42話
満月の夜。
白の領域の中に踏み入れた永新は、体に流れる血が騒ぐ感覚に違和感を覚える。
頭上を見上げれば薄雲が残る夜空に昇る満月が見える。
空から見下ろす満月は太陽に変わって月光を大地に降り注いでは、悪戯に妖魔の血を騒がせる。
満月の光はその血に宿る本能――即ち、破壊衝動を活性化させ、月光に晒された妖魔は瞬く間に理性を蒸発させ、目につく生物全てを破壊すべく動き出す。
満月の影響を受けた妖魔は、元から少ない理性と共に脳の制限が解除されたような状態に陥る為、通常の倍以上の力を持って暴れ回る。それは満月の夜が明けるか、もしくは死ぬまで破壊衝動に突き動かされる為、例え下級の妖魔だとしても危険性は計り知れない。
そして、満月の夜はありとあらゆる妖魔に遍く効果を浸透させる。
最下級の妖魔はその血の暴走に耐え切れず自壊し、下級と中級妖魔は暴れ狂う。上級妖魔は獲得した理性で堪える者も居れば、本能に沿って短絡的な思考で暴れ回る者もいる中で、一万匹の妖魔の血を取り込んだ永新にも当然影響は及ぶ。
「……この程度か」
その血に刻まれた宿願たる「倶利伽羅を滅ぼす」と言う怒りが、意志を持って己が首を締めにかかるのだが、そこは勝手知ったる自分の体である。
永新は驚く素振りも見せずに倶利伽羅である自分の首を絞める右腕を軽く引き剥がす。
この場に壊せるものと言えば、永新自身の体以外に存在しないが故の暴走だが、それにしては余りにもお粗末な暴走と言うのは、永新が倶利伽羅でも無ければ妖魔でもない半端者である事実を否が応でも突き付けてきて、妖魔に暴走と言う名の祝福をもたらす満月からも否定されて拒絶されたのか、と永新は受け取った。
そんな永新を認めてくれた唯一の理解者にして憎悪の対象である白は、永新の暴走など比ではな程の破壊衝動、殺戮衝動に駆られる肉体を、倒壊した社の上で四肢に杭を打ち込んで自らの体を拘束していた。
「――あぁ、あアアぁ……! 痛い、痛イ……! 憎い、憎イ……!」
「……」
事前に真宵から聞かされていたから困惑せずにすんだが、実際にその光景を目の当たりにして驚くなと言うのは無理があった。
染み一つない玉の肌に突き立てられた杭は白の肉を突き破って固定されており、白の美しく艶やかな四肢を溢れ出る血で真っ赤に染めている。
――白の血は、妖魔の王の血は、赤い。
妖魔の血が赤ではないのは、そもそもの造りが人と妖魔とで異なっているからであり、如何に人間に化けるのが上手い真宵や凍吉であっても、掠り傷でもしてしまえば人間と違う存在である事は一目瞭然。
四肢の一部が妖魔に変質した永新でさえも、その部分を怪我すれば流れる血は妖魔と同じ、真っ黒な墨に不気味な赤を加えたような、悍ましい血の色が顔を出す。けれども混じり合った人の身の部分を怪我すれば、流れ出る血は変わらず赤のままで、それがどういう訳かは永新にも分からない。人にも妖魔にも精通した医者など、この世には存在しないから。
妖魔は例外なくどす黒い血を体に流していると言うのに、その君主たる妖魔の王、白の体に流れている血が赤色である事が、どれだけ異質であるか。
かと言ってそれが何を意味するかなど永新が知るには必要なピースが揃っていない以上、考えるだけ無駄だと言わざるを得ない。
それ故に、永新は倒壊した社が積み重なる瓦礫の前にどかりと腰を下ろして白を見守り続ける。
重なる声と声が理解できない音を立てて苦痛の声を上げるのを、永新はただ見守るのみ。それが、永新に課せられた任務の一つであった。
『――燼月、お前はただ、満月の夜が過ぎるまで白麗様を見守り続けろ。白麗様の言葉には決して耳を貸すな。そして万が一にも拘束が外れた場合……、死ぬ気で抵抗しろよ。白麗様は、恐らく限界が近い。今夜さえ越す事が出来れば、オレ達は必ず白麗様を殺す事が出来る算段が付いた。……燼月、死ぬ気で生き抜け』
