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吸血樹とメーアヒェン

作者: 紫陽花

 彼はいわば《灰被り(アッシェンプッテル)》だったのかもしれない。

 少なくとも彼自身は、今まで味わったことのないような生活へと一変し、彼が満足するような世界へ行けたのだから、その例えに大きく頷いてくれることであろう。

 彼は扉を開き、階段を上り、壁を越えたのだ。

 何の変哲もない、貧しい心に灰を被る日々。そこに現れた硝子の靴。

 けれど靴は、彼にしてみれば《赤い頭巾の少女(ロートケープヒェン)》だったという。

 それが賢明でないと、理解することすらできず、花を摘んでしまう純真で幼い子ども。

 本当はそれはとても聡明であり、永くこの世で過ごしてきた存在なのだが、その心は雛のようだった。

 加えて彼が一目見た時、それが頭に乗せていた大きな赤い花が、それが小柄であるせいか、大きな花は赤い帽子のように見えたのだ。

 それの方はといえば、彼のことを《狼男(ヴァーヴォルフ)》か何かだと思ったらしい。

 自分を荒らす敵だと認識した、という意味もある。

 しかし誤解だと気づいたものの、忠告を聞かずあらわれるところを見て、自分を制御できていないのではないかと疑ったらしい。それほどまでに、哀れで酔狂に見えたという。

 けれどそれは、自分が月だというのなら、それは本当に自分ではどうにもできないと、嘆くだろうと思った。

 むしろそれからすると、真っ赤は自分ではなく、彼女であるらしい。

 確かに、彼女はそれのもとを、それを摘み取るためにやってきたといって間違いないだろう。

 赤い彼女は、赤いそれを刈り取りに来たのだ。

 しかし実際には、赤い血を搾り取られたのは彼女の方だった。

 その時のそれは、彼女にとってもそれにとっても、間違いなく同じ認識であった。それは双方にしてみれば珍しいことであったかもしれない。けれど逆に、双方は似ているのかもしれない。

 彼女にとってそれは、正しく《吸血鬼(ヴァンピーア)》だった。

 そして彼女にとっての彼といえば、《人魚姫(ゼーユングファー)》なのかもしれない。

 何がそこまでさせるのか、しかしそれが純粋で素直な彼を彼たらしめているところからくるものだということはわかっていた。

 さらに彼は好奇心旺盛だったから。

 けれど、深い海の底は井の底と何ら変わらない。

 心配性の彼女は、彼の《青い(ブラオアーフォーゲル)》になりたかったのだろう。幻想などではなく。

 そして、全貌を知ってなお、僕は、みんなが期待した《魔法使い(ツァオバラー)》にはなれなかった。流石に無理だ。《賢者(クルーガー)》を演じるのが限界だ。

 今《著者(アオトア)》という立場に立ってみたところで、やっぱり【魔法(マギー)】はみんながそれぞれ勝手に起しちゃったんじゃないかと思うよ。

 どうせ【おとぎ(メーアヒェン)】であるという自覚もないんだろうから。こんなに【幻想的(ファンタスティッシュ)】だっていうのにね。

 と、ここまで様々な例え話を出してきたけれど、登場するのは、あくまでも《彼》と《それ》と《彼女》、それから《僕》くらいなもんだ。

 《僕》は、《彼》と《彼女》とは馴染みでね。「僕」は彼らに、知っている御伽譚を話したし、「彼」は僕らに、見てきた冒険譚を話してくれたし、《彼女》も僕らに、戦った英雄譚を話してくれた。

