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「あぁ、カユい、カユい。今日はいつも以上にかゆみが酷いなぁ」
高校生活を始めて数か月が過ぎ、あたしもようやく新しい環境に慣れ始めていた。
教室の雰囲気そのものは、中学の頃と大して変わっていない。ただ、カリキュラムの内容が中学よりもさらに高度に、難しくなった点は明らかに違っていた。
「ねぇ、エーコ。なんか良いパッチ持ってない~?」
「シズル、またラジルギに困っているの? 確かに、今回のラジルギはちょっと違う感じだよね。シズルも大変そう」
あたしは目元をこすりながら隣に座っている友人に助けを求めた。特別命に別状がある、というわけではないのだけど、目のかゆみというのは、やはりそれだけで集中力を奪い取ってしまう。
「そうなのよ。前もらったパッチもあまり効いていないみたいだし、当分続くかな~?」
自分ではどうにもならない、この目元のかゆみ。あたしは当分の間、このかゆみと付き合っていくのかと思うと、なんだか気分が沈んでいくのだった。
この時代。社会を取り巻く情報は、非常に高度化されており、一日に飛び交う情報量も、旧時代の一年分、いや、今となっては十年分に相当するのでは、とさえ言われていた。
人々は、それまで「携帯端末」と呼ばれていたデバイスを直接体内に埋め込んだり、あるいはタトゥーシールのように身体に貼り付けるなどして、その恩恵を享受していた。
しかし、そうした超高度な情報社会は、それまで生まれていなかった新しい問題を浮上させた。
それは「電波アレルギー」だった。本来電波というのは、人体が感知することができるものではなく、よほど強力な電波でなければ、人体に悪影響を及ぼすものではなかった。
ところが、以前よりもはるかに高度化された情報伝達技術は、電波に隠された別の特性を浮き彫りにしていた。
やはり旧時代の人間たちが対応に苦慮していたという花粉症などのように、人体にアレルギー反応を引き起こす電波があることが確認されたのだ。
いつしかこの電波アレルギーは、「ラジオ・アレルギー」通称「ラジルギ」と呼ばれるようになり、電波研究の新たな一分野として、今も議論が繰り返されている。
あたし『守草シズル』もまた、そんなラジルギ持ちの一人だった。
あたしの場合は、特に目への影響が酷く、一日中かゆみが止まらない。他にもくしゃみが何度も起こることがあるなど、いわゆる典型的なラジルギの症状を発していた。
「みなさん、静かに。この時限は、前から話していたように、クラス委員を決めようと思います」
あたしのクラスの担任が教室に入ってくると、担任はあたしたちを静かにさせながら、この時限の内容を説明した。
ただ、あたしは正直クラス委員に乗り気ではなかった。そもそも、あたしはそんな器ではなかったし、ラジルギ以外に考えなければいけないことが増えるのもゴメンだった。
「……誰か、立候補する者はいないんですか?」
「せんせー! 相田さんがやりたいって言っていま~す!」
担任が立候補者がいないことに疑問を呈すると、一人の女子生徒が別の女子生徒を指差しながら、無理やりクラス委員に推薦しようとしていた。
そこで、相手の女子生徒は身体を震わせながら、アタフタしたような様子を見せていた。
彼女は『相田タダヨ』といい、丸形の瓶底眼鏡と特徴的な風貌、そして人見知りしがちな性格から、よく他の女子生徒からからかわれたりしていた。
「相田さん、クラス委員をやりたいのは本当ですか?」
「あっ、あぁぁぁ……。あ、あの……」
担任に問いかけられ、返答に困っているタダヨを見て、あたしはなんとなく気の毒だな、と思った。これ以上、困っているタダヨを見ているのも気分が良くないと思ったあたしは、そこで静かに手を挙げた
「あ、あの、先生。相田さんの代わりに、あたしが……」
「あっ、守草さんがやってくれるのですね。みなさん。守草さんがクラス委員をやることに、反対意見はありませんか?」
担任が声を掛けると、他の生徒たちは誰も返事をしなかった。それを賛成の意思と受け取った担任は、そのままあたしをクラス委員に決定した。
その後はラジルギの影響で目がかゆいことを除けば、特筆すべき問題もなく、無事に放課後を迎えた。
「あ、あの、守草さん……」
あたしが下校の準備をしていると、タダヨがあたしに声を掛けてきた。
「あら、相田さん」
「さ、先程は、その、助かったでごじゃる。か、感謝するでごじゃるよ」
「いいのよ、別に。正直面倒臭いけど、ここでクラス委員をやっておけば、進学にも少しは有利になるかも知れないしね」
タダヨは、あたしがクラス委員に立候補したことを、自分を助けてくれたと思っているようだった。確かにその通りなのだけれど、あのような不穏な空気を見せられるのがイヤだった、というのが正直なところだった。
