悲しい予感
「話したいことが、あるんだ」
満点の星空の下で、珍しく遼が話しかけてきた。
私は、静かにうなずいた。
「これから話すことを、理解してもらわなくていい」
回りくどい文句を並べて話し始めようとする、遼をまじまじと見つめた。
「……ん? なにか付いてるか?」
私の視線に気づいた、遼がこちらに視線を向けて笑った。
「なんでもないわ」
なんでもなかったわけではない。
それでも。
「……そっか」
少し寂しそうな表情を見せた彼の笑顔に、私はなにも言えなかった。
彼が、なにかを決意したことを理解したからだ。
「理解しなくて、いいんだ」
遼が星空を見上げた。
彼の表情が複雑に移り変わっていた。
それは、怒りとも、諦めとも、悲しさとも言えぬ、名伏し難い表情で。
「えぇ」
それを少しでも、見ていなくてすむように私は頷いた。
死音が初めて、膝をついた。
「お、お前、どうして……、俺に……」
いくら能力があるといっても、所詮は人間の体だ。
無茶をすれば、いつかはガタがやってくる。
その能力がいくら優れていたとしても、考えなしの力任せではいずれ穴が見えてくる。
それが、死音の欠点だ。
己を過信しているわけではないが、どこかがどこまでも荒削りなのだ。
「俺を……、倒せると、思って……」
肩で息をしながら、死音が立ちあがる。
今までの激戦を物語る幾数もの傷口から、血が流れ出ていた。
「見かけの割には……、タフ……なのね」
私も、死音と同様かそれ以上に、疲弊していた。
彼女に斬られた肩からは、止まることなく血が出ていたし。
彼女に刺された左足は、これ以上は走れないと痛覚が訴えていた。
「次で、お前を……、殺す」
今にも倒れそうになりながら、俯きかげんな戦闘体勢に入る死音。
「本当に……、終わりに……出来るのかしら?」
それに応えるように私も残り少ない力を振り絞り、まだ動かすことのできる右足を準備する。
少しだけ、後悔に似た感情を抱いていた。
あの夜、遼の話を聞いた後に、我を忘れて駈け出していなければ、違った結末があったのかもしれないと少しだけ思ったからだ。
「……遼に」
そんなことを考えていたら、思わず言葉が口から漏れた。
突然発した私の言葉にびくりと反応した死音が、視線をこちらに向ける。
「命……、乞いでも……はじ」
「謝れて……、なかった」
死音の瞳が、戦闘体勢のモノへと変わった。
「もう……、言い残すことは……ないな?」
少しだけ、意外だった。
彼女に、余韻に浸らせてくれるだけの我慢強さがあったことに。
「えぇ……、始めましょ」
「美月に、最初に言っておきたいことがあるんだ」
先を促すように、頷く。
「七霧四音は、二人いるんだ」
話を聞いた者、誰もが首をひねるようなセリフを、遼はド真剣な表情で口にした。
「わからないわ」
分かっていた。
姉さんの仇を討つために、あの夜からコツコツと貯めてきた情報。
その中に、私たちを不幸に陥れた少女が、一口で語ってしまえるような簡単な人間ではないことは、とうに分かっていた。
それに、私は前に一度だけ、彼が言う「四音」と出会ってもいるのだから。
「その気持ちは、分かる」
遼の言おうとしていることが、実物を目撃している自分に分からないハズがないのだ。
それでも、思わず「わからない」と口を出してしまったのは。
「でも、大事なことなんだ」
遼と一緒に過ごす時間がその一言で失われてしまうような気がして、怖かったからだった。
「なにが大事なことなのかしら?」
普段と声音が変わらないように、必死に気持ちを抑えつけようとする。
「四音を……殺しちゃ…ダメだ」
遼が、土下座をしていた。
金縛りにあったように、体が動かなかった。
何をしているの、と質問する言葉が、出てこなかった。
目の前で起こっている出来事が、自分とは関係のないものように、客観的に見えた。
時間が止まったような、音のない世界で、下を向いていた遼の顔がスローモーションのようにゆっくりとこちらを向いて。
「……美月?」
そう言葉を紡いだ時。
「……っ…!」
その時初めて、自分の歯が震えているのがわかった。
「……嫌だ」
口からこぼれたのは、自分でも嫌になるほど子供じみた答えだった。
遼の前では今までけっして聞かせたことのなかった、私が最も忌み嫌う「私の本当の声」だった。
「ち、違うっ!!」
慌てて、自分が言ったことを否定しようとして、思わず目の合った遼の真っ直ぐな瞳に射抜かれた。
遼は、土下座の姿勢を少し崩して私へとにじり寄ると、両手で私の肩をつかんだ。
「……あっ!」
予想以上に、遼の手の力は強かった。
「どうしても、話しておきたいんだ」
「は、はる……」
私の怯えたような表情に、遼は驚いたのか静止しようとした手を引っ込めた。
「ごめん」
「……私こそ」
「そんな……表情は、一度も……」
「もう、いいっ!!」
遼が言葉を続けようとするのを、思わず遮っていた。
「そんな事よりも!!」
「で、でも……」
そんなことではなかったはずだった。
「話したいことが、あるんでしょっ!?」
それは、まさにこういう時こそ気づいて欲しいモノだったのに。
「……じゃあ」
遼は、少し驚いたような、それでいて悲しそうな表情を垣間見せた後に。
「七霧四音には、四音という人格と、死音という人格があるんだ」
私が、全て知っていたと思っていた、少女の物語を話し始めた。
「……嫌だ」
先に口を開いたのは、死音だった。
「…けほっ……、何が……嫌…なのかしら?」
死音を抑えつける力がどれほど自分に残されているのか分からなかった。
なんとか、有利な体勢に持ち込むことは出来たものの。
呼吸をするたびに、咳が出た。
「俺は……、負け…ぐっ…、…たく……ない…、げほっ……んだ」
目が霞んでいくのが、徐々に分かっていた。
血を、流し過ぎていた。
先に話をしていたが、まさに自分の体にガタが来ていた。
だからだろうか?
