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ファンタジー兵站小説:死人使いゾフィーの戦争

作者: 銅大

ファンタジー兵站小説のサンプルその3です

その1:算術士ピクセルの戦争のつづきとなっています。

キャラクターは共通で

算術士ピクセル:眼鏡の男の子。魔法を強化するのに必要な演算を行う。

死人使いゾフィー:ネクロマンサーの女の子。王家の姫。平ら。

転移魔法使いメビウス:骨の谷出身の女の子。転移魔法を使う。裸族。

ゴーレム使いウル:ドワーフの女の子。ゴーレムを操る。

 パタタン、パタタン、パタタン。

 リズミカルなゴーレム織機のたてる音が聞こえる通りを、ゾフィーは浮遊橇フローティングスレッドの上に立って進む。ゾフィーが手にしているのは、金箔を貼った髑髏しゃれこうべがついた魔法の杖だ。

 この町にゾフィーの顔を知っているものはいなくても、彼女が持つ『クロステリオスの金のドクロ』と言えば昔話にも出てくる有名な遺物アーティファクトだ。今日の夕方までには、この地を誰が訪れたか、町中に知れ渡ることだろう。

 続いてゾフィーがさりげなく自分が着ている服に触れると、浮遊橇に同乗していた太った男が大げさな身振りで一礼した。

「姫殿下のお召しになっておられる服も、この町で織られた綿布でございましょうか?」

「ええ。ラクシャミーの綿布は、手触りも色合いも、見事なものですから。姉君の婚姻にも、花嫁道具として必ず一揃いを持っていっておりますわ」

 もちろん、花嫁衣装をはじめ、一番のドレスには南洋からはるばる輸入してきた蜘蛛絹スパイダーシルクが使われているのだが。

「おお、ありがとうございます。いつも王家の方々には、特別のお引き立てをいただいており、感謝の限りです」

「頭をお上げくださいな、商工会議長殿。それもラクシャミー綿布の高い品質あってのことです」

 茶番ではあるが、この茶番には外交的にも、やる価値がある。

 このラクシャミーの町は、こたびの戦争で中立を宣言している自由都市連合の中では王国寄りだ。

 王国寄りであるのには、ちゃんと理由がある。この町の主産業は綿紡績で、品質の良い綿布を大量生産するために、ゴーレム織機を導入している。そしてゴーレム織機を動かすには安い魔素水晶マナクリスタルが必要で、その価格を引き上げようという動きには、断固反対しているからだ。

 同時に、ラクシャミーは同じ自由都市連合内に敵が多い。古いタイプのギルドを解体してゴーレム織機の導入を実現できたことからもわかるように、ラクシャミーは新興の自由都市だ。古い自由都市の中にはラクシャミー綿布に押されて機織りギルドが解散に追い込まれたところもある。

「それにしても、こたびは急な話でございましたな」

 太った男は、ハンカチで額を拭い、少し恨めしそうに天蓋も座席ない貨物用の浮遊橇を見回す。浮遊橇は静かで、震動もないが、立ったまま周囲の視線にさらされて乗っているのは落ち着かないのだろう。

「兵は拙速を尊びますから」

 ゾフィーが貨物用の浮遊橇を使い、しかもそれが空なのは、向かう先で受け取る“積み荷”を載せるためだ。受け取りしだい、さっさと転移魔法を使って次の場所へ移動であるから、時間を惜しむ理由はもちろんある。

 同時に、自分の顔をさらし、目的地も行動も隠す気がないのは、外交のためである。

 ようするに、ここまでこっちに入れ込んだからには『イモを引いてもらっては困りますわよ?』というわけだ。

 この戦争で王国側が不利になった時に、自由都市連合にエルフ側につかれてはまずいのだ。

 もちろん、王国側に入れ込んでいるのはラクシャミーなど数市だけで、それも市の総意ではなく、王国との取引が利益になりそうな派閥・個人の意向でしかない。

 だからこそ、こうやって公衆の面前で顔を見せ、会話を聞かせ、周知の事実にしてしまって後に引けないようにするのだ。

 ――自分は何もせず、リスクなしで勝ち馬につきたい、という連中が多いからこそ打てる手ですけどね。

 自由都市連合のほとんどの都市が、どっちつかずの日和見な中立を選んでいる。

 もしこれが、断固とした意志と戦う覚悟を持っての中立なら、ゾフィーとラクシャミーがやっている手は、悪手となる。

 自由都市連合が中立を宣言したにもかかわらず戦略資源を王国側に渡したという罪で、ラクシャミーに懲罰を加え、王国を外交チャンネルで公式に非難するはずだ。最悪、自由都市連合がエルフ側についてしまう危険もある。

