第一部 ウルフキッド参上!
一章 キッド
ウルフマンとウルフキッドは敵の間をすり抜けながら、奥にある祭壇へ走った
神官のイダイがジャークという邪神を甦らせようとしているところだった。ウルフマンたちは狼だ。人語を解することのできる狼だ。そして正義のヒーローである。言霊の力を操り、〝牙〟という一騎当千の技を持っている。
今、通路の奥にイダイの部下たちが彼らの行く手を阻もうとしている。
ウルフキッド! ウルフマンは相棒のウルフキッドに言葉を投げかける。その言葉に呼応するようにウルフキッドは、任せろ、と言い、ずざっと足を止めると、四肢を広げ、必殺の構えをとった。
必殺の〝牙〟だ。
言葉を、想いを気に乗せて相手にぶつける。強烈な霊気が敵を襲った。敵の一団はこらえきれず、向かいの壁まで吹っ飛んでいった。雑魚め! とどめを刺してやる!
よせ! ウルフキッド! そんなのにかまってる暇はない! 先を急ぐぞ!
でもこいつらが——。
ほっとけ!
ウルフキッドは腹立ちまぎれに敵の一人の腹部を蹴り飛ばした。ウルフマンはそれを見ていた。キッドは優秀な狼だ。だが。ウルフマンは思う。怒りで時に自制心を失うことがある。それが欠点ではあった。怒りは善用もできるが、キッドは言葉を濁らせ、暴力的になるばかりだ。キッドにはもっと困難を与えてやらねば。不遜なこの性質をへし折る必要がある。ウルフマン! 野郎がいやがったぜ! キッドが叫んだ。
神官のイダイは明らかに焦っている。あたふたと周囲をうろつき、こちらに命乞いをしようとしているようにさえ見えた。もちろん、ウルフマンだって命まで取ろうとは思わない。だが。
じゃあ死んでもらうぜ! そういってキッドはいきなり全力で〝牙〟をぶっ放した。背後の祭壇にひびが入り、イダイが驚いて、後ろ振り向く。
やめろ! それを壊してはいかん!
へえー、壊すとどうなるんだ! ウルフキッドは続けてもう二発目の〝牙〟を打とうとする。ウルフマンが異変に気付いた。慌てて止めようとするが、〝牙〟の波動はすでにキッドの前足から離れている。
祭壇に牙がぶち当たり、黒い煙が中から噴出した。建物には大きく穴が開き、イダイは吹っ飛ばされ、その場にはもう姿がなかった。落ちたのだろう。命はないものと考えてよかった。噴出した黒い煙は巨大な影を形作り、二匹が驚いていると、ぱっといくつかに割れ、開いた天井から弾けて飛んだ。
キッドは、任務完了だな、とウルフマンにいう。
いや、本物の任務はこれからだ。
ウルフマンは言った。これからのことを思うと気がめいった。誰も無事では済まされないだろう。こいつは、なんてことをしてくれたんだ!
二章 エンジェル
こんにちは。
こんにちは。
今日もいい天気ですね!
お元気で!
仔犬のエンジェルはドッグタウンですれ違うどうぶつたちに、次々に気持ちのいい挨拶をしていく。一日一善というわけではないが、良心はエンジェルの最も素晴らしい美徳だ。それを無償で振りまくことにエンジェルは楽しみを見出している。
あら、なにかしら?
黒い球だ。地面に転がっている。宝石のようでエンジェルはすぐに気に入った。拾おうとするとサラリーマン風のどうぶつ――サルだ――がそれをひょいと拾い上げて、エンジェルに手渡した。
落とし物ですか?
いえ、そういう訳じゃないけど(もらっちゃおうかしら?)、そうです私のです!