情け容赦なしの精神の私が、思わず彼女の言葉に耳を傾けてしまったのは。
「姉さんに……げほっ、認めて…ぐっ…貰え……、なっ…、がはっ…くなる…」
死音の言葉は私に向けられたモノではなかった。
思わず、首を絞めていた手の力を緩められていた。
姉さんという言葉に、琴線に触れられたような、泣きたくなる気持ちになった。
「私は……、けほっ…姉さんを……、げほっ、げほっ!!」
痛みを堪え切れないというように、体を痙攣させて死音が咳きこんだ。
「…姉さんの……ごほっ…居場所を…なくして……」
その言葉が耳に入るのと同時に、あの冷たい夜の星空が頭の中を一瞬で染めた。
「美月! 早く、逃げてっ!!」
「嫌っ! お姉ちゃんも逃げようよっ!」
そう言って、必死で掴んだ腕を、全力で振り払われた。
「美月、ごめんなさい」
家が、燃えていた。
「早く逃げないと、死んじゃうよっ!!」
今では顔ももうはっきりと思い出せない両親と死別してから、姉さんと二人三脚で作り上げてきた唯一の居場所。
「私が、もう少ししっかりしていたら、こんな目に合わせなくてすんだのだけど」
姉さんはいつも朝早くから、自分が出来る仕事ならどんなものにでも行って、夜遅くに帰ってきた。
「お、お姉ちゃ…」
私が一目散に学校から帰ると、掃除に洗濯、炊事をして姉の帰りを待っていた家。
姉の帰りが遅すぎてせっかく作った御飯が覚めてしまったことを怒ったり。
私に内緒で、姉さんがバースデーケーキを買って、驚かしたり。
それは、まぎれもなく、私たちの生きてきた証明であり、唯一の楽園。
それが、轟々と音を立てて、燃えていた。
「ごめんね、ごめんね」
姉は、何度も何度も私に謝ってから。
「お姉ちゃんは……、行かないと」
私に背を向けて、視線を上の方へと向けた。
視線の先に浮かぶ、二つの瞳。
夜の闇よりも、濃くて澄んだ2つの黒い瞳はそれだけで生きているような存在感を感じさせた。
その瞳に、問いかけてやりたかった。
父さんと母さんを失って、死ぬほど苦労してようやく掴んだ幸せを。
なんで、名も知らない貴方に奪われなければいけないのか、と。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!! 嫌だよっ! 置いていかれるのは、嫌だっ!!」
もう一度、手を掴もうとして伸ばした手は。
「ごめんなさい」
形のないものを、掴んでいた。
「美月、早く逃げて」
姉さんは、振り向かずにさっきより少しきつめの言葉を発すると、目を閉じた。
「本当は、美月には見せちゃいけないって怒られたんだけどな」
独り言を呟くような話し方をする姉さんの手に、青い光が溜まっていた。
「お、お姉ちゃん!?」
私は、思いだしていた。
たった、一度だけ、見たことのある、忘れられない思い出の象徴。
「どうしようもないから、しょうがないよね」
「な、なんで……」
姉さんには私の声が聞こえてないの、か。
そう思った瞬間、家が燃えている事よりも、私たちが襲われた事よりも。
なによりも悲しくなって、涙が溢れ出た。
「お、お姉ちゃん……、嫌だっ…、嫌だよ……」
「……美月、大好きよ」
それは、私の勘違いだろうか?
