核──あなたに知られる恐ろしさ──
一.
『この人となら共に死んでもいいと思った』
私は読んでいた文庫本を閉じた。
十一月の午後、窓の外では枯れ葉が一枚、風もないのにゆっくりと落ちていった。部屋は静かだった。エアコンの低い唸り声と、遠くを走る車の音だけが、かすかに聞こえていた。
そんなふうに思えるくらい好きな人がいたら、きっと幸せなのだろう。
私はその文章が理解できなかった。
文庫本の表紙を眺める。恋愛小説だ。友人に勧められたのか、書評で目にしたのか、もう覚えていない。ただ気づいたら手元にあって、気づいたら読んでいた。ページを捲るたびに、主人公の感情が波のように押し寄せてきて、そのたびに私は少しずつ取り残されていく気がした。
共に死んでもいい。
言葉の意味は分かる。だが、その感情の重さが、私には掴めない。砂を素手で握ろうとしているようで、指の間からさらさらとこぼれ落ちていく。
私には好きな人がいたことがない。
これまでもいなかったし、これからもいないだろう。
それは諦めではなく、ただの事実として、私の中にある。悲しいとも思わない。ただ、こういう文章を読むたびに、自分が透明なガラスの向こう側に立っているような、奇妙な疎外感を覚える。
窓の外の枯れ葉は、アスファルトの上に静かに着地した。誰にも踏まれず、誰にも拾われず、ただそこにある。
親や兄弟、友人や恋人がいようといまいと、人間は皆、一人で生まれ、一人で死んでいく。
相手の内面を完璧に分かってあげることはできない。
それは残酷なことのように聞こえるかもしれないが、私にとっては長い時間をかけて辿り着いた、静かな結論だった。嵐のあとの凪のような、乾いた安定感がそこにあった。
私はそうやって心の扉を閉じて生きてきた。
それが良かったのか悪かったのかは分からない。
少なくとも職場では余計な人間関係に悩まされることはなかった。仕事をして、帰宅して、眠る。その繰り返しの中に、他人が割り込んでくる余地はほとんどない。それで十分だと思っていた。
だが、学生時代は孤独だった。一人でお弁当を食べ、常に一人で過ごした。教室の窓際の席で、クラスメイトたちの笑い声を遠くに聞きながら、白いご飯を黙々と口に運んでいた。誰かに話しかけてほしいとも思わなかった。ただ、その輪の外にいる自分が、ガラスに貼り付けられた虫標本のように固定されている気がして、それがひどく息苦しかった。
子どもの頃も、大人になってからも、自分の内面を他人に晒すのが怖かった。知られるのが怖かった。
不思議だと思う。
理解されたいのに、知られたくない。
知られたいのに、知られたくない。
この矛盾が、長年私を苦しめてきた。
文庫本をテーブルの上に置いた。表紙の男女が微笑み合っている。私はその笑顔から目を逸らして、冷めかけたコーヒーカップを両手で包んだ。温度はほとんど残っていなかった。
二.
私は、気づけばアラフォーになっていた。
鏡を見るたびに、目尻の小さな皺が増えているような気がする。白髪を一本見つけたのは去年の秋だったか。時間というものは、こんなにも静かに、こんなにも確実に積み重なるものなのかと、少し驚く。
いまだにこの矛盾と向き合えていない。
自分を他人に晒すのは勇気がいる。理解されたい。知られたくない。どちらの感情も本物だ。二十代の頃は、いつか解決できると思っていた。三十代になって、もしかしたら解決しないのかもしれないと思い始めた。今はもう、この矛盾と一生付き合っていくのだろうと、半ば諦めている。
私はどうすればいいのだろう、とずっと悩んできた。
「宮田さんはもっと他人と仲良くしてね」
先日、総務の山本課長に言われた。
昼休みが終わりかけの、薄暗い廊下でのことだった。課長はいつもの人懐っこい笑顔で言った。悪意がないことは分かる。それがまた、余計に腹立たしかった。
大人に言われる言葉ではない。まるで小さな子どもを諭すかのような言い回しに、私は少し憤慨した。表情には出さなかった。出せなかった。「はい」と一言答えて、自分のデスクへ戻った。椅子に座ってパソコンの画面を眺めながら、胸の中でくすぶる感情を、静かに押し込んだ。
仲良く、とはどういうことなのか。私には分からなかった。
愛想よく笑うことか。休憩室で世間話をすることか。誕生日にケーキを買ってくることか。それとも、もっと深いところ、自分の内面を晒して、相手の内面も晒してもらう、そういうことを指しているのか。誰かと、そういう関係を築けるとは思えなかった。築き方が、分からなかった。
三.