はい。
お猿さんはにこりと笑って、エンジェルに黒い球を渡した。だが目の奥にはわずかに陰りが見えた。はじめはなかった陰だ。
えへへ。宝石だ。エンジェルはうれしくなって、それをポケットの中にしまい込んだ。
そのとき、なぜだろう、ふっと向こうに去っていくお猿さんに何に何か罵倒語を口にしたくなる衝動を感じた。エンジェルの心の底から何かが湧き上がる。それはエンジェルの脳内で言葉になる――いや、なりかけた。
口から出かかる言葉を抑え込んだせいで、エンジェルは陰鬱になった。それからエンジェルはコンビニに入ってドッグ・パンを買った。店員がどこかよそよそしく感じられ、それは自分の心から出てきたもののようにエンジェルには感じられた。
三章 ラッド教授 Ⅰ
不動産王のジラフ氏のダイヤモンドが黒く濁ったのはそれから時を同じくして。ジラフ氏の元には、氏にダイヤモンドを譲ってほしいという文書が連日届き、氏は頭を悩ませている。文書の主はラッド教授。大学で考古学を教える大家だが、この頃の評判はすこぶるよくない。
ジラフ氏のパーティーには著名なウルフマン、ウルフレディーが招待されていたが、今日の彼女はいつものコスチューム姿ではなく、ぴっちりとしたドレスを着て、大ぶりの宝石を首から下げていた。
今日はありがとう、ジラフさん。
あいにくの大雨ですが、まあ楽しんでいってください。
何かあったら言ってください、その……ラッド教授は。
来てるよ、呼びもしないのに。
困った人ね。
ラッド教授は目をいからせ、あたりを伺い、白いトラの肩に乗っていた。どうやらダイヤがどこにあるか確認しているようだ。ここに目的のものがない事に気づくと、教授は大声を出し(いったいどこにそんな声量があるのか)、ジラフを呼ばわった。
ジラフ! この馬鹿者! どうしてダイヤを用意しておかなかった! この私が引き取りに来ると前もって告げていただろうに!
ジラフは小馬鹿にしたような目でラッドをねめつけた。この多少学があるらしい教授がジラフは気にくわない。自身叩き上げで財を成した男だったし、経済以外の事にはとんと興味がなかったからだ。ましてや考古学。ラッド教授がいかにその道のスペシャリストだろうと、ジラフ氏は到底それを尊敬する気にはなれなかった。
バカが威張り腐って。と、ジラフ。
なんだと?
学のあるバカはむしろ手に終えんな。
ふん。お前さんはストーンの効果を知っていないからそう言えるんだ。早く石をよこせ。その方が身のためになるぞ。
馬鹿は休み休み言え! あれは俺が何億と出して買ったものだ! 欲しいならそれなりの金を出せ!
私は金など持ったことがない。よく知ってるだろ。
フン……まあ仮に持っていたとしても売らんがね。
この嘘つき!
何を!
二人が言い合いになるのを白虎とウルフレディーが間に入って仲裁した。喧嘩はおやめください、マスター、と白虎も言う。
マスター?
どういう関係かしら? ウルフレディーは思ったが、帽子の下から覗く白虎の鋭い視線を見て彼女はぎょっとした。
戦いなれている、手だれだわ。
ラッドが言った。どうせこの建物のどこかにはあるんだろう? それなら見に行ってみようじゃないか。出ていこうとする二匹をガードが引き留めた。おい、なにする?
ジラフ氏はわざとぞんざいに言った。そいつらをつまみ出せ。
二匹がドアの向こうに力づくで押しやられると彼はすこぶる満足した。自身の虚栄心が満たされる思いがした。悪い人ね。ウルフレディーは言った。彼女はここにウルフマンの仕事をしに来ただけではなく、一部のどうぶつたちの権利の向上に掛け合いに来たのだ。
だがジラフ氏はそれにも取り合わない。彼は古い男だったからだ。ウルフレディーはジラフ氏の態度に失望を覚えたが、ウルフマンとしての仕事をおろそかにする気はけっしてなかった。あの二匹がきな臭いと彼女は感じていた。
四章 ラッド教授 Ⅱ
外は大雨だった。
盛装していたラッド教授はぬれに濡れたが、白虎――ホワイト・タイガーは上から黒いポンチョを羽織っていたので雨の被害も少なかった。しかし濡れるものはぬれる。
わしらは戦わねばならん、ホワイティ。何としてもストーンを手に入れる。奴からそれを盗み出すことになってもだ!