 何しろ、ラクシャミーがゾフィーに引き渡すモノがモノである。

「おお、見えてまいりましたぞ」

 高い尖塔を持つラクシャミー大聖堂。

 大聖堂前の広場には、司教と聖職者たちが勢揃いしていた。

 その後ろに、黒い布に包まれた箱が詰まれている。

 ゾフィーはゴーレムが引く浮遊橇から飛び降りた。

 ふわりとスカートの裾が広がり、すらりとした足が太もものあたりまでのぞく。

「ゾフィー・ラ・クロステリオス聖魔女よ」

 司教が深々と頭を下げる。

「浄化を待つ信徒の遺骨を、お預けいたします」

「お任せください、司教様」

 ゾフィーは艶然と微笑んだ。


 ゾフィーと一緒に浮遊橇が戻ってくる間、算術士のピクセルは町の外にある丘の上で、せっせと算盤をはじき、計算を続けていた。いつ、どんな形で魔法を使うことになるかわからないので、あらかじめ、何パターンもの状況を想定して演算だけはしておこうというのだ。

「この町で規定の死人召喚素材が集まらないと、まずいんじゃないのか」

 携帯ストーブで湯を沸かしていたメビウスが、ピクセルに声をかける。

「うん」

 ピクセルは書類の束を取り出して確認する。

 エルフ領侵攻作戦『黄の場合』は、死人の軍として骸骨戦士スケルトンソルジャー五千、骸骨弓兵スケルトンアーチャー二千、死霊魂火ウィルオーウィスプ百を前提としている。

「今のところ集まっているのが、スケルトン五千ちょいか。召喚時の歩留まりを考えると、半分だな」

 骸骨戦士と骸骨弓兵は、召喚時の装備品が違うだけで、同じ素材で召喚が可能だ。

「おーう。死霊魂火は?」

 メビウスから湯の入った薬缶を受け取ったウルが、茶色の粉入れたカップに湯を注ぐ。

 白い湯気と一緒に、強い香気が漂ってくる。

「王国を出発する時に持ってきている。死霊魂火は召喚素材が特殊なんで、自由都市から徴集できないからね」

「吟遊詩人から、死霊魂火は処刑された罪人の魂だから、罪人の亡骸でないとダメだと聞いた。ほい、苦茶にがちゃ

 ピクセルはウルからカップを受け取り、礼を言う。

「ありがとう、ウル。でも、死霊魂火は罪人の魂じゃないよ」

「オレの部族では、死霊魂火になるのは、死人魔法使いの血族だけって話だぜ?」

「それも違うんだ、メビウス」

 どこから説明したものか、とピクセルは考える。

「一般には誤解されているけど、死者の世界から召喚される死人と、こっちの世界で生きて亡くなった人とは何の関係もない」

「死者の世界って、冥界のことだろ。じゃあ、元はこっちの世界の住人じゃないか」

「そこが実は違うんだって。この世界、つまり生きている人間や獣や魔物のいる世界は、生命のエネルギーに満ちた世界で、生命のエネルギーを受け取って誕生する。死者の世界はその逆で、死のエネルギーに満ちていて、死のエネルギーを受け取って誕生する」

 世界そのものであった混沌の巨人が死んだ時、生のエネルギーの世界と、死のエネルギーの世界に分かたれたのだという。この創世論は、混沌の巨人の名前がバンであることから、『巨人ビッグバン理論』と名付けられている。

