第五話 旅立ち
1
カルドイークは、素晴らしい馬であった。
栗毛色の大柄な牡馬で、金の長いたてがみをいくつも三つ編みにして結って、脇に流している。
人懐っこくレディエールが頬を撫でると、嫌がる素振りもせずに受け入れた。
年を聞くと二十一とかなりの高齢だが、気勢は旺盛そのもの。しょぼくれた様子など些かも見せぬ生彩さであった。
跨ってみると、またその良さがわかる。まるで疲れないのだ。
カルドイーク自身が乗り手を思いやって、乗りやすいように重心を制御している。
そのくせ脚は当に駿馬に相応しく、普通の馬が五日かかる道を三日で走るというのも嘘ではないらしい。
なるほど、これが魔女の愛したという馬か。
とんでもない名馬だなぁ。
レディエールはふと、祖国フェルドランドに残したセルルフルースを思い出した。
セルルフルースは白い牝馬で、名馬に違いないが、気位の高さに難がある。
レディエールの兄オストラヴァから贈られた馬であり、悪友であった。
あれにこの類まれなる名馬を見せたら、どんな顔をしてくれるかな。
怒って、また後ろ蹴りを繰り出してくるのか。
案外、惚れてしまうかもしれないな。
あの意地悪な馬がこの偉丈夫を見て、少女のように心ときめかせるさまを想像すると、思わず笑みがこぼれた。
これは何が何でも引き合わせねばならぬ。
くつくつと笑いながら、レディエールは密かに決意した。
すぐに出発、というわけにはいかなかった。
アニスが怪我や病気に関する覚書を書いて、治療の講習をしなければ出られないと言うのだ。
要するに急ごしらえで後任を作らんとしているのである。
抜擢されたのはゴウドの息子で、時折アニスと体力増強剤を卸しに行っていたテムガーだ。
今年で成人、つまり十五歳になるテムガーは、街へ行く道中にアニスから薬草や応急措置などについて聞いていた。
若く覚えが良い上、力もあった。診療所を任せるとすれば彼以外考えられなかったそうだ。
テムガーはというと、目を回しながらもアニスの詰め込み教育になんとか食らいついていた。
最初アニスが村を出ていくと聞いて、一番動揺と落胆の色を見せたのはテムガーだった。
十五の少年にとってアニスがどのような存在なのか、その表情を見れば想像に難くない。
青い春に水を差してしまったようで、
すまない、少年。
とレディエールは心の中で詫びた。
アニスがテムガーに教鞭を振るっている間、レディエールは村の仕事を大いに手伝った。
特に力仕事は村の男衆の三倍の量を平然とこなし、村人を唖然とさせた。
その上、命を救ってもらった恩返しであると言って報酬を謝辞した。
そういったレディエールの姿勢は自然と村の女達の関心を集め、密かに熱を帯びた目で見られるようになる。
結局、出立は約束の日から二週間後になった。
呆れるほど知識と技能を詰め込まれたテムガーだが、これがとても筋がよく、将来本当に医者になれるとアニスに太鼓判を押された。
見ると、すっかり凛々しい顔立ちになっていた。最初に見た落ち込んだ様子も、もうないようだ。
「お願いしたのは俺だけどよ、やっぱり寂しくなるなあ」
対象的に父のゴウドといえば、名残を惜しんだ少し情けない声を上げている。瞳も相応に滲んでいた。
父さん泣くなよ、と逆にテムガーが宥めているぐらいだ。
「ゴウドさん。この間は怒ってしまったんですけど、わたし、感謝してるんです。
ああしてくれなかったら、わたし、きっとずっと後悔し続けていたと思います。
本当に、いままでありがとうございましたっ」
アニスのその言葉を皮切りに、ゴウドはおいおいと声を上げて泣き始めてしまった。
そう言えば酒を飲んだ日も泣いていた。涙もろい男なのだろう。
「アニスちゃんっ。
絶対、絶対また無事な顔を見せてくれよなっ。
姉ちゃん、いや、レディエールさん。
アニスちゃんを、頼んだぜ」
鼻水まで垂らしているゴウドに苦笑いを浮かべながら、レディエールはその手を取って頷いた。
ずっと、言ってみたかった言葉があるのだ。
「お任せください、ゴウド殿。
必ずアニスさん、いえアニス様はこの命に変えてもお守りいたします」
黄色いどよめきが起き、そして急に様付けされたアニスは驚きに目を見開いた後、恥ずかしげに俯いた。
そのように村人全員に見送られながら、二人は村を後にした。
2
二人はまず、テラコッサに行くことにした。
テラコッサは村の南東、つまり村より中央寄りにある街である。
ホッリ川という雄大な川が側を流れており、大いに栄えている。
大きな川というのはそれだけで財産である。水産資源は文字通り街を潤し、名物名産をいくつも生み出した。
特にメルリマックという頭部の尖った魚が美味と評判で、その名はフェルドランドでも聞いたことがあった。
アニスは二月に一度、テラコッサにポーションを卸しに赴いていた。
活気のあるテラコッサが、アニスは少々苦手であった。長い耳が、余計な声やマナを拾ってしまい、酔うのだという。
故にポーションを卸して必要なものを買い込んだら、いつもすぐ帰っていた。
一方でレディエールは、元々テラコッサの冒険者協会から派遣されてあの森を訪れていた。
街道を襲う賊の塒があの森と知れたのだ。合わせて四人の無辜の民を殺し、金品を奪った悪漢である。その誅殺依頼であった。
