妹など恐るるに足らず
ふう、今回も無事に帰宅出来た。本当に、外出時に神経を使うのは良くないな。
「おー兄貴お帰りー」
「ああただいまー」
玄関を開けると、若干気だるそうな声が聞こえてきた。声の主は志賀峰 紗江。俺の妹、中学二年生だ。イケメンな俺だが妹もしっかり美人。本来結構多感なお年頃という奴だと思うが(俺はそのころ、とりあえず何でも英語にしとけばカッコよくね?と思っていたので覚えがある。ただ絶対の信頼をおいていた英語よりも、あれドイツ語の方が良いんじゃね?と気づき、英語神話は崩壊。そのまま俺の一つの波、中二病も収束へ向かっていった)、しかし紗江は結構安定している。
「なー兄貴ー勉強教えてくんねー?」
「暇が出来たらなー」
「何だ兄貴そればっかだなー。見とけ、兄貴が皆寝静まってアレを取りかかろうと思った時に狂ったほどにノックしてやるからな!」
「そりゃ父さんと母さんに迷惑だろ。」
「もっと他にあるだろ、ツッコむ所!駄目じゃん兄貴!駄目駄目!ここはするどく、なんでやねーん!とかさ、欲しかったなー私。ああー欲しかった、欲しかった。せっかくの絶好のパスをスルーだなんて、戦犯ものだぞ兄貴!」
「お前のパスへったくそだからな、俺が戦犯になる事ないから。ほら解散解散。俺の部屋まで付いてくんなよな、せっかく自分の部屋があるんだからさ。」
「ちぇー。ほいほーい。」
妹や家族にはかなり信頼をおいて、よく顔を合わせている。癒しの時間だ。ただ…ただ、そう、妹が何かの間違いで俺に恋愛感情を持ってしまうかもしれない。いや、こんなことを考えるのは、少々アニメを見過ぎな気もするが、しかし。
真の覇道とは、真の軍略とは。あらゆる万が一を潰し、敵の芽を全て刈り取り勝利をまさに揺るぎ無いものとする事ではないだろうか。と、すると。妹にもここらで一発かましてやろうか。…しかしどうやって…
そんなことを思いながら自分の部屋に入った俺の目に、隅の方で不気味に揺らめく奇妙な影が入った。ああ、あれかと思いカバンを置き近づくと、やはりだ。ゴキブリというのはどうしてこう、何とも言えない気色の悪さがあるのだろうか。女が悲鳴を上げるのも分かる気が…
その瞬間、俺の頭にそれはもう、これ以上ないほどの妙案が思い浮かんだ。
ゴキブリ、飼うか。
いやいや待て待て。落ち着け落ち着け。俺が?飼うのか?このゴキブリを?いやいやそんな……あれ、案外いけるな。なんか…思ったより…なんか別に…。え、マジで?何だ、これなら普通にペットとしても飼えそうだな。
さあ思い立ったが吉日だ。早速キッチンに行く。キッチンとリビングは繋がっているので、リビングのソファに座ってぼうっとゲームをしている妹の姿が見える。これはもう好都合だ。
「母さん!水槽だとか、そんな何かを入れるに適した物は無いかい?」
「はあ、あるにはあるけど…何に使うってんだい。」
「ゴキブリを!飼うんだよ!」
余りの衝撃に、キャベツなど野菜を包丁で刻んでいた母の手が狂い、危うく自分の手を切りそうになる。妹は動揺を隠せないのか、手に持っていたゲームをソファに落とし、それを拾おうともしなかった。引いてる引いてる。そうさ、コレが本命だ。まったく俺ってやつはどこまで底を知らないんだ…
「あんた…とうとうおかしくなっちまったのかい…?」
「じゃあ母さんは俺が猫を飼うって言ったら咎めるの?」
「……ま、すぐに飽きるのかねえ…。…世話は自分でするんだよ。自分の部屋から出したらそれはもう、あんたのペットとしては扱わないからね。」
「ありがと、母さん!」
うちの母さんは懐が広い。というかコレは、懐が広いだとかそういう話なのかどうかという所だが、しかしまあ、そのおかげで俺は無事ゴキブリを飼えた。これで妹の好感度はもう、フリーフォールも真っ青の急降下だろう。これで妹ルート消滅。うちの妹はそれはもういい子だから、まあある程度は普通に接してくれるだろう。
さて自分の部屋に帰ってきたが何をしよう。ああ、このままだと汚いままだな。そう思い、キリフキでじっくり濡らし、適当なテッシュで丹念に拭いた。正直ゴキブリだからもっと乱雑に扱ってもいいとは思うが、まあ一応はペットだし。
ようし、せっかくの縁だ。名前をつけよう。ゴキブリからとって…そうだな、キリなんてどうだろうか。そういえばコイツがオスかメスかも分からんが、まあ正直すこぶるどうでもいいので問題ない。