「宮田さん、良かったらお昼一緒にどう?」
遠慮がちに声をかけてくださったのは、同じ部署の幸田先輩だった。
午前の仕事が終わり、オフィスにざわめきが戻り始めた頃だった。先輩はデスクの間の通路に立って、少し首を傾けるようにして私を見ていた。断られることを、あらかじめ覚悟しているような、そういう控えめな表情だった。
「は、はい。ご迷惑でなければご一緒させてください」
私は答えた。
本当は一人でいたかった。いつも通りコンビニで買ったサンドイッチを、自分のデスクで、誰とも話さずに食べたかった。だが、先輩のあの表情を見ると、断る言葉が喉の奥でつかえてしまった。善意を向けられると、私はいつもそうなる。受け取るのも怖いが、跳ね返すのも怖い。
先輩のお誘いに乗って食堂へ行くと、他のメンバーもいた。人事部の草尾さん、営業部の加藤さん、私と同じ情報部の間宮さん。四人が既に席についていて、私が現れると、一瞬だけ場の空気が揺れた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
まずは皆で挨拶をし合った。食堂は昼時の喧騒に包まれていて、あちこちから食器の触れ合う音や笑い声が聞こえてくる。その賑やかさの中で、私たちのテーブルだけが、微妙に静まり返っていた。
大勢の中に混じってご飯を食べるのは、ますます気まずかった。私が来たことで、明らかに場の空気が白けた。皆が私を歓迎していないわけではないと分かっている。ただ、私という存在が、どこかぎこちなさを呼び込んでしまうのだ。自分でも分かっている。それが余計に、身の置き所をなくさせた。
トレーを持つ手に、じんわりと汗をかいた。
幸田先輩が私に話を振ってくれた。
「宮田さんはお休みの日は何やってるの?」
助け舟のつもりだと分かった。先輩の声は明るくて、無理のない自然な調子だった。
私は答えた。
「ええと、たいてい寝てますね」
事実だった。嘘をつくつもりはなかった。だが言葉にした瞬間、何も答えるべきことがなくて、ますます気まずかった。テーブルの向こうで草尾さんが小さく微笑んだのが見えた。哀れみか、共感か、判断できなかった。
私も先輩に同じ問いを問い返すべきだろうか。そうすれば会話が続く。そうしなければならないのかもしれない。迷っているうちに先輩が次の質問を投げかけてきた。
「宮田さんは、何か好きなものはあるの?」
私は迷った。
そこは私の「核」の部分だからだ。自分という人間の、一番やわらかい場所。そこを晒してしまうのは、怖いことだった。まるで肋骨を一本取り外して、相手に手渡すような感覚がある。
無難な答えを必死に探した。料理、とか、散歩、とか、読書、とか。誰でも言えるような、傷つかない答え。だが不思議なことに、何も出てこなかった。頭の中が真っ白になって、気づいたら私は口を開いていた。
素直に私は、私の大事な「核」を差し出してしまった。
「──ミドモリ、というアニメが好きで」
声が少し掠れた。言ってしまってから、喉が干上がるような感覚がした。
「へえ!そうなんだ!」
幸田先輩の目が輝いた。眼鏡の奥の瞳が、ぱっと明るくなったのが分かった。その反応の速さと、作り気のない喜び方に、私は少し面食らった。
「実は私もアニメオタクなんだ」
「えっ……」
「そしてね、間宮さんもアイドルオタク!」
「そうなんですか」
間宮さんが照れたように笑った。四十代に差し掛かっていそうな、落ち着いた雰囲気の人だったが、その笑い方はどこか少年のようで、意外だった。
「そうなの。休日は娘とよくライブに行ってる」
「草尾さんはプラモデルが趣味で、加藤さんは絵を描くことが好きなんだって」
皆が簡単に自分の「核」を晒している。そのことに驚いた。まるで当たり前のことのように。ためらいもなく、恐れる様子もなく、ただそれが自分の一部であるというように。
「私はマイキュウってアニメが好きなんだけど、宮田さんはミドモリが好きなんだね」
改めて言われると恥ずかしさで顔が真っ赤になった。頬が燃えるように熱くなって、下を向いた。視線を落とすと、トレーの上の定食が目に入る。ご飯の味はしなかった。口に入れても、何も感じなかった。ただ機械的に咀嚼して、飲み込んだ。
箸を持つ手が、微かに震えていた。
四.