泣き崩れていた私の頭上に降り落ちた二、三滴の雫を、姉さんの涙だと思ったのは。
「お、姉」
私が姉さんを見上げようとするのと。
「ちゃぁぁぁぁぁ」
姉さんが跳躍を開始したのが、まったくの同時だった。
「ぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!」
私が呼びかけた時に、見えたのは光を携えて跳躍する姉さんの後ろ姿と。
大声で笑いながら、姉さんに今か今かと激突しようとする小柄な影。
映画のスローモーションのように綺麗な姿勢で跳躍する姉さんの片手で、ちかちかと煌めく青い光に。
「……綺麗だ」
思わず、感想が口を突いて出ていた。
ブラウン管を通して眺めているようなまるで実感を伴わない感情の中で。
あの、青い光だけが。
私に対して、訴えかけていた。
「嫌だ……」
お前は、覚えているだろう、と。
そうだ、私だったんだ。
「嫌っ……」
お前は、覚えてるだろうと、と。
必死になって、記憶の片隅に押し込んで忘却を今か今かと待ち続けていた。
「や、やめ……」
お前は、覚えているだろう、と。
「嫌ぁぁぁぁ――――ッ!!!」
家族の不幸は―――――――――――――、私の所為だったんだって。
あの夜、少し外れの森に連れて行ってくれた姉さんは。
とってもワクワクした表情でいいもの見せてあげる、って私に笑いかけた。
姉さんは、ちっとも悪くはなかったよね。
あれから何度もあの時のことを姉さんは私に謝っていたけれど。
私は、当然のことだと思うよ。
「美月、ようやくね、ようやく練習してたのが出来たの!」
私は、なにが出来たのかさっぱり分からなかったけど、喜んでいる姉さんを見るだけで嬉しかった。
「すごいねー」
「そう! お父さんとかお母さんとかもっと凄いんだよ! でも、お姉ちゃんもちょっとだけ出来るんだ!」
姉さんは、笑っていたね。
本当に無邪気に、あの頃が懐かしい気がするよ。
あの頃の笑いを見ることが出来なくなったことが、すでに私が犯した罪だよね。
「美月はまだ子供だから出来ないかもしれないけど、大きくなったら出来るよ!」
「ほんとにー?」
「出来る! だって、こんなにも綺麗なんだもん!」
ああ、私は、存在自体が、罪作りな人間だった。
なにも気付かなかった頃。
ただただ幸せな生活を過ごせることが、当たり前だと感じられていたことが。
どれだけの犠牲の上に、営まれているのか知らなかったなんて。
「ほら、見ててね!」
そう言うと、姉さんは目を閉じて、深呼吸をした。
私は、いつになくウキウキとした姉さんが見せてくれるものなら、どんなものだって楽しみで。
はやくー、なんて急かしていた。
「こーら、これは集中しないと出来ないのよー」
口を尖らして片手を振り上げる姉さんが、大好きだった。
「しばらく、待ってて」
そう言って、もう一度眼を閉じた姉さんの手に。
「あっ! すご――い!」
ガラス細工みたいな、キラキラとした粒子が溢れていた。
それに、姉さんはふぅ―と息を吹きかけた。
舞い上がる光の粒子。
その真っ只中に佇む、姉の姿。
「きれーい! すごーい! すごいよ! お姉ちゃん!」
それは幼い私にとって、何よりも美しい光景だった。
身内の自分から見ても、美しかった姉さんが青い光で照らされている光景は。
「おひめさまだー!」
「あはは、美月はお世辞が上手ねえー」
そう言って、姉さんは照れたような笑いを見せた。
幼稚なボキャブラリーを使った精一杯の表現だった。
「これだけじゃ、ないのよ?」
そう言って、姉さんはすっと手を挙げた。
「うわー!」
さっきまで空中に浮遊していた光の粒子が。
「うわー! うわー! すごーい!」
姉の手の動きに合わせて、線を描いていた。
昔、両親に読み聞かせてもらうようなおとぎ話の世界。
「まほーつかいー!」
それが、眼の前で行われていた。
「美月も、こんなこと出来るのよー!」
姉さんがくるんと回って、光の粒子がレースを纏ったように姉さんを包みこんだ。
「お姉ちゃん、きれーい!」
うふふ、と姉さんが嬉しそうに微笑んだ。
「美月、あなたにプレゼントよ」
そう言って、姉さんは空中で手を滑らせた。
姉さんの手から、まるで紙に文字を書くように、光が言葉を紡ぎだす。
「あっ! みつきー!」
姉さんが私に分かりやすいように平仮名で名前を書いてくれていたことを覚えている。
私は、自分の名前を書いてもらったことが嬉しくて、大はしゃぎしていた。
「それだけじゃないわよー」
姉さんが、私に満面の笑みを向けていた。
「だ・い・す……」
姉さんが書いていく文字を読んで、パッと顔が明るくなった。
「だいすき、だー!」
「大正解!」
私は姉さんに思いっきり抱きついた。
「お――い!」
「二人とも―? またジャレあってるのー?」
父さんと母さんの呼び声が聞こえた。