「相田さん。もし暇だったらでいいんだけど、この後ポテトでも食べに行かない?」
「い、いいでおじゃるか? で、でも、それだと……」
「いいのよ。あたしのおごりでいいから。あたしも、相田さんのもと、もっと知りたくなったし」
あたしは、この機会を利用して、タダヨのことを少しでも知りたいと思っていた。理由は分からなかったけれど、あたしにはタダヨが全くの他人だとはどうしても思えなかった。
「ほ、本当でごじゃるか! かたじけないでごじゃる~!」
喜びをあらわにするタダヨと一緒に、あたしは学校を後にした。
あたしたちは目的の店を目指して、夕暮れの市街地を歩いていた。そこへ、あたしのよく知る人物が通りかかってきた。
「よっ、姉ちゃん。おっ、学校の友達か?」
「あっ、ハルキ。そうよ。それより、いい加減、あたしのラノベ返せよ!」
「今いいところなんだからよ、あともうちょっとな。じゃ、俺はもう少ししたら帰るから」
その人物はあたしの弟の『ハルキ』だった。ハルキはあたしと異なり、ラジルギの影響を受けていない。あたしの言葉を軽く受け流しながら、ハルキはそのまま道路の向こうに走っていった。
「……今のは、シズル殿の弟さんでおじゃるか?」
「えっ? うん、見ての通り、なんだか生意気な弟だけどね」
弟との会話をすぐそばで見ていたタダヨが、あたしの服の袖を引っ張りながら問いかけた。
「……弟さんとは仲は良いでごじゃるか?」
「仲が良い? うん、まぁ…。ああいう性格だから、ムカつく時の方が多いけどね」
あたし自身は、ハルキとそれなりに上手くやっていると思っていた。当のハルキがどう思っているか、は分からなかったけれど。
「……そうでごじゃるか。それなら、なによりでごじゃる。ずっと仲良くしてくれると、拙者も嬉しいでごじゃる」
あたしは、そこでタダヨが自分のことを「拙者」と言っているのを知った。随分と古風な言い方だなと思いながら、その言葉になんらかの意味が込められているのではないか、と感じていた。
その時、あたしはタダヨの瓶底眼鏡の奥に隠された目の色が、わずかに灰色に染まっているのを感じていた。
何故そのように感じたのか。それはあたしにもよく分からなかった。そもそも、本当に灰色に染まっていたのか、それとも単なるあたしの気のせいなのか。
とはいえ、まだタダヨのことがあまり分かっていない以上、不用意にその部分に足を踏み入れるのは得策ではない。あたしは、今はタダヨと放課後の時間を楽しむことを優先しようと思い直した。
その後、目的地となるファミレスに到着したあたしたちは、そこで期間限定の山盛りポテトを注文した。
「へぇー、相田さんってパソコンが好きなんだ~。じゃあさ、ラジルギのこととかも、色々調べていたりするの~?」
「まぁ、少しぐらいなら、でごじゃる。でも、専門的ことまでは、よく分からないでごじゃるよ」
「ねぇ、よかったらさ、あたしのラジルギの特効薬パッチも作ってよー。なんて、無理だよね~」
「そうでごじゃるな。いつか、ちゃんと作れるようになったら、最初にシズル殿に作ってあげるでごじゃる」
あたしたちはポテトをつまみながら、そんな冗談交じりの会話をしていった。そして、話題はお互いの呼び名をどうするか、というところに移っていった。
「ねぇ、相田さんって、相手のことを「殿」っていつも呼んだりするの?」
「まぁ、そうでごじゃるな。その方が、拙者にとって一番しっくりくるでごじゃるからな」
あたしは、別に自分が「殿」と呼ばれることに大した違和感はなかったけれど、やはり友達として付き合う以上、それに相応しい呼び方は必要になるだろう。
「ふぅん、そうなんだ。じゃあさ、相田さんのことは、これからなんて呼べばいいかな? このまま他人行儀な呼び方じゃ、お互いに息苦しいしね」
「それは良い考えでごじゃるな。拙者のことは……「タダヨ」で良いでごじゃるよ」
あたしが心の中で呼んでいた言葉と、そっくりそのままの呼び方で、タダヨは自分を呼んでほしいと言ってくれた。あたしとしても、その方が混乱もなくなって都合が良い。
「じゃあタダヨね! タダヨ、あたしのことはなんて呼ぶ?」
「んっ? じ、じゃあ……し、「シー殿」なんてどうでごじゃるか?」
タダヨはソワソワしながらその呼び名をあたしに提案した。もっとも、そういう呼び名も実に面白いし、その方がタダヨらしいと、聞いて即座に思っていた。
「うん、いいんじゃない? シー殿。うんうん! じゃあタダヨ、これからもよろしくね!」
その後、あたしたちはポテトを残さず食べるべく、再度世間話に花を咲かせていった。
こうして、あたしの高校生活は、今日も何事もなく過ぎ去っていくのだった。