死者からの手紙を七日だけ届ける郵便局で、最後に母の名前を見つけました
亡くなった人から届く手紙は、必ずしも立派な遺言ではありません。
言いそびれたこと、どうでもいいこと、今さら言われても困ること。
そんな手紙を届ける郵便局の話です。
死んだ人からの手紙は、朝に届く。
夜ではない。
夜中に死者が窓を叩くわけでも、墓場から鳥が運んでくるわけでもない。
王都中央郵便局の地下にある、灰色の仕分け箱。
朝六時になると、そこへ封筒が現れる。
前日の朝にはなかったものが。
誰が入れたのかは、誰も知らない。
差出人は、亡くなった人。
現れるのは、死んだ翌朝から数えて七日目の朝まで。
一人の死者から届くのは、一通だけ。
宛先も一人だけ。
何も届かない人もいる。
私たちはそれを「七日便」と呼んでいた。
◇
「イネス、北区三通」
仕分け主任のニールが束を差し出した。
「はい」
「一通は病院裏。残りは職人通り」
「病院裏、朝からかあ」
「嫌なら替わる?」
「行きます」
私は革鞄へ三通を入れた。
七日便を配達する仕事に就いて五年になる。
普通の郵便と違い、受領印はいらない。
本人へ手渡す。
不在なら持ち帰る。
家族だからといって、代わりには渡さない。
受取人が拒めば、それも記録して局へ戻す。
死者が誰に宛てたのかだけは、勝手に変えない。
最初の一通は、病院裏の小さな貸家だった。
宛名はルーディ・ヴェスク。
十五歳。
差出人は父親。
「郵便です」
扉を開けた少年は、封筒を見た瞬間に顔をしかめた。
「七日便?」
「はい」
「父さんから?」
「差出人欄には、そうあります」
渡す。
少年は受け取ったが、開けなかった。
「今じゃなくてもいいんですよね」
「もちろん」
「捨てても?」
「あなたの手紙です」
「そう」
彼は封筒を持ったまま、しばらく立っていた。
「父さん、死ぬ前に俺と喧嘩したんです」
私は返事をしなかった。
配達人が中身を予想する場面ではない。
「謝ってると思います?」
「分かりません」
「ですよね」
少年はそこで、少しだけ口元を緩めた。
「郵便屋さん、冷たいですね」
「中身を知らないので」
「それもそうか」
扉が閉まる。
私は次の住所へ向かった。
◇
二通目は、老いた靴職人の妻から夫へ。
三通目は、若い女性から姉へ。
中身は知らない。
知ろうとも思わない。
七日便を扱う配達人は、封筒を透かして見ることすら禁じられている。
昔、手紙の内容を酒場で言いふらした配達人がいたらしい。
以来、局内の規則は厳しい。
「死者の秘密より、生きてる人の生活の方が長く続くから」
そう言ったのは母だった。
私がこの仕事へ移った時だ。
「重たい仕事でしょう」
「普通の郵便よりは」
「泣かれる?」
「よく」
「怒られる?」
「たまに」
「嫌にならない?」
「今のところは」
母はその時、豆を煮ていた。
鍋から湯気が上がっていたのを覚えている。
母は、何か大事な話をする時ほど手を止めなかった。
私が十二の時に父が家を出た話も、学校を辞めて郵便局へ入ると言った時も、鍋か洗濯物か縫い物がそばにあった。
気まずい話ほど、手元に仕事が必要な人だった。
◇
母が亡くなったのは、五日前。
冬の終わりから続いていた熱が、最後まで下がらなかった。
医者は一か月前には、もう長くないと言っていた。
だから、急ではなかった。
急ではなかったから平気、ということでもなかった。
「今日も出るの?」
葬儀の翌朝、ニールに聞かれた。
「休みは昨日で足りた」
「足りた顔には見えないけど」
「家にいてもやることないし」
「掃除とか」
「母が死ぬ前に全部やってた」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
働いた。
家にいると、母の物ばかり目に入った。
縫いかけの布。
欠けた湯呑み。
冬用の毛糸。
瓶に三分の一だけ残った杏のジャム。
床板の隅には、母が何度言っても直さなかった小さな焦げ跡がある。
鍋を置く台を使わず、熱いまま置いたせいだ。
私は毎回注意した。
母は毎回、「次から気をつける」と言った。
結局、そのままだった。
郵便局なら、少なくとも他人の住所を考えていられる。
ただ。
朝六時になるたび、灰色の箱を見た。
