93話
――燦然院絵麻は、自らの人生で幸福だと思った事が、一度だけある。
燦然院家は、倶利伽羅で言えば、中の下の家格。実績を誇る事も出来ない家柄で、燦然院家が持つ歴史のお陰で辛うじて名家の仲間入りを果たしているだけの、名折れだった。
そんな家に生まれた絵麻は、生まれた時から大きな期待を背負わされていた。何せ彼女は、一人娘。長年子宝に恵まれなかった両親の間に授かった唯一の子である事に加え、同じ年代に四家の子供らが揃っていると言う、燦然院家にとって奇跡とも呼べる幸運を引き寄せた黄金の子。歴史ある燦然院の名を継ぐ子が生まれなかった焦燥と、四家と言う天上の家の者とお近付きになれる可能性を孕んだ子が生まれたのは正しく運命である、逃す事の出来ない好機だと捉えた両親は、絵麻に絶大なまでの期待を背負わせた。
しかし、悲しい哉。その奇跡だけが絵麻に授けられた神からの贈り物であったかのように、絵麻には突出すべき才能は何も無かった。両親の期待に応えられるだけの、才能は持ち得ていなかったのだ。
財力だけはある実家によって、これでもかと強制給仕もかくやと言う程にあらゆる才覚の種を詰め込まれたのだが、それは絵麻に苦痛を与えるだけで、才能は何一つとして開花する事が無いまま学園へと入学を果たした。
そこで待っていたのは、平穏にして平凡な日常。
絵麻に才能が無いと判明して白けた目を向けてくる両親が居る家と比べれば、学園での生活と言うのは何倍も過ごしやすい環境。とは言え、両親も変わらず自分を愛してくれていることが分かる故に、家の事を嫌いになれなかった。いっそ嫌いになれてしまえば良かったのに、と強く思う度に両親の愛に触れ、穏やかな気持ちになったと思えば、両親の目の奥に見える落胆の色に顔が引き攣る。
そんな生活と比べて、同じ家格で友人も出来た絵麻は、学園での生活を「楽しい」と思う事が出来ていた。あれやこれやと、子供の体に詰め込める限界を超えて押し込んでくる経験を経ている所為か、一歩一歩着実に力を付けていく事が出来る学園のカリキュラムは、全く以て普遍的と評するのが相応しい絵麻の性格にぴったりと嵌るように合っており、両親が早々に見限った事が間違いだと証明するかのように、絵麻は少しずつとは言え確かに成長していった。
そんなある日、絵麻の人生を大きく変える出来事が起こった。
――演習中における、霊技の暴発事故。
それは絵麻のいるクラスとは異なる、別のクラスで起こった事故。
噂に聞けば、それは四家達が在籍する、学園でもトップクラスの名家が集まるクラスでその事故は起こったのだと言う。本来であれば友人同士で「怖いね」と言って終わるような話であったが、その被害者が「燼月永新」であると知って、絵麻たちのクラスにはかっこうのネタだとして嘲笑の渦が出来上がる。
燼月永新。
その名は絵麻が在籍する隣のクラスのみならず、学年、下手をしたら学園全体で噂になる程に広まっている名前。その広まっている噂は、全て悪い噂で埋まっており、絵麻もその他大勢と同じように悪しき噂通りの感想を抱いていた。
例えば、名家の人間を誑かして裏口入学を果たしたとか、小暮日永恋の腰巾着だとか。
そのクセ、成績は下の下の下。クラス毎に進行度が異なるとは言え、最上位のクラスに最下位の家格の人間が混じった所で、それは異物にしかならず、不和をもたらす原因にしかならない。その為、今年の最上位のクラスは四家を除けば半数以上が素行不良だなんだと騒がれているのだが、その誰もが「燼月永新」に対しての不満を大量に零していたため、名家に付き従う意見こそが正義だと猛進する多くの倶利伽羅によって、彼の印象は全てにおいて最悪だと認識されていた。
