人間味に溢れすぎる自分至上主義が彼のモットーなのだ。
案の定、彼は挑発するようなニヤニヤとした笑いを返してきた。
「ハハッ、いいね。
ゾクゾクする。
その目だよ、その目。
その内視線だけで誰かを殺すんじゃねえかと思うわ」
カラカラと笑う彼を流し見てフンと鼻を鳴らす。
本気で言っているのが分かりすぎるほど生き生きとした笑顔だ。
すぐに鏡を持ってきて自分の目つきを再認識させてやりたい。
十人十色の誰がどう見てもトキの方が悪役顔だと思うはず。
…………言うかどうかは別だけど。
"―――――関東地方O県H市で大規模な竜巻が起こりH町では重軽傷含め死傷者が………"
ニュースキャスターのそんな声が聞こえてきたのは彼から四度目のお椀を受け取った時だった。
最近変わったばかりの新人キャスターはパッと見でも分かるくらい緊張感を漂わせて何とか噛まないで終わらせようとしているのがいじらしく思わせる。
「……………………近いですね」
確か二つか三つ程隣の市だった筈だ。
生まれてこのかた、この町から出たことがない私はともかく、昔トキがフラッとどこかに行って帰ってきた時に、この町の特産品を山のように買ってきたのを覚えている。
口の中が甘さを通り過ぎて苦いと感じさせる特異な和菓子で、これの製作元は何をする目的で特産品にまでしたてあげたのかと思ったのを覚えていた。私が一口食べて拒否した物も合わせ大半は彼の胃の中に消えてしまったのだけど。
トキは顔に似合わずとことん甘党なのだ。
「トキ、あの町覚えていますか。前にたくさんのお土産を買ってきてくれたー」
「あぁ、覚えてる。
チッ、どこの馬鹿だ。あんな甘いもんがある町をあんな風にしやがって………」
"甘い"を"うまい"と躊躇なく読む彼は本気で悔しそうにうなだれて拳を震わせる。
案外彼のお気に入りのお菓子が原因の天罰かもしれないなと私は思った。
「その様子だとこの事を知りたかったんじゃないんですね」
「あん?
あー、だから言ったろ。俺が知りたいのはもっとローカルな範囲だって。ご近所で噂になりそうな感じのやつだ」
「そんな小さな事がニュースでやるんですか?地方新聞でも見た方がいいと思いますけど」
「まあ、もともと駄目元だ。
そろそろニュースになってもおかしくはないって話だったから気になっただけだよ」
と、言うことは誰かから直接聞いたのだろう。
私に負けず劣らず友人という概念のない彼らからすれば、トキが誰から聞いたのかも大体想像がつく。
「またシズナリ様ですか?」
私の問いにトキは六杯目の催促と共に怠業そうに頷く。
「まったくあのバカも大概面倒な奴だよ。何かあったら直ぐに俺に頼る。
良くあんな若造が"土地憑き"になんてなれたもんだ。
相当時の巡りがよかったんだな」
「…………大変ですね」
「まったくだ。こんな事ならあの時お前に遠慮なんてするんじゃなかった」
私が言ったのはトキではなく彼の友神に対して、だ。
それに、出会ってから今まで彼に遠慮などという気遣いをされた覚えは全くない。
「取りあえず私にだけは迷惑をかけないようにしてくださいね。もし、かけたらしばらくお代わりなしです」
「はっ、そいつぁ怖いな。
肝に命じとく」
トキは彼のデフォになっているニヒルな笑みを浮かべて九杯目のお代わりを差し出す。
心臓を高鳴らす凛とした美貌でご飯のお碗を出す様はなかなかシュールで、なかなか間抜けだ。
「ま、せいぜい気をつけるさ。
お前も知らない奴が困ってたりしても助けてやろうなんて考えるなよ、虫寄せ。
ロクなことにならん」
「アナタこそ。
知らない者がおちてても食べちゃ駄目ですよ、神様」
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日本で神という公然の存在が公式に認められたのはちょうどこの国が大戦に敗れた頃。七十年近く前のことだ。
敗戦間近になって当時の官僚達は困った時の神頼みとでもいうように協力の打診を神達にして呆気なく断られた。
その理由が如何にも人知を超えた物らしく笑えそうなくらいに簡潔な物だったのだが、
いわく"面倒臭い"と"巻き込むな"だそうだ。
当時の官僚は顔の色を真っ青にした後に真っ赤にして抗議したという。
自分の国を守るのに何が"面倒臭い"、何が"巻き込むな"だ。ふざけるのも体外にしろ、それでもお前たちはこの国の神なのか、と。
必ず助けてもらえるという確信に近い盲信を抱いていた官僚達の反応は凄まじかった。
だが、それ以上に凄まじかったのは話を聞いていた神達だった。
結果的に人は国を守ってもらうおうと思っていた神達に敗戦の決め手となる怒りを買ってしまう。
現代では人間に人権があるように神にも神権というものが認められる時代。
神権とは簡単に説明するならば、神側に有利な相互の不可侵条約というようなものだ。
今現在、人間は神様という到底叶わない存在に対して昔ながらの畏怖と尊敬、少しばかりのお供え物と無関心を持って身の安全を得ていた。
お天気雨にあうのと同格率で神様に遭遇するこの時代、賢い生き方だよと私は彼から教えられた。
同感と私も思う。
昔からよく言うのだ。
障らぬ神に祟りなし。