 まあ、長口上はこのくらいにして、彼がそれと出会った噺からでも始めようか。


 彼はまだ、少年を過ぎて間もないくらいの、年若い男だった。

 しかしその両親はすでにこの世にはおらず、容器に注がれるはずだった量に達しないままのような、満たされない毎日を送っていた。

 そのせいで、彼が本来持っていた好奇心はすっかり麻痺してしまい、空の色一つで一喜一憂していた豊かな表情は、頬の動きを大人しくさせてしまっていた。

 当時彼が興味を持っていたことといえば、それは専ら、死ぬことだったのかもしれない。

 何故なら、仕事が終わっても家に帰らず、ふらふらと辺りを彷徨って散歩をする彼の好奇心に駆られてのものではないそれは、さながら死に場所を探しているようにも見えたからだ。

 そんな中だった。彼がそれを見つけたのは。

 森を抜けたところ、正確には抜けておらず、まだ森の中であったのだが、そこは開けた場所であり、ところどころで大小様々、色とりどりの花が咲く草原があった。

 それだけでもどこか幻想的な景色だろうが、彼の目に真っ先に留まった、というか、むしろ一目見て目を奪われてしまったそれは、そんな草花の中心にあった。

 それは草花に囲まれており、それだけではなく、いろいろな動物たちもそこにいた。

 あるものはそれの上から花びらを散らし、あるものは大きめの花で飾った。

 散らされた花も、摘まれた花も、本望のように満足そうにそれを飾っていた。

 動植物は、こぞってそれを慈しむように接していた。対してそれも、座り込んで満更でなさそうな態度で返していた。

 楽園かと思った。

 精霊か、妖精か、天使か、はたまた神がいると思った。

 それは美しい光景であった。

 そしてその中心にあるそれは、美しすぎた。

 その眺めをいつまでも見たいような気がしていたが、彼はとうとう、足を踏み出した。

 遠くから見ているだけよりも、彼はそれを。

 だから彼は、彼の気配に気づいた動物たちが、一斉にこちらを振り向き、すぐさま散り散りに逃げ隠れに走ったことを、何も惜しいとは感じなかった。

 それがそこにあれば、それで。

 ただ、そこには植物とそれが残った。

 植物は当然だろう、そこから動くことが叶わないのだから。

 けれどそれは。

 彼は足取りを止めぬまま、それに近づいていった。

 ソレは、驚いた様子を前面に出していた。

 彼は、そんな表情も魅力的に感じたという。

 驚愕の顔を晒しながら、その髪は花で色づいている。

 あどけないようで、かわいい。

「頭の花、かわいいですね。」

 彼が思ったことをそのまま伝えると、それははっとしたように体を震わせ、改めて彼と対峙した。

「迷子か?」

 それが、口を利いた。

「そんな感じです。」

 それは彼がそれに話しかけた内容とは関係のないことだったが、彼にしてもそれは話しかけるために放った言葉にすぎなかったので、見逃すことにする。そして彼は、実に久方ぶりに自分の口角が上がっているのを感じた。

「だったら、今お前が振り返った方向がちょうど出口だ。」

 それは彼の表情を訝しむように眉を寄せ、彼の後ろを指をさしてそう言った。指をさす時に、それは立ち上がったので、花やら花びらがはらはらと落ちる。それさえもきれいだった。ますます口角が上がる。