「むー。死のエネルギー? 呪いとかそんなの?」

 ウルが首をかしげる。

「死人魔法使いがいろいろ調べた結果、生のエネルギーとあまり違わないらしい」

「え、じゃあ向こうの世界じゃ、ゾンビの両親からゾンビの赤ちゃんが生まれるのか?」

「いや、それが、あっちの世界では普通の……といっても、姿形とか違うらしいんだけど、とにかくごく当たり前の住人っぽいね」

「じゃあゾンビやスケルトンは、なんであんな形になるんだ」

「いやそれは、僕もよく知らなくて。ただ、死者の肉からはゾンビ、骨からはスケルトンが召喚できるんだ。ちなみに死霊魂火は、死者の脂肪から作った石鹸が素材になる。作り方が特殊なんで、王都にある錬金術工房で作って持ってきてある。元となる死体は、処刑された罪人のものを使っているから、罪人の魂って噂になるんだろうね」

「うええ」

 メビウスが顔をしかめる。

 眼鏡の少年がウルとメビウスに囲まれて話をしていると、ゾフィーが戻ってきた。

 ゴーレムに引かせている浮遊橇の上には、箱が山と積まれている。あらかじめ高めに設定してあった浮遊橇の反発力も重量オーバーで限界なのか、時々、ずりっ、ずりっ、と橇の下側が地面をこすっている。

「人が仕事をしている間に、何やら楽しそうにしてますわね」

 ゾフィーが唇を尖らせるが、ピクセルは笑顔で死人使いの少女を出迎えた。

「お帰り、ゾフィー。どうやら規定以上に召喚素材を手に入れたみたいだね。おめでとう」

「私の交渉力をもってすれば……と言いたいところですが、ラクシャミー大聖堂で多くの死者が弔われているからですわ」

 ピクセルの後ろから、メビウスが顔を出す。

「おお、すげえ数じゃん! これだけあればたくさん死人を――とと、なんまんだぶ、なんまんだぶー」

 メビウスが、手で『死』のルーン字を切り、骨の谷の守護神でもある死と嵐の神に祈りを捧げる。

 死人である骸骨戦士スケルトンソルジャー骸骨弓兵スケルトンアーチャーを召喚する素材。それは、死者の骨に他ならない。それも、召喚一体につき、それぞれ一人の骨がいる。骨そのものは歯でも指でも、粉になっていてもいい。

 箱の中にはびっしりと小さな素焼きの骨壺が並んでいる。掌にのるサイズの骨壺には骨の欠片が入っており、壺の蓋に墨で名前と死亡した日付が書いてあった。

 死と嵐の神への念仏を唱えながら箱の中を確認したメビウスが、呆れ声になる。

「マロスの男某、マロスの女某、マロスの男某……おいおい、マロス家の連中、何人いるんだよ。まさか一人の骨を分けて、水増ししてるんじゃないだろうな」

「むー。大丈夫。日付が違う」

 ウルの言葉に、ピクセルもうなずく。

「うん。それにマロスっていうのは家の名前じゃなくて、村の名前だよ。この近くにあったはず。なんで、ラクシャミーで弔われてるのかは知らないけど」

「それはマロス出身で、ラクシャミーに働きに出た人の遺骨ですわ」

 ゾフィーは、そう言って骨壺に手を合わせた。

「ラクシャミーは、ゴーレム織機の導入で、工場がいくつも建設され、人口が外の村からどんどん流入しています。都市には仕事も、現金収入もありますからね」

「それで、マロス出身者はマロス某か」

「ですが、都市は死亡率も高いのですわ。狭いところで大勢が暮らしているせいで流行病も起きますし」

 都市の家は三代で絶える、という言葉がある。

 人と金が集まり、文化と工業、商業の中心である都市だが、人を再生産するという点においては、決して優れてはいない。都市単体では常に人口はマイナスの動向を示し、周辺の農村で増えた若者を吸収することで、人口と活気を維持しているのだ。

 大規模な工場ができ、工場労働者として大勢の農村の住人を吸収するようになったラクシャミーでは、そうした傾向はさらに大きくなる。

「なあゾフィー。お前の死人召喚って、こいつらを蘇らせるわけじゃないんだよな」

 おそるおそる聞くメビウスに、ゾフィーが鼻を鳴らす。

「当然ですわ。死人使いの魔法は、言ってみれば死者の亡骸を触媒にして、ゴーレムを作るようなものなのです。死者の骨をつかえば、スケルトンが。死者の肉をつかえば、ゾンビが生み出される。それだけです」

