86話
「……羅威竿」
妖魔の王、「白香厭麗」の善性である人格とも呼べる白を救う為、異端な妖魔集団は動き出す。
注射器に残った細工を避けた事で薬液の進行を阻んだ今回の一番の功労者であるルゥは、シリンダーに残った薬液の解析及び薬液による妖魔の異常な高揚状態を抑制するための血清を作り出す事を目標にして、話し合いが終わるや否や、事務所のある建物の三階を改造して作った研究室に籠っていった。
真宵は、白を置いて行動する訳に行かないという制約がつく永新達の中で唯一、白を奪い取ろうと干渉してくる外部から白を守る事が出来るし、もしも万が一白が予定よりも早くに目覚めてしまった場合、足止めが可能なのは真宵くらいのであるかが故に、真宵は白の作り出した領域の内部で留まらなければならなかった。
今現在、とある理由で移動の足がいくらあっても足りない現状、神出鬼没の真宵が必然的に足止めを食らって動けなくなる、と言う状況は、最強の切り札を失っているも同意である為、白の昏倒を目の前で目撃した事も相俟って、永新の精神状況を大きく不安に傾かせるのであった。
そして、残る羅威竿と永新の二人は、ルゥの解析を少しでも早く進める為に必要なサンプルの回収を任されており、これが真宵の足が無い事によって痛手を受ける問題であった。ルゥの手にした注射器のシリンダーに残る薬液は、解析に回せばすぐに底を尽いてしまう量しか残っておらず、それだけで血清を作ろうともなれば、如何にルゥに無限に時間があるとしても、白には残されていないが為に、完璧な血清を作る事は不可能に近かった。その為、羅威竿と永新の二人には更なるサンプルの回収と言う名の、人形使いと繋がっている倶利伽羅から薬液の奪取が任されていた。
ルゥと真宵が去った後の事務所で、羅威竿と二人きりになった永新は臆した様子を見せながらも背中を向けたままの羅威竿に声を掛けたのだった。
「…………なんだ」
どこか気まずさを漂わせる羅威竿の背中。
しかし永新はその事に気付く事は出来ない。何しろ、永新もまた、羅威竿の方を見る事が叶わずに視線を逸らしていたから。
だが、いつまでも目を逸らしている訳にも行かず、永新は一度決めた覚悟を引きずり出すかのように再度顔を上げた後、言葉の続きを口にする。
「俺が不甲斐ないせいでこんな事になって……本当に、ごめんなさい。もう二度と、こんな事が起こらないように、するから……」
永新は全ての責任は自分にあると考えていて、自分を認めてくれた羅威竿達に失望されたと思っていた。白が襲われるのを黙って見ていただけ、と言う失望されて当然だと思えるような事を仕出かしたのだから、永新の中でマイナスな感情を否定する言葉は生まれてこない。
それでも尚、こうしてサンプル集めを任せて貰えたのだから、永新はこれを挽回の機会と捉えて、少しでも多くのサンプルを取りに行かねばならないと考えていた。
だがしかし、それを敢えて口にしたところで、永新に対して不信感を募らせていると思われる羅威竿にしてみれば、却って更なる怒りを買う未来しか見えない、逆効果でしかないと思い、永新はそれ以上の言葉を発する事は無いまま口を噤む。
故に、この謝罪は許されるための行為ではなく、一種のけじめを付けるための行為であり、長い時間深々と頭を下げていた永新はゆっくりと頭を上げた後、立ち止まって背を向けたままの羅威竿の横を通り過ぎようとした――瞬間。
待てよ、の声と共に永新は肩を掴まれ、足を止めざるを得なくなる。
「……………………謝るのは、俺様の方だ。……任せる、って言ったのは俺様の方なのに、勝手にお前は何もしてねぇって決め付けて、頭ごなしに腹を立てちまった。……白麗様の様子を見れば、お前とのデートがどれだけ楽しかったかは想像つくからな。……俺様の方こそ、申し訳なかった」
「そ、そんな……! 羅威竿、顔を上げてよ。肝心な時に動けなかった俺が悪いのは、本当だから……!」
