震える村、咆哮
どれだけカルマは苦しんだのだろうか。
苦しんで苦しんで、どんな思いでこの名を呼んだのだろうか。
たしかに彼女は一時は、人として人里で暮らす選択をしたのかもしれない。だけどそれも当然なのだ、毒女といえど人間であることは変わりはない。たとえ全身が毒に犯されていようとも、間違いなくか弱い人間なのだ。
カルマは、そもそも毒女とは好きでなった者たちではないのだ。己の判断も出来ぬ赤子のころより毒を飲まされ、意志など関係ないまま毒女に仕立て上げられる。
光のない生活、自由がない生活、希望もない生活。それが毒女の生活であり人生だ。人でありながら、とても同じ人としての扱いを受けない存在。
辛くないはずはないのだ。我慢していないことなどないのだ。
その耐え切れぬ日々に、鬼の手を取ることになったとして、誰が責められようか。誰も責められまい。
もし仮にそんな輩がいたとしても、この手で常世に送ってくれようぞ。
スラリと、背後で刀を抜く音がした。
そっけなく視線をやれば、カルマに手を伸ばしていた2人の男どもが帯刀していた刀を抜き、その切っ先を向けてきた。威勢がいいと関心するには、切っ先が震えている。張り付けている表情も怯えきったもので、ついでに歯も鳴らしている情けなさ。
「化け物め…!」
「その化け物にビビってんのはどこのどいつだ?」
「うるさい、黙れ!」
それでも2対1であることを有利と踏んだのか、二人掛かりで踏み込んできた。突き立てるように刃を向けて、突進の衝撃をも利用して串刺しにでもする気らしい。昨日が朔日であった今夜もほぼ光が無く、人間にはまったく視界が利かないであろう状況で、愚かな。
しかも相手は一人といえど、鬼だ。ただの刀で傷つくほど、柔な作りではないというのに。
たかが突貫攻撃など、避けるまでもなかった。とくに構えるまでもなく、羅刹は二人の突進を受ける。
走り込んできた勢いに羅刹は数歩下がったものの、男たちの構えた刀は彼の着物を切り裂くだけに留まった。鋭い刃でも、羅刹の肌を貫くことは出来なかった。
その現実に、刃を向けた二人の男は、驚きと恐怖に顔を歪める。
飛び退くように離れた二人の内一人は再度その刀を構え、もう一人は床の間に飾ってあった刀を手にした。
鞘を捨てるように引き抜いたその刃から、何かが腐臭したような匂い。食欲がそそられるような感覚がした。
「その刀は……」
己の心音が、次第にその激しさを増し始めた。血流のかすかな音すらも、耳に捕らえることが出来始める。
「お前ら闇の眷属にも対抗出来る毒女の刀だ。たっぷり血を染み込ませて作ってあるから、一撃でも食らったらただではすまんぞ」
「……、カルマの…」
疼くような匂いからいって、間違いなくあの刀には毒女の血が染み込んでいるだろう。毒女の血肉の威力は絶大だ。男が言う通り、鬼でも切り裂くことだって容易いだろう。首だって吹き飛ばされるかもしれない。
その事実に、動揺や怯えを感じてやればいいのか。けれど羅刹は鬼だ。鬼の本能はそんな柔なものではない。
狩るか狩られるかのこの現状は、なによりも鬼の本能を高ぶらせるのだ。生と死が入り交じる淀んだ空気に呼応するかのように、全身の熱が高まっていく。こういうとき、鬼はひどく凶暴になるなど、彼らは知らないだろう。
鬼が闇の眷属の中でも最強といわれるのはここにある。肉体的な強さもあるだろうが、なにより、その貪欲さだ。生き物を殺すということに対する貪欲さ。殺すと決めれば、必ず殺すのが鬼なのだ。
急速に高まっていく本能に揺さぶられ、今度は羅刹から走り込む。月明かりがほぼないにしろ、この目にはしっかり周りが把握出来ている。それこそ、相手の首筋に流れる静脈すらも。
