月黄泉夢幻の夜 ~贄の庭園と彷徨う鳥~
ダンジョン横の集落は、人でごった返していた。
途中で引き返してくる冒険者が多く、どうにかたどり着いた宿も四人で二人部屋という詰め込み状態。もっとも、仮眠を取ったり荷物を置くための場所として使う予定で、あまりの人の多さに空き部屋はすでにない、ということを考えると部屋が取れただけマシだろう。
「うー、足ぱんぱんー」
ブーツも靴下も脱いでベッドに腰掛けるニノンは、ついでに頭につけている髪飾りなどもはずしてしまう。ここにアポフィラと彼女しかいないゆえのくつろぎっぷりだ。ヒイラギとセツナは仮設のギルド支部に向かい、そこで情報をやり取りしている。ついでに軽食の類も買ってきてくれるとのこと。外は人だらけなので、不用意にうろつかない方がいいらしい。
「アコ、大丈夫?」
「……何とか」
いつものように名前を訂正する気力も、アポフィラにはなかった。
あれから四人はダンジョンから脱出したのだが、その途中で魔物に襲われてひどい目にあったのだ。ある広間に入ったところ、四方から魔物が流れ込んできたのである。それほど強くない魔物だったとはいえ、数が数だったのでアポフィラの疲労は激しい。魔術は効果が及ぶ範囲を広げるほど演算する量が増えて、結果的に術者に跳ね返る負担が増えてしまうのだ。
数時間は、彼女はまともに魔術を使えないだろう。
「ま、とりあえずはお茶よ、お茶」
部屋履きをベッド下から引っ張り出し、隅に固めてある荷物のところに移動するニノン。
彼女はそこから自分のかばんを引っ張り出すと、中からティーセットを取り出した。旅用に作られた金属製で、小さめのカップが六つほど付属している。
次に取り出したのは少し集めのコースター、といった感じの円盤。半透明の材質で作られているこれは、魔石と魔術を使った焚き火のようなものだ。魔術を使うと上に乗せたものが暖められ、たとえば水を入れた鍋やポットであればお湯ができるという便利な道具だ。
水差しの中身をポットに注ぎ、円盤に乗せて暖める。
しばらくすると沸騰してくるので、袋に入れた茶葉を中へ。
ニノンのお茶は少し調合されたもので、どちらかというとハーブティに近い。何でも薬草なども組み合わせているらしく、普通に飲む用、疲れを取る用、痛み止め用、などなど、何種類かを水に強い紙の袋に詰めて持ち歩いているらしい。今回は普通のお茶のようだ。
「砂糖は?」
「……いらないです」
わかった、と答えつつ、ニノンはカップの一つにそのままお茶を注いだ。ティーセットを持ち歩くのだから、当然砂糖もある。彼女は円柱のような形をした金属性の入れ物から、中に入っている角砂糖を二つ取り出してカップに入れた。そこにお茶を注いでいく。
「はい」
「どもです」
差し出されたお茶を、何度かふぅふぅと息を吹きかけつつ飲む。
普通に飲む用のお茶は気分で何種類か作っているようで、今日はこの前飲んだものとは違う種類だった。アポフィラはあまりお茶に詳しくないが、基本になっている茶葉からして別のものなのだろうと思う。いろいろあって疲労を溜め込んだ心に、じわりと染みるようだ。
と、そこに扉がノックされる音がする。
はーい、とニノンが声をかけると、荷物を抱えたセツナが入ってきた。とたん、香ばしくスパイシーな香りが部屋の中に満ちていく。どうやらあの荷物、買うと言っていた軽食らしい。
「ただいま」
「おかえりなさーい。あれ、ヒイラギさんは?」
「ちょっと馴染みのヤツとすれ違って、話してたよ。オレ達より後にダンジョンに入って、どうやら例の『歌姫』とも遭遇したらしい。二人ぐらい連れて行かれた、とか……」
「そう、ですか」
大変ですね、とニノンはセツナの分のお茶を注ぐ。
アポフィラは彼が持ち帰った軽食に手を伸ばし、中身を取り出していた。それは油でカリカリに焼き上げた分厚めの肉をパンに挟み、香辛料を利かせたソースをかけたもの。一つでも充分なボリュームがあり、アポフィラやニノンには少し多すぎるぐらいだ。
