36話
真宵の瞬間移動にて住めば都と化した山中の小屋に帰って来た永新は、絡みつく緊張から解放されてようやく肩の力を抜けたのか、たっぷりと大きな間を置いてから安堵の息を吐く。
まるで魂まで抜けていってしまうのではないかと思ってしまえるような長い溜め息に、真宵は永新の肩を抱いて心労を労わる。
「よく頑張ったなぁ」
「わぷ……。頑張り、ました」
永新は真宵がこうして労わりの声を掛けてくれるなど思ってもおらず、自分がよっぽど疲れた顔をしていたのだと自覚する。小屋に戻っても尚もサングラスを外そうとしない真宵に突っ込む事さえ忘れて項垂れる永新を見て、真宵は異界の穴での一件を振り返る。
永新の実力を誰よりも理解しているのは、永新自身――と言いたいところだがその実、誰よりも今の永新を知り尽くしているのは、今日に至るまで修行を付けてくれた真宵に他ならない。
その真宵に言わせれば、永新の実力はいつかの落ちこぼれのような情けないものではなく、真宵に一瞬だけとは言え本気を出させるだけの実力があるとするならば、上級妖魔と同等の実力に足を踏み入れていると言っても過言ではない評価を付けるだろう。
だと言うのに、永新は上級妖魔であれば警戒こそすれども緊張する必要も無い倶利伽羅を相手にするとなると驚くほどに委縮してしまい、異界の穴の前での動きはかなり体が硬かったように真宵は捉えていた。あれでは真宵の顔に泥を塗るような結果に繋がったとしても、おかしくはなかった。
異界の穴には開いていく段階が存在していて、異界の穴が開いたばかりの一段階目の状態では、相手が最下級妖魔から下級妖魔だったからあれだけ楽に再封印を施すことが出来たものの、第二段階による中級妖魔の出現に伴って、上級妖魔に相当する中級妖魔の出現が確認されていたらまず間違いなく永新一人では対処不可能だっただろう。それ故に、あの時点で早々に再封印を施せたのは、真宵が口にしたように永新の影の努力と日々の研鑽のお陰であった。
「うぅ……頭が、回る……」
「……」
その為、結果としては褒められたものではあるが、過程を見る限りでは手放しでは褒められない。
永新を労う真宵の手も止まっていて、初めて感じる霊力の喪失に伴う「酔い」の状態でテーブルにうつ伏せになりながらも自分の失態を自覚する永新も喜んでばかりはいられない。
とは言え、永新に植え付けられた倶利伽羅に対する苦手意識は修行や研鑽でどうにかなるものでは無い。
妖魔を相手取る分には問題無かったのに、倶利伽羅を前にしただけで体が硬直する。これは永新自身は気付いていないのかそれとも隠しているのかは不明だが、永新は誰の眼にも明らかな程に倶利伽羅と言う存在を、必要以上に恐れるきらいがある。それが倶利伽羅と言う存在を恐れているのか、倶利伽羅の向こうにいる何者かを恐れているのかは分からないが、永新のこれまでの背景を知る真宵としては推察する事である程度の予測は付く。それ故に、永新を珍しくも労った次第なのだが、このままでいいとも思ってはいない。
永新が例え上級妖魔相当の実力を秘めていたとしても、その程度では妖魔の王である白を殺す、と言う目的は果たせない。そして、その過酷な道を進むと決めた以上、いずれは倶利伽羅とも戦わなければならない日が訪れるのは確か。
これだけ大きな心的外傷を追っている永新に「治せ」と言って簡単に治るようなものであれば永新も苦労していないだろうし、であればどうするべきか……、としばらく頭を悩ませた真宵であったが、鬼畜暴力妖魔こと真宵の中に答えは一つしか存在しておらず、悩む暇も無い、と言う身も蓋も無い答えに辿り着く。そして真宵の中にある唯一のその答えと言うのが――。
――荒療治しかねぇよなっ。
「ッ!?」
「あん? どうかしたか?」
肉体よりも精神的疲労の大きかった永新がテーブルでうつ伏せになりながら背後に立つ真宵から謎の寒気を感じ取って振り向くも、具体的に何が違和感かどうかを見分けることが出来ない永新は「疲れているのか」と無駄に目頭を揉んで誤魔化す。
