怯える毒、悲鳴
はじめて見る月は、とても細くて不思議な形をしていた。ああいう形はなんていうのだろう、羅刹に聞けば分かるだろうか。格子越しに見える月を見ながら、カルマはそんなことを思っていた。
初めて見る駕篭というものに乗せられ、カルマは過ごしていた洞を出たのは数時間前。その後、初めて降りた人里で案内されて今いる場所は、当然のように入り口や窓すべてに格子がはめられ、あちこちに南京錠がぶら下がっていた。
ここが、新たなカルマの居場所だという。死ぬまで己が過ごす、牢屋。
急に周りの気圧が下がったかのように感じられた。
所詮、毒女は毒女なのだというのを悲しいほどに理解させられた。人間にとって己は同族と見られることはないのだと悟った。
わかっていたはずだろう、と心の中の一人が嘲る。ほらみたことか、と嗤う。
人間の醜さが浮き彫りになっている毒女が、どうして人と同じく暮らしていけようか。直視すらしたくない存在だからこそ、御山の洞で過ごすようになったのだと、今更な現状に泣くことも出来ない。
何がいけなかったのか。どうしてこうなってしまうのか。
人として生まれたはずなのに、どうして人と生きていけないのか。
誰かとともに食事をしてみたかった。
一人でもいいから人間の友人というものを作っていたかった。
他愛のないおしゃべりをしてみたり、畑仕事というものをしてみたかった。
平凡な幸せというものを、一日でもいいから感じてみたかった。
でも無理だった。
毒女は人間じゃない。毒女は毒女なのだ。————わたしは、人間じゃない。
人間に対して抱いていた淡い期待が、あっけなくはじけたような気がした。
人間を同族だと思いたがった気持ちは、もうどこにもない。
惨めな現実に、同じような未来に希望などなく。心が、割れたような気がした。
「湯の支度が整いましたにございます。ご案内致します」
あれから出された夕餉に食べる気も起きず座っていたら、現れた二人の女性たちに湯浴みに連れて行かれた。行灯というものが洗い場の隅に置かれていて、揺らめく明かりが眩しい。しばらく目が開けられなかった。
着物を脱げといわれたら、着物を脱ぐ。湯船に浸かれといわれたら、湯船に浸かる。手足を洗われ、髪を梳かれる。女性たちの言葉に逆らうこともなく、ただ流される。
その世話をしてくれる2人の女性は、カルマの浸かっている湯に平然と素肌で触れている。「大丈夫なんですか」と問えば、「解毒剤を飲んでいます」と返ってきた。
今まで採血されたものは、この村で管理されていると聞く。なるほど、解毒剤も作っていたのかと納得した。
今まで生きてきた中で、ここまでしっかり洗われることもなかったと思うほど、頭の先からつま先まで存分に洗われた。用意されていた夜着には、香を焚いていたらしく香しい花の匂いがした。
このころにはようやく行灯にも慣れてきていて、見たこともない夜着の色を聞いてみたら、桜色だと教えてもらえた。木に咲く桜のことかとさらに聞けば、そうだといわれる。とても綺麗な色だとキヨから聞いていたが、隙間ばかりになってしまった心にはもう響かなかった。
着替えを無事済ませれば、また次の部屋に案内される。二人の女性のうち一人はカルマの髪を、もう一人はカルマに化粧を施す。白粉を塗られ、紅をひかれる。この化粧が誰のためかのものなんて、考えたくもなかった。
そうしてすっかり身綺麗にされたカルマは、また彼女らに手を引かれて歩く。長い静かな廊下を足音もなく歩く。やがてついた部屋は、やはり外へと繋がれる箇所をすべて格子で埋め込まれた場所だった。
行灯が置かれていなかったが、窓から入る淡い光で内部が知れた。家具が一切置いていない部屋はどこか異質で、そのせいか部屋の真ん中に敷かれた布団がやけに目立つ。ここで一晩明かすのだと、二人の女性に諭された。
二人の女性は「また明日迎えにきます」と言葉を残し、格子を締めて部屋から出て行った。カルマは独りぼっちになった。
やることがなくなったカルマは、窓の傍に座り月を見上げることにした。
あれからどれほどの時間が経ったのか、ぼんやりと月を見上げていただけのカルマには知れない。それでも鍵が開く音に、惚けていた意識が覚醒した。格子が開けられる軋んだ音に、視線を向ける。三人の男たちがカルマを見下げていた。