「ありがとうございます。」

「……礼には及ばない、早く、」

「やさしいんですね。」

 それは存外気が短いようだった。けれどそんなところも。そして、さっさと彼を帰したいらしい。

 しかし彼は、もっとそれとともにありたかった。

 早く追い出そうとしたって、そうはいかない。

 何せ、そんな目をして追っ払いたくて仕方がなさそうなのに、それをせずに、あくまでも口上の交渉のみで何とかしようとしているのだから。

 それの言葉を遮って会話を続けようとする。

 それは目を瞠って彼を見た。

 元々あった警戒の色が、今。

 しかし彼はさらに続けた。

「やさしいから、私を森の外まで案内してくれたりは、しないんですか?」

 彼の言葉はずいぶん厚かましかった。

 彼はそれを自分でわかっていたし、厚かましい云々の前に、それの前までずかずか歩み寄った時点で、とっくに図々しい。

「……私はこの場を動くことができない。」

 敵意に変わった。

 けれどそれは嘘偽りないのだろうと思った。

 彼はうっとりと目を細めた。

「そうでしたか。では私の方から、また会いに来ますね。」

「は?もう、」

「帰り道、あっちでしたね。ありがとうございます。ではまた。」

 彼は元々、自分に正直な性格であり、物怖じしない言動が目立つ人物であったが、年相応の若者であり、感受性豊かで、当然それが発していた警戒も敵意も、充分に畏怖や恐怖として感じていたはずだが、やはり、その時の彼は、そういったものを受け止める器官が麻痺していたのだろう。

 そして、彼が、また、と言ったとおり、彼はまたそこを訪れた。

 その時は、それの周りには植物以外は何もなかった。

 ひょっとしたら、それが予め、動物たちに警戒をさせていたのかもしれない。彼はほくそ笑んだ。それにそのつもりが一切なくとも、つまりそれは、それが自ら、彼との逢瀬の場を設けたことになるのだから。