白の領域に飛ばされる直前、そう言って背中を押した真宵は、もし何かあったとしても助けに入る事が出来るのは夜明けが近付かなければできないとも言っていて、永新はそこはかとない不安感を抱きつつも覚悟を腹に据え、白を見守り続ける。
すると、そこで初めて永新が傍に来ている事に気付いたのか、苦悶の表情を浮かべた白が永新へと振り向いた。
「あァ……。誰か、そこにいルノか……? そコにいるのなら、この杭ヲ、抜いてくレないか……? なぁ、痛くて、イタくて、苦しいんだ……。助けて、助けてくれ……」
「これは……っ、どうなっているんだ……」
振り向いた白の目に光は宿っておらず、いつだって永新を穏やかに捉えては柔らかな微笑を浮かべていた表情はまるで能面のようであった。白の顔に影が落ち、無表情のはずが苦痛に歪んでいるようにも見える彼女の顔に、白を象徴するとも言える純白の絹糸のような髪束が垂れ落ち、更に不気味さが増す。
白の視線は永新を捉えているにもかかわらず永新を認識していないその姿は狂気に満ちており、永新は思わず白の瞳を覗き込んでしまう。そうして永新がその目に収めるのは、白の瞳の中に浮かぶもう一つの瞳。狂気の中に渦巻く破滅的な魅力を放つその瞳に目線を吸い寄せられた永新は、白の瞳の奥の瞳から目が離せなくなってしまう。
『「――助けて、助けて、助けて、助けて、助けて……!」』
白の声に重なって別の、それも男性の声が聞こえてくるのだが、永新は不思議とそれに違和感を覚えずに素直に受け入れる。
一つの声帯から二つの声が重なって聞こえて来たかと思えば、永新は目線が吸い寄せられた時と同じように永新の体が吸い寄せられるようにして白の下へ一歩、また一歩と近付いて行ってしまう。
――傷だらけだ。
自分の血で汚れていく白を見て、可哀そうだと思ったのは事実。
親の仇であると言うのに、同情して心を許してしまうのは自分でもおかしいと考えるものの、永新は白の事を本当の意味で憎むことは出来なかった。それは白を愛しているからとか、そんな陳腐なものではなく、永新は白を命の恩人だと認識しているからであった。
永新が命を捨てる直前に手を差し伸べてくれて、何の価値も無かった永新に価値を見出してくれて、どんなに薄汚れていても永新の全てを受け入れてくれた白に、永新は返しきれない恩義を感じていた。故にこそ、「母親の仇」などと言う建前を用意してまで、白の願いを叶えようと動いているのだ。
そうでもなければ、怒りや憎しみだけで自分を変えようなどとは思わなかっただろう。
虐めを受けた燼月永新の心は疲弊して擦り切れ、それだけ枯れ果ててしまっていて、どれだけ時が流れたとしても元の大きさに戻る事は決して無い。幼く純真無垢だったあの頃の笑顔を、永新がもう一度取り戻す事は出来ないのであった。
妖魔の血が白の瞳の中の瞳に呼応して体の自由が奪われた事に対して、永新の意識だけはハッキリとしている中で傷付いた白を眼下に見下ろした結果、こんな状況の中で永新は常に迷っていた自分の目標と言うものが定まったのを自覚すると、白に向けるべき感情がハッキリと分かる。
――白は……、母さんと同じだ。同じだけど、少し違う。
「俺にとって白は……、月みたいな人なんだ」
吸い寄せられたその手が白の体を縫い付ける杭に触れる直前で永新は妖魔の血に干渉して操られた体の制御を取り戻し、頭上を見上げる。
見上げれば満天の星空が――と言う訳にはいかず、明順応する永新の目は大まかな星の一つや二つしかその目に捉えられない。けれども、永新が例えた白の存在たる堂々たる満月は輝きを放ち、静かに佇んでいた。
永新にとって太陽のような人、と言えば、晴也と永恋、それから母親である新夏が浮かぶだろう。同じ場所に二つの太陽が降臨するとなると暑苦しく思えるが、永新にとってその二人と言うのは、自分に無いものを全て持っているような存在として認識していて、とても眩しい存在だった。
