91話
「妖魔……? 初めから……? 何を、言って――」
「ルゥが血液の調査をした事があったでしょ? あれ、盗み見させてもらったよ。その時に、永新クンの血には妖魔の血の成分しか見受けられなかった。倶利伽羅から堕ちて妖魔化になったから? そんな陳腐な言い訳は通用しないよ。妖魔に堕ちた倶利伽羅でも、人としての血の成分は少なからず残るのさ。人から妖魔に変わって長い時を経た僕でさえ例外ではないのさ。検査をすればすぐに分かる事だよ。……だと言うのに、永新クンの血には、人間である血を示す成分が欠片も検出されなかった。それはつまり……永新クン。君は人間ですらなかった、って事だよ」
冷酷に、そして突き放すかのように宣告されるその言葉は、永新から抵抗する力を奪うには十分すぎるものだった。胸に置かれた足に添えられた手からは力が抜けていき、やがて永新の手は本当に添えられるだけのものと化す。
だが、それでも永新の頭には両親の記憶が過り、自分は間違いなく人の子だったと確信を持って抵抗するその手に力を取り戻す。
「……俺は、俺は――」
「両親が居るから、とでも言うつもりかい? でも君は――愛されていなかっただろ?」
抵抗する力が戻ったものの、未だに不安の残って揺れ動く永新の瞳を覗きこんだ誠一郎は、露出した脆くなったウィークポイントを的確に見抜いて、踏み砕く。
「――っ」
瞬間、永新の鼓膜を震わせるのは、父親である永政に言い放たれたあの言葉たち。
――お前が母親を殺した。
――お前が生まれなければ。
――消えろ、人殺し。
聞こえるはずが無い、言葉のナイフの嵐。
それらが何度も何度も何度も何度も、永新の心を刺して、抜いて、刺してが繰り返される。
そしてそれらこそが、誠一郎が口にした、永新が愛されていない証拠。
「実の子なら、親が愛さない訳が無い。君も気付いているんだろう? 自分が愛されていない理由を。親が存在を認知しようとしなかった、その理由を……、さ」
ニタり、と三日月のように裂かれた誠一郎の口元は笑みとなって永新の目に映るのだが、永新は誠一郎の姿よりも自分が愛されていない理由の根源に思考が奪われており、自分が妖魔であると言う事実を受け入れる他無い状況に陥ってしまう。
(――誰からも受け入れられず、誰からも見放されたのは、俺が妖魔だったから? 屈辱を受けたのは、倶利伽羅では無かったから? 傷付けられたのは、人間じゃ、無かったから……? そんな事も知らずに、努力をすれば、認めてくれるだなんて勘違いして……。だから、唯一俺を受け入れてくれたのが妖魔で、白はそれを全部知っていた……? 白が俺を選んだのは、俺が燼月永新だからではなく、俺が妖魔だったから……? ……分からない。何も分からないし、もうこれ以上、何も知りたくない。全てが無駄だと分かった以上、俺がここで立ち向かう理由なんて――)
何の気も無しに告げられた現実を受けた永新は懊悩し、頭を抱えて地面に蹲る。
永新にとって人間であった頃の記憶と言うのは、数え切れないほどの屈辱に塗れていて、思い出すだけでも絶望し傷が疼くと言うものだが、それでも自分は確かに生きていた、と言う証拠に他ならない。どんなに倶利伽羅が「燼月永新」と言う人物の記録をこの世から消し去ったとて、永新の中には残り続ける。
力を使い続ける上で妖魔化が進行していく中、永新の中で「人間であった頃の記憶」と言うのは一種のアイデンティティのようなものになっていて、それがあるからこそ永新は妖魔の衝動に逆らう事が出来ていた。
だと言うのに、誠一郎からのたった一言でその柱は瓦解し、ポッキリと折れてしまう。これまで支えてきたはずの柱がただの幻想、ただの思い込み、ただの……嘘だったと言う事を思い知らされた永新の心はいとも容易く押し潰され、激しい喪失感を胸に抱えて蹲る事しか出来なくなってしまう。
自分は体の半分が妖魔化しているとは言え、もう半分は人間であると知っていたからこそ、自分を始末しにやってくる倶利伽羅にも正当性を持って対処出来ていたと言うのに、今の永新と倶利伽羅が対峙したとなれば、永新は簡単にその首を差し出すに違いない程に心が弱まっていた。
そんな時だった――。
「――ち、違いますわ……ッ!!!!!」
