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3つの橋の物語  作者: 山谷麻也


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タイトル未定2025/12/20 15:17

挿絵(By みてみん)


 プロローグ


 学校に通うのに、三本の橋を渡った。

 僻地(へきち)の学校だった。流れが緩やかになった川の(そば)に校地があり、幼稚園から小学校・中学校まで同居していた。


 子どもたちは山道を登下校した。中には川や谷をまたぐことなく、通学する者もいた。隆の場合は違った。三つもの橋を渡ったのである。


 その一 無名橋


 隆の家は村のいちばん奥にあった。通学に四〇分くらいかかった。

 低学年のころは、村の入り口や中央部に家のある子をうらやましく思った。しかし、成長するにつれ、村の最奥部に住んでいることに、言いようのない優越感を持つようになっていた。


 村には二二軒の家があった。うち三軒は奥にまとまって建てられていた。

 この三軒とほかの家屋は、谷川によって隔てられていた。谷川を越えると、山が一段と深くなる。行き交う人はお隣さんくらい。通学路を少し外れると、獣道が目に付いた。

 田舎の中の田舎。隆の隠れ里だった。家の周りの林で昆虫を採集し、鳥や小動物を獲った。炭焼き小屋の跡に秘密基地を設けていた。基地のことは誰にも話していなかった。


 村を流れる谷に一本の橋が架かっていた。

 橋の長さは四メートル弱、幅も一・五メートルに満たなかった。V字に削られた谷に丸太を渡し、土で固めただけの橋だった。欄干などはなく、足早に渡るのを常とした。


 冬は谷の水が凍った。上から覗くと、氷の下で水がかすかに流れるのが見えた。

(自然は生きてる)

 そんなことを実感した。

 夏は七夕飾りが橋の上から流され、谷を覆っていたのが印象に残っている。自然と人間、子どもたちの接点があった。


 橋のたもとの岩壁を伝って、獣が通行している形跡があった。木の根が張り出し、わずかに見える山肌に細い道がつけられていた。中学生の頃、隆は木につかまりながら、くくりワナをしかけた。何日か後、獣道の土が荒れていた。イタチか何かがかかり、必死にもがいた跡だった。おそらく谷に転落しただろう。

(可哀そうなことをした)

 以来、隆は猟への興味を失った。


 橋と水面との距離は三メートルくらいだったろうか。大雨が降ると、すぐ足元で轟音を立てて流れていた。

 密かに期待していたことがあった。

(もし、橋が流されたら、学校へ行かなくてもよくなる)

 このことだった。


 学校は楽しくなかった。上級生にいじめられたからだ。訳もなくなぐった。自分たちがなぐられて育ったから、今度は下級生をなぐっているだけだった。下級生はみんな、上級生の前では小さくなっていた。

 台風が襲来するたびに、橋を見に行った。どんな雨台風でも橋は流されていなかった。後にも先にも、谷の水が土橋を越えたという話は聞かない。


 橋に名前は付いてなかった。もっと多くの村人が利用していたら、自然になんらかの名前で呼ぶようになっていただろう。ここでは無名橋としておく。

 谷は千足(せんぞく)谷と呼ばれた。村の名が千足だったからだ。

 昔、村は矢の名産地だった。矢は一足、二足と数えた。たくさんの優れた矢が作られたので千足村とされたのだろう。

 矢は徳島藩にも納められた。その頃の往還は吉野川と祖谷川の合流地点から千足村の上を通り、森林地帯を経て、秘境・祖谷地方へと抜かれていた。

 隆はかつての往還を歩いたことがある。千足谷の上流であり、水の量は少なかった。橋が架けられた形跡はなかった。


 その二 千足橋


 千足谷は四国三郎・吉野川の支流・祖谷(いや)川へと注ぐ。

 千足の集落を離れ、祖谷川が巨岩の間を流れ下る音を聞きながら二〇分ほど歩くと、出合(であい)が見えてくる。ここで祖谷川と松尾川が合流し、街道随一の賑わいを見せていた。郵便局や農協、いろいろな店もあった。たいていの買い物は出合で済ますことができた。

