冷たい毒
毒女は基本、光の届かぬ場所で一生を過ごす。
『闇にも通じるものは、闇をも知るべき』という理由らしいが、毒女の歴史は長く今ではもう調べるすべはない。
毒女のカルマも、普段は真っ暗闇の中にその身を置いている。
彼女が日々過ごしている場所は、近辺では知らぬものはないといわれる霊山の洞だ。
その洞の奥深く、何重にも木の格子をはめ込まれた座敷牢の中が彼女の居場所だった。
物心つく頃にはすでにこの洞で過ごしていて、もうどれだけいるのか定かではない。
いずれ死ぬときも、この洞の中なんだろうと思っている。
そのことに対してカルマは、別段異存も疑問もない。
たぶん欲望や探究心がほぼ欠けている人間性のカルマだからこそ、こんな現実ながらすんなり受け入れられるのだろう。
他に外部との接触がほぼない、という要素もある。
この霊山に地元の人間は入山禁止になって、実際世話をしてくれるこの老婆以外の人間をカルマは知らない。
それでも彼女は与えられたこの生活に不満はないし、このまま継続することに異議はない。
もしかするとこれがカルマなりの処世術なのかもしれない。
彼女が毒女であるということは間違いなく、けれど他に生きる術を知らないのだから。
今しがたカルマの血を採取したばかりで、この座敷牢は眉を顰める匂いで溢れかえっていた。
けれどカルマにしては慣れたもので、採血用に切られた腕に包帯を巻いていく。
そんなカルマと格子越しに対面しているのは、彼女の血の入った瓶を手にしている老婆だ。
カルマの身の周りの世話をしてくれる人物で、名をキヨという。
この完全な暗闇の中ではなにも見ることは許されないが、気配と衣擦れの音でキヨが立ち上がったのが分かった。
「それではカルマ様、夕餉の時刻までごゆるりと」
「はい」
引き摺るようなキヨの足音が遠くなり、やがて消えた。
ぽつりと残されたカルマは、さて今日はなにをしようかと首を捻ったそのときだった。
座敷牢の中にふらりと舞い込んだ、人にあらざるその気配。
どうやら彼が来たらしい。
今日一日は話相手ができて退屈しなさそうだと、カルマは小さく微笑んだ。
「いらっしゃい、羅刹」
「お――…、今日はまた一段とそそる匂いがするな」
「さっき血を抜いたから、きっとそのせいじゃないですか?」
どっかりとカルマの横を陣取るように座った、羅刹と呼ばれるこの男。
はたして男というべきか、雄というべきか。
羅刹は1週間ほど前の朔日の晩に出会った鬼だった。
あの晩少し話したことでカルマを気にいったらしい羅刹は、ちょくちょくこの座敷牢にやってくる。
住処を聞かれ少し離れた洞だと教えた翌日、彼はこの座敷牢に直接通じる横穴を掘ってやってきた。
どこから掘ってきたのかは、まったく先が見えないあたりかなりの距離ではないかと推測できた。
さすが鬼というべきか、やることが突飛だ。
ちなみにキヨは座敷牢内に横穴が開いたことに気が付いていない。
というのもキヨはこの牢の中には入ってこないし、もともと通風孔があるせいで洞に風が通るのは当たり前だったからだ。
加えてなにも見えないこの闇の中では、視界でなど確認できるわけもない。
さてどんな話をしようかと思っていたカルマに、隣から不機嫌そうな声が投げつけられた。
「…なんでそんな、当たり前に傷つけて血ぃ抜いてんだよ」
「いや、当たり前のことですし」
「お前は女だろうが! ちったあ肌傷つけることに抵抗持ちやがれ!」
「そうはいわれましても…」
困ったなといわんばかりのカルマと、なぜだか憤っている羅刹。
毒女にとっての最大の価値は、その血肉だ。
鬼をも殺す最強の毒は、その体を傷つけて摂取する。
一つの傷が癒えぬうちに採取することもあり、そういった場合は同じ部分に傷をつけることはしない。
右腕の傷が癒えていなければ、左腕に刃を突き立てる。
左腕の傷も癒えていなければ、今度は左右の足のどちらか。
おかげでカルマの手足は傷だらけだ。
今日は左腕から採血したので、そこに包帯が巻かれている。
人であればこんな真っ暗闇の中ではなにも見ることはできないが、鬼は違うようだ。
羅刹はカルマの左腕を迷うことなくとってみせた。
「またこんな、包帯なんぞ巻きやがって…痛まねえのか?」
「もう大丈夫です。慣れっこです」
「んなことに慣れんじゃねえっ」
怒鳴られて、カルマは首を竦める。
怖いというよりも、なぜか嬉しいという気持ちが沸いてくる。
なんでだろうと首を傾げたカルマだったが、やがてその理由が見えてきた。
いまだに感じる、自分の腕を掴む羅刹の手。
原因はたぶんこれだ。
「羅刹はあったかいですね」
「お前が冷たさすぎるんだっつーの」
「そうなんですか?」
「なんで疑問形なんだよ…」
「こうやって誰かに触れられるのはじめてですから」
少なくても物心ついたときから、誰かに直に触れ合うことはなかった。
キヨはカルマの着替えなどを手伝ってくれるが、そのときは必ず手袋をはめている。
カルマの汗も毒性を帯びていて、直接触れるのは人にとっては害があるらしいのだ。
そこでふと気がつく。
人ではないにしろ、この血は鬼にすら効くという。
「羅刹は私に触れても大丈夫なんですか?」
「こんなもんなら別に問題ねえな。多少なら血も飲んでもいけると思う」
「そうなんですか?」
「前にお前の汗舐めたろ。あれで少し耐性がついた。俺らは人間よりよっぽど耐性力が上みてえだからな」
ふむ、とカルマは考え込む。
その様子に羅刹が首を傾げた。
「なんだよ?」
「一つ、お願いがあります」
「だから、なに?」
「もうちょっとだけ、触ってもいいですか?」
言い終わる前に、カルマは羅刹の膝の上に乗せられていた。
すぐに筋肉で硬い腕が巻きついてきて、強い力で抱き締められる。
締め上げられている、といっても過言ではなさそうだ。
呼吸が出来ない。
あまりの軋むような痛みに、カルマは羅刹の腕を叩いた。
そうして羅刹に回されていた腕の力が若干弱まれば、ようやくカルマは息をつく。
「……死ぬかと、思いました」
「満足したか?」
「はい、死ぬほど」
悪びれもなく笑う羅刹に、カルマは『この腕になら殺されてもいいかな』なんて思ったことは内緒だ。
そっと羅刹の肩に、カルマは顎を乗せる。
羅刹の髪からは生い茂った若葉の香りがした。
「人っていいですね、すごくあったかいです」
途端羅刹の気配が不機嫌そうに揺らぐ。
カルマは顔を上げて、羅刹の顔があろう場所に視線をやってみる。
やはり一切光が射さぬ場所では、その輪郭すら掴めない。
「人じゃねえ、俺は鬼だ」
人間と思われるのは好きじゃないらしい。
ぶすっと不機嫌そうに呟いた言葉そのまま、羅刹の顔はどこか憮然としていたに違いない。