母の名前がないか。
◇
一日目。
なかった。
二日目。
なかった。
三日目。
なかった。
四日目。
なかった。
死者が必ず手紙を送るわけではない。
そんなことは、私が一番よく知っている。
亡くなった人のうち、七日便が届くのは半分にも満たない。
理由は分からない。
伝えたいことがないのか。
うまく届かないのか。
死者が書いている、という理解自体が正しいのか。
学者は百年以上調べている。
何も分かっていない。
だから私は、受取人に「死者本人の言葉です」とは言わない。
「差出人欄に、その方のお名前があります」
いつもそう言う。
それ以上は言わない。
母の名前がない朝だけ、その慎重さが少し嫌になった。
四日目の午後には、受け取りを断った人もいた。
差出人は、十年以上会っていなかった兄。
受取人の女性は封筒を一目見るなり、首を横に振った。
「いりません」
「受け取らなくても構いません」
「開けろって言わないの?」
「言いません」
「死んだ人からなのに?」
「それでもです」
彼女はしばらく封筒を見ていたが、最後まで手を伸ばさなかった。
私は未交付の記録を書き、そのまま持ち帰った。
何があったのかは知らない。
七日便が届けば、必ず救われるわけでもない。
届いたから許さなければならないわけでもない。
仕事では分かっている。
自分の母のことになると、その程度のことまで忘れそうになった。
◇
五日目。
配達先は、王都西端のパン屋だった。
差出人は、三日前に亡くなった店主。
受取人は弟。
「兄貴から?」
「はい」
「今さら何だろうな」
弟は粉だらけの手を前掛けで拭き、封を切った。
私は帰ろうとした。
「待って」
「はい?」
「ちょっと、これ」
「内容は読めません」
「違う。聞いてほしい」
規則では、受取人が自分から話す分には止めない。
弟は便箋を見ながら言った。
「『裏庭の樽、漬けてあるのは大根じゃなくて靴だから開けるな』」
「……靴?」
「兄貴、何してんだ」
笑い出した。
そのあと、急に泣いた。
笑いながら。
「最後の手紙が靴って」
「そういうこともあります」
「もっと何かあるだろ」
便箋を裏返す。
「あ。続きある」
私は視線を外した。
「『あと、お前のパンは焼きすぎだ』」
また笑った。
今度は長かった。
七日便を五年配っていると、立派な遺言より生活の続きを見る方が多い。
借金帳を置いた場所。
猫に薬を飲ませる順番。
謝罪。
悪口。
鍋の焦げを落とす方法。
死ぬ間際まで、人は案外、日常の続きを気にしている。
だから私は、母からもし手紙が来るなら、もっとどうでもいいことが書いてある気がしていた。
◇
六日目の朝。
母の名前はなかった。
私は箱の底まで二回見た。
「イネス」
ニールが呼ぶ。
「分かってる」
「何も言ってない」
「言おうとしたでしょう」
「今日は仕分け替わろうか、と」
「やらない」
「そう」
彼はそれ以上言わなかった。
昼休み、私は屋上でパンを食べた。
固かった。
母なら、昨日のパンを食べる時は濡れ布で包んで温めろと言う。
私はそれをほとんどやらなかった。
面倒だったから。
母は毎回、同じことを言った。
その声だけ妙にはっきり思い出せる。
最後にまともに何を話したかは、あまり覚えていない。
亡くなる三日前、薬の時間をめぐって少し言い合いになった。
「もう飲んだ」
「昼の分はまだ」
「飲んだってば」
「数が合わない」
「いちいち数えなくていい」
母は不機嫌になった。
私も不機嫌になった。
結局、薬は飲んでいなかった。
「ほら」
私が言うと、母は目を逸らした。
「忘れたの」
「だったら最初からそう言って」
「子どもみたいに言わないで」
「子どもみたいなことしてるのはそっちでしょう」
それが、最後の喧嘩だった。
翌日には母はほとんど眠っていて、その次の日に亡くなった。
もっと別の話をしておけばよかった、と考えることはある。
でも、最後だからといって、人は急に気の利いた会話ができるわけではない。
母も私も、いつも通りだった。
◇
半年前。
南港郵便局から異動の打診が来た。
七日便を扱える配達人が足りないという。
海沿いの町。
王都から馬車で四日。
給金は少し上がる。
私は行きたかった。