今回の事件の一端も、燼月永新が何か仕出かしたのではないか、と多くの倶利伽羅の子息令嬢たちは勘繰り、多くの人が彼を異物として認識する中、絵麻もまた、同じような意見であった。
迎合する事こそ集団心理と言うのか、友人同士で意見が異なればその時点で、敵。そんな空気感が漂う世界では、何も考えずに一番偉い子の意見に同調するばかりなのが、当時の絵麻なのであった。
――その結果、自分の意見を持たない絵麻が省かれるとも知らずに。
噂が流れた翌日、絵麻のクラスに一人の生徒が転入してきた。
社会で言えば異動、悪く言えば、左遷。人の口に戸は立てられぬ、と言ったように噂が駆け巡ると、その転入生が、問題を起こした人物だと知る。名は、磐田陸人。問題を起こしたとは言え、腐っても彼は四家と同じクラスに在籍していた程の名家の子息で、型落ちする隣のクラスの中では最上位に位置する。
その結果、貶められたとは言え尚も有力な家名を存分に振るい、瞬く間にクラスカーストを支配するに至った。
一定の範囲に収まるコミュニティに、それを大きく下回るか、もしくは上回る存在が加えられた時、その殆どの状況下において、コミュニティは破壊される。
転入してきた人物によって支配されたクラスは、瞬く間に転入生の色に染まっていき、彼が求めるそのクラスでの「燼月永新」と同じ立ち位置に絵麻が置かれた途端、友人だった者達は離れていき、一週間と経たずして絵麻は孤立してしまうのであった。
誰からも省かれ、無視され、手を差し伸べられない。そんな環境を、ただでさえ失望している両親に相談する訳にも行かない。話したが最後、本当の意味で絵麻は捨てられてしまうかもしれない。そんな恐怖が宿った絵麻は、クラスから逃げる選択をした。そしてその逃亡先に選ばれたのが、人気のない校舎の隅にある、『第二図書館』。
そこには、倶利伽羅には必要の無い知識の宝庫とも言うべき、娯楽のための書物が埃を被って並べられており、そのいくつかに絵麻は心奪われた。元より勉強が、読書が嫌いな訳では無い絵麻にとって、そこは辛い現実を忘れさせてくれる、聖域のような場所であったのだが――そこで、絵麻は運命の出会いを果たす。
『じっ、燼月、永新……』
絵麻はそこで、寂しそうな、後悔の滲んだ目を浮かべた少年、燼月永新に出会った。
彼の事を噂でしか知らなかったものの、人の口に踊らされて追い出された絵麻はその時、彼の噂より何よりも、話し相手が出来た事の方が嬉しかった。
再会の約束を取り付けた翌日以降も、彼は何かから逃げるように絵麻の居場所に足を運んでくれた。その度に、絵麻は第二図書館にある書物について話したり、他愛のない事を話し合ったりして、息の詰まる環境に居る二人の間に穏やかな時間が流れていた。中でも、絵麻は昼食の時を楽しみにしていて、燼月永新が手ずから作っていると言うお弁当と、使用人が用意してくれたお弁当の中身を交換し合う時間がとても――そう、とても。とても、幸福だった。それが最初で最後とも知らず、同い年にもかかわらず少しだけ大人びた少年、燼月永新と過ごす何でもないような時間が、絵麻にとっては最大にして最高の幸福を感じていた。彼が噂とは異なる、心優しい人物であると知っていく時間が、とても幸せに思えていた。
誰かにとってみればなんでもないような時間。けれども、彼を少しずつでも知っていく時間は絵麻にとってかけがえのない時間であって、燼月永新もまた、同じように思ってくれていたらいい……そんな風に思える関係を、築けていた。
――だがしかし。絵麻に与えらえた幸福の時間と言うのは、生前に何か悪い事でもしたのかと悲観したくなる程に短く、奪われていく。
――貴方への虐めを止めさせる代わりに、一芝居打ってもらえますか?
