Ⅴ 『羊飼い』
「とうとうこの村にも来てしまったか」
食卓の上に肘を突き、両手を額に当てた父親が、懸念した様子で呟いた。
父親の向かい側では、母親が不安の表情を浮かべている。
兄妹を寝室に追いやった後、両親は羊飼いの到来に頭を悩ましていた。
昼間。なかなか戻ってこない兄妹を心配して、広場に両親が駆けつけたところ、
一人の青年が、村人に介抱されている場面に出くわした。
辺りでは多くの野次馬達が、今しがた起きた出来事について口々に話していた。
『聞いたかよ。羊飼いがこの村に来たって噂』
『羊飼いって、あの思想集団か?』
『ああ……ロマン派屈指の民間組織。えっと、何て名前だったかなぁ……』
『こりゃあしばらくは村が静かになるな』
両親は人でごった返した広場から、ヘンゼルとグレーテルを探した。
二人は噴水前で青年の様子を眺めており、両親はすぐに兄妹を見つけることができた。
両親が兄妹と合流した頃には、広場は祭りとは思えぬほど静かになり始めていた――
「何でも、奇妙な術を使ったらしい」
「奇妙な術ですって?」
「どこの言語かも分からない、呪文のような言葉を唱え始め、詠唱が終わった時には、
羊飼いの手のひらに光が集まっていたそうだ。まるで〝魔術〟みたいだったと」
そして光が大きく発光したと同時に、若者は吹き飛ばされた。そう、父親が続ける。
母親は神妙な顔になり、そんなはずは……と、独りごちた。
☆
壁一枚を隔てた隣室から、両親の会話が聞こえてくる。
一度は寝床に入ったものの、昼間起きた出来事が気になって、ヘンゼルは眠れずにいた。
父親に羊飼いのことを尋ねても、口を真横に結んだまま何一つ教えてくれない。
子どもの自分に、気を遣って話さないようにも見えた。
ヘンゼルは窓枠の縁に肘をつき、窓外に広がる夜空をぼんやりと眺めた。
窓の外は昨日とは打って変わり、星々の姿はなく分厚い雨雲に覆われている。
星の見えない夜は好きではなかった。
心の奥底に眠る不安や葛藤を奮い立たせるからだ。
理想の自己像と現実の自分。考えれば考えるほど気持ちが塞ぎこむ。
「……ん」
隣で寝息を立てて眠っていたグレーテルが、寝返りを打つ。
恐ろしい夢でも見ているのだろうか。ヌイグルミを抱く小さな手が、何かを離さないように
力強く握られていた。
「大丈夫……僕はずっとグレーテルの側にいるよ」
ヘンゼルは妹の髪をそっと撫でてやる。
昔、自分もよくこうして両親に頭を撫でてもらった。
なぜかは分からないが、不安な気持ちが安らいでいくのを不思議と感じたものだ。
村人の話では、羊飼いの狙いは幼い子どもだと言っていた。
父親が何一つ彼らについて教えてくれないのは、
おそらく自分達に、羊飼いの恐怖を植え付けないようにするためだ。
グレーテルの寝顔を見て、ヘンゼルは思う。
「もし、あの人達が家に来たら、グレーテルは……僕が守らなきゃ」
彼は闇の中で瞳を凝らしていた。
★
「どうだ、ツェーン。草案になりそうな奴はいたか?」
教会の釣鐘付近に法服を思わせる、ローブ姿の集団が佇んでいた。
その中の一人、ツェーンと呼ばれた女性が答える。
「ええ。何件か気になる家庭があります」
「ほう……ならば、早急に接触を図る必要があるな。リストをこちらに回せ」
リーダー格の男から指示が出され、ツェーンは手のひらを宙にかざした。
途端、何もなかった空間に、粒子状のタブレットが出現する。
集団が情報を共有するために使用している、長方形の小型端末機だ。
彼女は慣れた手つきで指先を操り、リストアップしていた情報を男に転送した。
「よし、ここからは二手に分かれて行動する。エルフ、ツヴェルフ」
リーダー格の男はそう言い放ち、自分の近くに二人の従者を呼び寄せる。
集団の中で一番背の高い男性と、集団に属してまだ日の浅い男性だ。
「お前達はこの家庭を回れ。抵抗するようなら《民謡伝術》の使用も許可する」
「仰せのままにドライ様」