そんな二つの太陽は、永新を騙し、傷付け、見限った。もう二度とその二つの太陽が永新を照らす事は無くなり、そして残る一つの太陽も、もう二度と永新の事を照らしてくれはしない。
暗闇が続き、決して明ける事のない冷たい夜が始まった永新の人生に新たな光となって生まれたのが、白。彼女は永新を奮い立たせる訳でもなく、ただ横に寄り添って、永新からは決して離れずにいてくれて、永新の全てを受け入れた。
そんな永新にとっての満月のような存在である白を前に、永新は杭へと伸ばした手を引っ込めて白に背を向けた後、再び腰を下ろした。
「……白が死ぬ時は、俺も一緒だな」
一人になるのが怖かった永新に白が寄り添ってくれたように、白の願いを叶えて殺す時も、その時も一緒だと不意に零れた意志が永新の胸に確かに宿る。
『「ぁ……」』
永新が言葉を漏らすと、背中越しにそれまで響いていた抵抗する音と、呪詛のように羅列されたうわ言が止んで、一瞬の静寂が訪れる。
「……夜は、まだ長いから。今日は一緒に居よう、白」
そう言って返答する永新の口元は緩やかに弧を描いていて、二人きりの夜の時間が流れていく。
……しかし、その静寂が夜明けまで続く事は無く、夜明けが近付けば近付く程、白の抵抗は激しさを増していき、遂には体に打ち込まれた杭が砕け散る事で白は解放されてしまう。
『「ア゛ァァァァア゛……」』
一つの杭が破壊されれば、均衡が崩れた事で残る三つの杭も白の霊力に耐え切れずに砕け散ってしまう。
そうしてゆらりと立ち上がった白は、目は虚ろのまま頭上を見上げ、満月が傾き始めた空を見上げて唸り声を上げる。
「……このまま終わる訳も、無いか。夜明けまで、ざっと一時間もない、か」
『「――永、し、ん……ッ!!」』
「場所も場所だし、いつかの再現だな。いつかお前を殺す、その時のデモンストレーションでも、やらせてもらうか」
杭によって穴の開いた四肢から漏れ出る霊力は、ただそこに在るだけで空気がビリビリと震えるよう。
打ち込まれた杭の効果か、白の体は治癒が始まらずに四肢はだらんと垂れたまま。それでも宙に浮いてこちらを睨む白の迫力と言うのは、凍吉や真宵とは比べ物にならない程のもの。
苛烈に笑って見せる永新ではあるが、身体は恐怖で震えているし、冷や汗だって止まらない。
真宵が執拗に「死ぬ気で生きろ」と繰り返していた意味がようやく分かったのだが、それでも退く訳にはいかない。破壊と殺戮衝動に駆られた妖魔の王が外に出た暁には、夜明けまでの一時間でどれだけの死者が出る事やら。
これまで白が自分の存在をひた隠して来た理由は分からない。これまでに幾度となく訪れたであろう満月の夜にも自分を傷付けてでもその衝動を押し殺して来た理由が、きっとあるはず。
そうでなければ、妖魔の王たる白が衝動を抑え込む、などと言う真似をする必要が無いはずだから。そして、そんな白のこれまでの努力を無に帰するような結末など、永新は決して認めない。
純白と鮮血に塗れ、本能のままに破壊と殺戮を望む白が、ただ放出していただけの霊力を束ねていく。
言葉にするのなら、存在感を増している、とでも例えればいいのか、白は莫大な霊力をいとも容易く纏め上げ、練り上げる。いつそれが霊術となって襲い来るかも分からない状況で、永新はようやく顔を上げた白と視線をぶつけ合う。
その目には永新の妖魔である肉体を惑わす様な引力が備わっており、これまではぼんやりとしか見えていなかった瞳の中にもう一つ見える虹彩が更にハッキリと見えるようになった事を確認した、刹那。
――来るッ!!
永新がそう確信したと同時に、白の姿が視界から消えた。
慈悲など持ち合わせていない様子の白との死合は、開始の合図も無いまま、白の全ては都合で始まるのであった。




