帝国宰相令嬢の貴賓室
その時急にドアが開き、キムがそのドアにしたたか頭を打ち付けた。
「何してんの?」
頭を抱えて座り込むキムを見下ろしている紺色の髪の女性が誠の視界に入った。入ってきたのはアイシャだった。しばらくして顔を上げるとキムは恨みがましい目で彼女を見上げる。
「あっ、ジュン君ごめんね。痛かったでしょう」
アイシャが謝るが、軽く手を上げたキムはそのまま廊下に消えていった。
「一人で退屈でしょ。うちの部屋来ない?」
「はあ……」
誠はなぜ自分が独りになると言うことを知っているのか不思議に思いながら生返事をする。満足げにアイシャはそれを見つめる。
「誰の部屋だと思ってんだ? ちゃんと持ち主の許可をとれってんだよ!」
怒鳴り込んできたのはかなめだった。そしてそのまま窓辺に立っている誠の目の前まで来るとしばらく黙り込む。
「あの……西園寺さん?」
誠の言葉を聞いてようやくかなめは何かの決意をしたように誠を見上げてきた。
「その……なんだ。ボルドーの2302年ものがあるんだ。一人で飲むのはつまらねえからな。良いんだぜ、別に酒はもう勘弁って思ってるんだったらアタシが全部飲むから」
かなめをちらちら見ながらアイシャが揉み手をしながら近づいてくる。
「いいワインは独り占めするわけ?ひどいじゃないの!」
アイシャがかなめに噛み付く。開かれたドアの外ではカウラが困ったような表情で二人を見つめている。
「わかりました、今行きますよ」
そう言って誠は窓に背を向ける。そして満足そうに頷いているアイシャに手を握られた。
「何やってんだ?オメエは」
タレ目なので威圧してもあまり迫力が無いが、かなめの機嫌を損ねると大変だと誠は慌てて手を離す。カウラにも見つめられて廊下に出た誠は沈黙が怖くなり思わず口を開いた。
「ワインですか。なんか……」
「アタシの柄じゃねえのはわかってるよ」
頭を掻きながらかなめが見つめてくるので、笑みを作った誠はそのまま彼女について広い廊下の中央を進んだ。
やわらかい乳白色の大理石で覆われた廊下を歩く。時折開いた大きな窓からは海に突き出した別館が見える。かなめは先頭に立って歩いている。
「本当にすごいですね」
窓の外に広がる眺望に誠は息を呑んだ。広がる海。波の白い線、突き出した岬の上の松の枝ぶり。
「アタシは嫌いだね、こんな風景。成金趣味が鼻につくぜ」
先頭を歩くかなめは吐き捨てるようにそう言った。こう言うとっておきの風景を見慣れすぎたこの人にはつまらなく見えるのだろうと誠は思った。
胡州四大公筆頭西園寺家の次期当主。擦り寄ってくる人間の数は万を超えたものになるだろう。擦り寄ってくる相手にどう自分を演じて状況から逃れるのか。それはとても扱いに困るじゃじゃ馬を演じること。かなめはそう結論付けたのかもしれないと誠は考えていた。
そんなことを考えている誠を気にするわけでもなく廊下を突き当たったところにある凝った彫刻で飾られた大きな扉にかなめが手をかざした。
ゆっくりと扉が開かれる。そしてその外側に広がる水平線に誠は目を奪われた。
「これ、部屋なんですか?」
誠は唖然とした。
全面ガラス張りの部屋が広がっている。中央に置かれた巨大なベッド。まさに西に沈もうとする太陽に照らされた部屋は、誠達にあてがわれたそれのさらに五倍以上の広さが会った。
「まあ座れよ。ワイン取ってくる」
かなめはぶっきらぼうにそう言うと部屋の隅の大理石の張られた一面に触れる。壁が自動的に開いて、中から何十本という数ではないワインが誠の座っている豪奢なソファーからも見える。
「じゃあ、グラスは四つで」
「アイシャ。オメエに飲ませるとは一言も言ってねえぞ」
かなめはそう言うと年代ものと一目でわかるような赤ワインのビンを持ってくる。その表情にいつもにない自信のようなものを感じて誠は息を呑んだ。
「かなめちゃんと私の仲じゃないの。少しくらい味見させてよ」
アイシャが手を合わせてワインを眺めるかなめを見つめている。誠は二人から目を離し、辺りを見回した。どの調度品も一流の品なのだろう。穏やかな光を放ちながら次第に夕日の赤に染まり始めていた。
「ああ、この窓はすべてミラーグラスだからな。覗かれる心配はねえよ」
専用のナイフで器用に栓を開けたかなめがゆったりとワインをグラスに注いでいる。
「意外と様になるのね。さすが大公家のご令嬢」
「つまらねえこと言うと量減らすぞ」
そう言いながらも悪い気はしないと言うようにかなめはアイシャの方を見つめていた。カウラはじっとかなめの手つきを見つめている。