「それを言うなら、俺様と真宵も一緒だ。あれは恐らく妖魔の王の力。それも、力の片鱗に過ぎねぇ何かだろうが……、永新も、それで動けなかったんだろ。それなら、動けなかった事でお前が謝る事はねぇよ。むしろ……動けねぇ状態で、白麗様が変わりゆく姿を見させられた、ってンなら、お前の方がよっぽど辛いに決まってる」
羅威竿は、永新が下げた頭よりももっと深く頭を下げたかと思うと、自分でも思うところがあったのか、淡々と自らの罪を吐き出していく。その中には、永新が見て見ぬ振りを決め込んだ恐怖も含まれており、永新の引き結んだ唇の奥で、息を飲む音が静かに鳴る。
「想像力の足りねぇ俺様は、短絡的な判断でお前を傷付けた。だから、謝るのは俺様の方なんだ。ごめん。……だから永新、苦しい事、辛い事は溜め込まずに、全部吐いていいんだ。俺様に、聞かせてみろ」
「――っ」
ゆっくりと頭を上げていく羅威竿の言葉に、彼らに触れてすっかり絶望と言うものに弱くなった永新の心が耐え切れなくなって、永新はその場で膝を折って小さくもはっきりとした嗚咽を漏らし始める。それを前にした羅威竿は永新の頭を胸に抱き、何度も何度も「ごめんな」と謝罪を繰り返す。
そして永新は羅威竿と言う漢の胸で、守る為に動かなければならないのに動けない自分の体のせいで何も出来ずに目の前で白を喪失した瞬間の恐怖、初めて認めて貰えた羅威竿達に見限られる恐怖、と言う、子供が背負うには重すぎるショッキングな内容のものを吐き出し、羅威竿の胸を涙で湿らせるのだった。
永新はただでさえ重たい荷物を背負わされていて、あの時白が助けた時点で彼の背中はそれ以上背負える状態では無かった。普通、背負う重たい荷物と言うのは、吐き出したり、忘れる事で軽くしていく、軽くなっていくものなのだが、永新はその方法を知らずに生きて来たお陰でその背負わされた負の感情すらも自分を構成する物だと認識していた。故に、永新の心は常に限界ギリギリの段階で押し留まっていると言う状態である為、新しい刺激には酷く脆く、弱いのであった。
だからこそ、永新の負担にならないようにと事前に真宵が取り決め、周知したのだが、今回の一件はそれを忘れてしまえる程に、衝撃的だった。故に、一拍置いた後に、傷付けた張本人である羅威竿が永新のフォローに回っていた。
永新の知らないところでそんな事が行われているとは露知らず、一頻り泣いて吐き出した永新が、目元を腫らしながら再び顔を上げた――刹那、事務所の扉が勢いよく開け放たれ、永新は「ぴぃっ」と泣きながら肩を震わせるのだった。
「じゃ、ジャァ~~~ンッッ!! 呼ばれてないけど、はい登場っ!! みんなの心の清涼剤、かぼすにすだちにへべすにライム、それからシークワーサーのような柑橘系フレッシュお兄さんこと、僕が久し振りに登場だよ~~!! ……っと、あれ? 永新クン泣いてる? 羅威竿が泣かしたんじゃ無いの~? ――って、なんか事務所めちゃくちゃ荒れてない!?!?」
「……誠一郎、てめぇ、今までどこに行ってやがった?」
「どこ、って……。普通にいつも通り、困ってる人――もとい金ヅル探しだよ。羅威竿が言ったんじゃないか。いつも通りにしてろ、って」
「…………………………そう言えば、そうだったかもな」
「それよりもこれ、どういう状況か聞いてもいいかな?」
おふざけ態度MAXで現れたのは、自称爽やかお兄さんこと、夕薙誠一郎。
楓ヶ丘での一件以来、永新は顔を合わせておらず、何をしているのかと思っていたら、羅威竿もまた同じ疑問を呈した。しかし返って来たのは素朴な答えであって、何も疑わしいところは無く、考え過ぎか、と永新が答えを出したのと同じように羅威竿はこの事務所の惨劇を誠一郎に説明する。
「――そんな事が、あったとはね。これは、僕の責任とも言えるよ……。永新クン、迷惑をかけたね」
「どうして、誠一郎さんが謝るんですか?」
「それは……辰巳虎鐘と言う妖魔をここに紹介したのが僕だからさ。まさか、たかだか激務ごときで裏切るような奴だったとはね……」
「ってわけで、俺様達はこれから人形使いに繋がっていそうな倶利伽羅を片っ端から襲撃してサンプルを集めなきゃならねぇんだ。お前も手伝えよな」