皆が簡単に「核」を晒していることに驚いた。私は羞恥で死ぬ思いがした。皆はそうではないのだろうか。
食堂から戻ってデスクに座っても、胸の中の揺れが収まらなかった。パソコンの画面を開いて、仕事の書類を呼び出しても、文字が頭に入ってこない。午後の陽光がブラインド越しに差し込んでいて、埃の粒がゆっくりと浮かんでいた。
他人に「核」を晒してしまったとき、指先がじわっと汗ばんだ。無難な答えを用意しておけばよかったと思った。なぜあの瞬間、ミドモリなどと言ってしまったのか。なぜ止められなかったのか。自分の軽率さが、情けなかった。
皆は、自らの大切な部分を知られることを恐れていないのか。疑問が湧いた。それともそんなに大切なことではないのだろうか。
でも、皆にとってそれがとても大切なことだということは、話を聞いていてよく分かった。皆が好きなものについて話すとき、目が輝いていたから。間宮さんがアイドルの話をするときの顔、草尾さんがプラモデルの話になった瞬間背筋が伸びたこと、加藤さんが絵の話になると声のトーンが一段上がったこと。皆、確かに大切にしているのだ。それなのに、恐れていない。
どうしてそんなに平気でいられるのだろう。私はこんなに不安なのに。他人に内面を知られることをずっと怖がっている。なのに、理解されたいとも思っている。
その矛盾が、今日はいつもより鋭く、胸に刺さった。
私はこの矛盾に決着をつけられないまま、それでも自分の「核」を晒した今日を思い出しては、胃の奥が冷えた。帰りの電車でも、夕食の最中も、歯を磨きながらも、布団に入ってからも。暗い天井に向かって目を開けたまま、あの食堂のテーブルを何度も何度も、脳の中で再生した。
五.
ある日、幸田先輩が話しかけてきた。
その日は朝から小雨が降っていた。窓に雨粒が貼りついては流れ、オフィスの空気は少しだけ湿っていた。私がパソコンに向かっていると、先輩が隣の通路を歩きながら、ふいに立ち止まった。
「宮田さん!ミドモリの映画、公開になりましたね!」
弾んだ声だった。まるでそのことを誰かに話したくて、ずっと待っていたかのような勢いだった。
「は、はい」
「観に行くんでしょう?」
「は、はい……」
先輩はにこっと笑って、また自分のデスクへ戻っていった。それだけだった。たったそれだけのやり取りだったが、私はしばらくの間、キーボードの上に指を置いたまま動けなかった。
そして別の日。
「宮田さん、ミドモリのグッズ、たまたま見つけたから」
幸田先輩は小さなフィギュアをくれた。透明なケースに入ったそれを、デスクの端にそっと置かれた。主人公の、あの走り出す直前のポーズのフィギュアだった。私が好きなシーンだと、どこかで言っただろうか。言っただろうか。覚えていない。
「こんな、いただけません。お金、お支払いします」
私は遠慮した。動揺を悟られないように、なるべく落ち着いた声を出した。
「いいのいいの、たまたま見つけただけだから」
先輩はあっさりと言って、笑った。重い空気を、笑顔で軽くしてしまう人だった。
幸田先輩は、それからというもの、私にミドモリの情報があるたびに教えてくれたり、グッズをくれたりした。新しいグッズの発売情報、ファンイベントのお知らせ、原作者のインタビュー記事。メッセージが来るたびに、私は少し驚いて、少し戸惑って、でも、確かにうれしかった。
私も、マイキュウのグッズを見つけたら先輩にあげたりするようになった。最初は、お返しをしなければという義務感だった。だが二度、三度と繰り返すうちに、先輩が喜んでくれることが分かってきた。
「わあ!ありがとうございます!」
先輩の声を聞くたびに、胸の中で何かがわずかに緩む。それが怖かった。
だが、少しだけ、まだ羞恥があった。大切なものを誰かと共有することに、抵抗があった。先輩にグッズを渡す瞬間、必ず一拍、躊躇いがある。手が止まる。その一拍の中に、様々なものが詰まっている。恥ずかしさ、恐れ、そしてもう一つ、うまく言葉にできない何か。
この感情は何だろう。
六.
