1 『虚実の世界と優しさの在処』
「謹慎中も勉学に努めろって、言葉と処置が矛盾してるだろ」
人は誰しも初めから物事の本質を100%理解している訳ではない。成功したり、懊悩したり、味を占めたり、嘆いたり。そんな経験をしていく中で人は少しずつ成長していく。だから、今回の失敗を糧にして二度と同じ事をしないように……なんて警告を強めにされて事態は収束すると思っていたのだが、現実は甘くなかった。
下されたのは二週間の謹慎処分。それでも最悪の事態を想定すれば、この程度の処罰で済んだのは幸運と言えよう。
「はあ」
とはいえ、不運であることには変わりない。思わずため息が漏れる。
廊下を一人黙々と歩く。職員室と生徒玄関は直線上にあり、距離はさほどない。
十秒足らずで下駄箱に辿り着く。外靴を引っ掛けて早々と校門に足を向ける。
気怠げに歩いていると、不意に視界の端でなにかが揺らめいた。
いや、正確には揺らめいた気がしたと言うべきだろう。
足を止めて振り返ると、そこには校舎から独立した荘厳な建造物が、陽光を反射しながら屹立していた。
ここ佐戸吹高校は飛び抜けて偏差値が高い訳でもない、ありふれた公立の進学高だが、一つだけ他の学校には絶対に備わっていないであろうものがある。
それは図書館だ。
図書館と言われれば、普通は校舎の隅にひっそりと潜んでいて……なんてイメージを持つだろう。
当然の先入観だと思う。かく言う俺も中学生までは同じイメージを持っていた。
しかしそんな先入観は入学初日に壊された。授業始めのオリエンテーションで配られた校内の模式図を見て目を疑ったことは今でも強く覚えている。
一棟、図書館が存在していたのだ。
図書館というよりは図書棟と呼ぶべきだろう。
ちなみに一部の生徒は『書物の魔塔』なんていう少々恥ずかしい呼び方をしている。まあ、赤褐色の風化したレンガが先端に向けて渦巻くように積み上げられているのだから、魔塔と呼んでしまう気持ちもわからないではない。
「そういえばまだ入ったことないな」
眺めながらふとそんなことを思う。
まるでファンタジー世界から飛び出してきたかのような異質の棟。
……まあ、急ぎの用があるわけでもないしな。
先刻の説教の際も担任教師がやたら図書館の利用を進めていたし、明日以降に備えて参考書の下調べをしておいてもいいかも知れない。
それにしても、謹慎処分を受けたのに図書館の利用だけは認められているなんて変な話だ。
さては、拷問部屋なのか? なんて、戦間期じゃあるまいしありえないけどな。
未知の世界を前にすれば、誰であろうと童心に返るものだ。
好奇心に胸を弾ませながら足を進める。
扉を潜って間もなく、視界に飛び込んだ膨大な書物に安心感を覚えた。
どうやら本当に図書館であるらしい。外装が外装だから怪しげな実験でもしているのではないかと疑っていたが、俺の杞憂であったようだ。やはり現代は平和である。
どうやら図書館は三層構造らしい。
中央に螺旋階段があり、その周りに弧を描くように、本棚が円状に並んでいる。
構造上、上の階に上がるに連れて書物の数は減っているはずなのだが、最上階の三階に出ても本が少ないなんて感覚を覚えることはなかった。
むしろ、一階に貯蔵された書物の量と大差はないように思える。
色褪せた本から新品さながらの光沢を放つ本が収納された本棚。
年季を感じさせる木製の長机。
側面に取り付けられたステンドグラスから降り注ぐ幻想的な七色の光彩。
禍々しい外装に反して、神聖さの感じる図書館だ。
青臭さの漂う最小限の人工物しか存在しない館内はまるで森の一室のようで、気付けば数分前まで感じていた理不尽に対しての苛立ちは跡形もなく姿を消していた。セラピー効果もなかなかに侮れない。
おまけに窓越しに見える景色も絶景だ。街を一望することができる。
もともと佐戸吹高校は山の中腹にあり、中でも屋上を除いてもっとも高い場所は恐らくこの場所、図書館の最上階だ。
さすがは学校敷地内における最高地点と言うべきか。
授業中窓越しに見る街とはまるで迫力が違う。
この景色が見られただけでも来た甲斐があったというものだ。
さて、ここで踵を返してもいいのだが、図書館に来た以上は読書をするのが礼儀というものだろう。今の時間帯だと、帰路のアーケード街はあまたの主婦の方々でごった返しているに違いない。ピーク時が去るのを待ちがてら、読書をして時間を潰すことにする。
鞄から本を取り出し、近くの椅子に腰掛ける。