「こんにちは。」

「……なんだ、また迷子か。」

 それの睨み付ける視線は、正直恐ろしい。

 けれど、彼はそれに惹かれてしまっているから。

「いいえ。貴方に会いに来たんです。」

 それは目を見開いた。

 が、その後すぐに剣呑な目つきに戻し、言葉を発した。

「貴様、私がなんだかわかってるのか。」

「わかりません。」

 彼の答えに、それは意外そうな顔をしたが、暫くもしない内に、得心したといった風な顔をした。

「わからぬ故、殺そうってことか。」

 そこではじめて彼も、驚きを顔に出すこととなる。

「え?」

「は?」

 暫し、お互い呆気にとられた顔を晒す。

 先に口を開いたのはそれの方だった。

「私が、人じゃないのはわかるか?」

 それすらわかっていなかったらどうしてくれよう、といった風だった。

「えっ、あー、それは、なんとなく?」

「お前今考えただろそれ。」

 それは呆れて言った。

 もう警戒も敵意も晒してはいない。

「お前、なんでほんとここに来たんだ。」

「だからそれは、貴方に会いに。」

「はあ?」

 呆れ気味に睨まれた方がよっぽど怖い、と彼は思った。

 もしくはその時からだったのかもしれない、彼の彼らしい心が戻り始めたのは。

「じゃあなんだ、お前は物珍しさでここに来たってんのか。」

「好奇心が旺盛だとは、言われていました。」

「ほう?」

 それの彼に対する誤解はそこで解けた。

 しかし。

「だからといって、ここに来ちゃならないってのは、なんにもかわらねえよ。」

 それは神妙に言った。

「どうしてですか?」

 彼の問いに、それは少し渋っているようだった。できることなら、自らの口からではなく、彼に自分で気づいてほしかったのかもしれない。

 けれど彼にそれは望めない。彼は自分に素直であるが故、周りの機敏にそこまで鋭くはなかったからだ。

「人は、人の姿をした人でないものに、係わらない方がいい。」

 彼にはわからなかった。

「どうしてですか?」

 それは彼を再びねめつけた。

「相容れないからだ。相容れないにもかかわらず、人は人でないものに、人としてのあらゆるものを求める。」

 それは、無知な彼に言い聞かせた。

「例えば、人としての常であったり、義であったり、心であったり、だ。」

 それは、結局は傷つくのは人だ。と彼に教えた。

 彼はそれの言葉に、わかったようなわからないような顔をした。

 彼はそれからすると、ひどく幼い生き物だった。

 そして彼は唸った後、こう言った。

「それってつまり……、例え私が傷ついても、貴方は傷つかないどころか、その理由すらもわからない、ってことですか?」

「そうだ。」

 それを聞いて、彼は落胆するどころか、安心したように笑った。

「ならいいんです。貴方が傷つかないのなら。」

 それはまた彼に驚かされた。

「私が傷ついても、貴方が傷つく必要は、ありませんから。私が傷ついたことで、貴方までが傷つくようなら、それはさらに私を傷つけます。」

 それからすれば、人は自分と同じ感情を、別の人にも求める。共感というものだ。

 けれど彼は、それを必要としないという。

「だから、よかった。」

 彼は自分が両親を失い酷く傷つき、それによって周りの者に心配を掛けていることを、よくわかっていた。

 そしてそれ以来、それは彼をその場から遠ざける方法が、すっかりわからなくなってしまった。

 次の日から、彼は毎日それがいるその場を訪れた。

 彼はそれに様々なことを話し、また、それから様々なことを聞きたがった、

 それは他愛もないもので、人でないそれからすれば、何故そんな話をするのかわからないものが大半だった。

 けれどそれは彼の話に耳を傾け、尋ねられれば何かしらの答えを返した。

 彼にしてみれば、それで充分だった。

 そしてまだそこまで逢瀬を重ねていない内に、彼はそれに尋ねた。

「貴方は何故、ここから動けないのですか?」

「私の後ろを見てご覧。」

 それはそう言った。

 彼はそれに従った。

 そこには。

「あれ。」

 一本の木があった。

 彼は不思議に思った。

 この場所を何度か訪れたが、それに気づいたのは初めてだった。

 その木の大きさは、育って何十年も経っているような風体で、急に生えてきたようにも思えないし、誰かが最近植えたような形跡も土にはなかった。

「言っておくが、お前がここを初めて訪れた時からあったぞ。」

「あれ?」

 ならば、どうして気づかなかったのだろう。こんな大きな存在に。

 するとそれが言った。

「これはな、私だ。」

 この木が、それ。

「だから、私が私として見えている時は、これがこれとしてここにあることには気づきにくい。」

 この木とそれは同一であるがゆえに、人の形をした人でないそれと、この木を、同時に認識することは難しいということだった。

「そっか、植物は、そこから動くことはできませんものね。」

「そういうことだ。」

 彼は、暫く木を見上げていた。

「きれいですね。」

 彼は言った。

 それはとっさに彼を見た。

「貴方を見た時、きれいだと思いました。だからこの木がきれいなのも、当然ですよね。」

 それは困惑した。

 それを見た人がそれを評してきた言葉とは、あまりにも相反していたからだ。

 その木は堂々としており、艶やかな葉を湛えていた。

 ただしその葉は、赤かった。

「きれい……って、」

「きれいですよ、すごく。」

 納得していないようなそれの態度に、彼は口にした。

「黒くて力強い枝や幹も、真っ赤な葉も、かわいい。」

 それはもはや絶句した。

「……おい。」

「はい?」

「……私を見た人は、そろって気味が悪いという。人のなりをした化け物だと、悪魔を宿した木だと。」

 彼はその時、ひどく憤ったような顔をしたという。

 けれどそれは彼が何か言うのを遮った。

「私は、お前も、そう思うべきだと思う。」

「何故っ?」

「お前は、人だからだ。」

「……私は前に言いましたよね。貴方が私の人としての気持ちを理解してくれなくとも構わないって。けど私は。貴方をそう言った人の気持ちが、まったくわからない!」

 彼がそう言ったことにたいして、それはごく冷静に返した。

「わかるわからないの話ではない。私は」

 それは、彼と律儀に会話をしているにもかかわらず、そう感じさせない、なんの感情も感じさせない、冷たい瞳、冷たい表情で言った。

「人が何と思おうが、なんとも思わないと言っているのだ。」

 今度は、彼が言葉を紡げなくなる番だった。

 彼はそれのことで傷ついたというのに、それがなんとも思っていないということならば、彼が傷ついたことは全くの無意味だということだ。そのことは、彼をさらに傷つけることだろう。それでもまだ、彼はそれが人とは違ってもかまわないと言い続けられるだろうとは、それには到底思えなかった。