「おかーさーん!」
「父さん! 見てー!」
当たり前の幸せ。
「なんだ、なんだー?」
父さんの、不思議そうな声がだんだん近くなっていた。
父さんに叱られて、母さんに褒められて、姉さんに愛される。
「もう、そんなに急かさないでよー」
母さんが息を少し切らせた声で、文句を言う。
私は噛みしめることなく、漫然と幸せに浸っていたんだ。
だから。
「……………………………―――!?」
気付かなかったんだね。
母さんの姿を見つけて私が走り出そうとして、母さんが叫ぶのを聞いた。
「な、なーに?」
私が驚いた声を上げた一瞬の間に。
「この、ばか娘がぁぁぁぁ!!!」
次の瞬間、視界に映ったのは父さんに叩き倒される姉さんの姿。
「お、お姉ちゃ……むぐっ」
んは悪くないよ、と言うつもりだったのに、ものすごい強い力で抱きしめられた。
「…んぐー!……んー!!」
母さんのお腹に顔を押し付けられて、何も見えなくさせられる。
「―――!! お前は、なんて事をしたんだっ!!」
私が必死で母さんから離れようとするその後ろで、パンッと乾いた音がした。
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさいっ!!」
「―――、あなたはなんでこれを見せたの!?」
「お前は、分かってるのか!!」
今まで聞いたことのないような、父さんと母さんの怒声。
そのあまりの恐ろしさに、私は母さんの腕から逃れようとする行動をやめざるを得なかった。
「ご、ごめん…なさい……」
さっきまで、笑って私に光のショーを見せてくれた姉さんの声だと思えない姉さんの声。
「私たちが! どれだけ必死に美月に辛い思いをさせないように生活してきたか!!」
―――――――――――――――――――――――――え?
なんで私の名前が出たのか、よく分からなかった。
「ごめんなさい…、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「……あなたは、知ってるでしょ? お姉ちゃんなんでしょ!?」
ど、どういうことなんだろう?
母さんも父さんも、私がいることを気づいていないように私のことを喋っていた。
「お前に、これを教えた時も、父さんは美月には見せないようにやれって言ったはずだぞ!!」
「ごめんなさい、本当にごめんなさい……、ごめんなさい」
痛々しい音が、また、した。
「美月が、もし、この事で傷付いたら……、あなたは、どうするつもりなのよ!?」
「ご、ごめん…なさい……」
私? 私? 私がいるから、姉さんは怒られてるの?
「んー! んー!! ……むわっ、みつ、きが……悪いの?」
母さんの、腕からようやく逃れて、お姉ちゃんは悪くないんだって説明しようとして。
「あぁぁぁ……、美月―――――――――――――っ!!!」
笑った顔が一番素敵な母さんが、今までで一番悲しい表情を見せて泣き崩れた。
「お前は…、お前は……」
父さんは、思いっきり歯ぎしりをして。
それから。
「大馬鹿野郎だっ!!!」
姉さんをぶった。
そうか。
目の前で行われている、あまりに異質な光景に私は、笑った。
「……だ、だいじょうぶだよ?」
そうだ、笑え。
「ご、ごめんなさい、美月。 お姉ちゃんが、本当に…ごめんなさい……ね」
顔を真っ赤にさせて、顔を涙でグシャグシャにさせて、姉さんが、這うようにして私に近づいた。
「だい、じょうぶだよ?」
そうだ、笑え。
―――――――――――ひっく
私は、泣くな。
姉さんは、必死に嗚咽を堪えようとして、それが堪え切れなくて。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
謝り倒しながら、泣きじゃくっていた。
―――――――――――えぐっ
そうだ、笑うんだ。
私が、泣いちゃいけない。
「だいじょうぶだよ?」
泣き叫ぶ母さんの顔を覗き込んで、笑った。
「ごめんなさいね、美月。 母さんがしっかりしていなくて……」
おいおいと泣きじゃくりながら、母さんはギュっと私が潰れてしまうのではないかと思うほど強く強く抱きしめた。
「みつきは、だいじょうぶだよ?」
―――――――――――うっ、ううっ
私が、笑わないと。
右手でごしごしと目を擦る。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
にへへ、にへへ、にへへへ、私が笑わないと。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
姉さんは悪くないよ。
私は、知ってるんだからね。
「だいじょうぶ、うん、みつきは、だいじょうぶだよ?」
地面を見つめる父さんに歩み寄って、わらった。
―――――――――――う、う、ううう
「美月…、忘れるんだ」
