仮面を外して
次の日、学校に着くと、僕は少し緊張していた。いつものように、冗談を言ってみんなを笑わせるべきか、それとも素直な自分でいるべきか。心の中で何度も問いかけながら、教室の扉を開けた。
「おはよう!」
いつものように明るく振る舞おうとしたが、どこかぎこちなかった。すると、いつも僕の冗談に乗ってくる田中が、不思議そうに首をかしげた。
「どうしたんだよ、なんか元気ないじゃん?」
僕は一瞬、笑ってごまかそうとした。でも、小野さんの言葉を思い出し、勇気を振り絞った。
「いや、別に元気がないわけじゃないけど……無理に笑わせなくてもいいかなって、ちょっと思っただけ。」
自分で言っておきながら、心臓がバクバクと鳴るのがわかった。教室が一瞬静かになる。だが、次の瞬間、田中はクスッと笑った。
「なんだよ、それ。無理しなくたって、俺はお前といるだけで楽しいけどな。」
その言葉を聞いて、僕の肩の力がふっと抜けた。そうか、無理に笑わせなくても、僕は僕のままでいいんだ。そう思えた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。
ふと視線を上げると、小野さんが静かに微笑んでいた。まるで「それでいいんだよ」と言っているかのように。
昼休みになり、僕は一人で屋上へ向かった。人混みの中にいると、どうしても「ピエロ」の仮面を被りたくなってしまう。だからこそ、一度静かな場所で自分と向き合いたかった。
屋上に出ると、少し冷たい風が吹いていた。柵にもたれかかりながら、ゆっくりと深呼吸をする。胸の中に渦巻いていたものが、少しずつ落ち着いていくのを感じた。
「ここにいると思った。」
不意に背後から声がして、振り向くと小野さんが立っていた。
「びっくりした……どうして?」
「なんとなく。たぶん、少し一人になりたいんじゃないかって思ったから。」
彼女は僕の隣に立ち、同じように柵にもたれた。しばらく二人で風に吹かれながら、何も言わずに景色を眺める。こうしてただ誰かと一緒にいるだけで、こんなにも心が落ち着くものなのかと驚いた。
「ねえ、前に言ったこと、覚えてる?」
「前に言ったこと?」
「『無理しなくてもいい』って言ったこと。」
「ああ……覚えてるよ。」
「今日の君を見て、少しだけ安心した。なんとなく、肩の力が抜けたように見えたから。」
僕は驚いた。自分ではまだ大した変化はないと思っていたのに、誰かには伝わっているのかもしれない。
「でも、正直言うと……やっぱり怖いよ。」
僕は思わず本音をこぼした。小野さんは黙って僕の言葉を待ってくれている。
「今までずっと、人を笑わせることで周りに受け入れてもらってた気がするんだ。だから、それをやめたら、みんな離れていくんじゃないかって……。」
小野さんは少し考えるように空を見上げた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「もし、誰かが離れていったとしても、本当の君を受け入れてくれる人は、きっと残るよ。」
その言葉は、まるで心の奥深くまで届くようだった。
「……そう、なのかな。」
「うん。それに、私はその一人だから。」
不意に胸が熱くなった。こんなふうに、ありのままの自分を肯定されることに、こんなにも救われるなんて。
「ありがとう。」
それだけを言うのが精一杯だった。でも、小野さんは優しく微笑んで、
「どういたしまして。」
そう言って、また静かに風を感じていた。
この時間がずっと続けばいいのに。そんなことを思いながら、僕は少しずつ、ゆっくりと「ピエロ」の仮面を外していこうと決めた。
それからの僕は、少しずつ「ピエロ」を演じることをやめてみることにした。もちろん、完全にやめるのは難しい。長年染み付いた癖のようなものだから、気を抜くとつい冗談を言ってしまう。けれど、以前のように「無理に」笑わせようとはしなくなった。
最初は、やはり戸惑いがあった。友達の前でいつものように振る舞わない僕を、みんながどう思うのか不安だったからだ。田中や他のクラスメイトが「お前、最近おとなしくない?」と聞いてくるたびに、また元に戻った方がいいんじゃないかと思うこともあった。