確かに戦わねばなりませんね。ホワイト・タイガーことホワイティは言った。でもマスター、我々は、本当はいったい何と戦わねばならないのでしょうか? 世界の不思議とでしょうか、それとも政治や経済とでしょうか。
こんな時に……くしゅんっ!……何を。
例えば、明日雨が降る。そうと分かっているときにレインコートを用意する、長靴を履く、装備をそろえるとか。自然に備え、自然と戦うこと、どうぶつたちの戦いは本来そういうものなのでは?
そういってホワイティはズボンのポケットからネズミ用のレインコートを取り出した。着てください、マスター。雨が防げます。
何が雨だ! ラッド教授はレインコートを着込みながら天に向かって毒を吐いた。空も落ちろ!
ホワイト・タイガーはまたズボンを探ると、今度はスマホを取り出してラッド教授に見せた。黒いマップに光る点が輝いている。別館の奥です。そこにストーンはあります。
よしそこまで行こう。もし誰か出くわしたら、でかいのを食らわせてやれ。
通路の奥へ進むと、部屋があった。ホワイティ、まだ〝吠え〟れそうか? ラッドが尋ねる。
あと数発は打てるでしょう。ドアを開けた。ガラスケースにダイヤモンドが収まっている。これが教授の言うストーンに間違いない。
だが。
マスター。これは黒いだけのダイヤモンドなのでは。
……先日、友人のイダイがウルフマンに殺された。その際、祭壇が壊され、ジャークが解き放たれたのだ。
ホワイティには何を言っているのか分からなかった。
ジャークは人の、どうぶつの心の闇。解き放たれたジャークが七つに飛び散ったのを観測所が確認している。南総里見八犬伝という本がある。読んだことは?
いえ……。
江戸の本だ。その中でも八つの玉が飛び散ってそれぞれの宿命を帯びた人間に取り付くという話が出てくる。これはその再来。しかし今回は仁や忠や礼などといった、そんなものじゃない。
大事なのですか。
大事だ。回収せねばならん。ホワイティ、ゆっくりガラスケースを開けろ、ただ玉は直視するな。瘴気に当てられるぞ。
ホワイティが慎重にガラスケースから玉を取り出すと、ラッド教授に手渡した。
よし……一つ目だな。
そこまでよ。声がした。二匹が振り向くと、そこにはドレスを着込み、首からルビーの首飾りを下げた、ウルフレディーの姿があった。通路の惨状はあなたたちね。酷いことをしたわね。
邪魔するからだ! ラッドは叫んだ。ひょっとしたら、瘴気に当てられていたのかもしれない。(今日はロクでもない日だ! ろくでもないことばかりわしに言わせて、しかもやらせおって!)
マスターの自制心が大分やられているのを感じたホワイト・タイガーが、ずいと前に進み出ると、やったのは俺だ、といった。そして構えた。
〝牙〟だ!
ウルフレディーが見て取った瞬間にそれは放たれた。横跳びで何とかかわすが、彼女は足に負傷を追ってしまう。(どうしてこの虎が〝牙〟を使えるの?)。ウルフレディーの頭には疑念が渦巻く。
次はない! 行くぞ!
待ってよ! 戦わなきゃいけないの?
そうだ!
わたしはあなたと戦いたくないわよ! わたし達が戦って誰が得するのよ!
俺たちが戦って誰が得しようと俺の知ったことか! 俺はな、一目見た時から、お前が嫌いだった! あんたも、あんたらもだ!
わからずや! ウルフレディーは〝吠え〟た。ドレス姿が光り輝くと一瞬にして茶のマントを羽織った戦闘服姿に変身する。しかし防戦一方で、彼女には攻める気配がない。
俺と戦え!