ぱくり、とそれにかぶりつき、飲み込んで。
「……他にも、追加被害出てるですか」
アポフィラは椅子に座ったセツナに、問いかけた。
彼は困ったような、苦しいような、疲れたような表情で小さくうなづく。
「らしい。けどまだ情報が集まってない感じだ。他にも『頭蓋骨を抱えた青い女』を見た冒険者は多いから、たぶんオレ達が遭遇したあれが今回の犯人なんだろうな」
「やっぱ、あれはアポフィラの言うとおり《歌姫ラクヒ》なのかしらね……でも、青い翼なんてわりとあるって聞くけど、そこら辺はどうなの? ていうか、青に金色を合わせるのって割とベタなチョイスだと思うんだけど。ほら、桃色に茶色をあわせる感じでさー」
「確かに、オレもそこは気になるかな……まぁ、あれが歌姫ってことは認めるけど」
「青い翼のセイレスの民で、金色の羽飾り。高貴な衣服。まぁ、それだけなら該当する歌姫は腐るほどいるですよ。しかし、彼女が抱いていたあの頭蓋骨は彼女だけの特徴です」
それに、とアポフィラは続けて。
「彼女の『形』をした魔物がいるという話は、割と古くから伝わっているです。正しくは彼女が悲劇の末に魔物になり果てて、世界や恋人を殺したすべてを呪っているという話ですが」
「そうなの……?」
「彼女の恋人であった騎士を処刑させたのは、彼女の父と、彼女と結婚するはずだった当時の王であったと言われているです。つまりラクヒからすると実父と婚約者が、最愛の恋人を奪っていった、と。ゆえに彼女はずっと彼らを恨み、ついには魔に堕ちたという話です」
その証拠というわけではないが、ラクヒが失踪してすぐに彼女の父は呪われたとしか思えないような悲劇に立て続けに見舞われた。フェルディーネという一族の中で有していた権力は地に落ちて、彼は失意のどん底で病に倒れた後に十数年痛みと苦しみに悶えてから死んだ。
男が失脚した最大の要因は、彼のもう一人の娘――ラクヒの双子の妹メモリアが、王を殺してしまったことにある。姉の代わりに王に嫁いだ彼女は、姉と騎士の不幸は父と王にあると思っていたらしい。王が没した後、彼女はいずこかに姿を消した。残された王の亡骸には頭部がなく、おそらく敵をとったことを姉に報告するために持って行ったのではと言われている。
――最後の王妃メモリアによる、王カイルの惨殺事件。
歴史の書物には必ずといっていいほど乗る、世界的にも有名な話である。
「これが旧王家没落、いえ滅亡への第一歩となったというです。何せ……直系の、唯一の男児がいなくなってしまったわけですからな。無理やり他所に嫁いでいた元王女を離縁させて連れ戻して、適当な男と結婚させて子供を産ませて。そうして延命できたのは百年足らずです」
次第に身内同士で権力を巡って争い、最後に残ったのはツェルクァーナリアという名の王女だった。だが直系の王女など必要ないと分家は言い出し、彼女はどこかに幽閉されたとも殺害されたとも言われているが、かの歌姫姉妹同様にその詳細はいまだ明らかになっていない。
「ラクヒ……つまりは『落日』というわけか。意味深だな」
「らくじつ?」
「東方の言葉で……えっと、まぁ、没落するとか衰退するとか、そういう意味合い」
「へぇ……」
「落日って、少し読みを変えるとラクヒとも読めるんだ。まぁ、そういう意味でつけたわけではないだろうけれど、こうなるとまるで未来を予見していたみたいでちょっと不気味だな」
呟き、軽食をかじるセツナ。彼やヒイラギと縁の深い東方諸国では、名前は力を持つものという考え方があるらしい。地方によっては本当の名前というものを別につけて、それを知っているのは親や名付け親だけという感じの風習などもあるという。