「だから、貴様と私は違うと、始めから言っている。」

 しかしそれでも、彼はそれのもとを通い続けた。

 彼とそれの会話の中、やはりそれの言葉に、人を感じられないことは多々あった。

 その度に傷つくのは彼であった。

 そしてある日、彼が帰ったその後のことだった。

 彼女が訪れた。

 髪に赤い布を巻いていた。それの葉の色と同じ色だった。

 それは瞠目したが、彼女が真っ直ぐ自分のところに向かってくるのを見て、悟った。

 何より彼女の手には、日が暮れてもなお光を映す鋭利な刃が握られていた。

 それはお誂え向きに、嵐の雲が空を覆い、落雷が落ちた後だった。

「彼が最近魔物に憑かれている。」

「そうか。」

 彼女が唐突に話しかけても、それは平然として答えた。何故なら。

「だから私は魔物を、貴方を、斬りに来たのだ。」

 彼女のような人こそが、それがよく知る人のありさまだったからだ。

「でも、」

 彼女は鼻をすんと動かし、炭の匂いを嗅いだ。

「その必要は、ないのかもしれない。」

 彼女の視線の先、それとその木からは、煙が立ち上っていた。

 先程の落雷はその木を雷撃し、幹に大きく亀裂が入っていた。赤い葉は、すっかり焼け焦げていた。

 そしてそれもまたしかり。

「長きに渡っての脅威だった吸血樹を、ようやく殺せるのかもしれない。」

「お前は私を知っているみたいだが、あいつは知らなかったというのか。」

 それは体の半分を焦がしながらも、平然と答えた。

 それに対して彼女は首を振った。

 横にだ。

「いいえ。彼も森の魔物、貴方のことは知っていた。」

「は?」

 それは理解が及ばなかった。

「彼はむしろ、貴方をずっと探していた。」

「どういうことだ?私は生き物の血を吸って、殺すぞ。」

「それも彼はわかっていた。」

「は……」

 それはそれの知っている彼を思い浮かべた。

 彼は一度も、そんな話をそれにしなかった。

「けれど彼はいつも、貴方に殺されることなく、それどころか一度も血を吸われることなく帰ってきた。」

「……」

「何を企んでいるの?」

 何をも何も、それはこちらの台詞だった。

 それに殺されに来た彼も、彼を殺すことのできるそれも、そんな話は一度だってしなかった。

「っ、」

「……?」

「っは、」

「……。」

「っはは、」

「……貴方、」

「はっ、……ん?」

「人の心を持たない魔物でしょう?」

「ふふっ、……ああ。」

「なら、」

「ふっ、……っ、」

「何故、泣いているの?」

 それは笑い続けた。

 人の持つ喜怒哀楽のどれをも持たない魔物は、今ここで心を震わせていた。

「貴方本当は、彼の心がわかるのね。」

 彼女はそれに驚きながらも、それを認めた。

「なのに貴方は、彼にそれがないように振舞い続けた。彼が貴方に望んでいることも知らないまま。」

 彼女は確信を持って続ける。

「貴方は人に近い心を持っているからこそ、人が貴方に殺されなくていいように、彼が貴方に殺されないように、彼が自分からあなたから遠ざかるように。貴方は心がないように振舞い続けた。本当は、」

