88話
――燦然院香織は、自らの人生で不幸だと思った事など、一度も無い。
燦然院家と言う名家に生まれ、母親譲りの優れた容姿と心優しい性格に、父親譲りの豊かな金の髪と折れない心、それから、家族のみならず使用人たちからも溢れるような愛を分け与えられた香織は、幼少の頃より何一つとして不自由なく育てられてきた。
しかし、その代償とも言うべきか、香織の育ってきた環境は現代において極めて異質な物であり、香織が身内以外の誰からも敬遠されてしまう。そこで、彼女は初めて世界は平等では無い事を知り、自分がどれだけ恵まれているかを自覚した。だからと言って、彼女が周囲の皆に合わせる必要などあるはずもなく、自分が間違っているとも思っていない香織は、誇り高い生き方を志した。それこそが貴い生まれに落ちた者の使命であると自覚して。同調圧力と言う強きに呑まれ平れ伏すのではなく、我が道を行く。それこそが香織の選んだ生き方であった。
だが、その道は険しいものだった。周りが「友人」と呼べる仲間を作って、一生に一度しかない青春を謳歌する中、香織はいつだって一人だった。幼稚舎からある楓ケ丘に、香織は六つになった時、初等部から入学した時から十七の高等部二年の冬になるその時まで、香織はずっと一人だった。それは自分が選んだ道だからこそ苦しくは無かったが、ずっと寂しかった。心細かった。だからこそ強がって見せていたものの、そこで初めて出来た二人の友人に「頼られる」と言う経験をした結果、彼女の人生は大きく変わっていく――。
「お~っほっほっほっほっほっほっほっほ!!!!!!!!! 本日もわたくしを称える素晴らしい朝日が顔を出しておりますわ! おはようございますわ~~ッ!!!!」
その結果、彼女は今、冬の朝の乾いた風に晒されてシルクのパジャマの下で鳥肌を立てながらも、彼女の家名に相応しい程に眩しく輝く彼女は窓を大きく開け放ち、広大な屋敷中に響き渡るような高笑いをして目を覚ますのであった。
「うぅ……。さ、さぶいですわ……!」
寒さに凍える彼女であったが、朝日によって暖められるお陰で感じる温度はプラマイゼロ。
朝の澄んだ空気を、その豊満な胸を張って胸いっぱいにまで吸い込むと、「今日も張り切って参りますわ!」と再びの高笑いをして見せる。
日の光を浴びて輝きを返す月のように、月光を思わせる黄金の輝きを纏う彼女の金髪は冬の朝の冷たい風に揺られて彼女の部屋中に金糸を伸ばす。香織が「お嬢様になる」と心に決めた日から一日たりとも欠かしたことの無い髪のセットがされていない夜の彼女の姿と言うのは、本来の彼女の姿を知る人物が見れば彼女が彼女であると判別する事が難しいとすら思えるくらい、ギャップのある姿に大変身するのであった。
それもそのはず。寝起きの彼女には、彼女の代名詞とも言える金髪縦ロールは無く、窓際には金髪ストレートロングの美少女が居るだけなのだから。
もしもこの瞬間を永新や羅威竿が目撃したとて、豪邸の窓から外を眺める令嬢、としか思わないだろう。ましてや、二人であれば嬉々としてその内容を、その二人が目撃した深窓の令嬢であるはずの本人に伝えてくるに違いない。まさかそれが、あの燦然院香織であるだなんて微塵も思わずに。
「……そう考えると、なんだか腹立たしいのは何故でしょう?」
彼女の頭に過ったのは、我が豪邸の前を横切る二人の友人の影。
一人は、何も考えていないような儚げな仮面の下では香織では立ち入る事さえ許されない苦難を抱えた藤色の髪をした神秘的な少年。一人は、小さな背丈に見合わない威厳や貫録を併せ持った、ニヒルな笑みが良く似合う男性。
しかし、正確に言うのなら、前者は友人ではあるものの後者は取引相手と称するのが正しい。
香織にとって片手で事足りる友人関係において、最新にして最大の友人とも言えるのが前者、燼月永新であった。
燼月永新と出会った当初は、陰気な人物であるとしか認識していなかったのだが、彼と関わり合っていく中で、彼がどこまでも心優しく、前向きな人物であると言う事が分かるにつれ、人の裏の顔ばかりを見ることが多かった香織が生まれて初めて「友達になりたい」と心から思った人物。端的に言うならば、ある一定の段階で永新に対してビビビッ、と来たのであった。
「何と言うか、守りたくなる人なんですわよね、燼月さんって……」
