嫉妬と傲慢
「おやおや。このようなお嬢さんまでこんな場所にいるとは……。どんな事情があったにせよ、悲しいことですねぇ」
澪の次に薫の前に現れたのは、一人の少女だった。
幼げな雰囲気を残した顔立ち。薫は一目で学生といった判断を下す。
「何? おにーさん、アタシに何か用?」
説得力のないニヤニヤとした笑みを浮かべながら悲しいと口にした薫に、キャスケットを被った少女――稲葉槻妃は不機嫌そうにつぶやいた。
「いえいえ。学生という、無数の未来のあった人間が『煉獄』にいるのは、嘆かわしいと思っただけですので……。お気になさらず」
「いやらしいニタリ顔を浮かべながらそんなこと言っても説得力ないんですけど。それに、おにーさんだって二十代前半ぐらいで若いでしょ」
「若くても学生ほど自由はありませんよ。まあ、ボクの場合、お金持ちだったんで不自由も特になかったですけど」
「うわっ、お金持ちってだけで偉そうにしてる人間だ。うわー、イヤだイヤだ」
槻妃は持っていたレイピアを構えた。それは薫への拒絶を意味していた。
「おやおや、せっかくボクが学生という有意義な時間の大切さを説いてあげようと思っていたのに関心なしですか。年上の話は黙って聞くものですよ」
「じゃあ勝手に語ってればいいじゃん。あなたみたいなへらへらした人がいくら良い話をしたって説得力ないですよだ、べー!」
槻妃は舌を出して薫を挑発する。
「元気な子ですねぇ。しかし、いい加減気付いたほうがいいですよ。相手の強さを見誤って調子に乗っていると、死期がどんどん近づいてくることをね」
「ん?」
この場の雰囲気が変化したことを槻妃は感じ取る。
先ほどまでとの空気の流れが変わり、流れる空気が薫へと集まっていくのを、目に見えていたわけではないが槻妃は感じ取っていた。それと同時に自身の身の危険も本能的に理解した。
そして気付く。先ほどまでへらへらとしていた態度が相手を惑わすためであることを。そして、彼が醸し出している殺意。その殺意に対して今現在の自分に対抗する術がないことを。
「アナタの言動もそうですが、先ほど一人の相手を殺し損ねてイライラしていたので、その分もたっぷり発散させてもらいましょうかねぇ」
「女性への八つ当たりでストレス発散なんてサイテー!」
勝てないと判断した相手から一秒でも早く遠ざかろうと、槻妃は身を翻して全力で走り出した。被っていたキャスケット帽も手に取り、全力で駆ける。
もともと槻妃と薫の間はある程度の距離が開いていたことや、薫の着ていた細身を強調するスーツのように見える私服から、動きにくさと自分に追いつけるほどの体力が薫にはないだろうと判断して槻妃がとった行動だった。全力で走り去れば逃げ切れる、と。
「おやおや、二度も獲物を逃すなんてボクのプライドが許すわけないじゃないですか」
そう言いながらも、薫は特に焦ることも走って追いかけることもしない。彼にとってそんな行為は必要なかった。今の彼にとって、まっすぐ逃げる槻妃など、既に獲物の首の根に手をかけたも同然だった。
突然にして風を切る音が、彼女の背中を切り裂く。
「なっ、にがッ――」
背後からの押されるような衝撃と、同時に左肩辺りに突然現れた激しい痛みにやられ、槻妃は勢いよく地面に倒れこんだ。
「いっつッ――!」
肩の裏に手をまわすと、生暖かいぬめりの中に普通なら絶対にあるはずのない割れ目と、触れた際の痛みを感じ取る。
「言ったじゃないですか。逃がすわけない、と……」
槻妃が背後を確認すると、右手に握られた剣をぎらつかせながら薫がゆっくりと近づいてきていた。
「いったい、どうやって……」
薫の持つ剣には血液どころか汚れ一つ付着しておらず、研ぎたてのごとくその刀身を鈍く光らせている。しかし、切られたときに槻妃が感じたのは確かに鋭い刃物で切り裂かれた感触だった。
逃げることしか考えていなかった槻妃は薫のことを見ていなかったことで、彼がどのようにしてこの距離を詰め、どのようにしてこの傷を負わせたのかを知ることはできなかった。
「最初に言ったじゃないですか。大人を舐めたら痛い目を見ますよ、って」
「……そんなこと、言われて、ないわ」
途切れ途切れにその言葉を否定する。
「おや、そうでしたか。まあ、似たようなことは言ったはずですから、大きく変わりませんよ」
苦しむ槻妃とは裏腹に涼しい顔をしていた薫はそう言うと、赤子のように丸まって肩を押さえて痛みに耐えている槻妃を足蹴にし、腹這いの状態にさせた後、手にしていた剣をその背中に思い切り突き刺した。
「あぁあああああああああああああああああッッ!!」
その痛みに槻妃は大きくのけ反る。
突き刺さった剣は彼女を貫通し、そこから溢れ出る赤黒く温かい液体が彼女を中心に広がっていく。
「どうですか、剣が身体を突き抜ける感触は? 普通はそうそう経験できることじゃないですよ。できればボクは経験したくないですけどね」
「……ッ」
どのようにして切られたか分からない肩、剣が貫通した背中と腹部。三か所の痛みが槻妃の意識を奪っていくのは時間の問題だった。
「残念ですけど、ゆっくりと死んでいくのを待つなんてボクにはできないんですよねぇ……」
薫は突き刺さった剣を握りしめる。
「やめ……て……」
その動作を見て、薫がなにをしようとしているかを理解する。
「こんなことは生きていたら絶対にできませんからねぇ。殺れることはいろいろと殺っておかないと」
そう言って薫は、躊躇いもなく、その剣を斜め後ろへと引いた。
鋭い刃が槻妃の背中から臀部の肉を裂き、骨を断つ。
「ぐっ、あぁああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
「骨を砕いても刃こぼれひとつないとは。さすが悪魔の作り出したものだ。素晴らしい」
槻妃の悲鳴を気にも留めず、薫は冷静な分析の言葉を口にしていた。七人の中でもっとも長い時間をこの空間で過ごした彼の心は、人間のものとはまったく違うものになっていた。まさしく悪魔のように。
「あ……、ああ……」
痛みを拒絶するように槻妃の意識は混濁していく。その口から零れる声はもう言葉になっていなかった。
遠のく意識の中で彼女の頭の中に浮かんだものは、彼女が愛した者のぼやけた顔。そして、この痛みに対してなぜか感じる既視感であった。
「さて。これでボクの剣は二本。残りの五本もすぐに手に入れて見せますよ」
自身の剣に付着していた血を振り払うと槻妃のレイピアを拾い上げ、手を下した獲物には興味も見せず、次の獲物を探しに歩き出した。