ホワイト・タイガーの爪を何とか抑え込む。その時、声がした。ウルフレディーの声でもホワイト・タイガーの声でもなかった。もちろんラッド教授の声でもない。
だが声を聴いた瞬間、ホワイト・タイガーの顔は一瞬、正気に返ったように見えた。ラッドが窓の向こうからホワイティを呼んだ。彼だけ脱出していたのだが、用意周到にも外に車をつけて置いていたらしかった。
逃げるぞ! ラッドが叫ぶ。
窓にめがけ、ホワイト・タイガーは突撃するようにジャンプした。ガラスをぶち割り、表の降りしきる雨の中に急いで駆け込む。車はオープンカーで、ジラフ氏のコレクションする旧車のようだった。ホワイト・タイガーは助手席に飛び乗った。あとを追うようにウルフレディーも窓を飛び出した。出発しようとするオープンカーのリアの部分に彼女はしがみついた。
運転を代わります。ホワイト・タイガーが言って、ラッドからハンドルを代わった。道は次第に崖になり、柵のないカーブを急いで彼は行こうとする。
危ないわよ! ウルフレディーが叫んだ。
車のタイヤが崖から滑り落ちたのはその時だった。
☆
崖をつかんでいるのはホワイト・タイガ―、一方の前足で崖にぶら下がり、もう一方の前足でウルフレディーの前足を支えていた。ホワイティの頭上ではラッド教授が今にも落下しそうな恐怖に震えている。教授はホワイティの手がこの重量を支え切れないのを見て取ると、うわああー! と叫んだ。
ホワイト・タイガーは苦悶の表情を浮かべながら、それは出来ない、と答えた。
ラッドの言う通りよ! このままじゃ共倒れだわ!
黙っていろ!
ウルフレディーは多少ショックを受けたが、今はそんな悠長なことを考えている場合ではない。
三匹とも死ぬわよ!
あんたは自分のするべきことをしろっ! だまってろ!
その言葉を聞いて、ウルフレディーの心はやがて穏やかなものになった。
今引き上げてやる。ケリはそのあとだ!
ヌルッと嫌な触感がして、ウルフレディーの前足が下にずり落ちる。(あっ!)と思ったのが一瞬だった。ウルフレディ―が下の谷底へ落下し小さくなっていく姿が見えた。谷底の急流は荒れ狂っており、そこに落ちて命はないもののようにホワイト・タイガ―には思えた。
それからゆっくりと二匹は崖を上がった。犠牲は出てしまったが……。ラッド教授は何か慰めの言葉をホワイティに掛けようとしたが、続く言葉がなかった。
五章 Z
広い敷地には今日も雨が降っていた。駅を出てすぐの場所にあるそこは、ひとつの町を形成していて、なかには動物が必要とするべき施設はあらかた揃っていた。しかし降りしきる大雨のためか、外を出あるくどうぶつ達の姿は少ない。
長靴に、黒い傘。ウルフマンはコートの襟を立てて、敷地の奥にある待ち合わせ場所がある建物へ入った。会うべきどうぶつがいるのだ。
建物内は広く、入り口付近に億の桁が付きそうなZ社のモニュメントがあった。社のコンセプトを図形で表しているらしい。
ガラス窓の向こうには、Z社の巨大な展示室が広がっていた。Z社が開発するAI搭載の自動車、空飛ぶ飛行機、そして一番奥には宇宙船の小型模型……。Z社の社員がラフな服を着て、通りを闊歩している。
展示室の壁際に巨大なスクリーンが張り付けてあり、そこには巨大な「Z」が色とりどりの色彩を放射しながら、その下に多国間の言語で「未来」と書かれ、たゆたっている。
ウルフマンは角を曲がり、エレベーターに乗った。音の全くしない、宙に浮いているかのような乗り心地だった。
☆
二階は静かだった。
どうぶつ達の熱気がここにはまるでない。すべてが計算ずくというような気配がウルフマンにはした。彼がここに来ることも、ここに彼一匹しかいないこともすべてが予想されていたことで、周到に演出されている効果だといったような。
ウルフマンはそこで受付に呼び止められた。どうやら雨が滴っているコートはここではNGらしい。受付にコートと傘を預け、さらに案内された最上階へのエレベーターに乗り込んだ。
ここまで来るのは並の事ではないんだろうな。ウルフマンは思う。
最上階に部屋は一つだった。短い通路を進んだ先には頑丈そうな扉があり、案内の黒服が扉を開けると、そこにZ氏がいた。
部屋に入ると、ウルフマンはZと向き合って座った。Zは何も言わず、ウルフマンの前に写真を七枚投げ出して言った。ここに玉と一緒に写っている男女がいる。この玉を手に入れてほしい。
なぜ?