でも、そのたびに小野さんの言葉を思い出した。
「もし、誰かが離れていったとしても、本当の君を受け入れてくれる人は、きっと残るよ。」
そして、僕は決心した。怖くても、少しずつでもいいから、本当の自分を見せていこう、と。
◇ 変化の始まり ◇
最初に変わったのは、放課後の時間だった。
以前の僕は、誰かと一緒にいるときは必ず場を盛り上げなければならないと考えていた。だから、クラスメイトと帰るときも、部活の後も、常に冗談を言ったり、ふざけたりしていた。
けれど、その日は違った。
「今日は静かだな、お前。」
田中が不思議そうに僕を見た。いつものように冗談を言わず、ただ普通に会話をしていたからだろう。
「まあ……そうかもな。」
正直に答えたら、田中は少し驚いた顔をした。でも、それ以上何か言うことはなかった。ただ「ふーん」と言って、隣を歩いていた。
なんだ、これだけのことだったんだ。
僕が無理に話を盛り上げなくても、こうして普通に一緒に歩くことができるんだ。そう気づいたとき、心が少し軽くなった。
家に帰る途中、スマホを開くと小野さんからメッセージが届いていた。
「今日も少しだけ、本当の自分でいられた?」
僕は少し考えてから、短く返信した。
「うん。」
それだけの言葉だったけれど、小野さんは「よかった」と返してくれた。
僕はそのメッセージを見つめながら、小さく笑った。
◇ 誰かのためじゃなく、自分のために ◇
数日が経ち、僕はさらに少しずつ変わっていった。
以前は、周りを笑わせることが僕の役目だと思っていた。けれど、そうしなくても、僕はちゃんとそこにいていいのだとわかってきた。
そんな僕の変化に、一番最初に気づいたのは田中だった。
「お前さ、最近なんか落ち着いたよな。」
昼休み、屋上で弁当を食べながら田中が言った。
「そうか?」
「うん。前はさ、なんか……無理してる感じだった。でも今は、自然っていうか。」
田中の言葉に、僕は少し驚いた。自分ではあまり意識していなかったけれど、やっぱり周りから見ても変わってきているんだな、と思った。
「まあ……そうかもな。」
僕がそう答えると、田中はにやりと笑った。
「でも、お前のくだらない冗談が減るのはちょっと寂しいな。」
「それは知らねえよ。」
そう言って、僕は久しぶりに軽く笑った。
たぶん、こういう自然な笑いが、本当の僕なんだろう。
◇ 「ピエロ」だった僕へ ◇
ある日、小野さんと二人で帰ることになった。
「最近、どう?」
「んー……まあ、ちょっとずつ。」
「そっか。」
小野さんは、いつもみたいに静かに微笑んだ。
「最初は不安だったけど、案外大丈夫みたい。」
僕がそう言うと、小野さんは嬉しそうに頷いた。
「よかった。君が無理をしなくなるのが、私も嬉しいよ。」
僕は少し照れくさくなりながら、「ありがとう」と呟いた。
「ねえ、君はさ、『ピエロ』じゃなくなったら、何になりたい?」
小野さんの問いかけに、僕は少し考えた。
「……まだわかんない。でも、少なくとも今は、もう無理に誰かを笑わせなくてもいいんだって思える。」
「うん、それでいいと思う。」
それでいいんだ。
たったそれだけのことなのに、ずっとわからなかった。でも今は、ほんの少しずつだけど、前に進めている気がする。
「ありがとう、小野さん。」
「どういたしまして。」
風が吹く。
遠くの夕焼けが、やけに綺麗に見えた。
◇ そして、僕は ◇
その日からさらに日が経ち、僕は少しずつ、本当の自分として過ごせるようになった。
もちろん、まだ完全に「ピエロ」の仮面を捨てたわけじゃない。楽しいことが好きなのは変わらないし、冗談を言うのも嫌いじゃない。でも、それはもう「無理をするためのもの」ではなくなった。
ある日、田中がぽつりと言った。
「最近のお前、なんかいい感じだよな。」
「そうか?」
「うん。なんていうか、昔より楽しそう。」
その言葉に、僕はふっと笑った。
「そうかもな。」
僕はもう、「ピエロ」じゃない。
無理に誰かを笑わせなくても、僕は僕でいられる。
それが、今の僕の答えだった。