力自慢の斧使いと素早い身の熟しのナイフ使いの二人組で、中々の連携を見せたが、力も素早さもレディエールに劣っていたため相手ではなかった。
盗まれた金品を回収し、持参していた依頼書を燃やした。
協会の依頼書には特殊な魔術がかけられており、燃やすことで協会に依頼の達成が報告される。
どういう仕組みになっているのかレディエールにはわからないが、依頼を達成しないうちに燃やそうとしても燃えない。
あとは盗品を渡して報酬を受け取るだけであったが、その帰りに手長熊に襲われたわけである。
ちなみに、盗品の回収は依頼にはない。あくまで依頼は山賊の誅殺で、盗品をどうするかは暗黙の了解的に、冒険者の自由である。
基本的には帰ってこないと思ったほうが良い。冒険者に依頼するということはそういうことだ。
ただ、当然だが返したほうが心象は良くなる。依頼者にはもちろん、協会にも覚えめでたくなる。
つまるところ冒険者として出世したいのであれば、返したほうが良い。目先の金か、将来の待遇かである。
それとは関係なく、レディエールは盗品のたぐいはすべて返却している。
騎士を目指すものが盗品を横取りするとは言語道断、即刻返すべし、さもなくば即ち盗賊と同義である、という考えだ。
実際、騎士がこの手の任務に従事する時、盗品を得ることは重大な規則違反に当たり思い罰則が課せられる。
騎士に依頼すれば盗品は返ってくると考えて良い。ただし、依頼料が馬鹿高い。
多くは盗品よりも遥かに高額になるため、よほど貴重なものを盗まれた豪商などでなければ一個人が騎士団に依頼することは出来ない。
「あの、レディエールさん。
さっきなんで"様"なんてつけたんです?」
御者台に座りカルドイークを繰るレディエールの肩に、アニスが小さな手を載せて尋ねてきた。
やはり来たか、と苦笑する。そのことを説明するのは少し面映ゆかったので、できれば説明せずに通したいところであった。
なんとかそれらしい答えを出せないかと、数秒思案する。
「ええと、その。
アニス様はこれから私の護衛対象となるのです。
いわば雇い主になるので、それに相応しい呼び方をしたのですよ」
「え、でもわたし、お給料とか出せませんよ。
お願いしている立場なので、むしろわたしがそうお呼びしたほうがいいのかなって思っていたのですが……」
やはりだめか。
逆に様付けされそうになってしまった。
ここはもう、誤魔化さずに言うしかないなと、珍しくレディエールの頬に紅が差した。
「えーっと。
アニス様がお姫様のようにお可愛らしいので、つい興が乗ってしまったと言いますか。
その方が騎士っぽいなあ、なんて」
要するにかっこつけたかったのだ。
子供っぽいよなあと気恥ずかしさから頬を一掻きしてから、ちらりとアニスを見やると、何故か自分よりも顔を赤々とさせている。
「そういうこと、さらっと言っちゃうんですもの。
レディさんは、ずるいと思いますっ」
別にさらっと言ったつもりはないし、寧ろ結構恥ずかしかったのですが……。
もういいです、とアニスが顔を横に逸したので、もしかして結構気難しい方なのだろうか、などと頓珍漢なことに思索を巡らせている。
いつの間にか呼び方が「レディさん」になっているのも気がついていない。
その様子を見たカルドイークが、ぶふとため息を漏らしたのは無理からぬことであった。
3
太陽が中天に差し掛かるころ、涼しげな小川を見つけたので昼食を取ることにした。
アニスがお産を手伝ったという村の女性から、岩鹿の肉とソイの葉を、カチャと呼ばれる麦を挽いて練って焼いたもので挟んだサンドをもらっていたので、それを食べた。
渡されてから時間が経っても肉は柔らかく、肉汁がカチャに染み込んで中々の美味である。
肉を柔らかく保っているのは、一緒に挟まってるソイの葉の効力で、少々青臭いがその成分が肉をよくよくほぐすのだ。
青臭いと言っても肉と一緒に食べれば気にならない程度であり、寧ろアクセントして機能している。
アニスはこれを一つ、レディエールは三つ平らげた。
小川から水を汲んで、お茶も楽しんだ。ケーリという葉は生食すると信じられないほど苦いが、乾燥させると苦味は落ち、素晴らしい香りを放つようになる。
これも村人からたくさんもらっていたので、当分お茶には困らないだろう。
思いがけず心地よい昼食にレディエールが村人に感謝していると、テラコッサ方面から若い女性がやってきた。
明るい金髪が目を引く美人である。背には長弓、腰には短剣を差している。首から下げた銅板から冒険者のようだ。
悪いことに、レディエールと目が合った。吊り上がった青い瞳、挑戦的な眉から勝ち気な性格が読み取れて、余り刺激しないように目を逸した。
幸いにもこちらに詰め寄ってくることはなく、フンと鼻を一つ鳴らして去っていった。
あの目立つ金髪は、協会で何度か目にしている。
話したことはないが、聞こえてくる話から弓使いとしてはそれなりに鳴らしているらしい。
だが、その性格ゆえパーティーとの衝突が多い女性という印象である。
最近は一人でいるのをよく見たので、レディエールのように一人で依頼を請けるようになったのかも知れない。
アニスを見るとなにやら思案顔をしていたのでどうしたのか尋ねたが、なんでもありません、とだけ返ってきた。
何かを忘れている気がするアニスです。