Ⅰ 『兄妹の日常』
ドイツ南西部に位置する小さな村。そこに『兄妹』は住んでいた。
兄妹は兄をヘンゼル、妹をグレーテルと言った。
トン、トン、トンと、心地よい物音が聞こえてくる。
音の発生源が何なのか、ヘンゼルは知っていた。
依然として視界は闇の中にあるものの、窓枠を小突く小鳥のさえずりや、
包丁が打ち鳴らすその音で、彼は朝が来たことを認識できた。
いつもと同じ、何も変わらない一日の始まり。
毎朝の雑音は、いつしか目覚まし時計の役割を担っていた。
「う~ん……わかってる……わかってるよ小鳥さん」
ヘンゼルは目蓋に射し込む陽光を、疎ましそうに手で蔽い遮断する。
脳の覚醒には強光を浴びるのが良いとされているが、室内はすでに3000ルクスほどの照度はあり、
否応なくセロトニンの分泌が起床を促していた。
「う、ん……グレーテル……」
隣で寝ている妹を起こすべく、ヘンゼルは〝彼女?〟へと手を伸ばした。
寝起きを共にする妹は、二つ年下の女の子。
ふわふわと雪のように真っ白い肌で……もこもことわた飴のような柔軟な手ざわりをしている。
物静かに眠るその姿は、まるでヌイグルミのよう――ん? ヌイグルミ?
「わっ! わ、ムーちゃん!?」
ヘンゼルは驚きのあまり、飛び跳ねるようにベッドから転落した。
「いててて……そっかあ、もうグレーテルは起きてるのか……」
床でぶつけた箇所をさすりながら、シーツを掴んで立ち上がる。
ベッドの上には本来なら妹が寝ているスペースに、白いヌイグルミが大の字で横たわっていた。
高品質な人形ブランドにも劣らない、生糸のような光沢を持つ、立派な羊のヌイグルミだ。
背面には肩紐の着脱が出来るよう施されており、リュックサックとしての用途も備えている。
愛玩物としても服飾雑貨としても活躍する、妹の大切な所有品だ。
「おはよう、ムーちゃん。びっくりしたよ」
返答のない人形に話しかけるのは、些か奇妙な光景に思えるだろうが、
妹の大事にしているヌイグルミは、ヘンゼルにとっても大切な家族の一員だった。
ヘンゼルは膝立ちで窓枠に手を伸ばし、扉をめいっぱい外へと押し開いた。
初夏の乾いた外気が部屋へと流れ込み、羽を休めていた小鳥たちが一斉に空へと飛び立っていく。
眼前には、一点の雲もとどめぬ大空がどこまでも続いていた。
小鳥を見送った後、ヘンゼルは馴れた手つきで衣服を整えた。
麻製の白いワイシャツに、肩紐付きのハーフパンツを着用。
ハーフパンツは茶色の鹿革製で、すそに緑色の刺繍が入っている。
特徴的なのは、前開き部分が本股仕立てではなく、手前に開くタブ状になっていることだろうか。
肩紐は前胸部分がH型になっており、背中では×の形になっている。
足元は二本の緑線が入った灰色のソックスと、ハーフブーツの組み合わせ。
ドイツ南部バイエルン州から、オーストリアのチロル地方にかけて着用されている民族衣装。
『レーダーホーゼン』と呼ばれる装いだ。
ヘンゼルは衣服を仕立てると、自室を後に隣室へと向かった――
☆
「おはよう! 母さん、グレーテル」
自室を出たヘンゼルは、炊事場で給仕していた母親と妹に声をかける。
炊事場では母親が朝食のパンを焼いており、小柄な少女がその手伝いに従事していた。
グレーテルと呼ばれた少女は声のほうを振り返ると、陽気な表情で踏み台からピョンと降り、
トコトコと兄の元に駆け寄ってくる。
丸襟の白のブラウスに紺のジャンパースカート。ウエストから下に白のエプロンを装飾した、
この地域では『ディアンドル』と呼ばれる出で立ちの、おっとりとした女の子だ。
「おはようございます……お兄さま」
少女は灰色の瞳で兄を見上げ、スカートのすそをつまんで会釈する。
可愛らしく白の三角巾でまとめた髪は、腰まで届く猫毛まじりのワインレッド。
襟元で結んだ紐タイも近似色のエンジ色だ。
紫外線の浸透がない白く透明感のある肌は、頬にほんのりと桃色を浮かべ、
濃厚なバニラアイスを溶かしたように、滑らかでしっとりとしている。
庇護欲を掻き立てる幼い顔立ちの少女だが、大人になれば物言う花になること間違いない。
もちろん、兄妹補正を抜きにしても、美人になるだろうと村でもよく言われていた。
「ん? その手……またケガをしたのかい?」
ヘンゼルがグレーテルの指に巻かれていた絆創膏を指摘する。
彼女の小さな人差し指には、真新しい絆創膏が巻かれていた。
「えと……その……」
グレーテルはばつの悪そうな面持ちで、しばらく兄の双眸を眺めると、