ある夜、私はベッドの中で考えた。
部屋の電気は消えていた。カーテンの隙間から、街灯のぼんやりした光が細く差し込んでいる。天井の、染みのような染みでもないような模様を、もう何百回と眺めてきた。スマートフォンの画面を消したまま、ただ暗闇の中に横たわっていた。
この感情は何だろう。
幸田先輩が悪い人ではないことは分かっている。むしろ、こんなに親切にしてくれる人は、これまでの人生にほとんどいなかった。親切にされることに慣れていない、と気づいたのは最近のことだ。親切を受け取る作法を、私はどこかに置き忘れてきたらしい。だから、先輩の好意のたびに、手持ち無沙汰になる。
それなのに、私の胸の奥には、薄い膜のような抵抗感がある。先輩にグッズを渡すとき、一瞬躊躇う。もらうときも、素直に喜べない。喜んでいるのに、その喜びを素直に外に出せない。伝わっているだろうか、と後になっていつも心配する。
どうして、と自分に問う。
考えていると、子どもの頃のことを思い出した。
小学校四年生のとき、私はクラスメイトの女の子に、こっそり好きなマンガを教えたことがある。放課後、誰もいない図書室の隅で、声を潜めて打ち明けた。相手も笑顔で聞いてくれていた。あの笑顔を、私は信じた。
次の日、そのマンガのことをクラス中に言いふらされた。
笑われたわけではない。馬鹿にされたわけでもない。ただ、知られた、それだけのことだ。だが私は、体の中の何か大切なものを無断で持っていかれたような気がして、そのあと何日も、ひどく落ち込んだ。あの感覚はよく覚えている。服を着たまま心臓だけが剥き出しになったような、奇妙な寒さだった。
あれ以来、私は「核」を守るようになった。
大切だから、隠す。壊されたくないから、見せない。
だから今でも、ミドモリが好きだと知られると、どこかがひりつくのだ。呪いのようなものだと思う。子どもの頃に刻まれた、小さくて根深い呪い。もう三十年近く前のことなのに、その感触だけははっきりと残っている。
だが、先輩は笑わなかった。
フィギュアをくれた。情報を送ってくれた。映画の公開を一緒に喜んでくれた。私の「核」を受け取って、それをそのままの形で、丁寧に扱ってくれた。
優しくされると、油断しそうになる。心の扉をうっかり開けてしまいそうになる。開けてしまったら最後、相手がいなくなったとき、私はどれほど寒い場所に取り残されるのだろう。人は変わる。離れていく。環境が変われば関係も変わる。それは誰でも知っていることだ。
だったら最初から開けない方がいい。
ずっとそう思って生きてきた。
──でも、と私は思った。
電車のつり革につかまりながら、先輩が言っていたことを思い出す日がある。窓に貼りついた雨粒が、風景と一緒に流れていく。そういうとき、唐突に思い出す。
「宮田さんって、ミドモリのどのキャラが一番好きなの?」
あのとき私は、少し考えてから、「羽見です」と答えた。他の誰でもなく、羽見だと、はっきり言えた。どうして羽見なのかも、聞かれたわけでもないのに少しだけ話してしまった。羽見は弱くて、でも諦めない。臆病なのに、それでも前に進もうとする。そういうところが、好きだと。
言いながら、自分が何かに似ていると思った。言葉にはしなかったが。
先輩は、「分かる」と言った。
たったその三文字が、なぜか、胸の奥に刺さったまま取れないでいる。小骨のようなもので、痛くはないのに、そこにあることだけは分かる。
分かる、とはどういうことなのだろう。
本当に分かるはずがない、と私の一部は思う。人が人を完全に理解することなどできない。私はそれを知っている。なのに、あの三文字はずっと私の中に残っている。まるで、閉めたままの扉の下から、細い光の筋が差し込んでいるように。その光が温かいのか冷たいのか、まだよく分からない。
私は寝返りを打った。
理解されたい。知られたくない。
この矛盾はきっと、死ぬまで消えないだろう。
でも今夜はなぜか、以前ほど、その矛盾が重く感じられなかった。矛盾のままで、ここに在っていいのかもしれない、とぼんやり思った。
スマートフォンを手に取ると、ミドモリの公式サイトを開いた。映画の上映スケジュールが出ていた。来週の土曜日、午前の回がまだ空いている。