☆
閑静な森の中。そこにある小さな苗畑で、父親は汗を流していた。
羊飼いが村に来てから今日で二日目。今のところ特に変わった様子はない。
しかし、いつ『彼ら』が接触してくるか、不安はぬぐい切れなかった。
父親は両手で握りしめた両刃斧を、目の前の樹木に差し込んだ。
木こりの仕事は『主伐』や『択伐』がメインだが、依頼があれば『間伐』も請け負っていた。
『主伐』とは、一定の林齢に生育した立木を、用材等で販売するために伐採する事で、
『択伐』は林内の伐期に達した樹木を、適量ずつ数年から数十年おきに抜き切りして、
林内での更新を図る事だ。ようするに、用材等に適した木を選んで切り、
その跡に後継樹を育てる、ということである。
長い目で見れば、『択伐』は木こりにとって限りのない財産になりえるが、
林業を営む者が減少している近年……父親は毎月の収入を得るので精一杯だった。
毎月の生計は母親が何とかやりくりをして、かろうじて今の生活を維持しているものの、
父親の収入が少ない以上、家計は常に火の車である。
もしも、この苗畑を失うようなことになれば、たちまち一家全滅は間逃れない。
この森は父親にとって、最後の生命線に成り果てていた。
「ふう……そろそろ昼時だな。ヘンゼルが弁当を持ってやってくる頃だ」
額の汗を袖口でぬぐい、父親は太陽の位置を確認した。
枝葉の隙間からは灰色がかった曇り空が見え、わた飴みたいな入道雲が浮かんでいる。
父親は倒木のふちに斧を据え置き、その隣に腰を下ろした。そして、一息ついた途端――
「兄妹の父親だな」
森の奥から唐突に声が聞こえた。
「誰だ!?」
父親は倒木から立ち上がり、森の中を見渡した。
近くに潜んでいたのか、気配に気がつかなかったのか。白いローブを身に纏った二人組が、
木々の間から姿を現す。集団を率いるドライという男と、ツェーンという女だ。
「お前達は……羊飼い。村に来たという噂は聞いていたが……くっ、俺に何の用だ」
父親は羊飼いの目的を知っていた。そのためか、鋭い視線を彼らに投げかける。
「ほう……我々のことは周知ということか。なら話は早い。率直に言おう……兄妹を売る気はないか?
子ども達を売れば、一家が充分に食べていけるだけの金は保証する。どうだ? 悪い話ではなかろう」
「断る。そんなバカバカしい話があってたまるか」
男からの要求に父親は即答した。安定した生活のために子ども達を売れだと? 悪魔の所業だ。
羊飼いの狙いは家庭の弱みにつけ込んで、大枚と引き換えに子どもらを奪うこと。
彼らの理念のために、子ども達を渡してたまるのものか。
「悪いが帰ってもらおう。俺はヘンゼルを……ましてやグレーテルを売る気など毛頭ない」
「ククク……選択を誤るな」
「どういう意味だ?」
「子ども達に未来があるのかってことさ」
父親は反論しなかった。羊飼いがどこで自分達の情報を買ったのかは知らないが、ここ数年、
一家の生活が貧困に直面しているのは事実だった。
家庭の事情とはいえ、ヘンゼルには学校を辞めさせてしまったし、グレーテルにいたっては、
学校にすら通わせてやれてない。そのため彼女は、今現在でも文字の読み書きができず、
ヘンゼルに教わる毎日を送っている。
このまま父親の収入が減り続けて、明日のパンにこと欠くような事態になれば、
おそらく兄妹に待っている未来は、悲惨なものになるだろう。
「お前達に売れば、子どもらに未来がある……そう言いたいのか?」
「ふん。それを決めるのは子ども達自身だ。だが……少なくとも道を与えてやることはできる」
「道……だと」
男は深々と被ったフードの下で、口の端を吊り上げた。
「我々が唱える〝童話創生論〟の『被験体』としての道をな」
「なっ……お前達の目的はいったい何なんだ!?」
「貴様には関係のないことだ。さて、もう一度だけ聞こう。兄妹を売る気はないか?」