腰紐の大きなリボンをはためかせ、逃げるように炊事場へと戻っていった。
ヘンゼルは妹のそんな姿に苦笑しながらも、相変わらずケガの多いことに懸念を抱いていた。
「おはよう、ヘンゼル。水場に行くなら、お父さんにもうすぐ朝食ができるって、
伝えてくれないかしら。裏庭にいるはずだから」
グレーテルと入れ違いに、パンの焼き具合を確認していた母親が顔を覗かせる。
赤毛の長髪をヘアバンドで固定し、袖口を腕まで捲り上げた活発そうな女性だ。
怒らせると父親よりも怖い。
「うん、わかったよ。まかせて」
と、ヘンゼルは母親の足元に目を向ける。
そこには母親のスカートを握りしめ、隠れるように兄の様子を窺う妹の姿があった。
どうやら先ほど無言で逃げたのを悪びれている様子だ。
「グレーテル……怒ってないから出ておいで。グレーテルがケガをするのは、決まって
何かを頑張っている時だって僕は知ってるよ。でもね……やっぱりお兄ちゃんとして
は心配なんだ」
ヘンゼルと視線が交差したグレーテルは、母親の後ろから姿を現して、
「……ごめんなさい」
弱々しい口調で陳謝した。
ヘンゼルが妹のケガに敏感なのには理由がある。
子どもならケガの一つや二つ、あたり前にするものだが、
グレーテルの場合、昔からケガの耐えない性分で、その比ではなかったからだ。
兄として心配しないはずがない。
ヘンゼルはグレーテルの頭を優しく撫でてやる。
「グレーテル、いつも母さんのお手伝いをしてくれて助かってるよ。ありがとね」
先ほどまでうつむき加減だったグレーテルの顔がパァっと明るくなる。
そして嬉しそうに炊事場へと戻っていった。ヘンゼルはその様子を見て、玄関へと足を運んだ。
扉を開けると、鋭い日差しが直さま目に飛び込んできて、思わず顔を背けてしまう。
初夏とはいえ、陽射しの強さはすでに真夏に差しかかっていた。
裏庭では父親が伐採用の斧に手入れを施し、仕事へ向かうための準備を行っていた。
仕事柄、よく日焼けした恰幅の良い男性だ。
「おはよう、父さん」
「ああ、おはようヘンゼル」
「母さんから、もうすぐ朝食ができるって言われたよ」
「ん、そうか。わざわざすまんな」
父親は手に持っていた斧を壁に立てかけて、いそいそと玄関へ戻っていった。
水場は家の裏庭――ちょうど炊事場の裏方に設置されていて、
手でハンドルを押し下げる、『手押しポンプ』と呼ばれる装置で水を汲み上げている。
ヘンゼルはポンプのハンドルをしっかりと握りしめ、何べんも上下に動かした。
ハンドルに連結されたパケットが、シリンダー内部を真空状態にし、
気圧によって吸い上げられた水が吐出口から吐き出される。
一回の往復運動で吸込揚程は7~8メートルといったところ。
桶いっぱいに水が溜まるまで、何往復もの上下運動を必要とした。
ようやく桶の中に水が満たされると、ヘンゼルは両手で水をすくい顔を洗った。
「つー! 冷たい!!」
井戸水は地層深くにあるため水は冷たく、乾燥した素肌にはとても気持ちが良い。
ヘンゼルは頭部をブンブンと左右に振って、顔に残った水滴を辺りに撒き散らした。
くせ毛のない栗色の髪がフワッと舞い踊り、やがてゆっくりと戻っていく。
洗顔を終え水場から戻ると、卓上にはいくつかの食器が用意されていた。
朝食にはまだ少し早かったが、部屋の中はライ麦を焼いた甘く香ばしい匂いで充満している。
ヘンゼルは先に食卓に着いていた父親の隣へ腰を下ろした。
一家の食卓は材木を加工して作った父親のお手製で、
その周りには、丸太型の椅子が向かい合うように二つずつ、合わせて四つ並べられている。
しばらくして炊事場から鍋を持った母親と、その後ろをおぼつかない足取りで、
パンの入ったバスケットを持ってグレーテルが現れる。
バスケットが重たいのか、慎重にパンを運ぶ様子が可愛らしい。
母親は鍋を卓上の中央に置くと、各自のお皿にスープをよそった。
鍋からは白い湯気が立ち昇り、中からオレンジや緑やらの野菜がその姿をお披露目する。
トマトベースに、ニンジン……ジャガイモ……タマネギ。それとレンズ豆だろうか。
一般的な家庭料理の一つで、『農夫のスープ』と呼ばれている。
母親がスープをよそっている間、グレーテルはパンを一切れずつ両手に持ち、
卓上をぐるりと一周する形で、各自のお皿にパンを載せて回る。
全員のお皿に食事が行き届いたところで、母親とグレーテルが椅子に腰を下ろして、
