都合のいい女
人には言えない恋をしている。
あまりに不釣り合いで、他人から見たら滑稽な恋だ。
しがない平社員である私、木村 実央。
今年で26歳。渉外として勤務する職場の評価は至って普通。
量産型OLと言っていいだろう。
そんな私が恋する相手は、遊佐 圭介。32歳。
私の勤めるユサ・コーポレーションの3代目となる創業家の系譜。
現在は経営企画室長を担う、次期社長。
黒髪と整った顔立ち。少しだけ釣り上がった目が、人を寄せ付けない雰囲気を醸し出す。
物腰は柔らかくて丁寧、でも本音を見せない狐のような人だと思う。
独身なので社内だけでなく取引先からも大変モテている。
取引先から、というのは、
明らかにお近づき目当ての案件が渉外に持ち込まれるからだ。
海外の工場を立ち上げるプロジェクトの過程で、
相手先令嬢との海外視察ツアーが組まれかけた時はさすがに驚いた。
こんなにおモテになる遊佐さんに、
なんならできるだけ関わりたくなかった私が恋をしてしまった理由。
それは、社外で不本意にも接点を設けてしまったことにある。
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その日は、お気に入りのバーに飲みに来ていた。
お酒が唯一の趣味で、金曜日はお気に入りのバーでその週の憂さ晴らしをする。
ちょうど取引先令嬢の視察事件を処理して心底疲れていた日。
あれは大変だった。
なにしろ令嬢が遊佐さんと視察に行く、絶対に行くと一点張り。
物語の悪役令嬢だってもう少し芸がある。
カウンターで、事情は濁しながらも、とにかく疲れたとマスターに愚痴をこぼしていた時だった。
「いらっしゃい」
マスターが声をかけた先にふと目をやって、
思わず顔を歪めてしまった。
視線の先にいたのは、入ってきたばかりの遊佐さんである。
さすがに普段なら取り繕うが、この日ばかりは思わず顔を歪めてしまった。
そんな私に気づいたのか、遊佐さんが隣にやってきた。
「こんばんは。渉外の木村さん。」
「こんばんは。遊佐さんも馴染みのお店だったのですね。」
「そうだね、たまに来てるよ」
「そうでしたか。
では、私はこれで。マスターお会計を。」
疲労の元凶と一緒で、美味い酒が飲めるか。散々だ。
顔と名前を覚えられていることに驚きつつ、
なんとか愛想笑いを浮かべ、乗り切ろうとした。
「よかったら一緒に飲まない?」
「社員と一緒ですと気が休まらないでしょうから、私はこれで失礼します。」
即答で断ると、遊佐さんは軽く噴き出した。
「あの大変な娘さんの相手をしてくれたのは木村さんだろ?
お礼がしたいから、気を遣わないで」
「…」
知ってんのかい!!じゃあ自分で対応しろよ!!
と心の中で盛大に突っ込みながら、
少し逡巡した。
否が応でも気を違う。なんてったって次期社長だ。
とても面倒だ。
しかし、次期社長に悪い印象は残したくない。
私はできるだけ長く働きたいのだ。
心の天秤を働かせたところで決めた。
「でしたら、一杯だけいただきます」
「遠慮せず飲んで。よく来てるんだろ」
マスターに「知り合いだったんだね」と驚かれながら、
すでに私は何杯か飲んでいたこともあって、勢いがついてしまった。
話題はやはりご令嬢。
「ああいうのが日常なんですか?遊佐さんも大変ですねー」
「あんな厄介なのが日常な訳ない。特例だよ」
「それでもですよ?似たようなアプローチを四六時中受け続けていたら、そりゃあ女性に対していなすような対応しかできなくなりますよね。」
「いなす?」
「笑ってても表面をなぞっている感じ」
「木村さんにはそう見えてるのかな?」
「ええ、まあ。それが悪いとかではなく、そう見えるってだけですけど」
「ふーん」
唐突に言葉を切った遊佐さんが、沈黙する。
私の顔をじっと見ていたのに気づいたのは、しばらく経ってからだった。
私はカウンターでぼーっとマスターの手の動きを見ていた。お酒が入ると判断力が鈍るのが悪い癖だ。
「…なんですか?」
「君が渉外にいるのが納得できたなと思って」
「はあ」
褒められているのか貶されているのか分からないので、気にしないことに決めた。次何飲もう。
「木村さんのストレス発散方法は?」
「お酒ですかね。華金の自分へのご褒美です」
「他には?」
「他…?うーん、あ、バッティングセンターに行きます。たまに」
「へえ」
「当たるとスカッとするんですよね」
「やったことないな」
「え?!そんな人いるんですか、世の中に」
「いるよ、ここに」
御曹司でもやったことのないことがあるんだと、謎の優越感が湧いてきてクスクス笑ってしまった。
この日、初めて笑ったかもしれない。
「君は素直なんだな」
「え?ごめんなさい、聞き取れませんでした」
「何でもない。バッティングセンター、今から行こうよ」
「は?いま11時ですよ?」
「まだ終電はあるだろ」
「それはまあ」
「教えてよ、バッティングセンターのスカッと感」
またもや心の天秤を使った。
私は酔っていたし、やはり気を多少遣っていたのでスカッとしたくなってしまった。
「分かりました、行きましょう。新宿です」
「近くてよかった。行こう。」
