毒の名前、由来
この名には二つの意味がある。
一つは、『業』
毒女として、一生涯人の醜い部分を背負っていくという証。人が残酷な身勝手を塗り固めて作ったものとしての烙印。
もう一つは、『魔ヲ狩ル者』
毒女としての願掛けが込められている。もしかしたら呪詛に近いものなのかもしれない。その血肉を持って魔を払う者として、自他ともに自覚させる意味合い。
どちらも名としての漢字には向かず、かといってひらがなにするのも締まりがない。だからカタカナにしたのだと、いつだったかキヨに聞いたことがある。
カルマ。
それが己の名だ。
村に降りる日取りが決まった。
初潮が済んで数日経った夕餉の刻、そうキヨが伝えてきた。
もともとあまりなかった食欲が、一気に失せる。持つ箸が止まり、静かに箸置きに戻される。持っていた茶碗も、なんだかやたらと重たく感じてしまって元に戻した。
いずれくる報告だと覚悟はしていた。けれどはっきり決まるとなると、腹の底にたくさんの石を投げ込まれたかのような鈍く重たい衝撃に襲われる。
「いつ、ですか?」
「1ヶ月後の朔日の、翌深夜にござます」
「そう…」
俯く。つい浅くならないように注意して、カルマは呼吸を繰り返した。目を閉じ、よくわからない感情が爆発しないようにと戒める。黙っていてもやってくる現実は、いつでもどこまでもカルマを戸惑わせる。
すっかり黙り込んだカルマを気遣ったのか、気がついたら膳は下げられていてキヨももういなかった。
どうして生きたいって思ってるんだろう。
独りぼっちの空間で、独りぼっちで座ったまま、そんなことを思った。今更ながらのことではあったが、今だからこそ考えねばならないような気がした。
人というものが本来どんな生き方をしているのか分からない。わからないけれど、毒女としての生き方は正直褒められたものではないのだろうな、とカルマは心の奥底で漠然と思っていた。
はっきりと思ってこなかったのは、毒女としてしか生きられないのであれば不要な考えだったから。人と毒女は基こそは同じではあるが、同じ生き物とはいいがたい。だからその生き方も違って当然で、己の生き方と重なることなどない。考えるということ自体、虚しいというもの。
そんな根本がある人生で、これからも前向きに生きていく、と思うことはなかなか難しい。別にいつ死んでもいいと思うほど、カルマは生命力が欠けているたちだった。もっとも、前向きになれというのも酷な話。ずっと流されて生きてきた人生で、あえて自ら命を捨てることはなかったものの、明確な理由もないまま生きてきた。
期待なんかしても虚しいだけの人生だと気がついたのは遠い昔。物心ついてまもなくにそれに気がついてしまったから、諦めるのも早かった。
事実、手を伸ばしてくれる人間は一人もいなかった。幼い頃何度か泣いたこともあったけれど、誰も何も言ってもくれない。泣き声はただ暗闇に吸い込まれ、固く締められた格子が開けられることもなく。誰も何もしてくれなかった。そうして疲れてて泣き止んで眠ってしまって、再び目を覚ましたら何もなかったかのように扱われた。
それ以来泣くこともなくなった。何かを求める気力もなくなった。与えられるものだけで、満足しようと何度も言い聞かせた。やがてその諦めに慣れれば、何かに対する欲求も探究心もなくなった。
なのに今更になって、本当に今更になって、もっと生きてみたいと無駄に思ってしまっている己の感情に戸惑う。しかも思いのほか強い感情らしく、よけいに戸惑ってしまっている。
毒女は人のためにある存在。その幸せを願う存在。幸せを叶えるために生まれた存在。
だけど、毒女自身に幸せはない。幸せを願うこともできない。叶える夢など、もとよりない。そもそも幸せとはなんだろうか、と思ってしまう存在のはずだ。
「変な面してんぞ」
うんうんと頭を捻っていたカルマに飛んできた一言は、正直開口一番にしてはあんまりだった。
そもそもこの洞はまったく光がなく、本来人間ならば何も見えない。物も人も、無論表情など分かるわけもないが、人あらざる者にとっては違う。やって来た彼もまた、人あらざる者。彼は鬼だった。
「いらっしゃい、羅刹」
「おう」
マジで似合わねえ面と、ぶっきらぼうな言葉は相変わらず。どっかりカルマの隣に座るのも相変わらず。
「……で?」
「『で?』って?」
「なんでそんな面してんだ?」
「……どんな顔、してます?」
「すんげえブッサイク」
言葉に詰まるようなセリフだが、なんだか心が温かくなるような気がするのはどうしてだろう。顔の筋肉が緩むのを自覚する。
とりあえず考えていたことは後回しにしよう。せっかく話し相手がいるのだから、暗い顔をしているのはつまらない。
「なんでそこでニヤニヤすんだよ」
「だって、心配してくれているんでしょう?」
「なんでそうなる」
「そう思ったらダメですかね」
ふふふと笑うカルマを羅刹がどんな顔で見ていたかは知らないが、きっと苦虫を潰したようなものに違いない。「勝手にしろ」と言ってきた羅刹の声が少し不貞腐れていたのがその証拠だと思う。
鬼のくせに、とまではいわない。いわないけれど本来人を食うはずの鬼が、補食対象である人間に優しくするのは非常に珍しいのではないかと思う。鬼と人は元来そういう関係なのだから。
羅刹が変わっているのか。それとも鬼という存在が実は大人しい性質を持つのか。たぶん前者だと、カルマは思う。
「なんでそんなに優しいんでしょうかねえ」
「なにが?」
「羅刹が」
「はあ?」
思いっきり心外だといわんばかりの羅刹の言葉に、カルマは笑った。
カルマという、この名前。本来名に込められた思いは2つだけだった。
だけど最近この名にはもう一つ、意味があるのではないかと思い始めている。否、見出してしまった。
それは同じ『業』という意味。けれど、生涯人の醜い闇を背負うというものではない。それこそ生涯人の生を捨て、闇の眷属として生きる業。
同族を、裏切ってまで生きていきたいという業。
この世界があんまり優しいものではないだなんて、とっくに知っていたことだった。だけどそれも一人じゃなければ、そこまでひどい世界ではないとも気がついてしまった。