「どうやって見つけるんだい? と言うか、そもそも他の倶利伽羅が持っている、なんて確証は無いと思うけど……?」
「俺様もそう思ったんだがよ、ルゥが言うには、あの人形使いがあの程度の数しか仕込んでいないのはどう考えてもおかしい、って言ってな。前回のあれは、今回白麗様に打ち込んだ薬液の実地試験だったんじゃないか、って読んでるらしい」
「俺も、そう思います。それに……ここでジッとしてる、って言うのも出来そうにないので……」
「ふーん、そっか。ルゥさんは凄いな……。それじゃ、僕も手伝うよ。倶利伽羅を襲撃して、薬液を持ってなかったら放置。持っていたら使われる前に始末して薬液を奪取。それでいいんだね?」
「あぁ。注射器を持っている時点で、そいつは妖魔に堕ちてる。倶利伽羅の和を乱す野郎なのに違いねぇからな。後顧の憂いは、断ち切っておくべきだ」
永新の言う通り、薬液の入った注射器を手にしている以上、その人物の体内には妖魔が受胎、もしくは妖魔の血をその身に宿していると断言できるため、殺すしかない。その過程で倶利伽羅に完全に敵対される事になったとしても、白を助ける為には必要な犠牲だと割り切る他無かった。
永新、羅威竿、誠一郎の三人は、意志と目的を確認した後、それぞれで分かれて街に繰り出す。倶利伽羅が巡回するルートは過去に虎鐘から入手している為、俱利伽羅が居ると思われる場所は十分に予測できる。もし仮にルートが変わっていたとしても、新たな巡回ルートを探る取っ掛かりにはなるため、何一つとして無駄足にはならないし、永新が口にしたように事務所でただ解析が終わるのを待っているよりも、こうして少しで体を動かしていられる方が、永新の精神衛生は保たれ、堕ちた倶利伽羅も妖魔と思えば一切の容赦など与える暇もなく殴殺する事が出来るのであった。
――そして、日暮れ時より始まった異端の妖魔達による俱利伽羅の襲撃は夜通し行われ、全てが終わって返って来たのは明くる日の早朝、明け方の事だった。
サンプル回収の一日目を終えた永新が新たに入手したサンプルを手に事務所に戻ると、丁度戻って来た羅威竿と鉢合わせる。
「……永新、大丈夫か?」
「うん、平気だよ。ただ、やっぱり時間が無かったから成果は芳しくなくて――」
「違う。俺様が心配しているのは、お前が倶利伽羅を手にかけた事だ。無理は、してないか?」
「……無理? 無理なんかしてないよ。俺はただ、妖魔を殺して来ただけだよ? もう、これまでに何回もやってきた事だよ? 心配するような事じゃ、ないよ?」
妖魔に与した倶利伽羅は、妖魔として扱われる。
しかし、それは扱いが変わるだけで、全てが大きく変わる訳では無い。
今日一日で羅威竿が出会った倶利伽羅は、全て人の形をしており、血も赤かった。それは何処からどう見ても人の特徴であり、常人であれば頭で分かっていたとしても脳裏には「殺人」に対する忌避感や嫌悪感が少なからず生まれるような光景が繰り広げられた。
羅威竿は生まれからして妖魔であるため、そう言った忌避感や嫌悪感など生まれてから一度たりとも感じた事が無い。今では人を殺さないだけで、殺せない訳ではないからこそ、人としての倫理観を持っているはずの永新がそれを成したと言う事実に心配を寄せない訳にはいかなかった。
戻ってきた永新は、返り血を浴びて服に血が付着しており、間違いなく倶利伽羅を始末したのが分かる。確かに、人を殺したわけではない。しかし、羅威竿が覚えた感触と言うのは人を殺した時の物と何ら変わらないからこそ、決して一人ではない数の倶利伽羅を屠っても尚、至って普通な態度を見せる永新の様子が羅威竿には気がかりだった。
「あいつら、何かに言われているみたいに、姿を見た途端薬を使うもんだからさ、使い切った後のシリンダーが二本と、無傷のが一本だけしか集められなかったんだ」
「俺様は無傷のが三本と破片が二本分だな。半日の成果にしては良い方じゃねぇか? ……ルゥに渡してくるから、永新は、先にシャワーを浴びてから、少し休め」
