38話
「――きろ、起きろ、永新」
「ん、んぅ……はっ!? 痛ッ……!」
体を揺すられて目を覚ました永新は、寝起きでぼんやりとした頭に蘇る記憶を辿って飛び起きると、体全体に重く圧し掛かる疲労感と顔面に走る鈍痛を思い出して眉を顰めると同時に目が覚める。
確かあの後、と意識を失う前の事を鮮明に覚えていた永新は凍吉に送った言葉が途中で途切れている事にも気付いて頭を抱えるのだが、傍で永新を起こした存在には気が付かない。
何せ、真宵に課せられた条件の一つとしてある「凍吉を納得させる事」が出来なかったとなれば、真宵から何を言われるか想像できたものではないが故に、永新はベッドの上で頭を抱えて己の失態を自覚する。殺されていないのは慈悲なのかそれとも……とまで考え及んだところで、永新の視界にひょっこりと映る水色の三つ編みの房に、永新はようやく顔を上げる。
「まだ痛むか? 朝食の用意が出来たぞ」
「……凍吉、さん?」
「今更他人行儀で呼ばれるのはむず痒いな。呼び捨てで構わないし、タメ口も気にしないさ。俺と永新の仲だろ?」
「え……」
「早く起きて来いよ。そうじゃないと、また真宵の奴に全部食い尽くされるぞ」
確かに、永新と凍吉の仲は決して悪いものでは無かった。
赤の他人でしかない永新を、真宵の独断と強行によって面倒見る羽目になったとあれば普通邪険にするものだが、凍吉は非常に親身になって接してくれていた。それには、生まれ変わったとしても不変な永新の性根の美しさ、人柄の良さなどが関係しているのだが、突然押しかけてきた相手に世話を焼いてくれた凍吉は紛れもなく善人であり、永新は凍吉を頻繁に頼っていた。
夜、眠れずに目が覚めてしまう日には凍吉の夜食と共にお互いの話で夜を明かしたり、霊力の使い方を教わったりと、何かと波長が合う相手であるの間違いなかった。
――しかし。
たった今永新の顔を覗き込んだような、目尻の下がった穏やかで柔らかな微笑みを湛えた凍吉の表情は見た事が無い。
まるで凍吉の想い人である炎導ササラについて物語る時のような愛おしさすら込めた柔らかな表情は決してただの友人に向けるようなものではないのだが、友達の一人もいなかった永新にとってはそれが普通なのかと勘違いすると同時に、永新はそれまで考えていた事が吹き飛んでいくような衝撃に見舞われる。
理解が追い付かない頭で部屋を後にしていく凍吉の後ろ姿を眺める永新は、「へ……?」と気の抜けるような声を漏らすので精一杯であった。
「――あ、朝ごはん……ッ!」
呆然と硬直しているのも束の間、なんでも食い尽くし系妖魔代表こと、真宵が既に食卓についているとなれば急がないと言う選択は無く、永新はフリーズした脳を急速に稼働させて動き出すや否や、凍吉を追い越して食卓へと急いだ。永新が食卓についた頃には、既に三割程食べ進められている状況なのであった。
「……おふぉはっはあ、いんえぅ」
「口に物入れて喋らないで下さい。あぁもう、飛び散ってるじゃないですか」
「んぐ。……随分と良く眠れたようだな、燼月」
「食べかす付けながら凄まれても怖くないですよ、真宵先生」
「……生意気を言うお前にこのカツはまだ早い」
「あぁっ――! 俺の……っ! くっ……、どうせ真宵先生はその肉が鳥か豚かも分からないんですから、返してください!! 俺が美味しくいただきますから! このままじゃ俺の朝食がキャベツの千切りだけになってしまいますから!!」
「ふんっ! お前なんぞ、ご飯に味噌汁をかける猫の餌でも喰っていればいい!! このっ、恩知らずめが!!」
「なッ、それは猫まんまに謝って下さい! それと、なんで怒ってるか言ってもらわないと俺にも分かりません! 後カツの最後の一切れ返してください!!」