「むーん。それは、木材からウッドゴーレム、石材からストーンゴーレムを作り出すようなもの?」

 ウルの問いに、ゾフィーがうなずく。

「ええ。触媒となる骨や肉に、人としての形や動き方の情報が宿っているので、魔法としては、ゴーレム作成よりずいぶん単純なのですよ。だから、一度に大勢の死人を召喚できるのですけれども」

「なーる。理解」

 ウルはゴーレムを使役する魔法が使えるが、ゴーレムを作成する魔法は覚えていない。ゴーレム作成の魔法は複雑で難易度が高く、魔法の数も多いからだ。

 死人使いはひとつの魔法で召喚と命令が同時に行える。これは戦争での使用では大きな利点になる。

「ふーむ。なら、ゾフィーの死人使いの魔法では、幽霊ゴースト吸血鬼ヴァンパイアは召喚できない?」

「できませんわ。幽霊は、人の魂が魔素を吸収して肉体を失っても現世に残り続けているもの。吸血鬼も、儀式魔法によって人がその身を魔物に変えたものです。これらは、死人デッドマンではなく、不死者アンデッドです」

「了解した。死んでからも働かされるのではないので、安心」

「そういう魔法もあるにはあるのですよ? 死者を自分の使い魔にする魔法。対象が死ぬ前に術を施しておく必要がありますけれども」

 ちらっ、とゾフィーはピクセルに視線を向ける。眼鏡の少年は、小さく笑みを返す。

「オレもようやく理解したぜ。今回、召喚する死人部隊の主力がスケルトンなのは、触媒となる召喚素材が骨だからか」

「ええ。どこも死体は火葬にしますからね。今では、戦争で部隊規模でゾンビを召喚するようなことは、まずあり……いえ、ありますわね。十年ほど前に、東方の城砦都市ブラークが三年の包囲戦の後で陥落した時、そこを守っていたのはゾンビの部隊だったと聞き及んでおります」

「おいおい。そのゾンビってもしかして……」

「ええ。ブラークの守備隊や市民の成れの果て、ですわ。ほとんどの兵は最初の一年で死亡し、彼らの死体を触媒にした死人召喚で作り出されたゾンビが、残りの二年を戦い抜いたのですわ」

「うげげ……」

「おーう。すごいビックリ」

「ウルもそうか。聞くんじゃなかったぜ」

「ゾンビが二年間も腐らないとは知らなかった。ウッドゴーレムだと、素材や使い方にもよるけど、戦わせたら半年くらいでボロボロ。傷んで動かない」

「そっちかよ!」

「死人召喚したゾンビやスケルトンは、普通の死体と違って腐ったり傷んだりはしませんわ。肉や骨はついておりますけど、蛆がわくことも、風化することもありませんわ……ただ」

「ただ? 何だよ、もうこれ以上、何を聞いてもオレはびびらねえからな!」

「召喚した死人は、半年もすれば魔法で与えた魔素が切れて灰になりますの」

「それがどうした? 召喚した死人使いが魔法をかけ直せば、動き続けるだろ?」

「ブラークにいた死人使いは、最初の召喚の直後に、戦死していますわ。死体は城攻めをしていた側が回収しておりますから、確実です」

「え」

 メビウスの顔が引きつる。

「誰も再召喚できない死人部隊が、生者のいない城を二年間、どうやって守り抜いたのか……魔法にはまだまだ未解明な部分が残っていると思い知らされましたわ」

 すすすすすっ。

 メビウスが、眼鏡の少年に体を近づける。少年のぬくもりを求めるように。

「むー」

 てくてく。ぴとっ。

 それを見て、ドワーフの少女もピクセルに近づき、体をくっつける。

「あ、ウル。ずるいぞ」

 ぺたっ。

 メビウスが少年の肩に自分の肩をつける。

「ゾフィーの話を聞いて怖くなった。今日はピクセルと一緒に寝る」

「嘘つけ! 棒読みじゃねえか! 本当は怖くないんだろ!」

「そんなことはない」

「じゃあ、今の話のどこが怖いんだよ。言ってみろよ」

「死人魔法でかけた魔素は半年で切れるのに、ゾンビは二年間動いた」

「なんだ、わかってたのか」

「つまり、このゾンビは自分で魔素を吸収するか回復する能力を持っていた。恐ろしい」

「いや、そうじゃねえだろ! ……いや、それもアリなのか?」

 ふたりに挟まれていたピクセルが「うーん」とうなる。

「ウルの発想は面白いね。僕が考えていたのは、最大で半年の死人使いの魔法を二年に延長できるすごい算術士がいたのかな、ってことなんだけど。期間を四倍に拡大している分、四の三乗の六十四倍の魔素が必要になるけど、魔素水晶があればそこは何とかなるし」