欲しいからだ。必要だからだ。それでは駄目か。
できれば……理由が必要ですね。
ウルフマンは写真にちらっと眼を落した。不動産王のジラフ氏に狼族の少女(誰だろう?)、そしてネズミの教授らしきどうぶつ……。
興味を持ってくれたようだな。
その手は食わんよ。
食えない男だな。そういって、Zはスマホを取り出すと、どこかへ電話をかけた。三秒後、電話がつながると、Zはスマホを操作しはじめた。代わってすぐさまウルフマンのスマホが鳴り、それを取ると、通話は彼の管理者のキティーだった。
キティー……。
依頼よ、ウルフマン、依頼人は――。
ウルフマンは電話を切った。
気に入ってくれたかな?
やり方が汚いな。
また掛け直させるか?
腹を割って話そう。この話にはいかがわしいにおいがプンプンする。プンプンする!
まあそうカッカなるなよ。飲んで話そう。
お暇する。
いい酒があるんだぜ。Z氏はデスクを引き戸を開くと、中からウイスキーのボトルを一本取り出した。ジャパニーズ・ウイスキーだ。あんたは酒が好きだって聞いた。
嫌いじゃない。
じゃあ飲もう。飲めば口もうまく滑るさ。
Z氏は二匹分のグラスにウイスキーをとくとくっと注ぐと、ひとつをウルフマンに勧めた。ウルフマンは一息でそれを飲んだ。
言っておくが、おれは酒を飲むとどうぶつが変わる。悪魔が取り付くんだ。Z氏はウイスキーをあおると、前を見た。ウルフマンが倒れている。ハハッ! Z氏は笑って言った。バイバイ、ウルフマン!
六章 キッドとエンジェル
やってられるかよ! キッドは叫んだ。急流を下った先にある山の中を、篠突く雨をレインコート一つでしのぎ、やってることといえば先日へまを犯したウルフレディー先輩の捜索だ。
レインコートは雨を通さないが、逆に言えば汗で蒸れるということだ。
コートの中は蒸し暑く、まるでサウナに浸かっているよう。キッドはたまらなく不快だった。早く帰ってシャワーが浴びたい。
これが働くということか。キッドは思った。風雨を耐え忍び、疲労し、汗と泥だらけになり、安全や健康とはかけ離れた世界。仕事に打ち込めば打ち込むほど、そこにあるのは将来への不安、そして増していく酒量……、臓器、臓器が……。
この世界で本当に頼りになるのは、装備品だけだな。ウルフキッドは思う。備えあれば患いなし、疲労と泥でまみれたこんな世界でも優れた装備品だけは確かに信頼が置ける。ああでも、こんなふうに雨の山ん中を這いずり回って、それでも結局、最後には、ウルフレディー先輩みたくのたれ死に(まだ死んだと決まったわけじゃねえけどさ!)なんかな……。
しかし、こんな仕事やめてやるぜ! には、なぜかならなかった。キッドの心は仕事きついぜ、と、装備あるからまだいいよね、の見事な半々で、その折衷案をキッドは取っていたからだ。
要するに、なあなあの妥協策だ。根本的な解決にはならないが、そもそも誰が天気を操作できるだろう(そんな御業が出来るなら、おれは神のごとく崇めるな)。
だから妥協は妥協なりに、キッドはそれでいいと思っていた。
☆
急流に沿ってしばらく行くと、今度は道路が川沿いに走っていた。川は今にも氾濫しそうで橋の欄干を犯している。
来るんじゃなかった……。キッドは心から後悔したが、前方から車のライトが近づいてくるのを目にとめた。
(しめた!)