 それは彼女を見上げ、黙って聞いていた。

「本当は、そんなにも、傷つく心を抱えているのに。」

 それはぼろぼろだった。

「もう、彼を騙すことは許さない。」

 それは瞳を閉じて、彼女の言葉を聞いた。

「貴方は、その傷ついた心を、彼に見せるべき。」

 彼女は最後にこう言った。

「そのために、貴方はここで死んではならない。」

 それは肩を震わせ俯いた。

 それにはそれで、生きたい理由があった。

 そして意を決したように顔を上げると、彼女に言った。

「お前の、血をくれ。」

 赤い彼女は、傷ついた赤い吸血樹に、己の血を差し出した。

 それが差し出された彼女の手首に牙を立てる。血が吸い取られる感触がする。

 それと同時に、それの体が、木が、元の姿に回復していった。

 幹は黒々とうねり、葉は赤く艶やかな怪しさを取り戻していった。

 その様は間違いなく恐ろしい魔の木であることを思わせるのに充分だったが、彼女は確かに魅入っている己を自覚した。

 やがてそれは、炭の匂いも残さず、完全に元の姿を取り戻した。

「ありがとう。」

 それは彼女から顔を話すと、そう言った。

 彼女はわかっていた、自分がたいして血を吸われていないことを。

「貴方は、やさしいの?」

 それは先程の疲弊した様からすっきりとした顔つきをしていて、彼女の言葉に驚いていた。

「それを私に尋ねるのか?」

「……」

「はは。」

 そして彼女はその場を去った。

 それは去り際の彼女にこう言った。

「お前と私は赤同士、揃いだな。」

「冗談じゃない。私はいつでも貴方を斬れる。」

 彼女は帰りの道中、彼ならば、それが血によって生き長らえることができるならいくらでも差し出したのだろうかと思った。それがそれを望んでいないと知らないまま。

 次の日も、変わらず彼はそこを訪れた。

「昨日は雷が落ちたみたいですね。大丈夫でしたか?火事になった様子は見られませんが。」

「ああ。森に被害がなくてよかった。」

 彼は、それと彼女のやり取りなど、知る由もなかった。

「森だけ心配ですか?私は?」

「お前たち人は、火事を自分たちで消すことができるんだろうが。」

「確かに。この森は、貴方の力を借りれば火事をおさめられますか?」

「さあな。そのための努力はするが。」

「ふうん。」

 そして、やはり他愛もない会話であった。

「前に、」

 しかし、その日はそれから彼に話を振った。

 そんなことは初めてだった。

 彼は慌ててそれの方を見た。

「前に、私はここを離れられないと、言ったな。」

「ええ、貴方は木で、ここに根を張っているから動けないと……、」

「本当は、ひょっとしたらここから動けるのかもしれない。」

「え?」

 それは彼に話した。

「私は種から芽を出した時からここにいるわけじゃねえ。」

「……。」

 彼はそれを見つめながら、話を聞いた。

「苗をここに植えたやつがいるんだ。そして私をここに植え終わると、そいつはそこで息絶えた。私はそいつを苗床に育った。そいつの骨は、今でもここに眠っている。……気持ち悪いか?」