父さんが、熱い手で、私の頬を包んだ。
「これは夢なんだ。 分かるかい?」
「だ、だいじょうぶだよ! みづき、ごめんなさい、するよ!」
その時、初めて父さんの瞳が揺れた。
「み、づ……」
私の名前を呼ぶ途中で、父さんが言葉に詰まった。
「お姉ちゃんも、ごめんなさい、してるから、みづきも、ごめんなさい、するよ」
父さんの体が、いっぱいプルプルと震えた。
それから。
「おとーさん、ごめ……んむーっ!」
物凄い、強く強く抱きしめられた。
母さんの時の比じゃないほど強い力で抱きしめられて。
父さんが、初めて、泣いたのを見た。
―――――――――――もうダメだ。 限界だ。
耳元で父さんの熱い呼気がかかって、初めて聞く泣き声で父さんは私に、ごめんな、美月、と謝った。
それを、聞いた瞬間に、体がカッと熱くなった。
「う、うわっ…うううっ……」
だめだめだめ、私は笑わないと、ダメなんだ。
父さんや母さんが私を見て、なあんだ大丈夫じゃないかって思えるように笑わないと。
そう、思っているハズなのに。
「ひっぐ…、ご、ごめんなさい、うううっ……」
鼻水が流れる。
視界がぼやける。
「えへへ、ひっぐ、あはははは、だいじょーぶ! みつき、だいじょーぶ……」
笑え、笑え、私は心配をかけちゃいけないんだ。
それなのに。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ……、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん」
私は、泣いた。
これ以上なく、泣いた。
もう、悲しくて、悲しくて、後から後から、涙が出た。
父さんが悪いわけじゃない。
母さんが悪いわけじゃない。
姉さんが悪いわけじゃない。
そうだ、そうだ、誰も悪くない。
それなのに、皆、泣いてるんだ。
―――――――――――――――――――そうか。
その時、思った。
まるで、今まで分からなかった、算数の問題がある日、急にパッと分かるように。
悲しいくらい、はっきりと理解してしまった。
父さんを泣かせたのは、私だって。
母さんを泣かせたのは、私だって。
姉さんを泣かせたのも、私だったんだって。
悪いのは―――――――――――――――――――全部、私だったんだ。
申し訳ないくらい、泣きじゃくりながら。
私は、謝って謝って謝り続けた。
父さんが息苦しいほど強く抱きしめても。
母さんが、悪いのは私じゃないと言っても。
姉さんが、泣き疲れ掠れた声で謝っても。
私が言えるのは――――――――――――――ごめんなさい、だった。
私がこの世で一番悪い人になったような、気がした。
いや、なったんだ。
「死音と四音は救われない悪循環でずっと生きてきたんだ…」
遼の眼は真剣だった。
「俺は…四音と付き合ってた記憶とか……、思いだせない…」
それでも。
「でも……、アイツを…救ってやりたい……気がするんだ…」
遼は、呟いた。
私は……立ち上がった。
「み、美月っ!!」
遼が慌てて、呼びとめる声が聞こえたが、立ち止まらなかった。
もう、話は終わったはずだ。
「ま、待てって…」
追いかけてくる足音。
そして、肩に置かれる手。
いつもなら――――――。
私は笑って、振り返る。
振り返る。
そして、その先には隙だらけの、笑顔を見せる遼がいる…………はずだった。
振り返った先には――――、不安げに目を泳がせる遼がいた。
「……なんだ?」
遼の目が、驚いたように見開かれた。
自分でも驚くほど、他人行儀な声が出た。
「み、美月…」
「月雲遼…、お前との共闘体制は……」
嫌だ。
嫌だ。
嫌だった。
「……終わった、ハズだ」
遼は、言葉がないというように下を向いた。
顔を挙げて欲しかった。
嘘だよって言って欲しかった。
いや、止めて欲しかった。
「……み…」
嫌だ。
その名前で呼ばれるのは、もう、嫌だ。
「やめろ……、お前にその名まで呼ばれる筋合いは、ない」
遼の目が揺れた。
「……もう…終わり………か…」
遼のつぶやきに、思わず泣き出しそうになった。
逃げ出したかったんだ。
自分の不幸すぎる境遇から。
逃げ出したかったんだ。
弱かった自分から。
逃げ出したかったんだ。
遼と決別するかもしれないという未来から
「…終わりだ」
重々しく、告げた。
泣きそうになる気持なんか、ふっ飛ばすくらい重々しく告げた。
二人が交わした、共闘の約束に相応しく、二人だけの決別を告げる言葉を、告げた。
嘘だ、私は知っていた。
ちっとも重々しくなんかないことを。
嘘だ、私は知っていた。
私は、悲しんでいることを。
私は――――――――、遼が必要だった。
それは届かない思い。
私は、弱いんだよ。
いつだって、泣きそうになりながら自分に鞭を加えていた。
「……行く」
遼に背を向けて、告げた。