「さあ、いただこうか」
父親の言葉と共に胸の前で祈るように手を合わせた。
食事への感謝を表した後、ヘンゼルは野菜スープに手を伸ばした。
いつもより大きめに切られた緑黄色野菜が、トマトスープと絡み合うように溶け込んでいる。
「このスープの野菜、グレーテルが切ったのよ」
母親が食事の手を緩め、グレーテルのほうに顔を向ける。
「ほう……上手に切れているじゃないか。ケガはしなかったかい?」
それを聞いた父親は、どこか嬉しそうにグレーテルに尋ねた。
彼女は食べていたライ麦パンを握ったまま父親を見上げ、少し考えて……コクリと頷いた。
「グレーテルは料理を作るのが本当に上手なんだね」
父親に倣ってヘンゼルがそう言うと、グレーテルは照れた様子で笑みを浮かべた。
妹は口数が少ない分、こうして表情で様子を表すことが多い。
そのため彼女の面差しに嘘偽りはなく、皆そんな姿が愛らしいと思っていた。
「グレーテルもお台所が上手になってきたわね。これならお嫁に行っても安心ね」
母親の言葉を聞いて父親は、飲んでいたスープから口を離し、ゲホッゲホッと咳き込んだ。
「母さん……その話はまだ早いんじゃないかい」
「そうかしら。お洗濯も、お掃除も、お裁縫だって上手なのよ」
動揺している父親を見て、母親はいじわるそうな顔になる。
「ぼ、僕もグレーテルには早すぎると思うよ……だって、まだ十歳だよ」
ヘンゼルも動揺していた。
「あらあら、ヘンゼルまで」
母親の微笑みに、彼は困惑の形相でうつむいた。
当のグレーテルはよく分からないといった表情で、もくもくとパンを頬張っている。
朝食は妹の話題でもちきりだった。
☆
「…………ノイン……ツェーン……エルフ……ツヴェルフ……」
「うん、正解だよグレーテル。発音もスペリングもばっちりだ」
朝食後。兄妹は肩を並べて席に着き、グレーテルはコツコツと鉛筆を動かしていた。
卓上の用紙には、つたない筆跡でアルファベットが書かれている。
「いいかいグレーテル? 今やった1~12までの数字は、ドイツ語で数を表す場合に基本となる
表現なんだよ。逆にこれさえ覚えてしまえば、後はすっごく簡単なんだ」
妹が理解しやすいよう、ヘンゼルは言葉を選んでゆっくりと説明を加えた。
「例えば、数字の『13』はドイツ語で『3と10』。『18』なら『8と10』というような
表現をするんだけど、20や30のように桁が大きくなっても、これらの法則は変わらないんだよ。
新たに数字の表現を覚えることは、ほとんどないんだ」
ヘンゼルが用紙の余白に数字を書き込んでいく。
「実際にやってみたほうが分かるかな……数字の『13』を表現してみるよ。
グレーテル、数字の『3』は何だったかな?」
「……えと……ドライ」
「そうだね。それじゃあもう一つ『10』はどうかな?」
「10は……ツェーン」
「いい調子だよ、グレーテル。あとはその二つの数を『3と10』となるように表現すると?」
グレーテルが真剣な顔つきで、卓上の用紙に鉛筆を走らせる。
そして、自信のない体でヘンゼルを見上げた。
「…………ドライツェーン?」
「凄いよ! グレーテル。よくできたね、大正解だよ」
ヘンゼルは妹の頭を撫でてやり、彼女の正解を心から喜んだ。
「ね、ドイツ語の数はそんなに難しくないんだ。基本となる数字さえしっかりと覚えていれば、
どんなに大きな数字でも表現することができるんだよ」
次は――と、ヘンゼルが言いかけて、
「ヘンゼル。お弁当ができたから、お父さんに届けてちょうだい」
父親のお昼を作っていた母親が、炊事場からランチバスケットを持って現れる。
「あら、今日は数字のお勉強? いいわね~お母さんも教えてもらおうかしら」
卓上にバスケットを置きながら、母親がグレーテルの手元を覗き込む。
妹は先ほどヘンゼルに習った内容を、繰り返し用紙に書き写していた。
「この中にお父さんとヘンゼルのお弁当。あと、水筒に冷たいお水も入れてあるから、
かならず水分補給をすること。いい? お父さんにもきちんと伝えるのよ」
「うん。ちゃんと伝えとくよ」
「それから……枝木を拾ってきてほしいの。今晩のお湯を沸かす分が少しばかり足りないわ。
できればいつもより多めだと助かるわね」
ヘンゼルに用件を伝えると、母親はきびすを返して炊事場へと戻って行った。
「グレーテル、今日の勉強はここまでだね。父さんにお弁当を届けなくちゃ」
ヘンゼルは椅子から腰を上げ、ランチバスケットを片手に家を後にした。