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一縷の自由、朔の毒

 この一ヶ月は、想像以上に早かった。


 ぼんやりと星明かりしかない夜空を、カルマは力なく見上げつつそう思った。

 明日、村へ降りる。今日はその前日の朔日。最後の自由だ。せっかくいつもの気に入りの桜の木の根元で腰を下ろしているというのに、元気の代わりに出てくるのはため息ばかりだった。


「あーあ…」


 ずっと、あれから考えてきたことがある。羅刹(らせつ)に選択肢をもらってから、ずっと考えてきたことがある。こんなにも何かを考えることなんて、ここ数年なかった。


 今、自分には2つの道が用意されている。

 一つは(どくめ)女として、人として一生を過ごす道。今までと同じ毎日を繰り返す道。毒を喰らい、闇を喰らい、その血肉を持って闇の眷属を狩る生涯。

 もう一つは、羅刹の手をとる道。人でありながら人を捨て、一生を過ごす道。どう生きていくのかまったく想像出来ないが、今の生活よりもよっぽど刺激的なのだろうとは思う。笑うことが多い生活になるんじゃないだろうか。


 ……だけど、なあ。

 まだ踏ん切りがついていなかった。まだカルマの心は決まっていなかった。



 理由は分かっている。たぶんどこかで期待しているのだろうと思う。人間という存在に。ひいては人の中で生きていく新しい環境に、降りる村に。

 こんな暗闇ばかりの空間での生活でもなく、外部と一切遮断された生活でもなければ、案外村でのも馴染めるものではないだろうか。そう期待しているのだ。そしたらきっと、毒女として村で過ごすことが耐えられるのではないか、と。


 残された人生は、たぶんさほど長いものではないと自覚している。日々毒を食い、闇に身を置く毒女は普通ではない。異常ともいえる道を歩く自分は、毒女というものは間違いなく短命だろう。

 だからなのか、人としての普通を味わってみたいと思っている。その一方で、無理だと警告している己も確かにいた。


 生きてみたいと思い始めたきっかけが、何の因果なのか出会ってしまった一人の鬼だと自覚しているからだ。ちっとも優しくない口調なのに、潜む優しさに何度ほっとさせられたかしれない。

 はじめて抱きしめられて覚えたぬくもりも、その鬼が相手だった。白黒の世界しか知らないのに、少しだけ世界が輝いたように見え始めた。過ごす日々が、少しだけ眩しくなった。この感情は、間違いなく羅刹あってのことだ。


 カルマの中にある人として同族を望む本能と、カルマという個体が望む理性はどこまでも強く、それでいて平行線を辿っていた。


「鬼だったら」


 ふとそう思って呟いた言葉は、夜の闇に静かに吸い込まれた。

 きっと人とは違う精神構造をしている鬼ならば、悩んだりしないのだろう。こんな風に自分の歩く道に疑問を抱き、迷ったりしないのだろう。


 鬼だったら、よかった。鬼だったら、迷わず羅刹の手を取れたかもしれない。


 まったくその鬼をも殺すといわれる最強の血肉を持つ毒女が聞いて呆れる、と思う。さすがに突飛過ぎる考えだなあと、カルマは笑う。

 そうして、いつもと変わらぬ最後の朔日の自由は終わった。





 その翌日。日が暮れてまもなくの刻。

 ロウソク、という初めて見るものにカルマは興味を持った。といってもかなり離れたところに置かれているためよく見えない。もっとも近くにあったとしても、その眩しさに目を開いていられないだろうけれど。


 押さえきれぬ好奇心に、村に降りるための準備にとやってきていたキヨにいろいろ聞く。

 この匂いはなんだと聞けば、獣の油の匂いだと返ってくる。ゆらめくものはなんだと聞けば、炎だと返ってくる。温かいその炎の色は何色かと聞けば、(だいだい)と返ってきた。なぜ橙というのかと聞けば、橙という果物の色からとったものだという。

 あんな色の果物があるのかとちょっと驚いたら、2日前の夕餉に出したと聞いてさらに驚いた。酸味のきいたあの果物は、本来こんな色をしていたのだと思った。


 はじめはかなり遠くに置かれていたロウソクの微かな炎すら眩しかったカルマだったが、やがて目が慣れてきてじっくり視線をやる。ゆらゆらと定まらない炎はとても美しく感じる。

 触れるものなのかと聞いたら、やけどすると返ってきた。やけどとはなんだろうか。首を捻ったカルマに気がついたらしいキヨが、炎はとても熱いもので触れようとするとやけどするといわれた。聞いたところでやっぱりいまいち分からなかった。


「村へ降りるにあたり、こちらのお召し物に身を包んでいただきます」


 そう言ったキヨが手にしていたのは、丹念に編まれているであろう行李。すっと蓋を開ければ、白い着物がはいっていた。

 いつも着ている着物より、さらに上等の生地なのではなかろうか。用意されていた着物の驚くほど滑らかな触り心地は、そんな思いを抱かさせる。

 薄手ゆえかいつもより何枚も多く着込ませられて、ようやく最後の一枚だといわれた羽織もやっぱり上等。撫でるように生地を確かめたら、どこもかしこにもきめ細かな刺繍が施してあった。一体どれだけの手間がかけられて作られたものなのか見当もつかない。


 着替えが済めば、今度は座らせられて髪を結われる。いつもは適当に一本に纏める程度だというのに、きっちり編み込まれていくのが分かった。

 一体誰のための衣装なのかとは、とても聞けなかった。


「カルマ様、出発の準備が整いましたにございます」


 傍で座りながら頭を垂れたキヨが言う。それと同時に洞の入り口から、数名の足音が聞こえてくる。聞けば村までの案内人だとキヨが教えてくれた。

 現れた案内人たちは皆一様に黒い衣服に身を包み、顔を覆うような頭巾も被られていて、正直異様な雰囲気だった。けれど、人からみた毒女もこんなものなのだろうかと思えば、むしろ心が冴えるほど。


 出発のときがきた。

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