しかし何だかこう、ペットにすると愛着が湧いてくるもんだ。この不快なギットギトの黒光りが、もうタランドゥスオオツヤクワガタに匹敵するんじゃないかと錯乱するくらいには愛着が湧いて止まらない。もうゴキブリ自体可愛いんじゃないか?とさえ思う。
おや、何だか隅に不審な影。今日はよく居るな。おお、今度はチャバネゴキブリか。へえ、こりゃどうも…。…なんともまあ、味のある外見をしておられて…。うん、うん…。おお、これは…。うん。こいつは無いな。世の人々のためにもここで殺すか。
スプレーでキリが死んではどうしようもないので、掃除を少しサボっていたからか、結構あるいらないプリントの山を使い決戦兵器を作る。その作業工程は集めて丸めるくらいの原始的なものだが、それでも十分だ。ゴキブリは敏捷性があるとは言え、俺も負けず劣らず敏捷性がある。いやもう圧勝している。
そういう訳で一撃で決着がつく。後はもう、いらないプリントとまとめてポイだ。本当に残念だが、ゴキブリとの死闘はこれで終わりだ。ゴキブリを生かすという事も無い。申し訳ない、全国のゴキブリファン達。しかし君たちの願いはしっかりとこのキリにこもっているぞ。
はっはっは、しかしこう、ゴキブリという奴は、見れば見るほど深みが増すな。なんか…なんだ。うわ、きったねえ。何だコイツ、何だかもう、ただひたすらに、何故かと聞かれたら分からないと返す他無いが、しかし本当に無性に汚いな。誰だゴキブリ買うって言った奴。俺だから取り返しつかねーじゃねーか。…いやしかしイケメンは違う。ポジティブだ、ポジティブシンキング。何とかなるもんだよ。
そうやって一人で精一杯虚勢を張っていると、ノック音が聞こえた。
「兄貴、いいかな?」
「お、おう、いいぞ。」
そう言って妹が入ってくる。なんだ、もしかして絶交とかか?それは困る。心の拠り所というものが無くなる。そんな事を言われたら泣きながら土下座してゴキブリを躊躇なく殺そう。それってすごい情けないな…。…いや、情けないこそ良いってわけだ!まさに妹の信頼回復と好感度下げを一息にやる一石二鳥ってわけだ。
ただ、どうにもこれは甘かった。本当に、妹は恐ろしいと思ってしまった。俺は妹の事を何も知らなかったってわけだ。
「兄貴ってさ…ゴキブリ、好きなの?」
「う、ううん…どうだろう、こいつは好きかな…?」
こいつはお前に嫌われるために飼ったんだよ、と言いたいが言える訳もない。
「実はさ…あたしも…ゴキブリ飼ってんだ!」
………ジャックポットと来たか…。…いやいやありえん!ゴキブリ好きの女子なんて何人いるってんだ!?それでしかも家族内ときた!何だこれ!何だこれ!ボクシングしてたら関節技された気分だ!ありえんありえんありえん!大外れ大外れ大外れ!
もうパニックだ。これはまさか妹ルートへの扉を開いてしまったのではないかと疑うより先に、実の妹が、まさか家でゴキブリを飼っているような、そんな頭のネジが何本か飛んでいる、本当にもう、頭のおかしいとしか思えない事をしていただなんて!そう思う方が先なのは、兄として当然ではないだろうか。
「そっ…そうなんだーっ…奇遇だなーっ…」
無理。動揺を隠しきれるわけがなく、声がうわずる。考えるんだ、考えろ。打開しなければならない、波に逆らわねばならないのだ、このビックウェーブに。
「いやー良かったよホントに…。あたしの趣味ってやっぱりさー…。同じ志の人ってのが、見つかんなくてさ…でもさ、今は兄貴がいる…。何か…それだけで…こうも嬉しいものなんだねって…」
どんだけ良い笑顔をするんだこいつは。初めてみるくらいに満面の、素晴らしい笑顔だ。こ、壊すのか?壊していいのか俺は?この笑顔を?
「いや、俺はこいつ一筋だからな。お前の奴らに興味はないぞ。」
「すげえ、兄貴って一途だな!」
正直もうゴキブリ見たくないだけなんだけどな。
「くぅーなんかもう、これ以上は望まないぞ!へへへ、今とっても幸せだからな!」
…まあいっか。ゴキブリ飼うくらい別に。
「兄貴、これはもう、兄妹であるのと同時に仲間ってやつじゃないか!?」
「…!ああっ…そうだな!」
俺の返事が元気一杯なのは、この妹があんまりにも幸せそうに笑うのと、この妹が俺に恋愛感情を向けるのは、とりあえず今は間違いなく無さそうだという事を確信したからである。