栞の挟まれたページを開くと、何度も読んだ文章が一語一句変わることなく綴られていた。まあ、変わっていたら困るんだが。
名作とは不思議なもので何度読んでも飽きがこない。
先の展開はわかっているのに、それでもページを繰る手は止まらない。
気づけば、俺は物語の世界に没入していた。
+ + +
「傷心中の君に、そんな子供の理想論を絵に描いたような作品はお勧めしないよ」
物語が終盤に差しかかった辺りで、春風のように穏やかな声が聞こえた。
基本読書中は雑音を無視して物語に没頭するようにしているが、今の状況に関して言えば顔を上げない訳にはいかない。というのも時間が時間だったからだ。
謹慎処分を受けたからこそ俺は図書館にいるが、時刻は十時三十分、現在進行形で授業が行われている時間帯だ。
要するに、一般生徒がこんな場所にいるはずがない。
聞き間違いに違いないと思いつつ、顔を上げて正面を見据えると、制服姿の女の子が頬杖をついて俺を見つめていた。
大人びた雰囲気を纏った女生徒だ。目鼻立ちの整った顔つきがそう思わせるのかも知れない。
「……どうしてこんな時間にここにいるんだよ。授業はいいのか」
問いかけても、彼女は少しもおくびれた様子を見せない。感情を変えないまま、彼女はじぃぃと観察でもするかのように俺を見つめ続けている。
ようやく唇が動いた。
「それはこっちの台詞。君、名前は?」
質問は無視されてしまったが、コミュニケーションを取ることができたということは、彼女が実在する人間と見ていいだろう。とりあえず幽霊説を破棄しておく。
「東江青葉。クラスは3ーCだ」
「ふーん。で、どうして君はこんな時間にここに?」
そっくりそのまま同じ質問をさせてほしいんだが?
とはいえ、会話はキャッチボールが基本だ。質問に質問を返しても会話は進まない。本に栞を挟んで、身体を傾ける。
「クラスで問題を起こしちゃったんだ。で、二週間の謹慎処分。
図書館の入館だけは許可されたからどんな所か一目見にきたんだ」
事の成り行きを説明すると、彼女は凝視する目の力をいっそう強めて、やがて納得したように頷いた。
「なるほど。人は見かけによらないとはよく言ったものだ。これからは温厚で聡明な印象を受けた男に対しての警戒を怠らないようにしよう」
それは偏見が過ぎやしないだろうか。
「その結論は早計だろ。せめて同じ条件に適した男子高生のデータを数百近く集めてから結論を導かないと、結果じゃなくて考察の域に留まっちまうぞ」
新細胞の発見なんかがまさにその典型例だろう。
偶発的に未知の細胞が生じたとしても、それが何百回の内一回だけ、条件もわからないまま生み出されたとなれば、それは新発見とは見做されない。
前提条件から結論まで把握して、初めて考察は結果へと昇華するのだ。
なんて矢継ぎ早に反論すると、俺の反論が予想外だったのか、濡羽色の黒髪を吹き抜ける秋風に靡かせる端正な顔立ちの女生徒は、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「冗談にそこまで本気でツッコまれると引いてしまうな……お前、友達いないだろ」
哀れみの目が向けられると同時に、全身を強い衝撃が駆け抜けた。
まさか実在したとは。
お前呼ばわりする女の子なんて、フィクションの世界にしか存在しないと思ってたんだけどな。
と、そんな衝撃はさておき、その発言を諒とするわけにはいかない。
「残念。それが数人いるんだな」
「ふっ、憐れな奴だ」
被せるように呟き、彼女はこれだから最近の若者は……とでもいうかのように軽く息を吐き出した。なんだか無性に腹が立ってきた。
「そう言うお前はどうなんだよ。友達、いるのか?」
やや強気な口調で言い寄ると、彼女は真一文字に口を結んだままゆっくりと首を振った。
「いないが、大した問題じゃない。衣食住が確立された環境にいれば、人間は健康で安定した生活を送ることができるからな」
強がっている、というわけではなさそうだ。
恐らく彼女は、本当に心の底から言葉のままの思いを抱いている。友達がいないことに対して、寂しさを覚えている様子など少しも感じられなかった。
彼女の強さに尊敬を抱くと同時に、芳しい成果が得られなかったことに愕然としていると、彼女はふっと、好戦的な笑みを浮かべた。
「残念だったな。主導権を強奪できなくて」
「うるせぇ」
見透かしたように言いやがって。