実際に守られたのは香織の方なのだが、香織が永新に対して感じたのは物理的な面ではなく、精神的な面。放っておいたらシャボン玉のように一瞬で弾けて消えてしまいそうな儚さを纏っている為、彼から目を離すのが怖いと思ってしまったのだ。
叶うのであれば、もっと相手の事を知って、自分の事を知ってもらいたかった。
けれど、彼はたったの二日で姿を消してしまい、もう二度と会う事は無い。彼は、僅か二日で、香織の世界に大きな変革のチャンスをもたらしてくれた、言わば恩人。そんな彼を意識するな、と言う方が土台無理な話であった。
けれども、香織が抱くこの感情は、決して恋愛感情ではない。
まだまだ人生経験の浅い香織でも、それだけは嘘ではないと判別できるくらいの価値観は持ち得ているから。
それこそ、香織が永新に対して感じ取った「ビビビッ」と言う感覚は、彼と友達になりたいと言う願望であったから。香織が抱くのは、それ以上でも以下でもない、燼月永新と気兼ねない関係を築きたい、友人になりたいという強い願望であった。
それに何よりも、燼月永新に恋する人物を香織は知っている為、その相手から奪い取るような真似、清く正しいを地で行く香織にとって出来るはずが無い。
「――絵麻さん。起きて下さいまし。療養中と言えども、いつまでも寝てばかりは体に悪いですわ」
「……起きてる。それから、療養中じゃないです。あくまでも、あなたの経過観察中という名目ですので」
燼月永新に恋をする女性、それが、香織の従妹に当たる、燦然院絵麻。
燦然院の宗家に当たる本流の血筋を持つ彼女は、香織が知るよりも前の永新を知っている女性であり、その永新に惹かれている人物であった。
燦然院の血筋と言うのはややこしく、一等地に他家の何倍も大きな敷地とお屋敷を構える時点で明らかにおかしいとは香織自身も感じていたのだが、絵麻の登場によってその謎が全て明かされる。
そしてその絵麻は今、香織と共謀して燼月永新に会う策を練ったものを、絵麻の同業者にして永新と因縁ある相手に邪魔をされた結果、永新には誤解され、同業者からは諸共始末されかけると言う悲劇に見舞われたせいで、すっかり心を閉ざしてしまっていた。
あの時から絵麻は永新の脱ぎ捨てた上着を肌身離さない。寝る時も、食事の時も、お風呂の時だって、常に傍に置いて存在を確かめては、燼月永新の匂いに包まれていた。
ずっと妹か弟が欲しかった香織にとっては、世話を焼ける年下の妹が出来たようで喜ばしいのだが、今の絵麻の状態と言うのは、彼女が日を追う毎に腐っていくかのようで、見るに堪えないようなもの。けれども、香織が今の絵麻から永新の上着を奪い取るのは悪手としか思えず、下手をしたら、それこそ簡単に命を捨ててしまいそうな気配を感じるのであった。
「――わたくし、学校に行って参りますの。絵麻さんは、どうなさいますの?」
「……行ってらっしゃい」
長い時間をかけてすっかりいつもの金髪縦ロールへと生まれ変わったお嬢様こと、燦然院香織は、朝の支度を終えて楓ケ丘の制服に身を包み、最後の確認とばかりに、陽の光が届かない部屋の隅で永新の上着に包まって小さくなる絵麻に声を掛けるのだが、返ってくるのはいつもと変わらない悲観した声の音。
その声が示すように、絵麻は香織を拒絶する訳では無く、受け入れようとしてくれているのが分かるのは不幸中の幸いであった。その事実を前に、香織は困ったように眉をハの字にした後、「行ってきますわ」と声を掛けて屋敷に背を向けて悠然と歩みを進めて行く。
結局、あの日の出来事を最後に永新にも、羅威竿にも会えていない香織は、次に会えたら二人にはまず謝罪と、会えていなかった間にこんなことがあった、と話せるように話の種をメモ書きにして書き溜めていく。
その様子はまるで遠距離恋愛をする乙女のように思えるのだが、香織はそれを真っ先に否定するだろう。
何故なら香織には――。
「偶然だね。久しぶり、燦然院さん。元気にしてたかい?」
「! せ、誠一郎さん!?!?」
登校する道すがら、香織の前に姿を現したのは、笑みを湛えた誠一郎。
