8話 こぼれ出た気持ち
──放課後。
体育館の倉庫へ向かう廊下。
私は両腕で大きなダンボールを抱えていた。
視界のほとんどが段ボールでふさがれて、足元は頼りない勘だけ。
それでも「大丈夫、大丈夫」と心の中で繰り返しながら、一歩ずつ進む。
「よいしょ……あと少し……」
そう呟いた瞬間、段ボールの底がぐらりと傾いた。
バランスを崩した足が、ほんの少し床の段差にひっかかる。
(わ、ど、どうしよう――)
つまずいた拍子に、腕の支えが外れた。
「わ、わぁっ!」
制服の袖が宙を切り、箱の中身が一気に飛び出す。
ノート、ビブス、練習着、テーピング、雑巾――色んなものが床いっぱいに散らばった。
しゃがみ込んで、慌てて拾おうと手を伸ばす。
けれど焦りすぎて、掴み損ねたノートを自分でさらに遠くへ滑らせてしまった。
視線が痛いほど突き刺さる気がして、顔がじわりと熱くなる。
──その時。
「おいおい、大丈夫か」
背後から伸びた長い腕が、すっと床のノートを拾い上げる。
その動きは驚くほど自然で、落ち着いていて、周囲のざわめきが一瞬だけ薄れた。
顔を上げると、結城先輩が立っていた。
「ゆ、結城先輩……」
喉がきゅっと鳴って、声が震える。
結城先輩は片手でノートを差し出しながら、もう片方の手を私の頭に、ぽん、と軽く乗せた。
「気にすんな。誰だってやったことあるよ、こういうの」
ただ、まっすぐこちらを受け止めるみたいな声音。
そして、普段の“余裕の笑み”じゃなかった。
思わず息をのむくらいの、優しくて、愛おしそうな笑顔。
心の奥がじんわり温まって、同時に胸がどくんと大きく跳ねる。
時間が一瞬止まったみたいで、体育館から漏れる音も、廊下の気配も、全部が遠のいた。
息をするのも忘れてしまいそうで、私はただ、見上げることしかできなかった。
⸻
──ざわめきが戻ってくる。
「今の、見た?」
「結城先輩、頭ポン……!」
部員たちの視線が一斉に集まり、空気がざわざわと波立った。
誰かの小さな悲鳴みたいな声や、押し殺した笑い声が、やけに耳に残る。
「ちょ……やば……」
近くにいた莉子が、ぽつりと漏らす。
⸻
──少し離れた場所。
大和は立ち尽くしていた。
手に持っていたボトルケースを握りしめる指先に、余計な力がこもる。
胸の奥に広がったのは、焦りとも苛立ちとも言えない感情だった。
さっきまでただのちょっとしたハプニングだったはずの光景が、一瞬で意味を変えてしまったような気がする。
(……なんで、俺じゃなくて……)
本当なら駆け寄って、笑って拾って、いつもみたいに、さりげなく助けることができたはずなのに。
気づいたときには、もう結城さんの手が伸びていた。
唇を噛んでも、その思いは消えなかった。
⸻
──美月の横顔。
周囲からは、いつも通り穏やかに笑っているように見えた。
けれど、その唇からこぼれた小さなつぶやきは誰にも届かなかった。
「……あんな顔、初めて見た」
胸の奥に、鋭い痛みが走る。
誰よりも近くでみてきたはずなのに、今の煌大の表情は、自分に向けられたことがなかった。
指先がかすかに震えて、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。
⸻
──煌大の胸中。
自分でも驚くくらい自然に、身体が動いていた。
散らばるノートが目に入った瞬間には、もう足が向かっていた。
頭をぽん、とした時、込み上げたのは“守りたい”という感情。
(……俺、今、何やってた……?!)
廊下を離れながら、心臓がやけにうるさい。
さっきの自分の顔を思い出して、思わず前髪に手を通す。
いつものように余裕ある表情を崩さなかった。
けれど胸の奥では――
言葉にならない思いが、確かに芽生えていた。
⸻
──翠は気づかない。
ただ、散らばった荷物を抱え直しながら、胸の鼓動が止まらないことに戸惑っていた。
(え?! 何これ!? なんで……なんで、結城先輩が私に……)
さっき触れた手の重みが、まだ頭に残っていた。
視界の端で、先輩たちがひそひそと笑っているのが見えて、ますます心臓が暴れ出す。
顔を上げる勇気が出なくて、翠はうつむいたまま、震える指先でノートをぎゅっと抱きしめた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたら、ブックマークや評価をしてもらえると、とても励みになります。