その間に、永新は胸に抱いていた疑問をふと口にする。
「――そう言えば、凍吉さんは帰ってこないの?」
「凍吉か? あいつなら、そうだな――今頃死んでんじゃねぇのか?」
「ッ!?」
真宵の余りにもふざけた物言いに永新が勢いよく頭を持ち上げるのだが「酔い」に狂う頭が突然揺れた事で永新は目を回してしまう。それでも、こちらに近付いてくる倶利伽羅を対処すべく向かった凍吉に何かあったのでは、と思うと黙って気を失ってなどいられずに立ち上がる。
「助けに、行かなくちゃ……ッ!」
「どうして行く必要がある? あいつは自分の意思でここで命を終わらせるのが最適だって判断したんだろ。邪魔してやんな」
「邪魔……!? 命を終わらせるのが、最適……っ!? 俺には、真宵先生が何を言ってるのか分かりません!! 凍吉さんは、仲間じゃ、無いんですか!?」
「仲間、だぁ……? 笑わせるな、燼月。前にも言ったはずだ、あいつはオレ達の仲間でも無ければ敵でもない。都合が良いからここを借りてるだけだ、ってな。凍吉はオレ達の協力者ですらない、ただの敗北者だ、ってな」
どうしてそんな酷い事が言えるのか。さては特有の冗談なのか、と微かな期待を込めて真宵の顔を見上げた永新は、どこまでも冷たい眼差しを向ける真宵の表情を目の当たりにしてサァッ、と血の気が引いていく。
ここ数日関わってきた永新は、真宵と言う人物の人となりを粗方理解してきたつもりだった。
彼女が鬼のように強い事も。兎を狩る事にさえも本気を出す事も。そして、言動の端々から感じられる仲間を大切に思う情に厚い人だと言う事も、真宵が永新の事を理解しているように永新もまた、彼女の事を自分なりに理解していると自負していた。それ故に、真宵同様に面倒臭がりながらも寝食を提供して世話を焼いてくれた「仲間」であるはずの凍吉を見捨てると言う選択に異を唱えた。その結果、真宵の口からは単純かつ明朗な答えとして「仲間じゃないから」と言う理由を告げられ、ただでさえ世界が回るような酩酊に苦しむ永新の頭を更に激しく揺さぶられて表情を歪める。
「……」
真宵には、どうして永新がそこまで気に病むのかが理解できなかった。
凍吉の存在と言うのは、たかだか数日過ごしただけの関係でしかない永新にとってみれば、世話役のような軽い存在にしか過ぎないはず。だと言うのに、凍吉が死の危機に瀕しているかもしれない、と言う情報を耳にしただけで、自分の状態を顧みる事すらなくいの一番に駆け出そうとする始末。
多量の霊力の喪失によって引き起こされる酩酊感によって永新は満足に立ち上がる事でさえも苦しいはずだと言うのに、永新は自身の体調など知った事かと何よりもまず凍吉を優先して見せた。
その毒のように甘ったるい優しさこそが、永新を「燼月永新」として形作る根幹とも言えるのだが、真宵にはそれが真綿のように永新自身の首を絞め続けているようにしか思えず、その優しさこそが彼自身を「生まれ変わらせる」為の足枷になっているのではないかと睨む。
それがあるからこそ、永新は倶利伽羅と言う敵を「人間」として見ており、人殺しを避けたいと願っているのかもしれない。妖魔を喰らうのに忌避感を覚えるのかもしれない。
そんなものを持っていたから、永新がどこまでも「燼月永新」であろうとしたから、つけ込まれたのかもしれない――。
「……言葉が足りなかったな、オレの悪い癖だ。一旦落ち着け。……いいか、凍吉は、あいつは自分自身の意思で死ぬかもしれない場所に向かったんだ。一度死んだあいつが再び生きようと思わせてくれた相手に会いに行ったんだ。別れを、告げる為にな」
「それって……」
「あぁ。ここに向かってきているのは、倶利伽羅近代の至宝、天才の名をほしいままにした稀代の天才。北の盟主にして、凍吉がここで息を潜めるようにして生き続ける理由。――炎導ササラだ」