突然の誠一郎との邂逅に、香織は夢では無いかと疑ってごしごしと目を擦った後、これが現実であると認識しては、慌てて前髪をぐしぐしと弄り出すのだが、真っ赤に熟れたリンゴのように紅潮する頬はどうやっても隠し切れない。なんでここに、どうしてここに、と様々な思考が香織の脳内で飛び交って絡み合ってしまい、誠一郎を前にした香織はいつもの自信に満ち溢れた様子が嘘のように「あうあう」と小さく喚くばかりで、先程まで脳内で組み立てていた永新や羅威竿と話す内容がすっかり飛んで行ってしまう。
香織の反応を見れば分かる通り、従妹の絵麻が燼月永新に恋焦がれるように、香織が恋焦がれる男性と言うのは夕薙誠一郎、その人であった。
「これから学校かな?」
「は、はははは、はい! そうなんですわ!! せ、誠一郎さんは、どこかお出かけですの……?」
「いや、僕の目当ては燦然院さんだったからね。偶然にも、たった今叶った次第だよ」
「わ、わたくし、ですの!? そ、そんな……。わたくし、まだ心の準備が……」
「準備? ハハハ、大袈裟だね燦然院さんは。要らないよそんなもの」
「せ、誠一郎さんには必要なくとも、わたくしには必要で、して……、え?」
軽い冗談を織り交ぜようとした香織の口であったが、冗談には似つかわしくない程に語尾は弱まり、最後には疑問符が付けられる。
それは、香織の目が信じられないものを目撃していたから。
それは、香織の体が信じられない感覚を覚えていたから。
――どうして、誠一郎さんの手が、わたくしの胸を貫いていますの?
香織の目の前には、夢にまで見る誠一郎の綺麗に整った顔面がすぐ目の間に迫っていると言うのに、そちらに目を向ける余裕などない。幾度となく香織が夢想したシチュエーションだと言うのに、申そうとは大きく異なる展開に香織の視線は眼下に釘付けになる。
そもそも、懸想する相手に胸を貫かれる妄想など、常人的な性的思考を持つ香織では有り得ないし、考えられない。だと言うのに、目の前で行われているのはそれであり、香織の脳は到底理解が追い付く事が出来ずに、虚しくパニックに陥っていく。
「な、な、な、な……ッ!?」
「安心していいよ、死にはしないからさ。燦然院さんには、少し眠っていてもらうだけでいいのさ。目が覚めた――全て、終――るから――」
「ふぇ……?」
心臓を鷲掴みにされたような感覚。
比喩表現で良く聞くその感覚を、まさか自分の身で味わう事になるとは、と場違いな感想を残して、香織の意識は徐々に途絶えていく。誠一郎が何か言っている事だけは分かるものの、内容は何も頭に入ってこない。ゆっくりとブラックアウトしていく意識の中、香織の頭に最後に浮かんできたのは、小さな人影であった。それが誰かなど、考える暇も無く――。
「おっと――。……随分早い到着だね。燦然院さん、っと、それだと被っちゃうか。なら、絵麻さんと呼ばせてもらおうかな? それと、男物の上着は似合ってないよ」
「……その子から、離れてください。汚らわしい貴方が触れて良い人では、ありません」
「悪いけど、燦然院さんには役に立ってもらおうと思ってね。ほら、君も大好きな、燼月永新クンのためにさ?」
「ッ……!」
「ん~、スペシャルゲストとして君も参加するかい? 僕は大歓迎だけど?」
「……エマが参加すれば、香織さんは解放してもらえるの?」
「いやいや、燦然院さんは強制参加だよ。それに……、君じゃあ、永新クンの心を動かせないだろうからね」
「――ッ!?」
「いや、まぁ、ある意味では動かせるだろうけど……。僕的にはちょっと物足りないからね。それで、どうする?」
「……私、は――」
その日、燦然院の名を持つ二人の少女は行方をくらました。
経過観察の名目で警護をしていた倶利伽羅までもが二人揃って姿を消した、と言う事案は、昨今を賑わす妖魔に襲われたものと見て倶利伽羅の総本山である連盟本部は判断を下し、燦然院香織と同時期に霊力に身体を馴染ませた同級生らの警護を強めるものとしてこの件を処理すると決定を下すのであった。尚、この件に当たっては燦然院宗家、分家には捜索願を提出する事を禁じ、国から一定の賞恤金が手渡され、沈黙を強制される。それは事を荒立てたくない火加々美十蔵の思惑であり、混迷する倶利伽羅達の矛先を人形使いに向ける為の策でもあった。その為、水面下では総力を挙げての捜索隊が組まれており、火加々美甘奈、天炎晴也、御厨七星の三名はそこに加わっているのであった。