おーい! キッドの上げた前足をドライバーが目にしたのか、バンが音を立てて止まった。乱暴な停車の仕方で、ペーペーかな? とついぞ心配になった。ドアが開き、急いでの助手席に乗り込む。
やあ、助かったよ!
気さくにそういって、キッドは運転手の顔を見た。ハンドルを握っているのは、同じ狼の少女で、かなり親切そうだ。
ありがとう。ちょうど動物を探していて、僕たちと同じ狼で……。
その子のこと? 優しそうなその狼の少女は後部座席を振り向いて、言った。キッドも振り向いてそちらを見た。足にけがをしたウルフレディーが毛布をかぶってそこに丸くなっていた。
そこで拾ったの。でもその子、何も憶えてないのよ。
何もって?
記憶とか、そういうもの……かわいそう。
キッドはその瞬間、狼の少女の瞳に何かが黒いものがひらめくのを見て取った。しかも彼女はそれが噴出しようとするのをどうやら押し込めているらしいのだ。
体に悪そうだな。キッドは思った。
ほぐしてやろうと思い、俺キッド。と、彼は自己紹介する。きみは?
私、エンジェル。
エンジェル、いい名前だね。
ありがとう! すごく嬉しい! 街まででいい?
うん、俺と彼女はそこで降りるから。
付き合ってるの?
まさか! 上司と部下の間柄だよ。むしろヤな奴だと思ってる。寝てるよな……?
エンジェルはくすくすと笑って、バンのアクセルを踏んだ。ぶおんっ、というひどい音がしてもう一度踏み直す。
車検……行った?
いったよー。
酷い運転だね、とは流石に言えない。車が走り出す、そこからの道のり――その感想はこれまで体験したどんな任務よりもデンジャラスに感じられるということだったが、それもさすがに言えない。代わりに口にしたのは、運転代わりましょうか? という力ないセリフだけだ。
キッドはあきらめて、別の話をすることにした。気丈に振る舞っているが、エンジェルがどこかで痛みを隠しているように彼には見えたからだ。俺もヒーローの端くれだ。何とか心をほぐしてやりたい。
この森、なんていうか知っている?
しらない。なんていうの?
猟師の森っていうんだ。昔むかーし、この森に人間の女の子が迷い込んだんだ。それをー!(と言ってキッドは大口を開けて)ばくっと閉じた。狼が食った!
食べちゃったんだ! それで?
狼は家に帰って食後のひと眠りをしたんだ。そこに漁師がやってきて、狼の腹を鋏で切って、口から石を詰め込んで。(そういってキッドは大口を再び開けると、前足でグーを作り、のどに詰め込むふりをした)。
そんなことしたら死んじゃうよ!
かくっ! と、キッドは首を前に大きく倒した。ぐでっ!
エンジェルはまたけたけたと笑った。途端、車の向きが斜めになり、キッドは肝を冷やし、叫んだ。エンジェル! ハンドル! 言われてエンジェルがハンドルをあわてて切ると、がくんとバンが揺れ、ティッシュペーパーがボックスからばさっと落ちた。
それからキッドは運転を自分と交代してくれとエンジェルに懇願した。それからしばらくの間、彼がハンドルを握ったが、エンジェルは無口になった。やっぱり何かを心に隠しているようで、キッドはそれを見て、
(辛そうだな)
と、感じる。
ねえ、エンジェル。キッドは運転しつつ言った。余計なお世話かもしれないけど、悪いもんは出しちまった方が体にいいと俺は思うんだ。
どうやって?
(やべ……泣かせちまいそう)エンジェルの様子を見て、キッドは言葉に慎重になる。
うーん……エンジェル、ウルフマンって知ってるかい?