 出合は正式な地名ではない。二つの川が合流したので、古来、出合と呼んだものと思われる。人々が周辺の山から集まってきたことに由来するという説もある。


 出合に行くには、まず祖谷川を渡らなければならない。そこにかけられていたのが千足橋だった。

 千足橋は元々、吊り橋だった。木製だった。長さは四〇メートルに満たない。橋の幅は二メートルほどだった。

 千足橋は揺れた。ただ通行するだけでも揺れるものを、ガキ大将らが飛び跳ねて揺らした。木製なので板が割れ、水面が真下に見えることもあった。あまりいい心持ちはしなかった。

 それでも、学校の写生大会では子どもたちがずらりと並び、橋板から足を垂らしていた。壮観だった。


 千足橋から釣り糸を垂れると、よくウグイが釣れた。タコ糸に針を結び、ミミズやバッタ、蜂の子などを差しただけの仕掛けだった。これを橋の上から流す。

 隆が中学二年生だった。村のおじさんから、夜釣りに誘われた。一も二もなく隆は同行した。最初、橋の上から釣っていた。どういうわけか、おじさんと橋の下に降り、大きな岩の上から釣り始めた。あまりアタリのない夜だった。退屈していると、おじさんの竿(さお)が動いた。上げると、ウナギが釣れていた。


 ウナギは暴れた。おじさんは針を外すため、隆に、中指でウナギを締め上げるよう指示した。隆は渾身の力を込めた。ウナギは隆の手にからみつく。中指からすり抜けたとたん、テグスが中指にからまってしまった。

 隆は指が切れると思った。おじさんに助けを求めると、おじさんはいきなりウナギの頭にかみついた。ガリガリと音を立てていた。

 帰り支度を始めた。水たまりに置いていたウナギを見に行くと、さしものウナギも頭をかみ砕かれて絶命していた。近寄ると、口から大きなムカデの死骸が出ていた。隆は黙って、ムカデを川に投げ入れた。


 千足橋から望むと、満々と水を湛えた祖谷川に周囲の緑が映えた。川の水は吉野川流域に特有のエメラルドグリーンだった。橋から水面までは十数メートル。木製ながら、災害には強いと思っていた。

 隆が中学を卒業して都会の高校に進学したのは昭和四二年(一九六七)。その後、何度、橋を渡ったかは定かでない。三年後の昭和四五年(一九七〇)の台風一〇号により、千足橋は流されてしまう。

「橋はなくなり、手前にあった商店が川に浮かんどった」

 隆の遠縁の長老はその時の様子を語ってくれた。千足村の人たちはどんなに心を痛めたことだろう。


 翌年、数十メートル上流に、鉄橋が掛かった。現在の千足橋である。

 当初、赤く塗られていた。後に青く塗装された。いずれにしても、周囲とミスマッチというほかない。

 日ごろ千足橋を利用しているのは三軒、六人。

(日本の地方行政を象徴するような橋だな)

 渡るたびに、隆は思うのだった。


 記録によると、隆が通学に利用した千足橋は昭和二九年(一九五四)に架橋された。その一代前の千足橋は、現在の橋よりもさらに上流にあった。川べりに、誰も通ることのなくなった古道が残っていた。川岸には橋台の跡があった。あの低さでは、まとまった雨が降ると橋はひとたまりもなかっただろう。前年にはダイナ台風(台風二号)が四国に大水害をもたらしている。

 わずか二〇年たらずの間に、二度も流された千足橋——。

(その光景を目の当たりにしなくてよかった)

 無名橋が流されることを願うなど、隆はまことに罰当たりな子供だった。


 その三 出合橋

.