地獄の底に沈められたかのような永新を引っ張り上げたのは、つい先程まで永新に殺されかけていた、燦然院香織であった。
彼女は震える足で確りと地面を捉え、立ち向かう恐怖で喉が収縮して声が震えているにもかかわらず、誠一郎から冷ややかな視線を受けながらも、それでも誠一郎に矛盾を突き付ける。
「燦然院さん……。大人しく眠っていれば良いものを……」
「じ、燼月さんは、間違いなく、親御さんからの愛を授かっていますわ……っ!! そうでなければ……、彼の優しさは、説明できませんもの……。燼月さんの、慈母の如き優しさは、親御さんから愛を注がれたからこそ、培われたもの……っ! 燼月さんが親御さんから愛されていないだなんてそんな事、絶対に有り得ませんわ! そんなの、誠一郎さんの方が、間違っていますわ……!!!」
体が震えるくらい、怖いのに。
それなのにも関わらず立ち向かった燦然院香織と言う、強い女性の事を、永新は今後一生忘れる事は出来ないだろう。彼女の姿は、その名に相応しい程に燦然と輝いていた。
――あぁそうだ。何を忘れていたのか。
香織の魂の叫びを発端に、永新の脳は黒いタールのようにへばりつく汚泥のような記憶ではない、雲一つない青空が広がっていくような晴れやかな記憶を、思い出す。
それは、別れの機会すら与えられなかった、永新の母、燼月新夏から無償の愛を注がれる記憶。
新夏は、永新を愛していた。
それは紛れも無い事実であり、永新もそれを自覚している。
永新が事を成せば、過剰に褒め、永新が失敗すれば、寄り添って慰めてくれた。永新が間違った事をすれば、激しく叱った後に巨大な愛で包み込んでくれた。
そんな新夏が居たからこそ、永新は新夏よりも長く生きていられたのであり、新夏の愛が注がれたからこそ、永新は無暗に人を傷付けない心優しい『人間』に成長したのであった。
故にその事実は永新にとって心の支えとなり、揺り動かされて不安定になった心が確かな支柱が芽生える。
「俺は――愛されていなくなんて、ないッ!!!!」
――俺が妖魔かどうかなんて、どうでもいい。人間かどうかなんて考えるのは、後でいい。
――今はただ、邪魔立てをする誠一郎と言う障害を、排除する事だけを考えていればいい。
胸に置かれた足を滑らせ、自由になった体を大きく後ろに仰け反らせた永新はその反動で立ち上がると同時に、姿勢を崩した誠一郎に一撃を見舞う。
「……あーぁ。ここで折れてくれれば、楽だったんだけどなァ」
しかし、永新の一撃は誠一郎の腕に阻まれ、彼我の距離を取るに留まる。
永新の心を折る事を目的にしていた誠一郎ではあるが、それに失敗したと言うのにもかかわらず彼はどことなく楽し気で、細められた目付きには邪悪さが宿っているように思えた。
「俺は、母様の胎から生まれ落ちた。……その所為で、母様の霊力を奪って、父様から……恨まれた。だが、母様に産み落とされた俺は、間違いなく人間だ。これ以上俺の心を揺さぶろうとしても、無駄だ……!!」
「ふくくくくっ……! 永新クン、僕はね、人間だった頃は、医者志望だったんだ。研究医を名乗っていたんだ。……そのお陰かな。妖魔になった僕は、人の体を簡単に壊せるようになったんだ。――ほら、見てごらん。これは、なんだと思う?」
時を経るごとに悍ましさが増す誠一郎の様子に警戒心を抱く永新であったが、誠一郎が不意に、どこからともなく取り出した物を見て、言葉を失う。
「なんだ、それは……ッ!? 人の、心臓……?」
「ご明察。これは、そこの燦然院さんの心臓さ。心臓を盗まれて尚も、僕に楯突く根性があるとは、恐れ入ったよ」
「――っ」
「ふふっ、文字通り、心を盗んだ訳だけど……。安心していいよ、切除しただけで、心臓が止まっている訳じゃないからね。恐怖で支配するのはこうするのが手っ取り早いのさ。こんな事が出来る僕なら、人の体に胎児を埋め込む……いや、妖魔を埋め込むことだって簡単なんだけど……。これでもまだ永新クンは自分が人間だと言い張るのかな?」
取り出されたのは、瓶詰にされた人の心臓。
標本を持ち出したかのような気楽さを見せる誠一郎の手乗る瓶詰にされた心臓は、切り離されても尚鼓動を繰り返しており、羅威竿の背中を貫いた動きも相俟って誠一郎の言葉が嘘では無い事が理解できる。それを笑顔で手にする様は余りにも悍ましく、狂気に満ちていると言って然るべき存在を理解したくも無いのに、理解が出来てしまう。