知らない、美味しいの?
食べもんじゃないよ。とにかくウルフマンは〝吠え〟って技を使うんだよ。言葉を武器にするんだ。心を〝吠え〟ることでね。
でもそれはウルフマンだけの話……。
エンジェル! きみも狼じゃないか! きみも〝吠え〟が使えるんだ! ウルフマンみたいに特殊な訓練を受けなくたって、だれだって、どんなどうぶつだって、〝吠え〟れるはずなんだ。きみにもできるはずさ。
私に……〝吠え〟が出来るかな?
できるさ! キッドはボタンを操作して、助手席側の窓を全開きにした。エンジェルは驚いたが、キッドは構わず言った。かなり濡れるけど、我慢して。さあ〝吠え〟てみて!
できない!
できるさ!
なんて〝吠え〟ればいいの!
好きなことでいいよ!
エンジェルは〝吠え〟た。だが、それはここには書くことが出来ない。エンジェルがそこで咆哮したのは狼の言語だったからだ。それはこう言っていた。――私からよこしまな心を取り除いてほしい――邪心なんて無くなればいいのに! 消えて、なくなれ!
☆
それからの運転はずっと窓を開けっぱなしだった。横を行く車の中には窓を全開に開けている運転席側のキッドを見てぎょっとした顔をするものも珍しくないが、エンジェルは何も気にしていなかった。
そう、何もだ!
狼の毛皮には撥水性がある。その当然のことに、その使用法・用途にエンジェルは今になってようやく思い当たった。この雨はエンジェルには何かいいもののように感じられ、全身に水を浴びたい欲望――そして体をぶるっと振るわせたい欲望――にふと襲われた。いやらしい、とは思うが、こうした考えがエンジェルの心を明るくしたのは事実だ。これからは私、傘なんて刺さない、もう何も刺さない。彼女は心に誓った。
七章 放て〝牙〟!
ドッグタウンの郊外にある新興住宅地の一角を通り過ぎるとき、エンジェルが、ここで一回停めて! と声を大にした。ここ、私の家があるの、濡れちゃったでしょ? あったかい飲み物でも飲んでこ。
でも俺は……。キッドは言葉を濁したが、正直に言うと、女子の家に誘われたのが初めてだからどぎまぎしているのだ。
大丈夫、私、猟師の森の狼じゃないから!
(たしかに)
キッドは素早く考えた。
(ここでベッドを借りて、ウルフレディーを寝かせてく……んで、あとで評議会の連中に引き取りに来させるのも手かもしれない。俺はここでエンジェルと駄弁りながら、ドッグコーヒーでも飲む……、決定。決定。決定だぜこりゃ)
そうしようか。
やった! じゃその子どうする? 中に運ばなきゃ。
そうさな。俺が担いでくよ。ウルフキッドはエンジンを切り、キーをいったん借りると運転席から出て後部座席のドアを開けた。そして中からうなされていたウルフレディーを担ぎ出し、ドアを閉めると、口を使ってキーをエンジェルに返却した。咥えちゃってごめんね。
と、キッド。
それに対し、器用だね! と、エンジェル。
家のカギは車のキーについていた。家に入ると、中は図書館かと思うほど辺り一面に本が置かれていた。種類も様々で、軽めの本から黒めの本、ただ漫画はあまりなかった。ハンドメイドの燭台がひときわ目を引いた。四代前のおばあちゃんの時代からあったものだそうだ。
きみのルーツは外国籍なの?
だってエンジェルだもん。もともとこの国にはいないよ―。
ウルフレディーをエンジェルのベッドに寝かせる。彼女のベッドを占拠してしまったのは、多少気がかりだったが、エンジェルはあまり気にしていないようだった。包帯を救急箱からエンジェルは取りだしてきた。そんなものまであるのか、とキッドは思った。聞けば母親が看護の仕事をしていたらしい。彼女の包帯を巻く姿は様になっていた。君は何をしてるの……その、お仕事とか? キッドは尋ねる。
それはね。
階段から動物たちのおりてくる足音がした。キッドはそちらへ目を向けた。年寄りのどうぶつが多い印象だった。おそらく出自のばらばらなアライグマが五匹。
じゃーん。ここで寮母さんをしてまーす!