私はしばらく画面を見つめた。
青白い光の中に、座席の数字が並んでいる。それを眺めながら、私は自分の中に生まれた小さな衝動に気づいた。これまでなら、なかった衝動だ。
それから、少し迷って、先輩にメッセージを送った。
「来週の土曜日、映画を観に行こうと思っています。もしよろしければ、ご一緒しませんか」
文章を三度書き直した。丁寧すぎるだろうか、失礼にならないか、唐突すぎないか。最終的に送ったのは、最初に書いた文章とほとんど同じものだった。
送信ボタンを押した瞬間、心臓が跳ねた。
やってしまった、と思った。取り消したい、と思った。画面に表示された「送信済み」の文字を眺めながら、自分の軽率さを呪った。
だが画面の向こうへ飛んでいったメッセージは、もう戻ってこない。
私は毛布を頭まで被った。恥ずかしさで耳が熱くなった。鼓動がまだ速い。暗い毛布の中で、自分の息遣いだけが聞こえた。
数分後、通知音が鳴った。
怖くて、すぐには見られなかった。毛布の中で、スマートフォンを胸の上に置いたまま、深呼吸を三回した。一回。二回。三回。
それから、そっと画面を開いた。
『行く行く!絶対行く!何時の回にする?』
絵文字がたくさんついていた。
私はその文章を三回読んだ。読むたびに、意味は変わらなかった。行く行く、絶対行く。それだけだった。それだけなのに、胸の中に何かが満ちてくるような気がした。
それから、自分が笑っていることに気づいた。
誰も見ていない暗い部屋で、一人で、どうしようもなく笑っていた。声は出なかった。ただ、口角が上がって、頬が丸くなって、目が細くなっていた。鏡がなくても分かった。こんなふうに笑ったのは、いつぶりだろうと思った。
この感情には、まだ名前がつけられない。
でも、悪いものではない気がした。
毛布の中で、スマートフォンの光が消えるまで、私は笑っていた。
七.
映画館のロビーで、幸田先輩と待ち合わせた。
十一月の朝だった。空は薄い灰色で、風が乾いていた。駅から映画館まで歩く間、マフラーに顔を半分埋めながら、私は何度か深呼吸をした。誰かと映画を観に来たのは、いつ以来だろう。記憶を辿っても、思い出せなかった。
先輩は約束の時間より五分早く来ていて、ミドモリのトートバッグを肩にかけていた。ロビーの柱の近くに立って、スマートフォンを見ていたが、私の姿を見つけると顔を上げて大きく手を振った。その無防備な明るさに、私はいつも少し面食らう。
私も、先輩に教えてもらって通販で取り寄せた缶バッジを、コートの胸元にそっとつけてきた。家を出るとき、三回脱いでは着けるを繰り返した。目立つだろうか。おかしいだろうか。最終的につけてきたのは、つけていかなかったときの後悔を想像したからだ。
「あっ、その缶バッジ!羽見じゃないですか!」
先輩の目が輝いた。ロビーの照明の下で、眼鏡のレンズが一瞬きらりと光った。
「は、はい」
「かわいい!どこで買ったんですか?」
私は答えた。通販のサイトの名前を言って、限定品だったことを説明した。まだ少し、顔が赤くなる。コートの衿を少し引き上げて、顔を隠したくなる衝動をこらえた。
でも、これでいいのかもしれないとも思う。
赤くなりながら、それでも話す。先輩が聞いてくれるから、私は話せる。それだけのことだが、それだけのことが、私には長い時間かかった。
それが、私にできる精一杯の、扉の開け方なのだから。
「どの回にする?予告始まる前に入りたいよね」
「そうですね」
二人で並んで、暗い映画館の中へ歩いていった。カーペットが足音を吸い込んで、辺りがしんと静かになった。先輩がトートバッグを揺らしながら、少し前を歩いている。私はその少し後ろをついていく。
席に座ると、先輩が小声で言った。「楽しみだね」。私は頷いた。
幸田先輩がポップコーンを落としかけた。
スクリーンが光り始めたとき、私は思った。
誰の内側も、完全には見えない。自分のことさえも、分かりきれないでいる。
それでも、隣に誰かがいることは、真っ暗な中でも、少しだけ温かかった。
音楽が始まった。スクリーンの中で、羽見が走り出した。
私は、少しだけ前のめりになって、その光を見つめた。
──完──