「っ……!?」
――だからこそ、再びこうして弱さにつけ込まれるのだ。
永新の持つ美点、美徳は、どこまでも愚かしい。故に、それは長所にはなり得ず、ただ短いだけの弱点となる。
優しさと言うのは、必ずその裏に打算があるもの。
例えば、良い人に見られたい、気に入られたい、嫌われたくないと言った、自分本位なもの。
それがあるからこそ「優しい人」と言うのは人間味を持つのだが、燼月永新と言う人物が向けてくる優しさの裏に打算は読み取れず、そこにあるのはただひたすらに無駄な、自己犠牲。
打算の無い自己犠牲の塊のような永新に人間味は欠片も存在しておらず、それはまともな感性を持つ人間からして見れば「気味が悪い」と取れ、それにつけ込まれてボロボロになるまで使い潰され、やがては排除されると言うのは当然の帰結であった。
更には、今回永新が凍吉に対して向けた優しさと言うのが、相手だけが得をする普段の優しさとは異なり、百瀬凍吉と言う一個人の尊厳を踏み躙るような行為。それはさしずめ、優しさに取り付かれた悪魔のような自己満足と呼んでも過言が無い程に残酷な「優しさ」であった。
真宵は凍吉の事を「敗北者」と呼んで蔑んでいるが、百瀬凍吉と言う個人を蔑ろにしているわけではない。もしも彼を一端の妖魔として認めていなければわざわざ人目に付かない修行の場所としてこの山小屋を指定するはずもなく、羅威竿や誠一郎と言った志を同じくした仲間の紹介をして手の内を晒す様な真似は絶対にしない。その点で言えば真宵は百瀬凍吉と言う人物を信頼していると言っても嘘にはならない。
だからこそ、真宵は凍吉の意志を、覚悟を尊重し、ササラと相対する事を背中を押す訳でも無く、尻を叩く訳でも無く、ただ黙って見送ったのであった。
しかしそんな理屈は、「優しさ」に取り憑かれた妖魔には通用せず、むしろ永新を勢いづかせる追い風と化す。
「――それなら、尚更助けに行くべきです。好き合っている二人が、殺し合うなんて間違ってる……!」
「……度し難い」
「真宵先生が動かないなら、俺が一人で行きます。……っ!」
「その体じゃ山を下りるのもままならない。例え辿り着けたとしても、既に結果が定まった後だろう。行くだけ無駄だ。諦めろ」
「それでも……ッ!!」
乱れた平衡感覚の中ではまともに歩く事もままならず、小屋を出るのさえ困難な体では真宵の言う通り無駄な抵抗と言うもの。
しかし、それでも諦めようとはしない永新の背を見下ろしていた真宵は、とある答えに辿り着く。
「……もしやお前、凍吉に自分を重ねてるんじゃ無いだろうな?」
「……」
「図星、か」
真宵の言葉に思わず動きを止めてしまった永新の背中は真宵の問いに紛れもなく「是」と答えているようなもので、永新の背後で深い溜め息が吐かれた刹那、永新は顔面に鈍い衝撃を受けて後方に倒れてしまう。
「――う゛っ」
小屋に仰向けになって倒れた永新は、自分の胸に足が置かれ、そこに体重が乗せられてようやく瞬間移動した真宵に鼻っ柱を圧し折られたのだと気付く。
ドクドクと噴き出し、顎を伝って垂れ落ちる鼻血に戸惑いながら自分の体を足に敷く真宵を見上げると、サングラスに隠された奥の双眸が怒りの色を湛えているのに気付き、ジワジワと恐怖が湧き上がってくる。
「……燼月。お前、自分が何をしているか分かっているのか。――お前に授けられたその力は、お前の自己満足の為に与えられたものでは無い。オレの力も、お前の自己満足に付き合う為の都合の良い力では無い。お前の周囲にいる仲間もお前の自己満足の道具にされるために存在しているわけでは無い。全ては白麗様を殺す為、白麗様の為にあるものだ。それをお前は、愚弄した。その意味が分かるか、燼月」
「ッ……、ごめん、なさい……!」
「……小暮日、だったか? さっさと殺しておくべきか――」
「それは……!!」