羅威竿が見る永新の瞳には変わらず光が宿っているものの、顔にはハッキリと疲労の色が見える。それ故に羅威竿は先に休んでいるよう命じるのだが、永新はまだこの後も倶利伽羅を襲撃しに行くつもりだったのか、少しだけ不服そうな顔を見せながらも羅威竿の命令に応じてシャワールームへと入って行く。
体にこびり付いた血糊を丹念に注ぎ落した永新は、温かいシャワーを頭から被った事によって、張り詰めていた緊張がようやく解ける。緊張の解けた永新は、そこでようやく体が重くなる程の心の疲労感を訴えている事に気が付き、ソファに寝転ぶ。
「羅威竿に、気を遣わせちゃったかな……」
シャワー室で見た自分の顔は、それはもう酷いものだった。
自分自身さえも自罰的な感情で騙して、嘘で塗り固められた仮面の下の顔と言うのは、自分でも見るに堪えないような顔つきで、それを晒した羅威竿が気を遣ってくれたことが良く分かる。後で謝っておこう、と心に決めて少しの間だけ瞼を閉じていると、緩やかな微睡が永新を襲いに来る。
今日一日で、様々な事が起こった。
羅威竿と特訓をして、白とデートをして、白が襲われて……。そして、白を救う為に、倶利伽羅だったものを殺した。
連盟本部でのあの時、クラスメイトを名乗る倶利伽羅を永新はその手にかけた。その時は目の前の事で精一杯で何も感じなかったからか、今回も平気だと思っていた。だけれども――。
「……気持ち悪かった」
相手は妖魔である。
そう割り切って考えても、手に残る感触は、消えない死体は妖魔とは違う。
紛れもなく人であり、永新は正真正銘、「人殺し」になったのだ。
それで非難を浴びるのはどうでもいい。白を救う為なら、人殺しとして恨まれたとしても、構うものかと思っていたし、それは実際に殺した今でも永新はそう思っている。
しかし、自分の手に残る生々しい感触と言うものは、幾ら水で流しても、シャワーで注いだとしても、流れて消えてくれるわけではない。
「それでも……やらなくちゃ、いけないから……」
永新が口にしたように、白を救う為には、それでもやらなくてはならない。どんなに後悔しても、永新はもう、進むしかないのであった。
永新の荒い呼吸が、時間の経過と共に穏やかなものに変わっていく。
ソファに横になった永新は、いつの間にか心穏やかな睡眠の世界へと旅立って行った――直後。
事務所の扉が再び大きな音と共に盛大に開け放たれる。
「――良~~い、お仕事持ってきた、よッッ!!!!!!」
「ッ!?!?!?」
「うるせぇぞ、馬鹿」
バン! と扉が開け放たれる音に微睡に包まれていた永新は思わず飛び起きたかと思うと、驚きの余りソファから盛大に転げ落ちる。
何事か、と思って事務所の扉の方を見遣ると、三階から降りてきた羅威竿が溌溂な誠一郎の頭を思いっ切り叩く瞬間が目に映るのだった。
「ぁ痛~!? 羅威竿からのはご褒美にはならないって言ってるだろ……? 待てよ。もしや、羅威竿のサディスティックでバイオレンスな一面を僕のマゾヒズムが引き出してしまっているのかもね」
「ンな訳あるか。それに、今は仕事なんざ受けている暇はねぇし、そもそもお前、手ぶらで帰って来たのか?」
「だから、仕事を見つけて来たって言ってるじゃないか。どうやら、急な用件なようで断るに断れなかったんだよね。さ、おいで――」
「な――ッ!?」
「は――!?!」
サンプルの回収も他所に誠一郎が引っ張って来た依頼人が、彼の手招きによって事務所に顔を見せるのだが、羅威竿が驚き息を飲んだのと同様に、永新もまた、誠一郎の行動の理由が何一つとして理解できないが故に、息を飲んだ。
息を飲んだ通り、そこには永新と羅威竿の両名共に顔見知りであり、尚且つ現在進行形で経過観察の対象として倶利伽羅の監視を受けているはずの二人が姿を現す。
「「――お願いします!!! ど、どうか……香織さんを、た、助けて下さい……っ!!!!!!!」」
羅威竿と永新の警戒も他所に、前に歩み出た男女はそう言うと、何の躊躇もなく床に跪き土下座の姿勢をとると、懇願するかのように頼み込むのであった。