そんな誘いに乗ったが最後、ようやく訪れた絵麻の、唯一の幸福にはヒビが走り、それを打ち明けた瞬間、絵麻が拒絶しようとも時既に遅いと言わんばかりに、音を立てて崩れ去っていく。
見捨てた友人なんて、いらなかった。
助けてくれなかった友人なんて、いらなかった。
燼月永新との未来さえあれば他には何も、いらなかった。
あの時、そう言えてれば、未来はどれだけ変わっていた事か。
だが、四家の頂点に君臨すると言われる、東の盟主、火加々美甘奈の誘いを断れる程、あの時の絵麻は大人では無かった。
四家に近付く事で、両親が褒めてくれる。
それは、子供が持ち得る正しい感情。誰も絵麻の選択を間違っているなどと非難する事は許されない程に、当然の選択だった。彼女の選択は、決して間違ってなどいなかった。故にこそ、悲劇が起こったのだから。
『――』
あの時の永新の顔を、絵麻は一生忘れないだろう。否、一生忘れられないだろう。
どれだけあの日から時間が経とうとも、はっきりと、鮮明に思い出せる。自らが傷付けた、想い人の顔を。自らが犯した、罪を。
あの日から、絵麻の人生は華やいだ。
四家との繋がりを得た絵麻はその後、お零れに与ろうとする友人に囲まれ、四家との繋がりを得た事でようやく期待に応える事が出来た絵麻は両親からの愛も授かれた。
欲しかったものをようやく手に入れたところで、絵麻の枯れた心は決して潤わない。それは欲しかったものが手にした時に違うと感じる虚栄感からではなく、大切な物を失ったからこその渇き。甘い誘いに乗ったばかりに、本当に欲しかったものを手放してしまった事に対する自責の念が、満足する事を許さないのであった。その怒りは、永新を貶める為に自分を利用した四家――ではなく、ただひたすらに自分だけを責め続けた。
そうする事で、自らの罪が少しでも清算されると、思いたかったから。
そんな都合の良い話ではない事くらい分かっていたのだが、いつか再び永新と会った時、恥ずかしくないように自分を磨く事にも、余念は無かった。少しでも希望が無ければ、前を向く事すら、不可能だったから。
そうして時間を費やしていった、十五の冬だった。
誕生日を迎え、すぐに成人の儀を超える事が出来た絵麻は正式な倶利伽羅として認められ、実際に現場へと出ていた時だった。
――燼月永新が妖魔堕ちした、と聞かされたのは。
顔も名前も覚えていないような、その場限りの部隊長であった先達の倶利伽羅から聞かされた話に、絵麻は瞬く間に血の気が引いて、走り出していた。
向かう先は、報告にあった永新と倶利伽羅が戦闘を繰り広げた神社。しかし、そこに駆け付けた時には既に四家も、永恋も去った後。痕跡を消す倶利伽羅の連盟員が忙しなく動き回っている姿だけがあり、絵麻はこの世界にただ一人だけ取り残されたかのように放心するのであった。
それからすぐに永新の抹殺命令が出て、現場に出る度に、誰も彼もが同じ黄金世代である絵麻に燼月永新の話を求めて尋ねてくる。他の黄金世代は「外法に手を出すんじゃないか」と知ったような口で彼を悪しき様に言ってのけるのだが、絵麻だけは味方で居ようと、彼を必死で擁護した。しかし、ゴシップとして、一つの娯楽として楽しみたいだけの倶利伽羅は絵麻の話を「つまらない」とばっさり切り捨て、永新の悪口で盛り上がるばかり。
しかし、絵麻がそれを非難する権利は無いし、止める権利も無い。何せ、永新をそこまで追い詰めたのは自分達であるからこそ、その責を誰かに押し付けるのではなく、罪悪感を背負って今後一生、生きて行かねばならないと自覚していた。
それから、過酷な満月の夜を超えた次の任務で、絵麻は偶然にも妖魔となった永新と出会う事になる。
『……燼月永新を殺すのは、俺だ……』
あの日は、学園で望んで手にした伝手を生かして、絵麻は神来戸獅子王について現場を回っていた。彼を選んだのは、永新に対して並々ならぬ殺意を抱いているからで、そんな彼ならば闇雲に探して回るよりも、その執念が偶然や奇跡と言った類のものを引き寄せられるのではないかと考えたからであった。
絵麻のそんな考えは見事に的中し、遂に、ようやく、絵麻は念願だった永新との再会を果たした――とは言えなかった。