けれど実際その言葉は的を射ていて、それを認めてしまうのが悔しいから、俺はくだらないプライドのままにそっぽを向く。
「ふっ、子供だな」
「お前も子供だけどな。
……で、なんだ。お前は俺を小馬鹿にするために話しかけてきたのか」
不思議と会話はとんとん拍子に進んでいるが、俺は彼女についての情報をなに一つ耳にしていない。
どうして授業中にも関わらず図書館にいるのか、名前はなんというのか。
疑問は絶えず湧き出てくる。
彼女は顎に人差し指を添えて暫し黙考すると、
「……なんとなくかな」
と呟いた。
なんとなくか。抽象的だが、納得のいく理由ではある。
人生なんて、なんとなくという曖昧な感覚から始まることがほとんどだ。
しかし、彼女は自分で口にしたことが腑に落ちなかったようで、
「……なんとなく気が合いそうな予感がしたんだ。だから話しかけた」
とすぐさま前言を修正した。
視線がちらと机上に向けられる。
「君はその本を読んでどう思った?」
そう言う彼女の視線は、俺の手元に置かれた本に注がれている。
俺は首を捻った。
「どうって、率直な感想を教えて欲しいってことか?」
「ああ、そうだ」
友達は必要ないと言っておきながら感想はシェアリングしたいと。
ますます変わった子だな。さては文学少女か。
だから日中も図書館にいることが認められて……なんてことはさすがにないか。
彼女限定でそんな寛容な処置を下そうものなら、校内で暴動が起きることは免れないだろう。人はみな平等に。憲法の一文にも書いてある。
「途中までしか読んでいないのならそこまでの感想で構わない。
私はこの作品を読んだ君の批評が聞きたいんだ」
黒い瞳が爛々と輝く。
適当なことを言って彼女の興味を削ごうと思っていたのだが、そんなに真っ直ぐな目を向けられては適当にはぐらかすことに罪悪感を覚えてしまう。
「……」
俺は観念して溜め息を吐いた。
「一貫して綺麗な話だと思う。桜坂が言ったように理想論みたいな物語であることは否めないけど、俺はそんなご都合主義な展開も含めて、この物語が好きだよ」
本の表紙を優しく撫でる。三年という時の流れを物語るように、本の切り口は上下共に仄かに黄ばんでいる。
『虚実の世界と優しさの在処』
三年前に出版されて、一時社会を風靡した作品だ。
物語の序盤は主人公である中学生の少女・水玻を中心に展開されていく。
初め水玻の視点で描かれるのは、彼女を取り巻く諍いのない優しい世界だ。
鈍感な男子生徒が躓いて食器を割ってしまったのなら、後始末を近場の生徒が迷うことなく手伝い、学級対抗リレーの土壇場で運動が苦手な女子生徒が転んでしまったのなら、順位よりも彼女の怪我の心配をする。
物語の中の人物は、誰もが異様なまでの優しさを兼ね備えていた。
恐らくはこの優しすぎる世界観こそが、一部で理想論だと冷やかされた原因だろう。
失敗した人の手助けをし、叱咤を浴びせることなく助ける、なんて行動は人として当然のように思えるが、そんなあたりまえの価値観に基づいて実際に行動を起こせる人というのは、実際のところあまりいない。
悲しいことに、人間は自分にとって価値のないことには積極的に介入したがらない傾向にある。時代の変化やSNSの普及に伴い、人間の感性は鈍化の一途をたどっているといっても、あながち間違いではないだろう。
と、ここらで話を戻そう。
しかし、あたたかな日常は些細な出来事をきっかけに瓦解してしまう。
きっかけはクラス共用のサッカーボールを誰がなくしたのか、という粗探しをリーダー格の少年が始めたことだった。
お前が最後に使ったんじゃないか? いいや、俺じゃなくてあいつが……なんて罪の擦り付けあいが男子グループ内で勃発し、徒党内は徐々に剣呑な空気に包まれていく。
その後も犯人捜しの衝突は何度も生じ、やがて仲良しだった男子グループは二つに分離した。ことの発端の生徒に嫌気が差した数人の生徒が、独自に派閥を生み出したのだ。
激化する二党の対立。険悪なムードは女子グループにも伝播し、ついにクラスは学級崩壊の危機に直面する。
やり場のない苛立ち、いつ喧嘩が勃発するかわからないという緊張、もうとばっちりを食うのはごめんだという怒り。誰一人として、ポジティブな考えをもつ生徒はいない。
しかし、このままではいけないと思う生徒はいた。主人公の水玻だ。
彼女はクラスの蟠りを取り除くために、悪意が自分一点に向くような所作を取っていくことを決意する。自分が悪役になれば、クラスメイトは自然と協力し合い、かつての関係を復旧していくだろうと考えたのだ。