確かに、そういう方向で考えれば、ラクヒと読めなくもない落日という言葉の、その意味というものは意味深で不気味だ。ただの気のせいだが、何かの因果を感じずにはいられない。
「まぁ、あれが本当にラクヒかどうかは、この際どうでもいいのです」
問題は彼女の歌声だ。
チャーム、魅了の力を持つあの歌声は、対策をしなければ同士討ちもありうる。もしアポフィラが騒音を発する魔術を使っていなければ、ヒイラギやセツナの刃は仲間に向かっていたかもしれない。そしてアポフィラの魔術は、彼らを焼き払っていたかもしれないのだ。
考えると実に恐ろしい。
「確かに、あれが誰でもいい問題よね……肝心なのは歌なわけだし」
はぁ、とニノンがため息をこぼす。もっとも確実な対抗策――同じセイレスの民、それも歌姫に相手の歌を妨害するか対抗しうる歌をぶつけてもらうこと。しかしここにセイレスの民はいなかった。ぐるりと集落を見て回ったセツナも、改めていなかったと証言する。
つまり歌に、歌以外で対抗しなければならないわけだが。
「……ふむ」
アポフィラは、一つだけ、可能性があるものを思い出していた。
腐っても魔学校であれこ学んできた魔術師だ。特別に特化した分野はないが、それゆえに幅広い知識を有する。そして師事した相手が物好きな魔術師で、そんなものをどのタイミングで使うのか、といいたくなるような魔術をいろいろと考案する変人として有名な人物だった。
不要だと思いつつも教わった知識に、今回のことに使えそうなものがある。
そのままでは役に立たないが、応用系の術式として改良を施せば。演算処理の速度が心配ではあるのだが、その魔術だけにすべてを費やせば何とか早さは確保できるはず。
「少し休んだら、またダンジョンいくですよ。ちょっと試したいこともできたですしな」
「アコ?」
「絶対にあの歌姫を『オンチ』にしてやるですよ、えぇ、絶対」
にやりと笑って、白い魔術師は言った。
■ □ ■
ダンジョンの奥に、広間はなかった。
そこには東方諸国の伝統に基づいた美しい庭園が広がり、空には大きな満月が昇る。世界は青白い光に照らされて浮かび上がり、その月明かりの中に美しい歌姫は一人佇んでいた。
《――》
静かに歌う彼女の周囲には、十字に組み合わされた木材が地面に突き立てられ、そこには貼り付けにされた躯がある。それは白骨化したものから、乾いて半分朽ちたものまで、様々な時期にそうされた多種多様だった。種族も入り乱れ、無作為で無差別といった状況である。
地面には何十人もの人が倒れていて、弱いものの呼吸する動きがあった。
だがその一方で、数人の屈強な男数人が、ある作業に従事している。
そこら辺に転がっている木材を使い十字架をこしらえ、それにぐったりしている人々を貼り付けにする作業だ。黙々と続けられる作業により、一人また一人と十字架が増えていく。
朽ち果てた十字架、散らばった白骨。
それらに見向きもせず、青い少女――《歌姫ラクヒ》は歌い続ける。
その腕に、かつて愛した騎士の頭蓋を抱きながら。
「まるで生贄ですな」
ぼそり、と呟く人影。
白い髪の少女――アポフィラだ。
そう、これらは彼女が言う通りまるで供物。
歌姫のために捧げられたかのようだ。
「捧げられているのは、どうやらどれもこれも男ばかり……ふむ」
彼女は散らばった躯や骨、そして貼り付けられたものを見て唸る。意識してか、それとも無意識なのか、年の上下を問わず女はみんなそこら辺に打ち捨てられて、貼り付けにされているのは若い男ばかり。年齢は大体二十代半ば、ヒイラギやセツナより少し上ぐらいだろうか。
そしてそれより年を食っている男は、十字架を作るなどの雑用係。
おそらく死ぬまで働かされるのだろう。もしあの歌姫に死霊魔術の心得があれば、それこそここは躯がうろうろする魔の庭だったに違いない。そんな中でも、この歌姫はひたすら歌い続けるのだろう。ふわりと宙に浮かんで、頭蓋を抱き締め、美しい歌を奏で続けるのだろう。