海を見たことがなかったから。
でも、その頃には母の熱が続いていた。
医者へ連れていく日も増えていた。
だから断った。
母には言わなかった。
「行きたいけど、あなたが病気だから残る」
そんな言い方をしたら、母は自分を責める。
それに、私自身が残ると決めたのだ。
書類を机の二段目へ入れた。
そのまま半年。
六日目の夜、久しぶりに引き出しを開けた。
募集書類は少し曲がっていた。
「一通くらい書くことなかったの」
誰もいない部屋で言った。
母に腹が立っているのか、自分に腹が立っているのか分からなかった。
台所には杏のジャムが残っている。
瓶を開けて舐めた。
甘すぎた。
「甘いんだよ」
それも、生きているうちには言わなかった。
言えば機嫌を悪くすると思っていた。
たぶん、本当に悪くしただろう。
◇
七日目。
私はいつもより早く局へ着いた。
五時四十分。
灰色の箱はまだ空だった。
「早すぎ」
後ろからニールが来た。
「知ってる」
「六時までは出ないよ」
「知ってる」
「座ったら」
「ここでいい」
二十分。
長かった。
六時。
箱の底で、紙の擦れる音がした。
一通。
二通。
三通。
次々と封筒が現れる。
私たちは毎朝それを見る。
それでも慣れない。
最後に、一通だけ遅れて落ちた。
灰色の封筒。
宛先。
イネス・ハルヴァ。
私。
差出人。
マルタ・ハルヴァ。
母。
「……仕事なんだけど」
声が出にくかった。
「今日は俺が北区へ行く」
ニールが言った。
「でも」
「受取人が自分で自分の七日便を配達した記録、作りたくない」
「規則にある?」
「ない。だから作りたくない」
それらしい理屈だった。
私は少し笑った。
◇
封を切ったのは、屋上だった。
便箋は一枚。
母の字だった。
『イネスへ。
机の二段目にある南港の紙、勝手に見ました。
ごめんなさい。
薬代の領収書をしまう場所がなくて開けました。
あなたの手紙を探したわけではありません。
行きたかったんでしょう。
私が元気だったら、たぶん止めていたと思います。
四日も離れるのは遠いし、海辺は冬に寒いし、あなたは洗濯物を溜めるから。
だから、今になって急に「行きなさい」とは書きません。
残ると決めたのはあなたです。
でも、助かりました。
病院も薬も、一人では大変でした。
あと、杏のジャムは砂糖を入れすぎました。
私も甘いと思っていました。
捨ててもいいです。
南港へ行くなら、強い洗濯ばさみを買った方がいいそうです。
風が強いと新聞に書いてありました。
母より』
私は二回読んだ。
三回目は途中でやめた。
「ジャム、自覚あったんだ」
最初に口から出たのは、それだった。
泣いた。
でも、ずっとではなかった。
鼻をかんで、便箋を折った。
母は最後まで、私より洗濯物の心配をしている。
◇
その日の帰り。
文具店の前を通った。
店先に、木製の洗濯ばさみが並んでいた。
足を止めた。
「丈夫なのはどれですか」
店主に聞く。
「何に使う?」
「まだ分かりません」
「何だそれ」
自分でもそう思う。
「風の強いところでも使えるやつ」
「なら、こっち」
一袋買った。
家へ戻る。
台所には、杏のジャムがある。
母は捨ててもいいと書いていた。
私は蓋を開けず、そのまま棚へ戻した。
今日は食べる気がしなかった。
机の二段目には、半年前の南港郵便局の募集書類が残っている。
春の募集は、まだ締め切られていない。
紙を取り出す。
すぐに応募用紙を書く気にはならなかった。
代わりに、封筒の横へ置いた。
洗濯ばさみは机に置く場所がなくて、結局、台所へ持っていった。
翌朝。
私は昨日のパンを濡れ布で包んだ。
温めすぎて、端が少し硬くなった。
母なら何か言っただろう。
私はジャムを薄く塗った。
やっぱり甘かった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、亡くなった人から届く「七日便」を配る郵便局の話です。
最後の言葉だからといって、必ずしも立派な言葉になるわけではなく、
日常の続きのようなものが残る話を書きました。
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空席あり