彼女はそのことを親友の慧音にだけ打ち明けた後に、完璧な演技をもって行動に移し始める。
口論に割り入って阻害し、一つしかないバスケットボールを持ったまま校舎裏に姿を隠し、ゴミ箱にクラスメイトのスリッパが入っていたら自分が捨てたことにし。
そして水玻がクラスの異分子となり共通の敵となったことで、クラスに再び平和が築き上げられる。水玻の思惑通り、対立していた生徒達は、知らずの内に水玻を排斥しようと団結していたのだ。
この出来事をターニングポイントとし、物語は本当の意味で幕を開ける。
その後、心を病んで不登校となった水玻に変わり、蒼馬という少年に視点が移り変わる。
水玻の行動を目聡く観察していた蒼馬は、彼女の行動にはなにか意図があるのではないかと見当をつけていた。そして、水玻の親友である慧音になにか知らないかと尋ねた彼は、推測通り、水玻の行動に意図があったことを知る。
それから間もなく、彼は水玻がクラスの不穏な空気を払拭するために悪役を演じていたのだと熱弁するが、誰も信じない。彼一人の言葉で認識が逆転するほど、現実は甘くなかった。
けれど、想いが届かなかったわけではない。
やがて、一人の女子生徒が手を挙げて言った。彼の意見を支持すると。
その女子生徒は気紛れで彼の意見を肯定したのではない。
彼女はゴミ箱に捨てられたスリッパを丁寧に洗う水玻の姿を目撃していたのだ。
水玻にまつわる美談はそれだけでは終わらなかった。
豪雨にも関わらず、グラウンドでサッカーボールを探していたこと。
八つ当たりを受けて悲しむ生徒を裏で励ましていたこと。
一人で掃除をする生徒の手伝いをしていたこと。
彼女に助けられた生徒は何人もいた。
ここまで多くの事例があっては、誰も嘘だと否定できない。
ほどなくクラスの誰もが、蒼馬の言葉が真実であることを認めた。
そして水玻を傷つけてしまった生徒らが彼女に謝罪し、水玻が不登校から回復することで大団円を迎える――というのが、物語の大まかな流れだ。
なによりも驚くべきは、この作品の作者が俺と同い年ということだ。
この本が出版されたのは今から三年前。つまり、この作品は中学三年生の……恐らくは、女の子によって描かれたのだ。作者名から推測するに、男という確率は低いだろう。
全国中学生文学賞・大賞作品。
そんな名誉の刻まれた金箔の帯をつけた本作は、五十万部以上の大ヒットを記録した。その後も売上は徐々に伸び続け、先月ついに百万部を突破したらしい。
「そうか。……少し期待していたんだけどな」
「けど、この物語の真の魅力は別の場所にあると思う」
物語が綺麗だから、なんて有り体な感想しか漏らせないのなら、俺はこの本を何年もお守り代わりに持ち歩いたりなんかしていない。
「どうも世間の評価は、物語の精巧さとか、モラトリアム期間における中学生の葛藤の緻密な描写とか、文学的な観点ばかりに偏りがちだけど、俺は春野先生はただ純粋に人間の本質的な優しさっていうものを伝えたかっただけだと思うんだ」
物語中盤、水玻は何度も何度も挫けそうになる。
けれど、その度に自分の不幸の上に平和を築くんだと言い聞かせて立ち直る。
そんな水玻の強さは優しさを源泉としていて。
「その根拠にこの物語には一切恋愛要素が絡まない。蒼馬は水玻のために自分の立場を危うくするような行動を起こしたっていうのに、その動機は好きだからっていう純情な恋心ではないんだ。あくまで『水玻が傷付くのは間違ってる』という理由で、蒼馬はアクションを起こしている。
つまり、水玻にも蒼馬にも共通して、『誰かを思う優しさ』が基盤にあるんだ。
理想論だとか、未完結だとか、見当違いな感想を漏らす奴はこの作品を読み直した方がいい。行間を読み解かないと本質が見えてこないのが、この作品のめんどくさくて面白いところだからな」
ふうと短く息を漏らす。少々熱を籠めて語りすぎてしまったか。
この作品を子供の理想を絵に描いたような作品だと小馬鹿にしていた女生徒は、しばし呆気にとられた後、ふっと上機嫌に破顔した。
「君は随分と狂信的なファンだな。
熱量から察するに、その作品を読み返したのは一度や二度ではないだろう?」
ご明察で。
「そうだな。冒頭の数ページを暗記するくらいには読んでる」
桜が道路を薄桃色に塗り上げた春。
それは未来へと続く光の道のようで……だったか?