「弟子なら言わずとも分かって当然だ。――フハハハハ! そして残念ながらカツの最後の一切れの方はオレを選んだようだぞ? あむ。……う~ん、この淡白さ、程良い脂の甘み。これは間違いなく鶏肉だ。そうだろう、凍吉よ」
「……トンカツだが」
「ほらやっぱり真宵先生には違いが分かんないじゃないですか!! 俺達のカツを全部平らげたんですから、野菜もちゃんと食べて下さい!」
「ぐぬぬ……。凍吉、お前、最近野菜を使ったメニュー多くないか?」
「……そんな事は無いが? お前が食べ尽くさないようわざと野菜をメインにしている、なんてことは決して無いが? 今もほら、メインはトンカツだっただろう? もう一度言うが、そんな事は無いぞ」
「……ほら、燼月。お前の好きな野菜はやろう」
「別に、野菜が好きなんて一言も言った記憶ないですけど……」
「え、だってお前、いつも美味しそうに野菜しか食べて無いだろ?」
「それは真宵先生が――! はぁ……、まぁいいです。半分こしますから、真宵先生もちゃんと食べて下さい」
「オレは昨日、腹いっぱい妖魔を喰ったから遠慮しておこう」
賑やかな食卓。
それは永新が願っていた理想の環境であり、余りの居心地の良さにずっとこの環境に身を置いていたいと言う願望が日に日に増していくのを感じる。
けれどもそれがぬるま湯である事も理解しているが故に永新は前へ進むことを決断しなければならない。それに加えて、今朝から永新を見る目がやたらと厳しい真宵に関しても解決しなければならなかった。
「……ところで永新、一つ聞いても良いか? どうして、俺を助けたんだ?」
「どうして、って……。どうして?」
珍しく食後のゆったりとした時間が流れる空間で口火を切ったのは、凍吉。
すっかり元通りに再生した右腕でコーヒーの入ったマグカップを揺らしながら、素朴な疑問とばかりに問いかける凍吉はその問いが永新を困らせると分かって微笑む。
「そう言えば昨日、俺を救った理由を聞いていなかったな、と思ってな。永新が優しいのは分かってる。だがそれだけじゃない。永新の、永新だけが持つ答えを知りたくてな」
「俺だけの、答え……」
普段なら食後すぐに「修行を始めるぞ」と言って永新を引きずっていく真宵も、空になったマグカップを見つめていた目線だけを向けて、永新の答えを待つ様子を見せる。
以前よりも明るくなった凍吉の微笑と真宵の眼光に晒されて「……分かりません」と言う訳にはいかず、永新は自分の中に在るはずの答えを探す。
うんうん、と唸って頭の中を掻き分けていくと、永新は一つの答えを探り当てる。
だがしかし、その答えは到底口に出して良いような内容ではないために言い淀んでいると、凍吉が永新の心を見透かしたかのように「怒らないから言ってごらん」と背中を押してくれて、それならばと、永新は大きく頷いた後に、自分なりの答えを恐る恐る口にした。
「――寝覚めが、悪いから……です」
「……寝覚めが、悪い?」
「……」
凍吉が命を捨てると聞かされて助けなければと思ったのには、「かわいそうだから」と言う同情の心もあれば「勿体ない」と言う損得の感情も芽生えたからに他ならない。
そんなどこまでも傲慢で不躾な感情を一言で表すには、「寝覚めが悪いから」以外に有り得ない。もし仮にあったとしても、永新はそれを知らない。
その答え以外が当てはまらないくらい、的確に永新のあの時の心情を言い表していたからこそ思い切って口にしたのだが、凍吉と真宵の反応を見る限り、自分は間違ったのだと思わず頭を抱えてしまわずにはいられない空気に晒された永新であったが、次の瞬間には凍吉が吹き出して笑う声が高らかに響き渡る。
「――プッ、く……っ、アハハハハ!! まさか、言うに事欠いて寝覚めが悪い、とはね。よく言ったものだと思わないか?」