「これが噂に聞く、毒女か」
「ひどい醜女だと思っていたが、まあ見られる部類で助かった」
「けど、女というには貧弱過ぎないか? ガキじゃねえか」
「ババアよりはマシだろ」
「ま、そうだな」
すっかり心は死んでしまったと思っていたけれど、恐怖心だけは無駄に残っていたらしい。男たちが寄越してくる視線に身体の芯が凍り付く。
手が伸ばされる。それも3人から一斉に伸ばされたものだから、計6本もの腕。そのどれもが骨と筋肉が目立っていて太い。人によればそれは逞しいと思うのかもしれないが、置かれた状況だけに恐怖しかない。
全身が竦み上がるほどの現状に耐えきれず、カルマは無意識に後ずさる。けれど震えたひざとひじでは上手く力が入らず、すぐに男たちに捕らえられた。
まず一人に、左足を捕らえらる。次に右足。
思わず振り払おうとしたが、所詮は女の力。加えもともと力仕事など一切したことはないカルマは、筋力が同年代の女子よりもよっぽど下。畑仕事で鍛えられた男など、たとえ一人とて相手にできるものではない。
そうこうしている内に、もう一人がカルマの背後に回った。畳についていたカルマの両腕を捕らえ、彼女の頭上で交差するように押さえつける。その強い締め付けに堪らずに呻き声を上げるが、力が緩むこともなく。
そして最後の一人が、カルマの帯に手を伸ばす。抵抗することも出来ず、簡易な結びの帯は簡単に外れる。留めるものがなくなれば、当然のごとく夜着がはだけた。
素肌を這う夜風が恐ろしく冷たかった。
けれどそれ以上に身体を這う男たちの手に、肝が冷えた。
腕を、足を、腹を、頬を、あちこちに手が伸ばされ触れられる。腹の底から溢れる嫌悪感に、喉が震えて悲鳴すら上げられない。
嫌だ、怖い。怖い怖い怖い。————きもち、わるい…
「……、か…」
誰か。
誰でもいい、誰か誰か。
でも、誰を呼べばいい?
「…れ、か………」
唐突に思い出す、一人の鬼。当たり前に受け入れるしかなかった毒女の現状に、はじめて慣れるなといってくれたのは彼だった。
『闇に向かって俺の名を呼べ』
この現状から逃げるのには、身体中に這う手たちを振り払いたいのであれば、名を呼ぶしかない。
けれど今更呼んでもいいのだろうか。一時期とはいえ、人といることを望み、人里にまで降りてきた自分に呼ぶ資格はあるのだろうか。
まだ、彼は助けてくれるのだろうか。
「……、つ…」
————羅刹。
でももう、頼るべきものは彼しかいなかった。
だから、名を呼ぶ。震える喉で、きちんと声になったか分からない。それでもきっと届いたと思うしかない。
これでまた一つ、この名の通り『業』を背負うことになる。人でありながら鬼の手を取った、裏切り者の罪。生きていく限り、その重みを噛み締めることになるだろう。
それでも助けてほしいと、思ってしまった。
生きたいと、思ってしまった。
急に、身体を這う手が止まった。と、思ったら厭な音。聞いたこともない音ながら、本能的に竦み上がってしまうような、そんな音。ゴトン…と何かが落ちる音も続く。そして息を飲む間もなく、全身にべっとりとした液体が浴びせられた。
鼻をつく、鉄の匂い。生温い、この液体の正体は……。
「呼ぶのがおせえ!!」
この声が誰のものかだなんて考える間もなく。不機嫌な声なのに、助かったとほっとして目頭が熱くなる。
窓から入る微かな星明かりに反射しているのは、彼の長い髪。その髪の隙間から鈍く光る、角。こちらを見下ろす瞳は、淡く発光している。
「ら、せ……」
「お、鬼だあ!!」
ようやく、薄暗いこの部屋に悲鳴。己の身体に触れていた二人の男が後ずさった。一人はとっくに首がない身体になっていて、首から血を噴き出しながら倒れている。生温い赤い血だまりが、カルマの足を浸食していった。
「ほら、着とけ」
羅刹が己の着ていた羽織を脱ぎ、はだけた夜着を直すことも忘れていたカルマのむき出しの肩にかけてきた。鼻孔をくすぐる瑞々しい若葉のような匂い、羅刹の匂いだ。
「部屋の隅まで下がってろ」
かけられた羽織を握りしめ、何度もカルマは頷いた。