何せ、その瞬間は一言も言葉を交わす事さえなかったのだから。
しかし、収穫はあった。同じく「燦然院」の名を持つ分家である従姉と出会ったのだから。
香織と名乗る彼女は、過去に傷を持ち、一言も交わせなかった永新とどこか親し気な様子を醸し出しており、その様子がどうにも嫉妬に狂いかねない心の機微を震わせるのだが、香織は何を思ったのか「燼月さんに会いましょう」と言ってのける。倶利伽羅としては諫めるべきだが、燦然院絵麻としてはその提案に乗る他無かった。その結果が、更なる不幸を招くとしらぬまま。
『……』
そうして、香織の手立てで再び顔を合わせる事になったのだが、絵麻の姿を前にした永新は、一瞬にして彼の端正な顔面から表情を消し去って見せた。
香織の部屋で待機していた絵麻は、その扉が開かれる瞬間まで、口から心臓が飛び出ても尚も跳ね続けるかと思えるくらい心臓をバクバクと高鳴らせて緊張していたと言うのに、永新は絵麻の顔を見て即座に目線を背けた。
それは確かに傷付く行為だったとしても、あの時一言も交わさずに別れる羽目になったから、すっかり印象が変わってしまった自分を認識してもらえていないのかと思えていた絵麻は、永新が自分を認識してくれた、と言う事実だけでも十分に満足できる結果と言えた。
しかし、それだけで満足する訳にはいかず、本来の目的を果たそうとした、その時だった。忌々しい程に腹立たしい奴らが、現れたのは。
『良くやった、燦然院よ』
どうしてここに。絵麻の脳裏にそんな言葉が過ったのも束の間、永新はすかさず絵麻から距離を取る。
離れた二人の距離の、わずか一メートルすら遠く感じる程に絵麻は恋焦がれ、永新に向かって手を伸ばすも、もう二度と、永新には手が届かない。
いつだって私の人生を壊しにやってくる四家が、憎い。
殺されそうになった事は、どうでも良い。それ以上に、永新と二人の時間を邪魔する四家が何よりも憎く思える絵麻は、命が助かってから常々考えていた。
そんな折に起こった、誠一郎による襲撃。
それは、悩まされる絵麻にとっては渡りに船とも言えるような転機であり、永新に会えるのなら、もう倶利伽羅である必要もない、と意を決して、誠一郎と言う名の美しい姿をした悪魔の手を、取った次第。
「永新君……」
――永新君が今、エマだけを見てくれてる。
誠一郎の異界の中で息を潜めて待機しながら、ずっと永新の事を眺めていた。
勇敢な姿から始まり、苦悩する姿も、泣き叫ぶ姿も、心折れる姿も、全てその目で収めて来た。
……だが、今は違う。
永新と対峙した絵麻は、その事実だけで顔を綻ばせてしまえるだけの満足感、充足感に包まれる。
――ずっと欲しかった、貴方の目を釘付けにする機会。
永新の目が自分に注がれていると言う事実は、絵麻の脳で快楽物質が放出されているかのよう。
どうしようもないくらい熱くなる体は、きっと纏炎のせいだけじゃない。
どこまでも狂おしい程に永新の事が好きな自分が居る事が分かって、絵麻は歓喜する。
あの時から気持ちは変わっていない。この時の為だけにこれまで生きて来たのだと、生を実感する瞬間が訪れたのと同時に、絵麻の歓喜を邪魔するかのように背後から刺さった視線に急かされるようにして臨戦態勢を取らざるを得なくなる。
それが、約束だから。
どれ程までに絵麻は選択肢を間違うのか。
しかし、そのどれもが、絵麻が自分で選んだ道。
故にこそ、どんな状況だろうと、こうして永新が自分に向き合ってくれる事実だけで、絵麻は救われる。その為だけに、間違った選択をしたのだから。
絵麻の臨戦態勢を見て、苦虫を嚙み潰したような顔をしながら臨戦態勢を取る永新の、こんな状況下においても優しさが滲む一挙手一投足に、絵麻の心は愛くるしい程の情欲を訴える。
――敵だよ、私は敵なんだよ。
そう訴える心のまま、絵麻は永新に向かって飛び込んでいく。
永新の為に磨いたこの力で、永新と相対する。それはきっと、紛れもなく間違った結末へと導かれるだろう。しかし、絵麻は永新と会えるのであれば、それで十分。それだけで、良かったのだ。もうこの時点で、絵麻の本望は叶ったも同然。
だからこそ。
例え、この場で永新に殺されたとしても――。