「回答としては酷いものだが……オレは嫌いじゃねぇな。それまでの吐き気がするくらい気味の悪い親切心と比べりゃ、むしろ好感が持てるくらいだ」
「……う、ごめん、なさい……?」
「なんで謝るんだよ。むしろそれでいい、って言ってんだ。胸を張れ、燼月」
「真宵が褒める事なんて滅多に無いからなぁ。永新が怖がっているじゃないか」
自分の汚い部分。それを褒められて困惑に溺れる永新は自然と口から謝罪の分が飛び出してしまうのだが、それすらも認めてくれようとする彼らに永新は言葉に詰まってしまう。
「うるせぇな、この死に損ないのクソ坊主が。お前こそ、どうして永新を殺さなかった。もしや、上級妖魔ともあろうお前が、怖気づいたとは言わねぇよなぁ?」
「死に損ない……確かにその通りかもな。だが、それは敢えて口にしない方が賢いと言うものだ。程度が知れるぞ、暴力女」
「ぁンだと!?」
「俺はただ、永新に可能性を見ただけだ。永新が掲げた荒唐無稽な夢に、手を伸ばしてみたくなっただけだ。どうせ捨てる命。それなら大穴狙って命賭ける方が、燃えるってもんだろ?」
「……フン。勇敢と無謀を履き違えているだけじゃないのか?」
「いいや。永新に賭けて間違いは無いと思ってるさ。何せ、他ならぬ貴様が乗っているのだからな。大船に乗った気持ちで協力させてもらおうじゃないか」
「チッ、相変わらず口だけは達者だな、凍吉は……。本ッ当に、気に喰わんっ! さっさと修行に行くぞ、燼月」
「――は、はいっ!」
いつの間にか冷めてしまったコーヒーを飲み干した真宵は好意的に歩み寄ってきた凍吉に毒吐いたかと思うと突如として立ち上がり、身を翻して外へと足を向ける。けれども当然それは修行の始まりの合図でもあり、永新は急いで甘ったるいココアを飲み干して真宵の後へと続いた。
「……それで、どうしてお前まで着いて来た、凍吉」
「協力するって、言っただろ?」
朝日に照らされて積もった雪がより一際白が輝く山道を進んでいつもの修行の場に辿り着いたところで振り返った真宵は、額に青筋を浮かべながら問いかける。永新がその声に振り向いた先では、まるで悪戯が成功したかのように微笑む凍吉の姿があった。
登る途中、後方からぎゅむっ、と雪を踏み固める音が何度かしていた為、永新も真宵も気が付いていたのだが、指摘するタイミングが無く遂には目的の場所にやって来てようやく問い質す事が出来た。
しかし当の凍吉はあっけらかんとした様子で一言そう答えただけに留まり、「よろしく」と永新と肩を並べるのであった。
「お前の手など借りなくても、燼月はオレが――!」
「――満月の夜は、明日だ。未だ人化の術が出来ない永新では話にならないのは事実。それを、明日の日暮れまでにどうにかできると言うのか? あと一歩まで届いているのは分かるが、あと一歩足りないだけで簡単に死ぬかもしれない状況で永新を送り出せる程、俺は寛容じゃないんでな」
「ぐぬぬ……っ」
「――と、言う訳で永新。今日と明日で全てを仕上げる為に、修行には俺も参加しよう」
「よろしく、お願いします……?」
「ほぅら、永新もこう言っている事だ。さっさと始めよう。それとも、貴様の我儘でただでさえ少ない時間を削るつもりか?」
「良い度胸してるじゃねぇか、凍吉ぃ……! お前、覚えてろよ?」
「くははっ。俺はお前が忘れてくれることを祈ってるよ――」
ああ言えばこう言うようなやり合いを目の前で繰り広げられた永新は、あわあわと慌てるばかりで流れを見守る事しか出来ない。たまに口を挟めば凍吉が拾って真宵に不利な流れが生まれて、真宵からの恨みが込められた視線を注がれてしまい、この後の修行に恐怖を覚えざるを得ない。しかし、凍吉はこの後にするであろう永新の苦労を他人事のように考えているとしか思えない様子で更に煽って真宵を焚き付ける。