歩く。
「……俺は…」
ほら、見ろ、私。
目的地が、なんて明確になったんだろう。
「…悪かったと、思ってる……」
歩く。
「俺がしたことなんか、許さなくていい」
真っ白だ。
見ろ、私。
しがらみのなくなった私の目的なんて、真っ白だ。
なんにも――――――――――、ないんだ。
「……それでも…」
歩く。
「俺は、美月といた時間を、宝物のように思ってるから」
はははははははははははは……。
聞いたか、私。
あんなにも、あんなにも、馬鹿げたことをあの男は私に向って告げている。
それなのに、私は……不覚にも…零していた。
声を上げず、鼻もすすらず、眼を擦ることもせず、蛇口が壊れたように、零れおちた。
「……さよなら」
走り出す。
全てを―――――――、終わりにする。
はやく。
はやく。
はやく、この胸の苦しさから、楽になりたかった。
「み、づ、き」
遼が、私の名を呼んだような気がした。
全速力で、遼から離れながら。
私は振り返った。
小さくなっていく遼の姿を視界の端に収めながら。
全力で、私は逃げた。
遼の姿が、点になったとき、初めて眼をこすった。
「……遼…は……」
胸の鼓動が、さっきから苦しくなるほど早く脈打っていた。
さっき、見たことが、頭の中を反芻していた。
薄々は気づいていたことだ。
「じゃあな、シオン」
「…遼君…じゃあね。 本当に…、ごめんね」
「……分かんないから…あやまんなよ」
「…うん……ごめんね…」
だから、悲しむことはない。
まったく関係のない個人の家庭の事情に、他人を巻き込んでもうまくいきやしないことは。
それに、巻き込んだ相手が、仇の元恋人だなんて。
今時、安い三文小説でも書かないような、馬鹿げた設定だ。
だから、遼と共闘することなんて、うまくいきっこない。
そう、ずっと前から、自分に言い聞かせてきたことだったのに。
「…………嘘だ…」
それでも、どうしても認めたくない自分がいた。
無性に腹が立った。
少し前から、様子がおかしかった遼。
私との練習を終えた後に過ごす、お茶を飲んだりしてお互いの話をするほんの少しの夜の時間。
その時間を、最近、過ごせなくなっていた。
「美月、今日、俺、用事あるから」
ようやく、さん付けが取れたかなんて、心の中で大人げなく喜んでいた自分。
笑って、手を振った遼の姿が、昨日の事のように思い出せる。
「……ちくしょう…」
それも、これも、もう。
あの時、私がいつものように送り出さなかったら。
「…なんで……なんで…」
今、こうして私が悩むこともなかったのかもしれない。
―――――――――――――――――――――――終わりか。
「私の……」
「…………ごめんなさい」
不覚だった。
「……なっ!?」
一つのことに集中しすぎて、周りの気配を察知することを怠っていた。
うつむき加減から、相手の様子を把握する。
見覚えのある服装。
「しまっ……!」
分からないわけがない。
分からないわけがないじゃないか。
あの日から、ずっとずっと、追いかけ続けた復讐相手。
そして。
遼の―――――――――――、元恋人。
胸が、ズキリと痛んだ。
ちくしょう、私はどうしたんだって言うんだ。
「違うよ」
死を覚悟して、眼を閉じた。
敵に隙を見せた方が、先に死ぬのは当然のこと。
「……殺すんだろ?」
笑えてくる。
姉さんが死んでから、ずっと目の前にいるやつを殺すために生きてきたっていうのに。
「…ははっ……っとに…」
本当に笑えてくる。
たった一瞬の、気の迷いで、今までのいろいろなことが全て終わりになってしまうなんて。
遼が………いや、悪くない。
そうだ、私の悪い癖だ。
おもわず、子供の頃から変わらない癖に苦笑した。
苦しくなって、胸が張り裂けそうになったら、誰かのせいにして逃げようとして。
悪いのは、私だった。
始めたのも、巻き込んだのも、私だ。
「聞いて」
あの夜も、姉さんが死んだ夜だって。
「悪いのは……」
「聞いてよっ!!」
驚いた。
心底驚いた。
そんな普通の言葉が、私の仇から出るなんて思いもよらなかったし。
いつまでたっても止めを刺そうとしない相手にも驚いた。
「……なんだ?」
バカらしくなって、視線を上げた。
本当に、バカバカしい。
隙を見せたら、終わりだとか自分で言っていたくせに。
「…話しておきたいことがあるの」
隙だらけの宿敵を目の前にして、彼女のいつになく真剣な表情に思わず頷いてしまったとか。
私は、どこまで馬鹿なんだろうか。
「なに? 命乞いか?」
「……違うよ」
話し方や素振り、それらから私が追っている仇そのものではないと把握する。
思わず、真剣な表情に頷いたはものの。
「だったら? 愛しい愛しい遼君を返せ、と?」
私は、こいつが嫌いだ。
少女の顔が歪んだ。
「先に、私の名前を教えておくよ」
「ふむ? 別に名前なんて知ってるが?」