「まぁいい。それで、だ。ここまで聞かされた上でもう一度問う。――これでもまだ、凍吉の事を助けようと思うか?」
真宵の中で、今回の一件で浮き彫りになった一つ一つの点が線になった感覚の中で、真宵は「気に喰わない」とばかりに何度も執拗に永新の胸骨を圧迫していく。
重く鋭い意見を口にした真宵は、永新の鈍い反応を見て軽い脅しを差し込んだ後、ようやく永新の胸から足を降ろす。しかし、どこまでも冷酷な眼差しの真宵が見下ろして問う内容は、永新が「否」以外を答えることが出来ない状況。そんな中で永新が出した答えは――。
「――凍吉さんは……、絶対に助けます……!」
「……」
永新が出した答えは、「是」。
ここまで脅してそう来るとは思ってもみなかった真宵は、口をあんぐりと開け放って呆れた後、何度も確認するかのように聞き返す。
「……お前、自分が何を言っているのか、分かってんのか?」
「分かっています。……真宵先生が望んでいない事も、凍吉さんが望んでいない事だって承知の上です。それでも、誰かが死ぬ事に僕が手を伸ばせるなら、何があっても手を伸ばし続けたいから。そうありたいから……! だから、どうかお願いします。凍吉さんを助ける事に、力を貸してください……!」
「……」
正座して、己の血に塗れた床に手をつき、額を擦り付ける。
土下座の姿勢を取ってでも頼み込む永新の姿に、真宵は思案する。
まず間違いなく、永新が倶利伽羅相手に委縮してしまうのは小暮日の娘が原因、もしくは関係している。倶利伽羅を前にした時に体が硬くなるのを治す為には、真宵が原因を取り除くのも吝かでは無いし、遠慮もしない。だと言うのに、真宵が暗殺に向く力と性格を有していると知っていながらも凍吉の救助を乞う姿は二律背反を否めない。
故に真宵は、条件を提示して永新に手を差し伸べる。これが本物の優しさなのだと教えるように。
「――良いだろう。ただし、条件を三つ提示する」
「っ……」
「そう警戒するな。嫌がらせをするつもりは無い。……まず一つ。オレではなく、凍吉を納得させる事」
「凍吉さんを……」
「当たり前だろう。お前は今からあいつの覚悟を踏み躙るんだ。あいつが息を吹き返してから今に至るまでの長い刻をかけて絞り出した答えを、お前は否定するんだ。それを上回るだけの覚悟を示せ。……そして二つ。二日後に迫った満月の夜に、お前が白麗様を宥めろ」
「白を……」
「これは実際にやってみないと分からないだろうからな。先に言っておくことは無い。そして三つ目。倶利伽羅を前にしても怯まない精神を手に入れろ。これは次の機会までに出来なかった場合、オレが小暮日の娘を殺す。いいな」
「次の機会、って言うのはいつ、なんですか……?」
「自分で考えろ。オレからの条件は以上だ。お前に拒否権は無い。――では今から、凍吉の覚悟を踏み躙る。覚悟は出来てるだろうな?」
「――はい」
真宵の言葉を思い出す。
真宵は、永新になら出来ると思ったから言っているのだと。
なんだかんだ言っても面倒見の良い真宵に感謝の視線を送り、鼻血を拭う。真正面から感謝を伝えるのは、三つの条件を全て乗り越えた後だと腹を決めて、未だ震える両の足を奮い立たせて立ち上がる。
サングラスで真宵の目線は遮られているが、僅かに逸らしたような気配を感じた永新が気付かない振りをして息を吐いた、次の瞬間――。
――轟ッ、と小屋の中に突如として舞い込む大量の冷気。
真宵が手を伸ばした先、何も無かった空間にいつの間にか凍吉と思しき妖魔が出現した事に驚く永新であったが、すぐに気を取り直して凍吉に向き合おうと図った刹那、状況を理解した凍吉が身も心も凍り付いてしまいそうな程に強烈な冷気を放出して、怒号を上げた。
「――宿無真宵ッッ!!!! 貴様ああああああああああああ!!!!!」
その怒号を前に、永新は誰かの「覚悟を踏み躙る」と言う行為の本質を理解せざるを得ないのであった。