「ゴーレムなら、不足した魔素の補充は最初から能力に組み込まれている。死人でも可能なはず」

「ふたりはそう考えてたのか。オレはてっきり戦死した連中の怨念で、魔法が切れてもゾンビが動いてるのかと」

「それは考えなかったよ。怨念か。計算で求めるなら、どのくらいの強さなのかな」

「うん。その発想はなかった。メビウスは想像力豊かすぎる」

「いやいや、最初に考えるのが怨念だろ! ピクセルも真面目に計算なんかしてるなよ!」

 ギュウギュウと三人が押し合いへし合いしていると、ゾフィーが冷たい目を向ける。

「何をやってるのですか、三人とも! とにかく規定の素材が集まったのですから出発いたしますわよ!」

 ゾフィーはピクセルの腕を掴んで引っ張った。

「ピクセルはこっちへ! 実戦で死人魔法を使うにあたって、魔法に必要な計算はまだまだあるのですからね!」

「ずるいぞ、ゾフィー! オレだって転移座標の計算をしてもらうことがあるのに!」

「むー。いざという時にゴーレムの力を引き出すには、ピクセルの計算が必要」

 三人の魔法使いの少女はしばらく言い争いを続けていたが、最後には妥協して、交代でピクセルを使うことにした。


 そして深夜。

 ゾフィーは自分の馬車の中で、手にした香炉を真剣な顔で見つめていた。

「本当にこれを使うべきかしら」

 馬車から外をのぞく。

 真っ暗だ。野営地の周囲、十キロ四方には町も村もない。

 ここまでは自由都市連合の中立地帯。しかし、明日からはエルフ領に入る。

 ――使うなら、今夜しかないですわね。

 ゾフィーの視線の先に、灯りがともった馬車が見えた。

 その中では眼鏡をかけた算術士の少年が、今夜も計算を続けている。

 ――口を開けば眠いとか、もうやめたいとか言うくせに……誰も見ていないのに、夜中まで起きて仕事を続けているなんて……なんて、バカ。

 ゾフィーは覚悟を決めた。

 エルフ領に侵攻する前に、これだけはやっておかなくてはいけない。やらずに後悔することを思えば、やってしまう方がいい、との判断である。

 香炉を手に、こっそり馬車を出る。

 戻る。

 ――念のため。念のためですわ。万が一もありえますし。

 ゾフィーは着替えを入れた木箱を開けた。そこには蜘蛛絹スパイダーシルクの下着が入っている。


 ぱちり。

「ん? なんだ?」

 メビウスは馬車の中で目を覚ました。

 骨の谷の部族は狩猟民である。

 その狩猟民の本能が、彼女を深い眠りから呼び起こした。何が原因で目覚めたかを口で説明するのは難しいが、あえて言葉にするのであれば、何日も追いかけ、いよいよと追い詰めた大鹿を、他の猟師が仕留めんと近づいている気配を感じた、に近い。

 一緒に寝ているウルを起こさないように注意してメビウスは馬車を出た。

 コソコソとした人影が、ピクセルの馬車に入っていくのを目撃する。

 ――賊? いや、ゾフィーか!

 姿勢を低くし、闇の中を這う獣の動きでメビウスはピクセルの馬車へ近づき、扉にはりつく。

 耳をすませる。

 馬車の中で、ふたりが声を抑えて言い争いをしている。

「ゾフィー、だけど今はそんなことをしている場合じゃ――」

「これだけ言ってもわからないなら、実力行使しかありません――」

「その香炉はまさか――」

「ええ。これさえあれば、どんなに意志が強固であっても、本能のおもむくままに――」

 ――まずい! ゾフィーの奴っ! ここで仕掛けてきやがったか!