さしずめ十字架に貼り付けにされた男達は、その歌を聴く観客か。
あるいは――生贄。
件の騎士は歌姫より五つほど年上で、歌姫は十代後半。ちょうど貼り付けにされている男達と同じ年代だ。その年代のものばかりを集めているということは、やはりそこら辺に何か理由があるのかもしれない。本人が自覚しているか、そもそもそういう行為を自覚するに足る精神をまだ有しているのかはわからないが。何にせよアポフィラからすると、これは生贄だ。
愛しいものを取り戻すため、その変わりを捧げる儀式。
「無意味だと、わからないのですな」
失われたものは、彼女の腕の中に残滓を残すのみ。
どれだけ祈ろうとも、歌姫の願いが叶うことなどきっとなかった。あるとすれば、それは彼女がヒトとしての一生を終えて、あの世などと呼ばれる死後の世界に旅立ってからだろう。
死んでしまえば身分や立場などという、くだらないしがらみはない。
二人が幸せになれるのは、きっと、その世界だけだった。
今の彼女を殺したところで、ヒトと同じ場所に旅立てるかはわからないが。
「そんなに逢いたければ、送ってやるですよ」
告げて、アポフィラは杖を構える。さっそく魔術の構築を始めた。これから戦いが終わるまで絶えず魔術を使い続けなければならず、それによる身体への負担はかなりのものだ。
だがそれしか道がないのだから、やるしかない。
こんなところで、死にたくもないのだ。
「できるだけ早くしとめるですよ。そう長くは続けられないですからな」
「わかった」
背後から答えるのはヒイラギだ。
そしてセツナ、ニノンと続く。
作戦としては実に単純なものだ。いつものようにヒイラギとセツナが前線に立ち、その後ろにニノンが控えるという形。状況が多少特殊であるのだが、概ねいつも通りの形である。
自分の杖を歌姫に向け、アポフィラが目を閉じる。
それが合図だった。
真っ先に動いたのはヒイラギだ。
それに反応するように、作業に従事していた男が動く。その手には鉈のようなものが握られていて、ゆっくりと立ち上がったその身体が大きな影を地面に落とした。
「ヒトでは――ない?」
うずくまっていてよく見えなかったその身体は、立ち上がるとヒイラギを遥かに上回るほどの長身だった。平均よりは高いといわれるヒイラギより、頭が三つか四つ分以上大きい。さらに鍛え抜かれたといった隆々とした身体つき、とても普通のヒトでは不可能だろう。
だとすると、と考える間もなく、男は鉈を振るう。
大振りだか遅くない一撃は、食らうと間違いなく腕や足を一本持っていかれる。ここにいるのが立った二人、という数の少なさが幸いだった。もしこれでまだ数体いたならば、こちらに勝ち目はなかっただろう。とてもではないが、ニノンでは相手など無理だ。ましてやアポフィラを守りながらの戦いになる。パーティで一番の火力を放つ彼女が完全に補助の方へ回ってしまっている現状、できる限り早く敵を静めなければならなかった。
だが、相手がヒトではないとすると、少し厄介なことになる。
中年男性であれば、足の筋を切って動けなくすることで無力化しようと思ったが、あの筋肉が盛り上がった身体を突き破り筋へ刃先を到達させる、というのはきわめて難しい行為だ。
「……だけど、人間じゃないなら楽じゃないかな」
「そうだな」
背中合わせにそれぞれの相手を向かいあい、セツナとヒイラギが笑う。
そう、何も状況は悪いことばかりではなかった。相手がヒトではない――むしろ魔物であることが明らかとなったなら、相手を殺さないようにするなどと考える必要性はすべて消し飛んだわけだ。動きを止められないならば、動けなくすればいい。そう、永遠に。
言葉を交わさず、二人は同時にあいて向かっていく。
金属がぶつかり合う音が、ひたすら夜空に響き渡った。
一方、アポフィラはひたすら魔術の構築にのみ、意識を向けていた。