 出合橋は千足橋と直角、松尾川の上に掛かっていた。長さ三〇メートル、幅七メートルほどの鉄筋コンクリート作りだった。竣工は昭和一三年(一九三八)。以前、どんな橋だったかは分からない。ただ、大正九年(一九二〇)秘境に通じる祖谷街道が開通してこのかた、数えきれない人とクルマを渡してきた。


 隆が小学校低学年の頃、村の子どもたちと買い物に来たことがあった。街道をバイクが何台か疾駆してきた。ツーリングの帰りらしかった。子どもたちは出合橋の手前で急いで道を横断した。隆は最後尾だった。バイクが接近する。隆は一人残されることに言いようのない不安を感じ、思わず駆け出していた。一台のバイクに隆は跳ね飛ばされていた。バイクはハンドルを橋の欄干に接触させて止まった。隆は右わき腹に軽い衝撃を感じた程度で、双方にケガはなかった。ただ、欄干にはハンドルでこすった跡が付いていた。後々、跡を見るたびに、あの一瞬が蘇ってきた。


 隆が三つの橋を渡って都会に出てから二五年めに、眼病に侵され、医者から失明宣告された。転職して鍼灸師となり、埼玉県で治療院を経営していた。

(埼玉に骨を埋めるのかな)

 と思っていた矢先、東日本大震災に遭遇した。災害ボランティアに参加したことがきっかけで、Uターンを思いついたのだった。

 街道の始点がある旧市街地に自宅兼治療院を建て、廃校になった母校の保健室を借りて分室を開設した。

 分室には毎週土曜日にバスで出勤した。楽しみにしていることがあった。

 釣りである。分室での治療を終え、バスを待つ間に釣り糸を垂れる。

 新しい千足橋は祖谷川と松尾川の合流地点から遠くなり、釣りには適さなくなった。思い出のスポットでの釣りはあきらめ、出合橋の上から糸を垂れた。よく釣れた。大物もかかり、自宅近くの料理屋で調理してもらったこともあった。


 視覚障害者の隆にとって、安全かつご機嫌な釣り場だった。ところが、測量機材を肩にヘルメット姿の男たちが、何やら作業を始めた。ほどなく大量の機械類が運ばれてきた。架け替え工事が始まったのである。

 代わりに狭い橋が架けられ、古い出合橋の橋脚は破壊された。新しい橋脚を作る工事に、セメントが使われた。魚は完全に姿を消してしまった。大量に死んだ魚を見たという話は聞かなかったのが、せめてもの救いだった。危険を感知して、魚たちはどこかに逃げ出したのだろう。


 新出合橋の完成と相前後して、出合から秘境に向かう路線バスが廃線となった。一日に何人の人が渡り、何台のクルマが通過しているだろうか。二〇軒近くあった商店もことごとく廃業し、街は廃墟然としている。往時を知る隆には、現実の出来事とは思えなかった。


 エピローグ


 ある患者さんが渓流釣りを趣味としていた。隆は昔、アメゴを釣った思い出を聞かせた。

 後日、メールがあった。

「千足谷にアメゴはいませんでした」

 隆がアメゴを釣ったのは、秘境との境を流れる境谷(さかえだに)だった。そのことは言ったはずだった。

「でも、上の方に素晴らしい滝があり、写真も撮りました。ありがとうございました」

 とあった。


 千足谷には今、二か所に砂防ダムがある。戦後の無計画な伐採・植林の結果、森林の保水力が低下、土石流などの災害を引き起こすようになった。砂防ダムはその対策として建設が進められたものだ。

 千足谷の流れは村に差し掛かると、伏流水となり、ダムには大量の土砂が堆積する。道は整備され、ダムを越えて隆の実家跡の近くまでクルマが乗り入れできる。近所にも、もはや住人はいないが。


 道が整備されたことにより、無名橋は完全に歴史的使命を終えた。

(滝まで行ったのなら、すぐ下流にあった無名橋の様子を見てきてほしかったなあ)

 隆は悔やんだ。あらかじめお願いしておかなければ、見落としてしまうほどの小さな橋だった。


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