それを見て、永新の背後に立つ香織の顔色が悪化し、その場で蹲って嘔吐きを繰り返す。
生涯の中で自分の心臓を抜き取られて無事な状態でそれを見る、なんて経験は誰にも無いからこそ、香織の置かれた状況を理解し、彼女の傍に寄り添う事は決して出来ない。
それでも、永新は誠一郎の言葉に対して、今は見て見ぬ振りをするべきであると自分自身に言い聞かせながら立ち向かう。
「……お前の言葉は、信じられない!!! 俺は、俺を愛してくれた母様を、信じるだけだ……!!!」
「そっ、かぁ……。それは残念だ。好奇心に負けずに、永新クンの心臓を奪っておくべきだったと、僕は今後悔しているよ。虎鐘の心臓も、ルゥの心臓も、人形使いの心臓も手の内にある中で、君のを盗んでおかなかった事を、甚く後悔しているよ。叶うなら真宵さんのも奪いたかったんだけど……彼女は文字通り、桁違いだからね。少なくとも彼女が『動けない』と言う状況を作り上げられただけでも、十分御の字と言った所かな。これだけ場を整えても、この場に真宵さんが来るだけで全てが引っ繰り返るからね。本当、チートだよ、あの人は」
「ルゥの、心臓まで……っ!?」
「彼女はねぇ、天才だけど詰めが甘いんだ。だから僕の目的も見透かしていたくせに、僕なんかに背中を許してしまったのさ。そのくせ、言う事は何も聞かないときた。……でも僕は、死ぬ事を何も恐れていない奴を殺すのは何も面白くないからね。彼女の自由を奪うだけで勘弁しておいてあげたのさ。……でも、永新クンは別だよ。君は、特別だから。人形使いに渡すのだって憚られるんだ。君には、全てに絶望した末に、僕と同じ答えに辿り着いて欲しいのさ!! ……だから、僕は君の心を壊すよ。泣いて、謝ってもまだ足りない。君が、自分の意思でその命を差し出すようになるまで、僕は、君の心を壊し続けるのさっ!! ァははっ――!!」
狂っている。夕薙誠一郎と言う男は、妖魔は、狂っている。
どんなに穿った見方をしてみても、誠一郎の行動を正当出来る理由が無いくらい彼は全てが狂っていた。
ペラペラと語る必要も無いはずの事を口走るのも、全ては永新の動揺を誘う為。
揺れ動いた永新の心を、叩き壊す為の只の布石に過ぎないのだとすれば、彼はこの場に存在する人の影を全て御する事が可能である、と考えるのが妥当。そうでも無ければ、手の内を明かしていないと言う最大のアドバンテージを自ら崩すような真似を取る意味が永新には理解できないから。
そして、誠一郎にはその手を曝け出しても尚も、自分の優位が崩れないと言う絶対の自信がある。もしくは、その自信を裏付けるだけの何かが存在していると考えられる以上、永新はそれを看破しなければ自分に勝ちの目を引き寄せる事は出来ないと察しが付いていた。
そんな、永新にとって敗色濃厚な状況。誠一郎にとって勝利の中の勝利である完全勝利を手にする為のこの状況は、誠一郎が作り出す「舞台のようなもの」と捉えられる。故に、未知数の力を秘めた誠一郎に対して、永新が取れる行動と言うのは非常に限られている。
「なら……っ!」
永新が取れる行動の選択肢。
非常に狭められた未来に繋がる正しい扉を潜るべく、永新は瞬間的に霊力を解放して、地面を蹴る。
薬液の効果なのか、平常時を遥かに凌ぐような霊力の浸透率を見せる己が四肢に感銘を受けながらも、目指す目的は誠一郎の首ただ一つ。永新の体が普段以上に動くと言うのは、それだけ自分の体が妖魔に近付いている証拠に他ならないが、それでも今この瞬間だけはありがたかった。
今もまだ、来たる未来、自ら引き寄せる未来をその目に浮かべては悦に浸る誠一郎へと伸ばした手が届くのであれば、どんな代償でも受け入れる覚悟で突貫した永新であったが――、伸ばした手が誠一郎へと届きそうになったその直前で、突如として出現した「枷」によって、永新の体は無情にも拘束されてしまう。
「――ッ!?」
「言っただろう? 永新クンには、まだまだまだまだまだまだまだまだまだまだ絶望してもらわないといけないからね。君の心を破壊し尽くす為の演目は幾らでも用意してきたんだから、永新クンにはもっともっと楽しんでもらいたいんだっ!」