「カウラも付き合え」
最後のグラスにかなめがワインを注ぐ。たぶんワイン自体を飲んだことが無さそうなカウラが珍しそうに赤い液体がグラスに注がれるのを見つめていた。
「まあ夕日に乾杯という所か」
少し笑顔を作りながらかなめはそう言うとグラスを取った。
誠は当然、このようなワインを口にしたことは無い。それ以前にワインを口にするのは神前家ではクリスマスくらいのものだ。父の晩酌に付き合うときは日本酒。飲み会ではビールか焼酎が普通で、バリエーションが増えたのはかなめに混ぜ物入りの酒を飲まされることが多くなったからだった。
「お前らに飲ませても分からねえだろうな……でも悪くないな。これなら叔父貴も文句言わないレベルだろ。まあ酒を飲まないカウラには特に分からないだろうが」
グラスを手にかなめが余裕のある表情を浮かべた。嵯峨の話が出て食通を自任する上司の抜けた笑顔を思い出して静かにグラスを置いて誠とアイシャは笑いあった。
「否定はしないぞ。確かに隊長のような舌は無いからな。だが香りはいい」
カウラはそう言いながらグラスを置いた。いつもなら酒を口にするときはかなり少しづつ飲む癖のある彼女がもう半分空けているのを見て、誠は自分が口にしているきりりと苦味が走る赤色の液体の魔力に気づいた。
「アンタがお姫様だってことはよくわかったわよ。でも……まあこれって本当に美味しいわね」
一方のアイシャといえばもうグラスを空けてかなめの前に差し出した。黙って笑みを浮かべながら、かなめはアイシャのグラスに惜しげもなくワインを注ぐ。
「神前、お前、進まないな。まだ昼間の酒が残ってるのか?」
アイシャに続き自分のグラスにもワインを注ぎながらかなめが静かな口調で話しかける。
「実は僕はワインはほとんど飲んだことがないので……」
そう言うとかなめは満足そうに微笑んで見せる。
「そうか。アタシはワインは好きだが、安物は嫌いでね。それなりのものとなるとアタシでも値段が値段だし、アタシは酒については時と場所を考える性質だからな」
その言葉にアイシャとカウラが顔を見合わせる。
「よくまあそんなことが言えるわね。場所も考えずにバカスカ鉄砲ぶっ放すくせに」
すでに二杯目を空けようとするアイシャをかなめがにらみつける。
「人のおごりで飲んどいてその言い草。覚えてろよ」
「わかったわよ……誠ちゃん!飲み終わったらお風呂行かない?ここの露天風呂も結構いいのよ」
輝いている。誠はアイシャのその瞳を見て、いつものくだらない馬鹿騒ぎを彼女が企画する雰囲気を悟って目をそらした。
「神前君。付き合うわよね?」
誠はカウラとかなめを見つめる。カウラは黙って固まっている。かなめはワインに目を移して誠の目を見ようとしない。
「それってもしかしてこの部屋専用の露天風呂か何かがあって、そこに一緒に入らないかということじゃないですよね?」
誠は直感だけでそう言ってみた。目の前のアイシャの顔がすっかり笑顔で染められている。
「凄い推理ね。100点あげるわ」
アイシャがほろ酔い加減の笑みを浮かべながら誠を見つめる。予想通りのことに誠は複雑な表情で頭を掻いた。
「私は別にかまわないぞ」
ようやくグラスを空けたカウラが静かにそう言った。そして二人がワインの最後の一口を飲み干したかなめのほうを見つめた。
「テメエ等、アタシに何を言ってほしいんだ?」
この部屋の主であるかなめの同意を取り付けて、誠を露天風呂に拉致するということでアイシャとカウラの意見は一致している。かなめの許可さえ得れば二人とも誠を羽交い絞めにするのは明らかである。誠には二人の視線を浴びながら照れ笑いを浮かべる他の態度は取れなかった。
「神前。お前どうする?」
かなめの口から出た誠の真意を確かめようとする言葉は、いつもの傍若無人なかなめの言動を知っているだけに、誠にとっては本当に意外だった。それはアイシャとカウラの表情を見ても判った。
「僕は島田先輩やキム先輩と同部屋なんで。そんなことしたら殺されますよ」
誠は照れながらそう答えた。
「だよな」
感情を殺したようにかなめはつぶやいた。アイシャとカウラは残念そうに誠を見つめる。
「このの裏手にでっかい露天風呂があって、そっちは男女別だからそっち使えよ」
淡々とそう言うかなめを拍子抜けしたような表情でアイシャとカウラは見つめていた。
「ありがとうございます……」
そう言うと誠はそそくさと豪勢なかなめの部屋から出た。いつもは粗暴で下品なかなめだが、この豪奢なホテルでの物腰は、故州四大公家の一人娘という生まれを思い出させる。