彼女が行っているのは妨害用の魔術、それも歌声にだけ作用するものだ。元は魔術を妨害するのに使われる術式の一つだが、演算が難しくそれなりの純度がある魔石でなければ暴走して爆発しかねない、どちらかというと高位魔術に属する魔術である。
現在魔物と戦っている二人は気づいていないだろうが、杖を手にアポフィラの傍に控えたニノンは気づいていた。先ほどから、絶えず聞こえている《歌姫ラクヒ》の歌声。
それが本当の意味での、ただの歌になっていることに。
あの時、始めて歌姫に遭遇したニノンは、なぜか頭がぼんやりとした。
だから反応が送れ、アポフィラに怒られたのだが。
今はそれが、微塵もない。
それはつまりアポフィラの作戦が、うまくいっている証拠だ。後はあの魔物を倒し、歌姫を黙らせるだけでいい。幸いにも今回の被害者はまだ死んでいないようだから、治療をすれば何人かは自力で移動できるだろう。あとは彼らと一緒に、ここを脱出するだけだ。
そのためにも、何が何でもアポフィラを守らなければならない。
彼女がいなければ歌姫の声は、ここにいるすべてを侵しつくしてしまうのだから。
――さて、どこまでやれるか勝負ですよ、歌姫。
心の中で宣戦布告し、アポフィラは薄く笑みを浮かべて見せた。
彼女の魔術により自由に動けるヒイラギとセツナは、それぞれに一匹ずつ魔物を相手に立ち回っていた。しかし攻撃系魔術の援護がないためなのか、なかなか決定的な一撃を見舞うことができないでいる。ヒイラギはまだ一撃が鋭く重いからよいのだが、身軽さを生かしたナイフ使いであるセツナは苦戦気味だ。元々彼は、前線に立つ戦い方をしないのも足かせになる。
また一撃を見舞っても刃そのもののリーチも短く、深いところまで沈まない。
さらにリーチがないということは、それだけ間合いも狭く。攻撃を与えるにはどうしても相手の懐に飛び込んでいく、という危険を許容しなければならないわけで。
身体を低くし、セツナは魔物の足元に飛び込んだ。
そのまま足の間を抜けつつ、背中を切りつけようという作戦である。
だが、その前に魔物が動いた。真上に振り上げられた武器が、足の間をすり抜けようとした彼を捉える。両者のタイミングが、最悪なほどにかみ合ってしまっていた。
「危ないっ」
そこへ、アポフィラの前にいたニノンが割り込んだ。魔物の足を払うように、自慢の杖を横からたたきつける。魔物が彼女に背を向けていたのも良かった。膝と呼んでいいだろう関節を裏から力任せに曲げた形になり、魔物はバランスを崩して地面に転がった。
そのまま、ニノンは杖を振り上げて。
「この……っ」
降ろす。
魔物の美麗ではないが、人間のそれとよく似た顔面へ。
何度も何度も、周囲に血が飛び散るほどたたきつけることを繰り返し。次第にどこに目鼻があったのかわからないほど、そこはえぐれるようにずたずたに引き裂かれていた。
だが魔物は、それでも動こうとする。
その前に。
「これで仕舞いだ」
セツナが持つナイフの中でも、特に大降りの物が首につきたてられた。えぐるように何度か動かして、そのたびにだばだばと赤いものが地面に溢れていく。じゅるという、みずみずしい音を立てて刃物が抜かれたところを、ニノンが杖を頭部を横から凪ぐように叩きつけた。
耳障りな音と共に、それは遠くへちぎれて飛んでいく。いかに魔物といえども、頭部を失っては何もできはしない。魔物の身体は痙攣するようにわずかに震え、二度と動かなくなった。
二人が無言で、勝利に喜んでいる時。
ヒイラギの勝負もまた、終わりを迎えていた。
魔物の一撃を軽々とよけ、致命傷ではないが深い手傷を与え。ヒイラギは横目で仲間の勝利を見てから、後ろへと跳躍する。呼吸を整え、刀を鞘の中へと収めた。
魔物は地面をわずかに揺らしながら、彼に向かって走ってくる。
ざり、と地面を踏み込んだ。まだ動かない。魔物が迫る。
