午後、数学にて
四角い部屋を想像してごらん。いいから、とにかく、僕が言いたいのはそういうことなんだ。
いい?想像した?壁は、そうだな、普通のどこの部屋にでもあるような白い部屋でいい。
そこにね、四人の人間を放り込むんだ。
一人は、さっきまで白い壁に囲まれた四角い部屋で人が殺し合うような恐ろしい話しを見たあとだ。
もう一人は、閉じ込められた白くて四角い部屋で二人のあいだに小さな恋心が芽生えてしまうようなきゅんとくる話しを読んだあとだ。
三人目は、わけもわからず閉じ込められた部屋のなかで、姉弟がお互いの温かさを知ることになる話しを聞いた後だ。
そして最後は、なにもない、四角い部屋に関して何のイメージもない人間だ。
その四人を君の四角い部屋にいれてごらん。
僕が言いたいのは、本当にそういうことなんだ。まさに、このことなんだよ。
みんなが同じ景色、場所を共有しているのに、認識はまるで違う。彼らにとって何が現実か?それは色眼鏡を通した恐怖の部屋か、淡いピンクの香りがするうつくしい小部屋か、それとも橙の温かさがにじみ出る部屋か、それとも、単なる白い壁に囲まれた部屋なのか。
そのあとに彼らはどうなると思う?
ばらばらの認識が一つにまとまっていくだろうか。
でもね、もう少し広い四角い部屋を想像して欲しいんだ。もう少し広くて、もっと人もいて、もっといろんな話が詰まってる。
そうすると、一体何が何だかわからなくなるね?
関口くんはとても疲れているようだった。彼の頭はなにかに固執しぐるぐるとその中を回っているようだった。
「いつもこうなるんだ。油断するとね。いや、しなくてもこうなってしまうんだ。全く、病気じゃないかね。」
難しい本を難しい顔をして長い脚を組んで読む関口くんは、それでも授業は聞かない。もちろんみんな聞いてはいないけれど。
関口くんが僕に突然に話しかけてくるのは、数学の時間が多い。それはなにが原因なのかはわからないけれど、少なくともその習慣は僕にとって次が数学の時間であるということだけで少しわくわくしてしまうものになった。
「うーん。そうだなあ。病気ではないとは思うけれど…。」
「あたりまえだ。」
「え、うん…。」
「それで、どうなった?」
「え?なにが?」
「君の中の四角い部屋の住人たちじゃないか。君は話をちゃんと聞いていたのかい?もしかして君はちゃんと耳を澄ましているようにみせかけて」
「いや、違う、違うよ関口君。大丈夫。そうだなあ、僕の頭の四人は、やっぱり、一つの現実に、今見ている現実にまとまっていったようだけれど。」
「ふむふむ。それで?」
「え、と、それで、お茶飲んでるかな。」
「なるほど。」
「うん」
「そこで先刻の疑問に立ち戻る。」
「え?」
「そのあとに、彼らがまた同じ話を読むなり見るなり聞くなりしたら、どうなると思う?」
「うーん…」
「僕はね、時間が経てば、また彼らは四角い部屋のイメージをその話しを通して見てしまうんじゃないかと思うんだ。」
「うーん、確かに、うーん、どうだろうね。」
「つまりね、そのフィルターを通したときと通していないときがこれからもずっと交互にあらわれてくるんだ。僕らはね。それに対して僕らは、少なくとも意識できる部分である僕らはどうやって向き合えばいいっていうのかって僕は思うんだ。そこに明確な答えは一つもない。」
誰とも最低限のことしか会話しなかった関口くんが僕に最初にとてつもない勢いで話した日から、僕はクラスと関口君を結ぶ架け橋のようになった。みんなはどうして関口君が僕だけに話しかけるのかわからなかったし、そもそも関口君がこんなに話せる人間だったということに誰もが驚いた、というのは少し言い過ぎで、実際は誰もかれもが関口くんに注意を払っていたわけではないけれど、ちょっとした事件にはなった。なにより、僕が一番驚いた。
「だからね、僕は決めたんだ。深く考えるのはよそうって。考えたって意味のないことばかりだ。」
彼はそう言い放って、かんがえるのをやめた。