爪を構える。狙いは、その首に流れる血脈だ。
羅刹の走り込んできた速さに、人間がついてこれるわけもない。息を飲んだその瞬間に、男の首に亀裂がはいる。次の瞬間には一気にその傷が開き、鮮血が噴き出した。
あえて羅刹は返り血を浴びる。生温い感覚に、今の今までこの血は生き物に流れていたのだと心底思う。それがまた心地いい。生き物が死にゆく感覚を肌で感じ、本能が歓喜する。カルマと出会ってから無駄な殺生はしなかったせいか、一層血が沸き立つ気がする。
首を抉られ、血をまき散らしながら倒れる男の隣に、毒女の妖刀を構えた男が震えていた。
「さっきの威勢はどうした?」
「ひっ……」
「なんだよ、その面ァ? 刀抜いてケンカ売ってきたのはテメエらだろうがよ。そんなんじゃせっかくの妖刀が泣いてんぜ?」
鬼をも殺れるんだろ、と笑って、男に近づいていく。一歩近づくたびに、男の握る妖刀の切っ先の震えがひどくなる。
刀を、握る男の手首ごと掴む。そのまま力を入れる。骨が軋む音と、男が痛みに上げる悲鳴。そのすぐ後には骨が砕け、悲鳴は絶叫に変わった。
痛みでのたうち回る男から妖刀を取り上げ、羅刹はばっさりとその首を落とした。
「カルマ」
部屋の隅で丸まっていた塊がびくりと動く。ぱさりと羽織が落ちて、顔を上げた彼女が周りを見渡した。
月と星明かりしかないこの部屋は、普通の人間であれば暗闇とほぼ同じで視界はきかない。けれど闇の中で暮らしてきた毒女は違う。
だからカルマは、部屋に転がった3体の死体に気がついた。そのまま目をやり、それから顔を顰め幾分か俯く。そうして何を思ったのか、やがてその表情が泣きそうに歪んだ笑顔になった。
「 」
彼女が小さく何かを呟いた。けれどその小ささから、誰にも聞かす気はなかったのだろうと察するのは容易かった。
羅刹は聞き返すことはせず、ただ彼女に手を伸ばす。
「ここから出るぞ。もう用はねえ」
「はい」
それでも彼女はなんのためらいもなく、羅刹の手に己のそれを重ねてきた。羅刹の手は真っ赤に血塗られているのに、まったく気にしてもいないようだ。けれどもすぐに、そうではないと否定する。
カルマが気にしないのは毒女だからだ。日々自分の血肉を抉り流すことを常としている。これは虚しいほどの毒女ならではの感覚だった。
ぐっとカルマの手を握って、羅刹は彼女を抱き寄せる。片手で軽々と持ち上がるほど、カルマは小さく軽かった。
カルマは今、何を思っているのか。やはり後悔だろうか。そう思ったのは、彼女の細い肩が小さく震えていたから。
けれどもう、戻れないところまで事は進んでしまった。彼女もそれは分かっているはず。
ふいに、さきほどカルマが呟いた言葉を思い出す。
彼女はきっと声は届いていないと思っただろうが、闇の中での鬼の能力は異常に高まる。もちろん聴覚もそうだ。だから男どもに教われ羅刹の名を呼ぶカルマの声も聞こえたし、さっきの呟きも羅刹には聞こえていた。
『………わたしも、鬼だったらよかった…』
そう、カルマは呟いていた。
屋敷はすっかり護衛らに囲まれていた。堂々と正門から出た羅刹と、その腕に抱えたカルマを出迎えるように護衛らが槍を構えている。
数はさほど多くない。たぶん村の男たちが武装している程度だろう。
「毒女を置いていけ」
そういってきたのは、40をすぎた辺りの男だ。あちこちに白髪を生やしている。恰幅のいい身体を覆うのは、特注の鎧だろうか。なかなか貫禄のあるところから察するに、村長なのだろう。
無論、村長の言葉だからと羅刹が承知するわけもなく。それどころか鼻で笑ってやるのが彼だ。
「こいつが欲しいなら、力ずくで奪ってみろよ」