この場においては真宵以上に凍吉の方が悪魔に見えてくる永新であったが、いざ修行が始まってしまえば凍吉がどうして真宵を焚き付けたのかを否が応でも理解せざるを得なかった。
「どんな事があろうとも、霊力を保持し続けろ。集中し続けろ」
「そらそら、どうした燼月!! 疲れが残ってる、なんて言わせねぇぞ!?」
「永新、違う! 霊力で覆うんじゃない、霊力を折りたたむイメージだ」
「骨が折れようが、臓腑が撒き散らされようが関係ねぇ。死に物狂いで食らい付け。お前なら出来る」
「蓄えた霊力を引き出すのと、励起させるのは根本から違う。永新には二つの蛇口があると思え。それこそが俺達にはない、永新だけのアドバンテージだ。使いこなせるまで、何度でも繰り返すぞ」
「基礎を蔑ろにするな! 技ってのは結局、自分より弱いヤツにしか通用しねぇ。最後にモノ言うのは、決して揺るがない基礎と無限に広がる可能性たる技術だけだ! 血反吐を吐いたって、絶対に隙を生むんじゃねぇ!!」
「呼吸が決して止まらないのと同じように、霊力を流し続けろ。眠っていようが気絶していようが、それが当たり前の状態であると、身体に覚えさせるんだ。真宵と戦っている時も、常にだ。何せ永新には――」
「余所見してんじゃねぇ!! 敵を殺すその瞬間まで、絶対に目を逸らすな。戦いってのは、如何にして一撃を叩き込むかだ。お前は今日、一度もオレに手が届いてねぇぞ!! さっさと起きやがれ! 燼月、お前には――」
「「――時間が無いんだから」」
時間だけではない。
実力も、余裕も、何も足りていない。
だからこそ、凍吉は真宵の修行をこれまでよりもさらに苛烈なものにしようと真宵を焚き付け、己も加わったのだ。
それでも尚、永新には才能が無かった。
霊力を扱う上で、圧倒的にセンスが欠けていた。戦闘面においてはそれなりの動きは出来るようになってはいるが、それなりでは駄目なのだ。
故に、永新は何度も何度も打ちのめされる。
それでも、どれだけズタボロになろうとも、打ちひしがれる事は決して無い。
これは、自分が選んだ道だから。
誰かに強制された訳では無い、永新が自分で選んだ、永新だけの道。
その道が険しい事など、最初から分かってた。
センスが無い事くらい、才能が無い事くらい、最初から分かってた。
それでも、その先には光がある。そこに到達するには努力が必要。だからこそ、光があると信じて永新は藻掻き続ける。みっともなくてもいい、情けなくてもいいから、永新は立ち上がる。
「もう、一回……!」
どれだけボロボロになろうとも、永新は立ち向かい続けた。
休息も忘れて戦い続けた永新は、日付が変わっても、朝日が昇っても立ち上がり続け、そうして一睡もせずに遂に日暮れの時、満月の夜を迎えてしまうのであった。
「――死ぬなよ、永新」
「……うん」
「……ここを潜れば、白麗様がお待ちだ。精々、生き残る事だな」
「はい」
皮肉めいた言い方しか出来ないのか、と凍吉から目線による訴えを受けるも、真宵はそれを無視。
やがて身を整えた永新は、掴んだものを離さないよう固く握った拳を前に突き出し、すっかり生まれ変わった顔付きで笑みを浮かべる。
肉体の疲労感は軽減されているとは言え、精神的な負荷はまだ残っているはずだと言うのに、二人を心配させないが為に浮かべているのが丸分かりな笑みに、凍吉は肩を竦めて拳を軽くぶつけ、凍吉にせっつかれた真宵も拳を合わせる。
「――真宵先生、凍吉。ありがとう、行ってきます」
それ以上の言葉を交わすことなく、永新は真宵が開いた陽炎の尾の中に、迷わず足を踏み入れていく。
そうして移り替わった景色の先。
何処か懐かしさすら感じられる白い境内の、崩れた御社の瓦礫の上で倒れ伏す白の姿をその目に捉えるのであった。
「……白」
「――」