多少不安になりながらも一節を諳んじると、彼女は唐突に顔を机に埋めた。
「お、おい大丈夫か? 体調が悪いなら保健室にでも……」
「ふふふ……ふふっ……」
ぷるぷると震える両肩。見れば腕は腹部に回されている。
「ははは! 馬鹿だ! 大馬鹿だ!
そんなの暗記してもなんの意味もないのに!」
爆笑していた。笑い殺す気かとか言いながら、机をばんばんと叩いている。
……なんだよ。心配して損した。緊張で強ばった頬が緩んでいく。
「るせーな。いいだろ好きなんだから」
「それは未来へと続く光の道のようで……ぷっ! 似合わないな~その顔で光の道って。……あと未来に続くだし」
「クールビューティーだと思ってた俺の期待を返せよ……」
彼女の笑い声がだだっ広い図書館に響く。他に物音がしないからか、その声はいやに大きく木霊した。
やがて笑いの波が去ると、彼女は涙に濡れる目尻を指の腹で拭いながら俺を見つめた。
「いやー笑った笑った。顔を綻ばせたのなんて一年ぶりだよ」
「それは盛りすぎだろ。……けど楽しそうでよかったよ。仏頂面よりも笑顔の相手の方が話しやすいからさ」
今の彼女は数分前までの不機嫌そうな表情が嘘かのように和らいだ顔をしている。
表情とは不思議なものだとつくづく思う。目が人懐っこく細められて口角が釣り上がっただけだというのに、今の彼女は先ほどまでとは別人のように思えた。
暫し沈黙が満ちる。俺が小首を傾げると、彼女は金縛りから解けたかのようにはっと顔を上げて、わざとらしく咳き込んだ。
「んんっ。そ、そのなんだ。貴重な経験をさせてくれた礼だ。私の名前を教えよう」
ああ、そういえばまだ聞いてなかったな。
「普通はコミュニケーション前に明かすんだけどな」
「桜坂小春だ。よろしく東江」
俺の小言はまたしてもスルーか。まあ、別に構わないけどさ。
……桜坂小春、か。なんだろう。
初めて聞いた名前のはずなのに、知っているような知らないような不思議な感覚を覚えた。
「ああ、よろしく桜坂」
微笑み返すと、桜坂はきょとんと目を丸めた。
「どうした?」
「……ああ、いや。……なんだ知らなかったのか……」
なにやらぶつぶつと呟きながら、桜坂は椅子を引いて腰掛ける。
机の横のフックに掛けられた学校指定の鞄から一冊の本を取り出すと、何食わぬ顔で読書を始めた。
「二人しかいないのに、なんで差し向かいに座るんだよ」
「別にいいだろう。害を及ぼすわけでもあるまいし」
ぺらぺらとページを繰り出す。意地でも退くつもりはないらしい。
「……そうかい。まあいいけどさ」
テリトリー外の人間に諫言する権利はないだろう。
腰を下ろして、栞を挟んだページを開く。
……しかし、終始無言というのもなかなかに気まずいな。
「あのさ桜坂――」
十一月も終盤に差しかかった群青の空が晴れ晴れしいある日のこと。
俺は二週間の謹慎処分を受けると同時に、不思議な少女と出会った。