「こんな、もの……!!」
「うんうん、そうだよね。永新クンにはこの程度の拘束、すぐに壊されちゃう。……でも永新クンは、此処が何処の、誰の異界かを理解してないようだね?」
言葉に表しても到底信じられないような出来事が目まぐる巻き起こされた事で頭から抜け落ちていた事実が誠一郎の声で蘇った永新は、誠一郎が顎を上に向けると言う視線誘導に釣られ、頭上に視線を向けた。
次の瞬間、永新の体を襲うのは、地面より這い出たさらに強固な「枷」の数々。
一瞬にして鎖に繋がれる虜囚のような出で立ちに変わった永新。しかし、この程度の拘束であれば、先程と同じように引き千切る事も容易い。今の永新を縛り付けるのなら、十や二十の数では足りない。全身をミイラの如く縛り付けるまで至らなければ、永新を拘束し続ける、と言うのはまず不可能と言えよう。それ程までに永新の中の霊力は沸き立っており、それはさながら、生まれてから今日に至るまでに蓄積されたありとあらゆる鬱憤が放出されているかのよう。永新はただ、怒るのが苦手で、人を憎むのが苦手なだけであり、これまでに受けた屈辱はエネルギーとなって永新の胸の奥にこんこんと蓄積していった。
そしてそれが、事ここに至って爆発し、生まれて初めて永新は目の前の敵を――、夕薙誠一郎と言う男を心の底から「憎い」と認識した。その激情は、目の前の男を殺さねばならない、と思う程に強い感情となって永新の体を突き動かし、目的を果たすまでその想いは決して消える事が無いかのように、煌々と燃え続ける。
故に、永新を拘束した事で得られる時間など精々が数秒程度で、たかが知れていると言うもの。
だがしかし、その数秒さえあれば、誠一郎は目的を果たせる。
「どんな状況でも、冷静に――。倶利伽羅で初めに教わったはずだろ、永新クン。確かに、怒りは力をくれる。激情に身を任せるのは気持ちが良いよね、楽だよね。……でも、頭に血が上るのはデメリットの方が多いんだ。例えば、今みたいに簡単に視線誘導に釣られて、肝心な物を見逃す、とかね――」
「っ……! 羅威竿……、香織……ッ!!!!」
拘束を引き千切って頭を上げた永新であったが、誠一郎が立っているはずの場所には既に何も無くなっていて、声がする方へ視線を向けた先で永新を待っていた光景を目の当たりにした永新は、思わず息を飲む。
視線の先では、鼻高々に説教を口にする誠一郎の左右で磔にされる二人の姿。
羅威竿の体には穴が空いたまま磔にされており、命の根源が流出を続けている現状は生きているのも不思議なくらい。
香織は気を失った状態ではあるが、微かな呻き声が上がるのと、大きな胸が小さくも上下している事から生存は確認できる。
そんな二人を並べて何がしたいのかと永新が疑問を浮かべると同時に、その思考を読んだかのように誠一郎が答えを口にする。
「永新クンには今から、このどちらか一方のみを救ってもらいます。選ばれた方には永新クンから選ばれた、と言う栄誉を。選ばれなかった方には僕から無残な死を授けます。さて……永新クンはどっちを選ぶのかな?」
「こんな、もの――ッ!!!」
「……あぁ、残念だけど、僕を先に始末する、なんて考えない方が良いよ? この二人は、人質なんだから。永新クンが僕に歩を進めた時点で、二人には用意した残酷な死をプレゼントするから、そこのところ、気を付けておいてね。……そんなつまらない結末、僕に選ばせないでくれよ? 選ぶのは君だ、永新クン?」
選ぶ。人の命を。自分が、選ばなければならない。
唐突に突き付けられた選択肢に、永新は一瞬にして頭に昇っていた熱が引いていき、底冷えするような寒さすら感じてしまえる。
兄のように慕う偉大な先輩の命か。
それとも、永新に初めて出来た、対等な友人の命か。
二人を解放するために誠一郎を襲う、と言う第三の選択肢も事前に潰されている以上、永新は二人の内のどちらかを救い、どちらかを殺す未来を選ばなければならない。
それは正しく答えの無い問いである以上、永新に答えが出せないのを見透かした上で誠一郎が用意した演出と言えるのだが、その余りにも悪趣味な二択を前に、永新は延々と二つの間で視線を彷徨わせ事しか出来ないのであった。