「いいえ。」

 そこで一度、それは彼に尋ねたが、彼は首を横に振った。

「そうか。私はな、これからもここで、そいつの血を抱えて生きていく。だから、化け物の木だからって、殺されてやるわけにはいかないのだ。」

 それは彼を見つめ返した。

「けど別に、生き物の、人の血を吸いたいわけでもない。」

 それはそこで一旦息を詰めた。

「私は、私と、この森を、そっとしておいてほしかっただけなんだ。」

 彼はそれが話し終わっても、しばらく何も言わなかった。

 それも俯いて、それっきり黙っていた。

 そして徐に彼が口を開いた。

「ありがとうございます。貴方がご自分の話を私にしてくださって、とても嬉しいです。ですが、」

 それが顔を上げた。彼と視線は合わなかった。

「私は、その人に嫉妬します。」

 彼はそれの方ではなく、真正面を向いて言った。さらに。

「貴方が、その人に対して何か心があるわけではなくても。私の嫉妬をわかってくれなくても。」

 対してそれは、彼の方を向いたまま言った。

「なら私は、お前が嫉妬するほどの心を私に抱いていることに、調子に乗っておくことにするかな。」

 彼が勢いよくそれを見た。

 視線が絡まる。

「それって……、そんな言い方されたら、貴方に心が、私と似たような心があるって、思っちゃいますよ……?」

 彼の瞳は揺れていた。

 それでもそれには、彼女との交換条件があった。

「私はお前に嘘をついていたことがある。けれどその嘘を、つき続けることをやめる。」

「はい。」

「私は、お前が私が傷つくと傷つくように、お前が傷つくと傷つく。それが人と同じものなのか、私にはわからない。」

「はい。」

「けれど、もし違うならば、それが違うせいでお前が傷つくならば、私も傷つく。」

「……はい。」

「けれどお前は……。」

「……。」

 そして次に、彼が話し出した。

「私は、貴方に傷つけられに来ました。」

「ああ。」

「貴方が人でなく、人のように傷つかないと思い、私が傷ついてもなんとも思わないだろうと思って。だから貴方なら、私を傷つけてくれると思って。」

「ああ。」

「けれど私は、貴方に初めて会ったその日から、とっくに、傷つくことをやめていました。」

「そうか。」

「貴方が、人じゃないのに……、貴方もそう言っているのに、私には、やさしく感じられたから……。」

 彼は、息を詰まらせながら、それでも必死にそれに言葉を紡いでいた。

「なのに貴方は傷ついていて。私は最初貴方が傷つかないことに安堵していたはずなのに、今は。」

 彼の肩は震えていた。

「人と同じでなくてもいい、貴方の心が、私にやさしくしてくれていたことが、とてもうれしい。」

 それは彼に腕を伸ばし、目元を撫ぜた。

 それは、血を吸う時と、それが苗を植えられた時以外で、それが人に触れた初めてであった。

「はは。本当にやさしいんですね。」

「……人の感覚なんて知ったことか。」

 それでも、彼は穏やかに笑みを湛えていたし、それも柔らかな表情をして、互いを見ていた。

 きっと、彼がそれの心を、それが彼の心を、理解するのはこれからなのだろう。これからで充分だろう。

 こうして、彼は傷ついたまま生きることも死ぬことをやめ、それは人を傷つけないために自らが傷つくことをやめた。

 アッシェンプッテルは、ロートケープヒェンを愛でるヴァーヴォルフとなり、しかしそれはヴァンピーアにはならず、結果としてゼーユングファーはブラオアーフォーゲルの手を借りて泳ぎ切った、といったところだろうか。

 硝子の靴が、赤になったところで何も変わらず、月はそのままであり続け、流れた血はすぐに満たされ、海をどこまでも進むための、翼を手に入れたのだ。めでたしめでたし、なんてね。


 つまり、《僕》がしたことなんてほんのわずかで、《彼》と《彼女》に《森の魔物》の噺を聞かせ、《相手》が人でないのならその優しさに付け込めばいいと《彼》に言い、顔色がよくなったといっても憑かれた《彼》が心配なら実際に会いに行ってみればいいと《彼女》に言い、今はこうして見守っているだけだったのが、《僕》なのだ。

 因みに、森の魔物の噺というのは、こうだ。


 その森には、奥に進むと、楽園のような花園がある。

 しかしその楽園に足を踏み入れてはならない。

 そこには吸血樹がある。

 吸血樹は生き物の血を啜り生きる。

 吸血樹は特に人の血を好む。

 吸血樹は黒い幹に赤い葉を蓄えているが、人の姿になり、人を惑わす。

 そのため楽園に吸血樹が見受けられなくとも、入ってはならない。

 吸血樹の楽園を、森を、荒らしてはならない。


 まあ実際には、そこまで【恐怖(シュレッケン)】じゃなくて、もっと【希望(ホッフヌング)】ある噺だと思うんだけど、彼が愛で、彼女が助けたソレがそれを望むならば、やっぱりこのままであるべきだ。

 結局実際起こった【魔法(マギー)】は、それが生まれた一度きり。

 だから、その森とその森のメーアヒェンを、荒らしてはいけないよ。

語りがwうざくてwすんません。www

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