Ⅶ 『苗畑』
翌朝。村人の通報でヘンゼル達一家は、父親の仕事場である苗畑に向かっていた。
教会の鐘を鳴らそうと鐘台に上がった神父が、森の異変に気づいて村人に知らせたのだ。
父親の森が真っ赤に燃えていると――
「森が……森が燃えている……」
赤く激しく燃える森を、村人達は呆然と眺めていた。
穀物からなる段々畑を登った先。その前方に広がる苗畑は、すでに焼畑と化していた。
「お、おい……あいつら」 「羊飼い……旦那とこの子ども達を狙っているんだ」
群衆の中には、あの集団の姿もあった。目深に被ったフードの下で何を見ているのか。
全身を覆う白いローブが、ゆらゆらと風に煽られ、はためいている。
「くっ……苗木が!!」
父親は炎と化した森の中に、突っ込むように飛び込んでいった。
「父さん!」
ヘンゼルも父親の後を追って、炎の中に飛び込んだ。
森の中はバチバチと火の粉が飛び交じり、燃え上がった木本がそこら辺に焼け落ちていた。
毒素を含む、白い硝煙に視界を奪われ、蒸せるような息苦しさが襲ってくる。
延々と立ち込める炎と煙の中、ヘンゼルは父親を追いかけて、必死に叫んだ。
「ヘンゼル、こっちだ!」
小さな苗木を脇に抱えた父親が、森の奥からヘンゼルを呼び寄せる。
二人は、燃え上がる森の中、がむしゃらに出口へと突っ切っていく。
しかし、一本のモミの木が、唐突にヘンゼルを目がけて倒れてきた。
父親はきびすを返し、木が倒れる寸前にヘンゼルを体当たりで押し出した。
大きな衝突音を立ててモミの木は倒れ、それと同時に父親の姿も炎の中に消える。
「父さん!!」
「大丈夫だ! 先に行け!!」
倒木の向こう側から父親が叫ぶ。ヘンゼルはホッと胸を撫で下ろすと、
ますます燃え広がる炎の中を、一目散に出口へ走り抜けた。
森の出口では母親とグレーテルが、心配した様子で父親とヘンゼルの帰りを待っていた。
ヘンゼルは森の中を全速力で駆け抜け、転がるように森の出口から飛び出した。
「ヘンゼル! 大丈夫かい!?」
母親がヘンゼルの元に駆けつける。
「父さんが……父さんが、まだ森の中に……!!」
☆
火は三日三晩燃え続けた。
父親は頭に軽い損傷を負っていたが、別の道を通って命からがら森の中を脱出していた。
しかし、ようやく火が収まった時には、一家は最後の生命線を失っていた。
「残ったのは、この小さな苗木だけか……」
燃え上がる森の中で必死に救えたのは、小さな苗木が一つ。
他の木々は、跡形もなく炭となり果てていた。
『あの苗畑、唯一の私財だったんだろ?』 『ああ……可哀想にな』
『けっこう借金も膨らんでるって話だぜ』 『どうするんだろうな……これから』
焼け跡前で、佇む一家を尻目に、村人達がヒソヒソと取りざたす。
「ヘンゼル。グレーテルを連れて先に帰ってなさい。父さんは、母さんと片付けをしてから戻る」
「そんな……僕も手伝うよ!」
「いいから、先に帰りなさい!!」
父親が厳しい口調で豪語する。ヘンゼルは父親の剣幕に気圧され、グレーテルを連れて帰宅した。
☆
兄妹はお互いに肩を寄せ合うと、窓から差し込む月明かりの下、一冊の本を押し広げた――
「むかしむかし、あるところに、仲の良い兄妹が住んでいました。兄妹の家は貧しく、毎日が
食べていくので精一杯の生活でした。兄妹は何をするにも一緒で、両親が仕事で家にいない時
は、お互いが遊びの相手でした。兄は妹の面倒を何くれとなく見てやり、妹は兄をとても信頼
して慕っていました」
流暢な言葉でヘンゼルが本を読み流し、その一句一句をグレーテルが恍惚の表情で聴き入っている。
彼女の腕の中には、羊のヌイグルミが抱かれていた。
先に帰宅したヘンゼルは、グレーテルと風呂に入り、彼女が用意してくれたパンを共に食べた。
両親は一向に帰ってこず、兄妹は就寝のためベッドに潜り込んだ。
そして、妹が大好きな『おとぎ話』の本を取り出した。
「そんなある日のこと。黒いローブを着た青年が村にやってきてこう言いました。『私は羊飼
いだ。羊を必要としている。羊はおらんか?』村人はたちまち顔が真っ青になり、子ども達を
隠すように身を潜めました。青年は村から子どもを買い漁る、人買いだったのです」
ヘンゼルがページをめくると、グレーテルが微かに身体を寄せてくる。
「羊飼いは幸せな家庭が大嫌いで、貧しい生活ながらも幸せに暮らしている兄妹に目を付けま
した。両親は兄妹を売ることに反対しましたが、家族が生きて行くためには、まとまったお金
が必要だったのです。父親は自分の非力さに嘆き、母親はただただ泣くばかりでした」
ヌイグルミを抱くグレーテルの表情が、次第に暗くなっていく。
おとぎ話の子ども達に、感情移入をしているのだろうか。
ヘンゼルは、妹の顔色を窺いながらページをめくった。
「兄妹はたくさんのお金と引き換えに、羊飼いに売られてしまい、両親と離れて暮らすことに
なりました。妹は母親の腕の中で、わんわんと泣いていましたが、兄の瞳には燃えるような強
い意志が宿っていました。別れの日……ん? グレーテル?」
腕に違和感を感じ、ヘンゼルが妹を横目する。グレーテルが兄の腕をギュッと掴んで、
「お兄さま……どこにも、行かないで……」
悲しげな表情で台詞を漏らした。
「グレーテル。大丈夫だよ。お兄ちゃんはどこにも行ったりしない。ずっとグレーテルの側に
いる。約束するよ」
ヘンゼルが今にも泣きそうな妹を抱擁する。
「大丈夫……きっと何とかなる」
その日、両親が帰宅したのは、兄妹が寝静まった後だった。