キッドは何だか安心した。無職だと思っていたからだ。それにここでの寮母はエンジェルには天職のように思える。
しかしエンジェルの目がまた曇った。急に言葉少なになり、彼女は、じゃあ……ここつかっていいから、と言って引っ込んでしまう。キッドは下がろうとするエンジェルの手を取った。言った。なにか……あるんじゃないのか? 話してごらんよ。
私。エンジェルは思いを口にしようとしたが、馬鹿にされるのが怖かった。でも言った。キッドを信じて。怖い! 悪い言葉が……むくむくって時々、頭に渦巻いてて……それを誰にでも投げつけてしまいそうで……何かを壊してしまいそうで……!
エンジェル、それって自然なことだよ。俺なんか四六時中、誰かを呪ってるよ。
私も?
きみは違うよ。
でも私は、あなたのことも……心の中では。
まさか、それを抑えてたの? だめだめ。俺なんかクソ中のクソ犬なんだから。いくらでもぶんなぐっていいんだよ。
落雷が近くを襲った。驚いたエンジェルが、キャッ、と言って傍の箪笥に凭れ掛かったとき、箪笥の上に乗っかっていた黒い玉が転がり落ちた。ごとん。という鈍い音を立てたので、割れたのではとキッドは思って足元に転がってきたその黒い玉を拾った。何の変哲もない黒い玉だった。綺麗だね。彼は言った。すごいな高そうだ、割れちゃったらどうしようかと思った。
だいじょうぶ。元々拾ったものだから。結局、落とし主も現れなくって、私がもらったんだよ。
おや?
☆
窓のへりにネズミが立っている。
黄色いレインコートを着て、レインコートの胸元から下に高価そうなスーツを着込んでいるのが見て取れた。おそらく一角のどうぶつなのだろうが……覗きか? ともかくそんな場所に居てはずぶ濡れになってしまうだろと、エンジェルが窓を開けてやった。
が、ネズミは礼も言わずに部屋の中に向かって走ると、黒い玉に駆け寄り、そして、ネズミとは思えぬ力技で玉を担ぎ上げると、窓の外へ向かって跳躍した。
なんだあいつは! キッドもさっと窓を乗り越え、外に出た。雨はさっきよりもひどくなっていた。エンジェルは玄関に回り込んでまた長靴をはくと、表のキッドの方へ向かった。
すると。
ごうっ! バリバリ! とすさまじい音がして、何かがあたり、庭の巨木が倒れた。巨木にぶつかったのはおそらく物体ではないことは、エンジェルにもそれとなくわかる。しかしなら何が木を倒したのだろう?
エンジェル! そいつは危険だ! 家の中に居ろ! ヤバい!
キッドに相対していたのはほかならぬホワイト・タイガーだった。タイガーは〝牙〟の構えを取り、キッドにめがけ、それを放とうとしている。
そんなに戦いがが好きかよ! こんな雨の中、戦って意味あんのかよっ! キッドはそう言って迎え撃つ姿勢を見せた。彼は〝吠え〟た。茶色い体毛が徐々に彼の真の姿に変わっていく。ウルフマンのサイドキック、ウルフキッドだ。マントが翻り、雨を弾き飛ばした。ホワイト・タイガーの〝牙〟は、一直線にウルフキッドへ放たれる。彼はマントをかぶる。体を包み込む赤いマントが攻撃を無効化し、〝牙〟の衝撃はちりぢりばらばらになって消えた。
もういい! ホワイト・タイガー! ストーンは手に入れた! ここは引くぞ!
ラッド教授の声に押されて、ホワイティはその場を後にした。キッド!
慌ててエンジェルがキッドに駆け寄る。キッドは震えていた。前足で体を包み込むように。