あまりの所作の違い。
まだ、その意図が読めない。
「……四音」
ぼそりと呟くように紡がれた名前に首を捻った。
「…私が知ってる名前も奇遇なことにシオンだが?」
その時、彼女の表情がものすごく悲しそうになった。
私が知ってる死音は、こんな表情をしない。
「…ちがうよ」
混乱していた。
遼を前にして時のシオン。
今、眼の前にしているシオン。
「分からなくてもいい。 私は、四と書いて、四音」
こいつは、私たちが死音という少女とは似ても似つかない。
まるで、体だけを共有して、異なる人格が同居してるような。
「……どういうことだ?」
なんだか、胸糞悪くなっていた。
私は、騙されているんだと。
「あなたが、知ってる七霧四音は2つある」
そう、思いたかった。
「私が今日、来たのは」
だって、私は仇のことを憎み続けることが。
私の行動のエネルギーになっていて。
仇を殺すことで、ようやく私は何もかもから解放されて楽になれるのに。
「貴女に――――――――――、謝りたくて」
私を、掻き回すのも、いい加減にしろ!!
「嘘だっ! なにが言いたいっ!? お前は何だっ!!」
思わず手が出ていた。
少女の服を手で掴んで、睨みつける。
「…落ち着いて」
顔を抉るように近づけ、視線で相手の眼を潰さんとばかりに睨みつける。
「落ち着く!? お前は何様だっ? 命乞いでもなく!!」
「…だから、四音、よ。 貴女達が追う死音、ではなく、ね」
歯ぎしりが、ひどい。
自分でも頭が痛くなるほど、ギリギリと歯ぎしりをしていた。
「お前は、なんだ? 謝りたい、だと? これほど、こんなにも!!」
知らず知らずに拳が四音の頬に飛んでいた。
手を離れ、地面に叩きつけられる四音。
「…だから……分からなくて、いいのよ…」
起き上がる、四音の目には涙が溜まっていた。
もう一度、四音の胸倉を掴む。
「分からなくて、いい!? お前は、謝るだけ、謝って、それで終わりなのかっ!?」
四音をガクガクと揺らす。
彼女に対する怒りと。
自分が抱える不安に喝を入れるために。
「…ちがう…ちがうわよ…」
四音は、泣いていた。
腹が立つ。
腹が立つ。
腹が立つだろっ!!!
「何が違うっ!? お前が私に謝ったところで…」
悔しい。
物凄く悔しかった。
殺されかけた経験までして、それでも四音に会いに行った遼を。
「なにもかも、戻りはしない――――――ッ!!!」
止められなかった、自分が、悔しかった。
そうなんだ。
私にとって、少なからず遼の存在は必要だった。
最初は、情報源としか考えていなかった。
それが、時間を経て、護身術を教え。
身の上話をして、遼の悩みを聞いた。
私にとっては、物凄く短い時間ではあったけれども。
確実に、隣に人がいた時間だって。
とっても、大事な大事な時間だったはずなのに。
「お前が……、嫌いだ…」
子供じみた、言葉が出た。
本当に、腹が立つ。
切羽詰まると、素に戻ってしまう自分が腹立たしかった。
「ごめんなさい…」
さっきまで、黙っていた四音がポロリと言葉を漏らした。
「本当に、ごめんなさい…」
胸倉を掴んでいた手に雫がいくつもいくつも落ちた。
「貴女が言うことは、その通り。私が謝ったところで何にもならないし、私も私の自己満足で貴女に謝ろうとしてる」
なにか、言う力が出てこなかった。
「それでも、謝りたかったの。 私が私でいられるほんの少しの間に、貴女に謝っておきたかった。だから」
美月さん、と四音が呼んだ。
顔を、上げた。
「ごめんなさい。この刹那、この瞬間、最高純度で、謝ります。 許さなくていいから、ごめんなさい」
その謝罪は、本当に笑えた。
よく聞いてみたら、全然ふざけた内容だし。
宿敵同士の間で、交わされたものとも思えないほど間抜けな謝罪だったけれども。
「……そう…」
なぜか、頷いていた。
四音、という少女の100%混じり気のない謝罪を、なぜか素直に受け止めていた。
別に、許すとかそういうことではなく。
彼女は紛れもなく私の仇ではあるけれども。
それでも。
あの謝られた瞬間だけは、七霧四音という少女を知ってやりたい、いや、知りたい気がした。
「久遠さん、私は、目的を果たせたから…」
四音は、もう泣いていなかった。
すっきりしたような眼でこちらを向いていた。
「だから、もう殺しても、いいよ」
それは、いつもの私なら喜んでとびつく提案のはずだった。
なんてったって、仇が自分から来ただけじゃなくて。
いつも見たいに殺気だってではなくて、丸腰で謝りに来た。
それなのに。
「…な、なにを……」
思わず、二の句が続けられなかった。
殺せば、いいんだ。
と、どこかで考えているハズなのに。
そんな事をしていいのかと、悩む自分がいた。
「…久遠さん?」
覗き込む四音と目が合った。
「……お前は…」
目が泳いだ。
私は…どうしたいんだ?