「ヒイラギさん!」
少女の声。
「ヒイラギ……」
青年の声。
三つ目の声は、幻聴のような響きを持って頭の中に浮かぶ。
――さっさとやるです。
あぁ、そうしよう。自然とその音に答え、ヒイラギは飛ぶように魔物へと向かった。長い距離を一歩で走りぬけて、狙うのは親友らと同じく――魔物の首。相手を確実に黙らせるにはやはりそこを狙うのが一番だ。そこならば、重要な部位に到達する深さが、浅い。
自分に向かって振り下ろされる、魔物の鉈。
それより早く懐へ飛び込み、そのままヒイラギは跳ねた。
鉈の一撃とすれ違う。すれ違って、そのまま背中の方へと飛び降りた。片足を軸にターンするように振り返り、両手で刀を構えなおすがその必要はなかった。魔物はゆっくりと仰向けに倒れて動かなくなる。首筋にはぱっくりと開く、赤い血を垂れ流す大きな傷があった。
首は飛びこそしなかったが、傷口は皮一枚で繋がっているという感じに深い。何度か刀を振って魔物の体液を飛ばしてから、ヒイラギはそれを鞘に戻す。
「さすがにあの大きさだと、疲れるな」
苦笑し、仲間の下へと戻った。
全員の無事を確認して、そして気づく。
戦いの最中でもかすかに聞こえ、意識していた歌声がほとんど聞こえないことに。
「どうやら、歌に飽きてくれたみたいですな」
ふぅ、と疲れた様子で息を吐き出すアポフィラ。彼女は懐から取り出したハンカチで、額の汗をぬぐっていた。その口元には、勝利を味わうようないつもの笑みが浮かんでいる。
彼女の青い目の先にいるのは、月の下に佇む歌姫。
下僕を失った《歌姫ラクヒ》は、かすかに聞こえる声で何かを呟いていた。
《■■■■■■■■■■■■■■■■》
歌うわけではないその声は、どこかかわいらしい響きがある。
俯き、《歌姫ラクヒ》は静かに腕に抱くそれを見つめた。
くるくる、と回し、その顔面だった部分が自分の方を向くようにする。
彼女は小さく、かすれるような声で何かを呟いた。
何度も何度も呟いて、そのたびに声は小さくなっていく。もう歌は聞こえない。聞こえるのは泣いているような声だけだった。俯いた歌姫が、泣くように呟く声だけだ。歌姫はゆっくりと移動を開始する。もうアポフィラ達には見向きもしない。
歌も歌わず、ゆらりゆらりと水面が揺れるように、その姿が遠くなる。
「追いかけなくても、いいのかな」
「問題はないと思うですよ。ボクらの仕事はあくまでも、行方不明者の捜索です」
それに、とアポフィラは続ける。
「おそらくあの塔は魔物が住まう別世界と繋がる門。しかし繋がる先はランダム、といった感じなのです。そしてボクの知識から導かれる確立からして、少なくともこのダンジョンで彼女に出会うことはきっと二度とないです。だから、ほっといてもいいのですよ」
「そういうもの、かな」
「ぶっちゃければ、ボクは完全に燃料切れなのです。もう戦えません。歌姫は呪歌以外にも戦う術がある、というか飛ばれたらどっちにしろ逃げられるですしな、ほっとくに限るですよ」
「アコの言うとおりだ。向こうが去ってくれるならありがたく受け入れよう」
「じゃあ、オレは外に出て応援を呼んでくる」
「あ、じゃああたしは治療ね。二人は意識がある人とか探して」
セツナが走り出し、ニノンも動く。
ヒイラギはニノンを追いかけ、そしてアポフィラは静かに歌姫の背を見た。揺らめくように移動する割には、あっという間に遠ざかっていくその背中。
こちらでは忽然と姿を消した、文献に名が残るのみの歌姫。彼女がいかにして魔物のような存在に成り果てたのか、それを記した書物はない。きっと彼女の実家でもあるフェルディーネ家にすら残っていないだろうし、残っていても表に出てくることは永遠にこないものだ。
これからも彼女は歌い続けるのだろうか、歌を道連れに彷徨い続けるのだろうか。
得られない過去を捜し求めるように、永遠に。