「断る! 子ども達を実験の道具にするような奴に、なおさら渡すつもりはない!!」
強い意思を持って父親が断言する。被験体だと? 子ども達を何だと思っているんだ。
「悪いが帰ってもらおう」
「なるほど……それが貴様の答えだな。まあいい……今日のところはこれで引き下がるとしよう。
だが、覚えておけ。我々は一度狙った獲物は、けして逃さないということをな」
羊飼いは去り際にそう言い残し、二人して森の奥へと消えていった。
「俺は……絶対に……絶対に子ども達を売らん!」
父親は汗で湿った手のひらを、力強く握り締めた。
☆
「父さん……伐倒術っていうのは、僕にも……できるものなの?」
束の間の昼食後。ヘンゼルは、昨夜――胸に宿していた思いを父親に打ち明けた。
父親は目を丸くして、驚いた様子でヘンゼルに聞き返す。
「木こりの仕事に興味があるのかい?」
「うん……僕、父さんみたいに……強くなりたいんだ」
伐倒術を取得できれば強くなれる。というのは極論だと分かってはいるが、
ヘンゼルにとって父親は、いつだって強さの象徴だった。
毎日の仕事で鍛え抜かれた屈強な身体。雨の日でも風の強い日でも、森に向かっていく勇ましい後ろ姿。
家族のことを一番に考え、自己の犠牲すら厭わない直向さ。父への憧れは、まさに強さへの近道だった。
「ふむ……ヘンゼルは『強さ』を手に入れて、どうしたいんだ?」
ヘンゼルはうつむき加減で口ごもるも、すぐに顔を上げて答えた。
「僕……グレーテルを守りたい! 強くなって、あの人達から妹を守りたい!!」
「ヘンゼル……お前、羊飼いのことを……」
「うん。父さんは何も言ってくれなかったけど、村のおじさん達が話してるのを聞いたんだ」
羊飼いの狙いが子ども達であることを、父親は兄妹に悟られないよう配慮したつもりだったが、
いかんせん村の中は、すでに『彼ら』の話題で浸透しきっていた。
「ヘンゼル、分かっているのか? 羊飼いの狙いはお前自身でもあるんだぞ」
「それで……グレーテルが助かるなら……」
「バカなことを考えるのはやめなさい。いいかいヘンゼル? 父さんがちゃんとお前達を守ってやる。
だから、自分から身を売り出すようなことは、何があっても絶対にしちゃいかん」
父親が強い言葉でヘンゼルを叱責する。いくら妹を守るためとはいえ、ヘンゼル自身が標的になって
しまっては元も子もない。強くなりたいという彼の意思は伝わったが、強さの方向性を間違えている。
「ヘンゼル。お前の『強さ』についての思いは伝わった。兄として妹を守りたい。さすが俺の息子だ。
でもね……本当に『強い』っていうのは、母さんを……グレーテルを悲しませるようなことはしない」
ヘンゼルは膝の上で拳を握り締め、父親の助言に深くうなだれた。
強くなることに囚われすぎて、グレーテルの気持ちをまったく考えていなかったのだ。
ずっと側にいる。そう約束したのに――
「ごめんなさい父さん……僕、強くなればグレーテルに悲しい思いをさせずに済むってずっと思ってた」
子どもの浅ましい考えとはよく言うが、まさにその通りだとヘンゼルは理解した。
「そう悲観することじゃない。強さの根源には誰かを守りたいという気持ちは必要だ。ただ、強さの
方向性を誤ってはならない。それを分かってほしかったんだ。父さんのほうこそすまなかった……
少々、きつく言い過ぎてしまったね」
「ううん。父さんは間違っていないよ」
すっきりした表情で、ヘンゼルが倒木から立ち上がり、
「それじゃあ僕、先に帰ってるね。グレーテルに勉強の続き、教えなくちゃ」
ランチバスケットを片手に帰宅の準備をする。
「……ヘンゼル」
「ん?」
「伐倒術、教えてほしいんだろ」
父親が真直ぐにヘンゼルを見据え、彼の表情を覗き込む。
「木こりの技術を教えてあげてもいい。そう言ってるんだ」
「父さん……ありがとう! 約束だよ!!」
ヘンゼルは嬉しさのあまり、父親に飛びついた。
「ああ、約束だ」