殺したい、いや殺さなきゃいけないハズなのに。
「四音、よ。 七霧四音、貴女の宿敵」
おかしい。
おかしい。
何かが、おかしい。
私は、何を考えているんだ?
「……お…」
私は、姉を奪った憎っくき仇を討とうとしていたはずだ。
それが。
「前は……な…」
私が、殺すのはコイツか?
「…ん……だ?」
「……久遠さん…」
それまで黙っていた四音の言葉にふと我に帰った。
「…早く、して欲しい……。 私だって…」
何をだ、と聞く直前で。
「死ぬのは――――――、怖いんだよ」
頭が……、真っ白になった。
「どうして…」
嘘だと、言って欲しかった。
悪者は、悪くて、憎まれていて、やられて当然だって。
そう思って、疑ってこなかったのに。
「…どう…して…」
ひどい、と思った。
神様は、ひどいと思った。
どれだけ、私を苦しませるのだろうか。
力が…抜けた。
「く、久遠さん!?」
胸倉を掴んでいた、手がするりと落ちた。
「……に…」
私は、一度だけ、自分に嘘をついた。
「逃げて…くれ……」
腹の底から振り絞るような枯れた声で、伝えた。
眼を合わせられなかった。
「……く…久遠…さん?」
今、私は、私を殺したいほど嫌悪していた。
ここで、アイツを殺さなきゃ、どうするんだと。
吠えるように訴える『限りなく自分に正しい』自分を必死で押さえながら。
「…逃げてくれ」
もう一度、言葉にした。
「……久遠さん、後悔するかも…知れないんだよ?」
四音の声が、遠くに聞こえた。
「もしかしたら、私が貴女を殺すことになる……かもしれない…、それなのに…?」
知りたく、なかった。
「どうでも…いい……」
忘れたい。
忘れたい。
忘れたいよ…。
「………………じゃあ…」
眼を、閉じた。
自分がやったことが信じられない、いや、信じない。
そう、魔が差したんだ。
「……行く…ね…」
今の私は、私じゃない、そう。
誰かが走り去る音が――――、する。
――――――足音が、遠のいていく。
何も―――――、聞こえなくなった。
その次の瞬間、私はものすごい力で引っ張られるような感覚にとらわれた。
交錯する。
交錯する。
交錯する。
いろんな思いが交錯する。
世界は―――――――――――――――、美しくもない。
世界は―――――――――――――――、分かりやすくもない。
私は、最高に不幸な人間だと思ってた。
じゃあ、七霧四音は?
私は、最高に不幸な人間と思ってる。
じゃあ、四音は?
私は、不幸だ。
じゃあ、死音は?
不幸なんだ。
嫌だ。
私は。
強くない。
それなのに。
流れ込んでくるんだ。
分かりたくもない。
それなのに。
分かりそうなんだ。
どうしてなんだ。
どうして。
どうして。
どうして。
私たちは。
不幸になったんだ。
力いっぱい引っ張られるような気持ち悪さで引き戻されたリアルを目の前にして。
「…あっ、あぁ……」
今度は、頭が、真っ白になった。
「あああああ……」
分かって、しまったのだ。
そんなこと嘘だって、笑い飛ばして明日からまた姉さんの仇討ちに専念できるようにって。
遼の話を聞きながら、そう必死に思い込んで、自分に嘘をついて、死音との対決を今日迎えたのに。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
死音が、いや、七霧四音が、私とまったく同じ辛さの中で生きてきた人間だということを、身を持って理解してしまったことが。
こんなにも、こんなにも。
「―――――――――――――――――――――――――――嘘だアアアアアアアアアアッ!!!!!」
私たちは、地獄の淵で、どちらが先に地獄に落ちるかを、競い合っているだけ、なのだ、と、気付かせるのだなんて。