 明日からはエルフ領に入る。

 そうなる前に勝負をつけようというのか。

「させるかぁっ!」

 ばんっ。

 メビウスは扉を開けると、驚いて振り向くゾフィーに体当たりした。

「きゃあっ?」

「わっ! メビウス?」

 狭い馬車の中である。メビウスとゾフィーはそのまま馬車の奥の机に向かって作業していたピクセルとぶつかり、もつれあう。馬車が傾き、開いたドアがバタン、と閉じる。

 銀細工の香炉がゾフィーの手から落ちて転がる。

「あっ?」

「させん!」

 メビウスが香炉をすくいあげる。そして机の脇に置いてあった水差しの壺を掴み、蓋をあけると、香炉を中に沈めた。

 ぼっちゃん。

「ああああーーっ! なんてことをしますのっ、メビウスっ!」

「それはこっちのセリフだぞ、ゾフィー! 狩人の掟を忘れたのか!」

「へ? かりゅうどのおきて?」

「それより、メビウス! すぐに香炉を水から出して! いや、窓と扉を――」

 遅かった。

 ばしゅううううっ!

 水差しから、大量の煙が吹き出し、馬車の中に充満した。

「え? なんで?」

「メビウスのおバカーっ! この香は、水で煙を出すものですわーっ!」

「ふたりとも、すぐに外へっ!」

 ピクセルが、メビウスとゾフィーを馬車の外へ押しだそうとする。

 しかし、もつれあった三人の体がすぐに動けるはずもなく、馬車に充満した白い煙は、鼻から口から三人の男女の体内に入り込む。煙が粘膜に接触し、香の成分が毛細血管に入り、心臓の鼓動に合わせて体内を巡り、化学物質が本能を司る脳の部位を刺激する。

 増進した本能が、三人の若い男女の肉体を突き動かす。副交感神経が働いて筋肉が弛緩し、脈拍がゆっくりとなっていく。

「ふわ……」

「むに……」

「すぴょ……」

 くたり、と三人の体から力が抜け、座席代わりにしている寝台の上にもつれるように倒れ込む。

 そして三人は、香によって増幅された睡眠欲という本能のおもむくまま、深い眠りへとついた。


 ぱちり。

「うー。寒い」

 ウルは自分の馬車の中で目覚めた。

 夜明け前。一日で一番寒くなる時間帯だ。

 普通なら、一緒に寝ているメビウスの体を湯たんぽがわりにするのに、それがないことが、ウルが目覚めた原因だった。

 いつも九時間近く眠っているので、覚醒は早い。

 馬車の外に出る。まず、ゴーレムの様子を見る。夜はゴーレムが周辺の警戒に当たっている。三十三体のゴーレムというのは、ちゃんと指揮する者さえいれば、一個連隊に相当する戦力だ。

 ゴーレムに変化はない。

「お役目、ごくろー」

 ウルはゴーレムをねぎらった後、すんすん、と鼻をならした。薬品めいた匂いがする。

「むむ?」

 タオルを口にあて、ウルは匂いのする方角――ピクセルの馬車へ向かう。

 バンっ、とドアを開ける。

 むわっ、と香の匂いが強くなる。

「むむむむ?」

 ウルはドアを開けたまま、ぴょん、と馬車から飛び降りた。

 すでに香の成分は変化して効力を失っていた。

 ウルはしばらく警戒していたが、再び馬車の中に入る。

「むう」

 そして唸る。

 狭い寝台の上では、三人が肉団子になっていた。毛布をかけないまま眠りについたせいで、明け方の寒さの中、互いの体をくっつけて暖をとっているのだ。何度ももぞもぞしているうちに服がめくれあがったのか、ゾフィーの白い尻を、蜘蛛絹の下着が包んでいるのが丸見えになっている。

「……ずるい」

 ウルは不機嫌になった。馬車に戻り、毛布をとってくると、ゾフィーとメビウスを毛布にくるんで床に落とし、自分はピクセルと一緒に寝台で毛布に潜り込む。

「おやすみなさい」

 四人が再び目を覚ましたのは、太陽が高くのぼり、昼近くになってからのことだった。

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[一言]  尻切れトンボ過ぎて訳が解りません。続きと言うか落ちを下さい。
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