バーを出ると、鈴虫の声が小さく聞こえる。
夏の終わり。秋の始まり。
タクシーを止めた遊佐さんについて行って、バッティングセンターに走る。
窓の外を眺めてぼーっとしていても、話しかけられることはなかった。
バッティングセンターは楽しかった。
はしゃいで調子に乗り、130kmに挑戦するが、全く打てずしょんぼりする私を尻目に、
遊佐さんは130kmでヒット級を出せるまでに成長していた。
とても人生初バッティングセンターだとは思えない。
「ずいぶんお上手ですね。何か運動されていたんですか」
「ゴルフをしてる」
「お金のかかる!御曹司の遊びですねえ」
思わず僻みが言葉に出てしまった私から目を逸らし、遊佐さんは言った。
「それしか許してもらえなかったんだ。将来役に立つから」
息を呑んだ。
仕事もできて、運動神経もよくて、顔も良い。
食えない男の本心を少しだけ覗いてしまった気がした。
「…だったら、今日で野球もできるようになっちゃいますね!たくさん打ちましょう!」
これ以上踏み込むのが怖くて、わざとらしいほど明るく言った。
怖かったのは、この先の本心を知ったら、もっと知りたくなってしまう、と確信があったからだ。
「そうだな」
ふっと息を吐いて遊佐さんが顔を上げた。
その顔はいつもの会社で見る顔だ。
私は安心した。
これで、少しだけ次期社長の知らない顔を知っているとドヤ顔をすることができる。それだけだ。
たくさん打って、手のひらがヒリヒリし始めた頃に解散した。
終電前、秋に入る前の出来事だった。
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1日だけの珍しい体験のはずだったが、それから何度も遊佐さんとバーで鉢合わせした。
月1回くらいのペースで、出会った日はお決まりのようにバッティングセンターに行くようになった。
バーやバッティングセンターの道中で色々な話をした。
その度、会社では知られていない遊佐さんを知っていった。
大学時代は工学部だったこと。
本当はSEになりたかったこと。
中高は男子校、大学も理系で女性が少ない環境に慣れきってしまったので、
今かなり戸惑いがあること。
大学で留学したアメリカで、起業が当たり前にある環境を知り、
経営者を目指すことを決めたこと。
私は知るたびに、優越感に浸る。
こんな汎用型OLが次期社長と接点を持っていることに。
遊佐さんの隣を許されることに。
気づけば好きになってしまっていた。
金曜日を楽しみにして、バーに来ない日は寂しさを感じるようになってしまった。
心の起伏が、自分ではコントロールできないほど激しく唸る。
好きじゃなければ、知らなくて済む感覚なのに。
そんな思いを、お酒の力を借りて溢してしまった。
もう、冬も終わりかけの金曜日だった。
「わたしは毎日遊佐さんを思い出す機会がありますけど、
遊佐さんの日常に、わたしはいませんよね」
私は実務上、遊佐さんの出張予定まで知っている。
さらに社内の情報共有や問い合わせで、どうしても目についてしまう。
なんて理不尽なんだろう。
恋愛は好きになった方が負け、というマンガがあったけどその通りだと思う。
「寂しい?」
「…たまに」
「やけに素直だな」
口もとだけで笑われる。
「俺は夢を見たよ、君の」
「どんな夢ですか」
「教えない」
ああ、こんなことで喜ばせられるなんて。
貴方の日常に少しでも入り込めていることに、仄暗い喜びを感じる。
「そろそろ行こうか」
「はい」
いつも通りバッティングセンターに向かうタクシーの中。
ぽつりと遊佐さんが言う。
「君がいなくなる夢を見たんだ」
「え?」
「こうやって、バーに行っても木村さんがいなくて、一人で飲んでる。
店に誰もいなくなるまで待っても、来なかった。
寂しい夢だったな」
今日いてくれてよかった、と前を向いたまま。
伸びてきた手に指先が触れ、座席に押し付けるように握られた。
明確な意図を持って触れられたのは、初めてだ。
やめて。私のこと、それほど好きじゃないくせに。
気に入ってはいるかもしれないけど、
何もかもをかなぐり捨てて選ぶほどではないくせに。
振り解きたいけど、触れる指先が嬉しくて、体を動かさない。
固まってしまったかのように、ただ自分より少し固い手の感触をただ刻み込んでいる。
私は知っている。
遊佐さんが、他のグループとの政略結婚を打診されていること。
渉外は、情報が回ってくるのだ。
そんな貴方の荷物になりたくない。
私が好きなことはきっと伝わってしまっている。
だから言わないことも貴方はきっと理解している。
お互いに、何も言えない。
言ってしまったら、この関係に結論を出さなければならないから。
そうしたら、この手はもう二度と私に近づくことはなくなるのだ。
タクシーがバッティングセンターにつき、
やっと手が離れる。
手を引いたのは私から。
離れた瞬間に、私を見た遊佐さんの顔を、私はきっと思い出し続ける。
あの瞬間、男の顔した貴方のことは、私しか知らない。
それだけを信じて、私は今日もバーに向かう。
貴方と、何の関係もない飲み友達であり続けるために。